回鍋肉を食べ終わった口の中で歯の間になんか引っかかってんなって気づいて、それを最初はキャベツかと思ってたんだけれど、普通に考えてキャベツじゃなくて豚肉やろなと冷静になった。そのときに、ああ自分は回鍋肉の主役をキャベツと思ってたんやってことに気づいた。ほんでまあ奥歯の引っかかってるところに舌先をチョロチョロ当ててかき出そうとする。そこで急に、なんかちゃんと考えてみたら挟まってんの、布の切れ端みたいな触感やなと思って。触ってるときはそうとは思わへんけど、考えてみたときだけなんか布っぽいなと思う。そんな感触が舌先にチョロチョロ当たりつつ、一向に取れそうな感じにはならない。ほんでここでまた時間が飛んで思う。布を舌先で触った記憶なんかないなと。でもなんか触ったことはある気がする。そんな瞬間が自分の人生にあったかどうかは分からないけれど、多分あったんやろうなって思えるくらい布を舌で触ったときの触感が頭の中でイメージできる。そんな感じでテレビ見ながらほとんどオートマチックに引っかかっているものを舌で何度も撫で続けていたのだけれど、CMに入ったところで、全然取れへんし舌の付け根と顎のあたりが疲れて来たわ、っていよいよイライラしてきて、もう爪で取ろうと口の中に指を突っ込んで引っかいてみる。でもそこに食べかすが引っかかってる感じがないというか、ヒットしてる感じがない。一旦舌で確かめてみて、やっぱあるあるってなって、多分そこやろうってとこをもう一回爪で引っかいてみるけど、まあ手応えがない。ほんでこれは自分の頭の中の何番目の歯と歯の間っていうイメージに対して、舌のインプットの感覚が狂ってんのか、それとも指のアウトプットの感覚が狂ってんのか、そのどっちかやろうとなり、なんとなく指のほうが普段から繊細なことに使ってるから自分は指の方を信頼することにした。でも冷静になったら別に指が自分の思ってるところに触れてたとしても、舌で読み取った場所と自分の認識に齟齬があったら、そもそも指で取ろうとしてるところに引っかかってないやんってことに気がついて、じゃあ舌を一番奥の歯に当ててそこから何番目の歯のところに引っかかってるかをちゃんと確かめることにしようと。いち、にぃ、さん、って舌でなぞって奥から二本目と三本目の間に引っかかってることが分かったから、じゃあ早速引っかこうと直接爪を現地に派遣したところ、やっぱりそこには何も引っかかってなくて、ちょっと待てよと指のほうも奥からいち、にぃって数えてみたら、指は一本目と二本目の間を引っかいていた。実際は指のほうが間違えていた。指のほうが間違えていたというのか、指令を出した脳みそが間違えていたというのか。
それにしてもあれですね、家で作る回鍋肉はどうあがいてもキャベツが水っぽくなって美味しくならないですね。いや、水っぽいのが問題なのではなく、キャベツだけを先に炒めてから一旦取り出し、お肉を炒めて火が通ったところでキャベツを戻して、水っぽくならないように作ったとしても何か物足りない。ほんで王将に行って回鍋肉を食べたら、これこれ!ってなる。火が通ってるのにシャキシャキしているのは油通しだからこそ為せる業なのか。家で作ったのとは全然違う香ばしさも鉄鍋と圧倒的火力だからこそもたらされるものなのか。よくよく考えてみれば、水っぽくない回鍋肉を食べたいわけではなく、単純に美味しい回鍋肉を食べたいわけであって、目的が三歩ぐらい手前のものにすり替わっていた。チャーハンもチャーハンでパラパラだったらいいってわけじゃなく、パラパラで美味しいチャーハンを食べたい。ていうか美味しければそれでいい、っていう考えは大雑把すぎて逆に美味しいから遠ざかる。まるで蜃気楼。自分はもう王将の味に慣らされているから、たまにちょっといい中華料理屋なんかに行ったとしてもなんか物足りないって思うことがあるし、ちょっと前にブームになった町中華に行った場合も王将のほうが好きやなってなる。回鍋肉もムーシーローも海老の天ぷらも豚キムチも王将のものが一番美味しい。美味しいとは自分に一番フィットするという意味。でも豚キムチってよく考えたら全然中華料理じゃないから王将以外で見かけなることはない。キムチって韓国やから。そんな王将の唯一の欠点は青菜炒めがないことで、それこそちゃんとした中華料理屋の青菜炒めは無限に食べられる気がするぐらい洗練されたシンプルな美味しさがある。青菜炒めも家で再現しようと、空芯菜にニンニクひとかけ、ほんでもって鶏ガラスープの素を組み合わせて炒めたらベッチャベチャのベチャで美味しくなかった。一旦王将とか中華料理屋で修行したい。でも忙しそうだし厳しそうだから影分身の術を習得して、自分の影分身に頑張ってもらいたい。あらゆることをそういうふうにしたい。火影なんか目指してる場合じゃない。関東では中華料理屋といえば日高屋というイメージがありメニューを調べてみたら(王将が真の中華料理屋かどうかは一旦置いておいて)、思っていたよりもメニューが少なくて、どうやら認識を誤っていたらしい。関東における関西で言うところの王将は、普通にそのまま王将なのか。そんなこんなで中華料理屋と呼んでいいのかどうかも分からない王将のことを考えていたら、PANDA1/2の「中華街ウキウキ通り」を思い出した。
見た感じ王将は出てきていないから、王将は中華料理屋じゃないのかもしれない(よく見たら東方明珠電視塔が出てくるから上海に行っとりますね)。PANDA1/2って数曲しか知らないけれどポップで良かったなと思う。
PANDA 1/2「ぼくらがスリジャヤワルダナプラコッテへ旅に出る理由」
自分はパンダを全く可愛いとは思わないのだが、世間はそうじゃないらしい。パンダを可愛くないと言っている人に一度も会ったことがないのは、いちいち言うほどのもんでもないからなのか。
Google PixelのCMの、写真の空の色を変えるやつ、それはもう嘘やんって思う。それはもう嘘やんとか思うのも今更かもしれんけど。人物を撮るならまだしも風景を撮る場合にはもう、最近は記録用にといった感じで、良い風景を撮ろうとは最初から思わなくなった。撮ろうと思うときはだいたい肉眼で見て感動した風景を、その肉眼で見た感動を思い出しやすいように、肉眼での見え方とできるだけ同じような映し方で撮ろうとするといった具合で、写真の画像だけで純粋に感動することを目的には撮らなくなった。ただただ思い出すために撮っている。だから他人の撮影した綺麗な風景の写真などにもあまり心が惹かれなくなってきた。そこには自分に由来する思い出がないし、だいたい色味とかいじってて嘘やんって思ってしまうから。海とかあんなに綺麗なわけがない。写真の海と目の前の海は全然違う色をしているはずなのに、撮ってる人はどういう心境? でも他人が撮ったものでも、自分の行ったことのある風景だったら感動するし、絵とかだったらなおさら、写真よりもっと曖昧というか正確じゃないがゆえに、こっちが勝手に似ていると思った知っている風景を投影する余地があって、それに伴い思い出したという行為によって感動することがある。ロラン・バルトの「明るい部屋」を解説した荒金直人の「写真の存在論:ロラン・バルト『明るい部屋』の思想」 に
写真は事物の存在を確証するものとして主観に現われる。つまり、ある事物がカメラの対物レンズの前に現われた(対物レンズに現前した)という事実を証明する力を持ったものとして主観に現われる。その意味で、写真は「現前証明書」あるいは「存在証明書」である。しかし、現前したその存在がそこでいかなる意味を担っていたのか、そしてそれが今われわれに何を意味しているのか、この点に関しては、写真は何も確実なことは教えてくれない。意味の園域では、すべてが解釈に委ねられているのだ。写真は過去の存在を存在として与える(存在として経験させる)。思い出は、写真が与えてくれるのではなく、写真を見ているわれわれが、そこに与えられている存在をきっかけに、意味として再構築するのである。 p.49
と書かれているけれど、写真が被写体の存在を確証するとかどうのこうのは、もはや自分には関係がない気がする。そもそも現代に生きる他人の写真を本当だとはいまいち信じられなくなった自分は、写真から被写体が過去にいたという存在の実感を受け取ったからなどとは関係なく、積極的に自ら写真に意味を与えようとして見ている。よく考えたらその姿勢はもはや泣くために映画を見に行くみたいなスタンスで、なんかそれはちょっと嫌やな、なんて思うけど、微妙に違うような気もする。とかなんとかを、原本のロラン・バルトの「明るい部屋」を読むことなく、その解説本だけを読んで考えている。なんとなく原本を読んだ方がいいんかな、という思いと、でも解説してくれてる本のほうが絶対分かりやすいし、という思いのせめぎ合い。今のところ後者が優勢だから読んでいない。いつかVR技術が行くところまで行ったら、日差しが眩しいみたいな、もっと実際の体験に近い感覚を実感できるようになるのだろうか。写真を見ても眩しいとは思わないし景色の広がりなども物足りないから、VR形式で実際に訪ねたところを記録できたらいいのに、とVRを一度も体験したことがないのに思う。
ホンマにその、「想い出は いつも キレイだけど それだけじゃ おなかが すくわ」って歌詞、良すぎやしませんか。年々良くなってる。