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正しい読書とは -読書に対する姿勢-(ショウペンハウエル「読書について」)

読書をする。読み終わる。ああ面白かったなあと思う。だけどなんだろう、読み終わった後に何も自分に残っていない気がする。読んだことが身についていない気がする。読んでいる間は面白いけれど、読み終わった後に何も掴めていない気がする。一体、読書とはどうあるべきなんだろうか。

 

読書について 他二篇 (岩波文庫)

読書について 他二篇 (岩波文庫)

 

 

まあ有名なこの本。ショウペンハウエルは、この本において、読書に関する鋭い考察を述べている。

 

自分の頭で考え抜く

 

数量は乏しくても整理の完璧な蔵書であれば優れた効果をおさめる p5

 

量では断然見劣りしても、いくども考えぬいた知識であればその価値ははるかに高い p5

 

そうなんですよ。私は、ただただ何も考えずに次から次へと本を読んでいき、対して何も考えずに消費してきました。反省しています。これは読書のみの話ではない。今の時代、文学も音楽もニュースも次から次へと新しいものが手に入る。そして、それらを浴びるように消費していっては、ひとつひとつを丁寧に味わうことが少なくなっている。一時の快楽を得ては、それを摂取する前の自分とは何も変わらないまま終わってしまう。

 

読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。(中略)常にまとまった思想を自分で生み出そうとする思索にとって、これほど有害なものはない。 p11

 

ショウペンハウエルはここではっきりと、読書は自分の頭で考えることの邪魔をすると言っている。

 

自ら思索する者は自説をまず立て、後に初めてそれを保証する他人の権威ある説を学び、自説の強化に役立てるにすぎない。 p10

 

本来は自分の考えが先にあり、その考えが妥当であるかどうかを確認するために読書は行われるものであるのだと。なんて学問的な読書。私は暇だから、なんかやることないから読書をするなんてざらにある。そこになんの思索もないですよ。これを読んで、頭を使って生きていないなあと痛感させられる。

 

凡庸な書籍哲学者と自ら思索する者との関係は、歴史研究者と目撃者とのそれに等しい。 p13

 

これはめちゃくちゃ鋭いことを言っている。今の時代、ネットには嘘か真かも分からないことが溢れている。どこかで聞いたことのある話をみんながしている。我々は、誰かから聞いた話を何も考えずに、それこそ消費してしまってはいないだろうか。コピーのコピーのコピーのような話。自ら思索するものは、自分の頭で考え、自分の中から生まれた言葉で物事を語るのだ。借り物の言葉ではなく。

 

作品の形式を純粋に味わう

 

もっとも滑稽なのは、詩人の作品に接しながら(中略)作品を生み出すきっかけとなった実際の出来事や、詩人の私的環境を探り、さらにすすんでついには作品そのものよりも、そういうことにより強い興味を見せ(ることである) p36

 

もう許してくれ。ボロクソ言うてきよる。好きなバントの曲を聴くだけではよく分からないから、インタビューを読み漁り、この人はこんな人生を送ってきたんだと知り、謎の親近感が湧いて好きになる。作品を純粋に味わうのではなく、その周辺ばかりに興味をもつ。やってしまっている。言っても伝わらないことだから、曲にしてるのに、インタビューの解説を求めてしまう。

 

文体のもつ美しさ

 

ショウペンハウエルは、まだまだズバズバ言ってくる。

 

平凡な頭脳の持ち主たちが表わした著作が、精神に欠けてつまらなく退屈なのは、その原因を次の点にも求めることができよう。それは彼らがいつもただ中途半端な意識で言葉を動かしているにすぎないこと、つまり自分の使う一つ一つの語を習得し、自分のヴォキャプラリーにおさめていると言っても、自分ではその語の本当の意味を理解していないことである。だから彼らの文章は一つ一つの語から組み立てられたのではなく、むしろまとまったきまり文句(フラーズ·バナール)を文章の単位にしている。 p67

 

これも痛感する。分かったつもりで言葉を使っているが、じゃあその言葉が本当に意味することは?と問われるとうまく説明出来ない。世間でなんとなくそういう風に使われている言葉だから、何も考えずにそのまま使っている。だから、みんな同じことばっかり言うなあと思うし、自分もその内の一人になってしまっている。本当に自分の頭で考えて言葉を使う人は、自分が伝えたいことを正確に表す言葉を、厳選して使うものなのだ。だからこそ、なんとなく言葉を使う者とは異なり、明瞭で魅力的な文体となる。まずは、言葉の意味を正確に理解するように努めなければ。

 

読書は反復すべき

 

「反復は研究の母なり。」重要な書物はいかなるものでも、続けて二度読むべきである。それというのも、二度目になると、その事柄のつながりがより良く理解されるし、すでに結論を知っているので、重要な発端の部分も正しく理解されるからである 。さらにまた、二度目には当然最初とは違った気分で読み、違った印象をうけるからである。つまり一つの対象を違った照明の中で見るような体験をするからである。 p138

 

私の読書は今まで、一度読んだら満足して、すぐに次の本に移っていた。けれど、読み終わったあとにすぐに読み直すと、一回目の記憶が残っているから理解が進み、また一回目とは違った視点で読書が出来るようになるのだ。正直、一度読んだ本をもう一度読み直すのは、億劫なときがある。けれど、読書体験を活かすのか、ただ消費するだけにするのかはここにかかっている。メモを取りながら本を読むのも、テンポが悪くなって読む気が失せてしまうこともあるが、読んだ後に何も残らなければそれこそ意味がない。

 

この本は決して読書の方法について書かれているのではない。しかし、読書とはかくあるべきという、読書に対してとるべき姿勢が語られている。そして、この姿勢は読書のみでなく、何かを学ぶときにとても重要であるように思われる。この本には他にも、今の時代でも参考になることがたくさん書かれてある。そして、良くも悪くも、昔も今もあまり変わらないのだなあとも思う。この本に書かれていることを実践するのは大変であるが、出来る限り努力していこうと思う。ああ大変。

いつまでも青春時代の思い出話を繰り返すのだ(原田宗典「十七歳だった!」)

だれにでも青春時代はある。それが美しいものであったか、そうでなかったかは別として。そして、青春時代の大抵の出来事は、良いことであろうが悪いことであろうがなんとなく全部が良い思い出のように思えるのである。私もよく高校時代は楽しかったなあと思い出すことがある。友達と飲みに行っても、今の話をするよりも、もう何十回と繰り返ししゃべり倒してきた思い出話を何度もしたりする。そして、それが何度やっても楽しいのだ。冷静になれば高校時代の自分は、毎朝起きて学校に行くのもめんどくさくて、授業も退屈だし、部活も大して面白くないと思っていたことだろう。けれど、学生じゃなくなった今振り返ると、学校に行くのはなんと楽しいことで、友達と会えるのはなんと幸せなことで、部活動をするのはなんと素晴らしいことだと思うのだ。

 

そんな青春時代を振り返って書かれたエッセイがこちらだ。

 

十七歳だった! (集英社文庫)

十七歳だった! (集英社文庫)

 

 

ド直球のタイトル。原田宗典が、自分のオッサン化に伴う記憶の薄れを感じ始め、忘れてしまわないうちに高校時代の思い出を残しておこうと思い、書かれたこの本。やっぱり、自分の青春時代を思い出すのは少し気恥ずかしいのか、わざとふざけたような文体になっている。可愛らしいといえば可愛らしいし、気持ち悪いっちゃあ気持ち悪い。でも、しょうがない。自分の青春時代なんて、普通のテンションで赤の他人に教えることはできない。多少無理をしないとそんなことはできない。

 

原田宗典が初めてたばこを吸い、それが先生にばれそうになる話や、初めて女の子と川原で二人きりになった話、初めて家出をした話などが載っている。どれも絶妙に面白くてちょっと痛いという感じなのだが、この本の本当に素晴らしい部分は"あとがき"にある。以下ちょっとネタバレ。

 

あとがきは、原田宗典がもうすでに大人になったころの話である。原田宗典の父親が映写機を買ってきて、家族みんなで「宗典高校二年生・修学旅行」と書かれたフィルムを見るという内容。そのフィルムには、高校二年生のころの原田宗典が笑っている映像が収められており、その笑顔を見た家族はみんな笑ってしまう。しかし、原田自身は何とも言えない甘酸っぱい気持ちがのどに詰まって笑えなかったらしい。

 

まるで昨日見た夢の内容を、見知らぬ人にいきなり指摘されたような驚きがあった。

p212

 

なんと素晴らしい文章。この部分を読んで感動してしまった。確かに、大人になった今、青春時代というのは、まるで夢の中の出来事であったように思える。そして、それは自分しか知り得ない思い出である。そんな中、青春時代の映像を見ると朧気だった記憶が呼び戻され、確かに自分にも青春時代はあったのだとハッと気づかされる。恥ずかしくも胸の奥がじんわりと温かくなっていく気持ち。いやあ、なんと素晴らしいあとがきなんだろう。こっちまで感動してしまうよ。

 

昔ばっかり振り返っていても、今現在何かが変わるわけではない。けれど、それでもしつこく昔ばかり思い出してしまうのは、やっぱりそれほど青春時代は素晴らしいものであったということなのだろう。

 


never young beach - fam fam(official video)

 

never young beachは、昔はよかったなんて思ったことないって言ってるけど、私は昔はよかったと思ってばっかりでございます。そういいながら未だに64やってるやんって感じやけど。

うんこ大好き水木しげる先生(水木しげる「妖怪になりたい」)

この前、龍谷ミュージアムでやっていた「水木しげる 魂の漫画展」を観に行ってから、水木先生のエッセイを読み直してます。

 

www.gissha.com

 

今読んでるのはこれ。

 

妖怪になりたい (河出文庫)

妖怪になりたい (河出文庫)

 

 

相変わらず水木先生の描く絵は可愛いな。表紙の猫娘も愛嬌がある。内容としては、戦争体験や貸本漫画を描いてた頃の苦労、土人への憧れなどに関するエッセイが書かれている。それにしても糞の話が多い。どんだけ好きやねんってくらい糞の話をしよる。

 

水木先生が太宰治について書いている話が興味深い。そもそも水木先生は、太宰治のことが嫌いだったらしい。太宰の書く話を女の腐った話と酷評している。キツすぎる。なんでも水木先生は、戦争から命からがら帰ってきたもんだから、生きて平和な空気を吸えるだけで幸せじゃないかという考えをもっている。そんな水木先生からしたら、太宰の話は、些細な人間関係を顕微鏡的神経で眺めまわした、小心翼々の文学に映るそうだ。太宰が自殺した玉川上水を見に行った時も、戦争で一日中海を泳いだ経験のある水木先生からしたら、猫も死ねそうにない川でよく死ねたもんだと思ったらしい。確かに戦争を体験した人からしたら、太宰治のように悩む人は馬鹿らしく見えるかもしれない。けれどもやっぱり太宰に共感する人はいるわけで、現代には現代の悩みや苦悩がある。人間同士、そう簡単に互いの想いを共有しあえるものではないと思う。だからこそ、小説を読んで、自分が本当にそうだよなって思っていることが言葉として書かれているときに深く感動するんだと思うんだけれども。どうでしょう。

 

また、水木先生は戦争中に大自然やジャングルの美しさに魅了されたようだ。あまりにも美しかったもんだから、敵を見張るように渡された望遠鏡でジャングルの鳥たちや花々を見るのに夢中になってしまい、気づいたら味方が背後から敵に包囲されていたという、とんでもないエピソードが書かれていた。そんなんありなんか。それから水木先生は大自然に取りつかれて、楽園のような世界に住んでみたいと思うようになったそうだ。楽園、ユートピア、ザナドゥ、はらいそ。

 

「水木しげる 魂の漫画展」の映像において、水木先生のことを語っていた池上遼一先生に関するエピソードも書かれている。やっぱりここでも、池上先生の声は、空気のたくさん入ったカステラを食べたような声と書かれている。あとがきでは、水木先生と池上先生の対談が掲載されており、水木先生からすると池上先生は絵が上手だったらしい。多分、給料も2万円じゃなくて、5万円もらえてたんだろうな(過去記事参照)。他にもつげ義春先生などの、他の漫画家とのエピソードもいくつか載っていた。

 

この本を読んでいて思ったのは、やっぱり水木先生にとっては、戦争というものが強烈な体験だったということだ。読んでいると、軍隊の仲間が死んでゆく話も多い。そして、戦争体験を乗り越えたからこそ、強い忍耐力や奇妙な自信が付いたと言っている。だからなのかは分からないが、何か変な事件にあったり困難なことに出くわしても、水木先生は仕方ないなとすぐに気持ちを切り替えている。いや、それは仕方なくないやろってことも、仕方ないなってことになってる。大らかすぎる。そして、なんというか、本を読んでいて水木先生は戦争などの体験を、自分の人生としてしっかりと消化できているように感じた。もちろん戦争のことを憎んでいるとは思うし、思い出していやに気分になることもあったであろうが、文章から悲壮感のようなものは一切感じられないのだ。ただただ、現実に起きてきたことを書いているといったような印象を受ける。いやあ、偉大だよやっぱり。自分は、戦争とは比べ物にならないぐらいちっちゃい過去のことさえ引きずってるのに。

 

水木先生が、幽霊と妖怪の違いを定義しているのも面白い。水木先生にとって、幽霊は恨みが主な原因として出てきており、復讐を目的としている。それに対して妖怪は、自然に初めからそこにあるものなので、たいして目的もなければ、なんでもないただ愛嬌のあるものなのだ。水木先生の描く妖怪には、それが見事に再現されている。たいした目的もないっていうのがなんかいい。笑える。可愛いですね。これを読んだらタイトル通り、妖怪になりたいって思ってしまうよ。