牛車で往く

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頼んでない普請

Momの新しいアルバム「産業」を聴く。

 

産業

産業

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「大事なものはありません」が何かの曲に似ていると思ったけれど、それが思い出せなくてモヤモヤする。

 


Mom / 大事なものはありません


冒頭の部分を何度も聴き返す。脳みそが一瞬発熱して思い出せそうになり、掴みかけたそれがまた冷めて遠ざかっていくのを繰り返してようやく、秦基博の「季節が笑う」じゃないかってことが分かった。

 


季節が笑う

 

やっとの思いで思い出し久しぶりに聴いてみると、思っていたほど似ていなかった。でもどうにかして思い出せたときのえげつないスッキリさは、ずっと出てきそうで出てこなかった曲はまさにこれ、頭の中でフワッと湧いては消えていった曲の雰囲気はまさにこれといった感じで、思い出そうとした曲自体に間違いはなかった。「産業」では特に後半の三曲が好きで、「歌は遠ざかり、僕が追いかけてくる」の

プラットホームの小さな売店が
昔から憧れだったんだ
売店から見える景色を想像するのが
今でも凄く好きなのさ

って部分にハッとした。自分も抱いていたかもしれない、駅の売店に対する秘密基地感。個人的に、こういうちょっとしたエピソードというか一瞬、フレーズ、思いついたこと、考えたことをそれほど脈略に縛られずにパッと挿入できるのが曲のいいところだと常々感じており、その一瞬の跳躍により、聴いているこっちは歌詞の内容にグイッと引き込まれ、ハッと気づかされたような感覚を覚える。でもそこにはもちろんメロディや歌い方も関係していて、それらによって言葉にある程度情緒を補完できる音楽だからこそなせる業のように思える。自分は勝手にMomはほとんど東京のことを歌っていると思っているから、「地図の向こう側へ」の

歩いても歩いても工事中の文字さ

っていうのも東京のことだと思った。ちょうど読んでいた「東京百年物語2」という一九一〇年から一九四〇年のまでの東京について書かれた短編やエッセイ、詩をまとめた本*1の中にも、「東京は普請中」ということが書かれている作品がいくつもあった。東京のどこかしらはいつも工事中なんて考えは、誰もが思いつく別に珍しいものじゃないんだろうけど、とはいえそれに気づくと何か言いたくなる気持ちも分かる。自分と関係のある街に、自分と関係のないところで決まったことにより、自分と関係があるのかないのか分からないものができようとしている。そんな複雑な距離感の出来事を頻繁に目にすれば、別に頼んでないけど何作ってんねんと言いたくもなる。

 

 

「東京百年物語2」に収録されている江戸川乱歩の「押絵と旅する男」には凌雲閣という建物が出てくる。それは明治時代における今で言うところの東京タワーやスカイツリーのようなもので、作中の登場人物はこの凌雲閣のことを

あれは一体どこの魔法使が建てましたものか、実に途方もない、変てこれんな代物でございましたよ。

(中略)

高さが四十六間*2と申しますから、半丁の余で、八角型の頂上が、唐人の帽子みたいに、とんがっていて、ちょっと高台へ昇りさえすれば、東京中どこからでも、その赤いお化が見られたものです。

と評している。Momは「雑稿 pt.1」でスカイツリーに対して同じようにどこからでも見えると歌っており、我妻俊樹は我妻俊樹でスカイツリーを同じように少し不気味なものとして捉えている。東京には昔から高くて不気味なものが定期的に生えてくるよう。自分は夜に光るスカイツリーを見上げて特に不気味とも思わず、なんならきれいやなあと思いながらパシャパシャ写真を撮る。この新しくできた変なものに対する違和感はそこに住んでいる人が抱くものであり、それはその人の日常に非日常のものが現れるからで、東京自体が非日常の世界である自分は、そこに非日常のものがあるのは普通のことだから嬉々として写真を撮る。そんな自分ですらスカイツリーの麓に建つアサヒビールの金のビルと金のウンコは本当にセンスがなくてどうにかしたほうがいいと思うから、地元民の方々の中に自分より強くそう思っている人がいてもおかしくない。金色のウンコはウンコなんかではなく「新世紀に向かって飛躍するアサヒビールの燃える心」を表わす炎らしいけど、そんなもん自分の内に秘めといたらいいのにとしか思えない。

 

「産業」の最後に収録されている「ムーンリバーを待ちながら」の後半では、Momが語りかけるように

目黒通りとあの町を繋ぐ橋 
完成は2030年を予定しているらしい
思ってもみない自分を 思ってもみない喜び悲しみを
一体だれが表現してくれるのだろう

とささやくのだが、これまたちょうど読んでいた『文学に描かれた「橋」』の中に、松尾芭蕉が隅田川にかかる新大橋の工事に関心を寄せていたとの記述があり、松尾芭蕉が東京に新しく橋ができる場面に立ち会っていたように、Momもまたそういった場面に立ち会っている。

 

 

「ムーンリバーを待ちながら」の歌詞に出てくる橋は、多摩川にかかる等々力大橋のことのようで、最近のMomの曲は生活の記録みたいになっており、ここでも起きていることのスケールが個人にとっては大きすぎて想像できずに戸惑ってしまう感情がうまく表現されていて、そのリアルタイムな感じが何とも言えず良い。

 

www.tokyo-np.co.jp

 

ちなみに『文学に描かれた「橋」』には、加えて松尾芭蕉が仕事として神田上水道の工事に従事していたとの記載があるのだが、松尾芭蕉といえばギャグマンガ日和によって戯画化されたイメージが真っ先に頭に浮かんでくる自分には、芭蕉さんが働いている姿なんて想像ができないから意外に思えた。それから松尾芭蕉のことを調べていると、なにやら実は忍者説があるらしく、さらには与謝蕪村は松尾芭蕉に憧れていたとのことで、そんなに作品に触れているわけでもないのに偉そうなことを言うが、松尾芭蕉の句はそんなに良いと思ったことはないけれど、与謝蕪村の句は良いなあと思うものがいくつかあるから、これまた意外な事実に思えた。与謝蕪村の句のほうが個が消えているというか、作者の自我が薄いというか。

 

『文学に描かれた「橋」』を読んでいると、橋のあるところに川があるという当たり前のことを改めて意識したのだけれど、そうすると不意に昔Twitterで見つけたドット絵のことを思い出した。

 

 

Twitterで初めてこれを見たときにはめちゃくちゃ既視感を感じて (この絵を見たことがあるという既視感ではなく、この絵に書かれた景色を見たことがあるという既視感)、これは橋の上から見ている景色だなという、見ているってだけじゃなくて橋の上に立っている、橋の上に立ちながら眺めているという体のある場所までもが感じられて感動した 。改めて見ても、このドット絵のGIF画像は本当にずっと眺めてられるというか、風景を見ているときに近い感覚があってすごく良い。

 

Momの「ムーンリバーを待ちながら」って曲のタイトル、ムーンリバーとはなんぞやと思い調べていると、「ティファニーで朝食を」という映画がやたらとヒットして、作中において「ムーン・リバー」というタイトルの曲をオードリーヘップバーンが歌うシーンがあるようだった。ということで見てみた。

 

ティファニーで朝食を (字幕版)

ティファニーで朝食を (字幕版)

  • オードリー・ヘプバーン
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正直、自分にはあまりハマらなかった。オードリーヘップバーンが痩せていて、顔とかの骨の形が出ているのが不健康そうで嫌だなと思っていたところ、劇中でオードリーヘップバーンの旦那も彼女のことを「骨と皮だ」と言っていて、やっぱり痩せすぎよな、と思い、それとともに役作りで痩せたのかもしれないと思った。とはいえ苦手な見た目ではあるし、主人公にも魅力を感じず(普通に性格がおかしい)、ストーリーも割としょうもなかった。

*1:表紙の川瀬巴水の版画が良い

*2:高さが四十六間とはおよそ84メートルほどで、凌雲閣のWikipediaには高さが52メートルと書かれている。どっちが本当?とか思って調べてみれば、「東京浅草公園高塔凌雲閣十二階之図 高サ三十六間余」とかいう台東区立図書館のデジタル資料が出てきて、この高さ三十六間とは凌雲閣の避雷針まで含めた高さ(およそ67メートル)と一致するから、単純に江戸川乱歩が三と四を間違えてしまっただけだろう。