10月。去年の空気感を覚えていないくせに、なんとなく10月にしては暑いような気がしていて、そんな気候がダラダラと月の半ばまで続いた。30℃まで届く日がちらほらあって、とはいえ夜にはクーラーは必要ないほどの涼しさだったから、それに伴って夜食を食べるときに飲みたい飲み物が炭酸からミルクティーやカフェオレのようなまったりとしたものに変わっていったのだが、その移行はまだ完全ではなくて、たまに混ざってくる蒸し暑い夜には夏同様に冷えた炭酸がほしくなった。寝るときには半袖半ズボンの格好で網戸をして窓を開けたままにし、掛け布団は被らずに足元で三つ折りのじゃばら状に折り畳んでおき、その上に足を乗せて横になるのだが、夜中に目が覚めたときの部屋の空気は何も掛けていない体には冷たくて、上半身を起こして布団の下の方で自分の寝相の悪さでぐしゃぐしゃになった掛け布団を手繰り寄せ、それを肩の辺りまでかぶってもう一度眠りにつく。スマホのアラームの音で無理やりに起こされた朝、掛け布団から体を出すと暑くも寒くもなくてちょうどいいぐらいの気温に戻っている。っていうのが10月16日までの10月で、10月17日になると空気が全部入れ替わったかのように途端に寒くなった。10月17日の朝に目が覚めると、敷き布団と掛け布団のわずかに空いた隙間から冷たい空気が入ってきて、中の温かい空気を追い出していった。冷たい空気が、掛け布団の下で半袖半ズボンから剥き出しになっている肌に触れてスースーする。体を起こして掛け布団から出るともうはっきりと寒さが感じられて、冷たい空気が昨日まで何も感じていなかった鼻の粘膜にまで届いて、その反応として鼻の中で水っぽい鼻水がタラっと垂れてきた。夜には部屋着を長袖長ズボンに変えた。次の日の10月18日の朝も同じぐらい寒くて、会社に行く支度をしようと長袖のブラウスを着たあと、窓を開けてみて入って来た空気の温度からその上にジャケットを羽織ることを決めた。ジャケットを着た上からリュックを背負おうとすると、背負う動作を取ったときにズレたジャケットの肩の部分をそのままショルダーストラップが押さえつけるから、ジャケットが体からぎこちなく歪んでしまう。それをスーツの前裾と袖を引っ張って直しながら、ジャケットを着てリュックを背負うときには、肩がずれないように前のボタンをひとつ閉めた状態で行っていたのを思い出した。そんなひとつ前の秋あたりのことを思い出しながら、この夏当たり前のようにしていたことを自分はすでに忘れつつあるのではないかなどと思った。
玄関を出て階段を降りオートロックのドアをくぐって外に出ると、ジャケットを着て正解だったと思うぐらいの気温だった。駐輪場に置かれている自分以外のマンションの住人の自転車や原付のラインナップは毎日結構バラバラで、みんなそんなに日によって家を出る時間が違うのだろうか、どんな職業についているのだろうか。この日はマンションに3台ある原付の全てがすでに出払っていて、スカスカになった駐輪場から自分の自転車を引っこ抜いてペダルに足をかけた。漕ぎ始めるときに後ろのタイヤがプラスチック製のマンホールの上を擦って、キュッキュッとイルカの鳴き声みたいな音が鳴った。日陰を進んでいるときに手に当たる風は少し冷たい。堤防の天端の上を自転車で走っていると、河川敷へと降りる階段の一番上のいつも同じところに座って川を見ながらタバコを吸っているおじさんがいて、自分は別に煙草が嫌いなわけではないが、そこに差しかかると息を止めて煙をひとつも吸わずに通り過ぎられるかを試してしまう。風の強い日には、広がった煙草の煙がいつも以上に早く新鮮な空気とかき混ぜられて薄くなり、通り過ぎてすぐに息を吸っても大丈夫だろうと呼吸をしてみるのだが、煙の匂いを鼻がめざとく(?)嗅ぎつけてきては、呼吸を戻すのはまだ早かったかとなることが多い。河川敷を抜けて一般の道路に戻ってきたところの舗道は歩行者用と自転車用の通路に別れていて、その境界として並べられた植え込みの植物の枝葉は、夏の間に太陽の光を浴びて上へ上へと成長し、そのまま自重に耐えられなくなって海に放った釣り竿のようにしなって垂れている。どちらかと言えば自転車用の通路の方が繁茂した植物に道を塞がれて狭くなっており、それは向かいから自転車が来ようものなら、どちらかが道を譲らない限り植え込み側を走っている人はすれ違うときに伸びた枝葉に引っかかれながら突っ切ることになるほどであったから、タイミングによってはまだマシな歩行者側を走り抜けていく自転車も多い。こんな邪魔になるほど植え込みの植物がほったらかしになっているのは今年が初めてのことで、去年までどこの誰がみんなの代わりに手入れをしてくれていたのだろうか。そして、去年までの手入れに対する感謝よりは、今年はなんでさっさと手入れをしてくれないんだろうといった無責任に抱く不満の方が比重としては大きい。こんなに育ったまま夏を越えた植物たちは、冬になれば自然と枯れて道を開けてくれるのだろうかと、向かいから誰も来ていない隙をついて自転車用の通路を走り抜けながら思う。
9月、10月は梨が美味しくてしょっちゅう食べていた。近所のスーパーには幸水と二十世紀梨の二種類が売られていて、幸水のほうが甘いからそっちばかりを買って帰った。梨の季節はざっくり8月から10月上旬あたりまでらしいから、その限られた期間に食べられるだけ食べようと買い物に行くたびにカゴに入れた。梨は冷えたものを食べるのが美味しくて、買ってきたものは事前に冷蔵庫に入れておき、晩ご飯が食べ終わってからそれを取り出して切って食べる。これまでは一個の梨を二日に分けて食べていたのだが、最近は台所で梨を切って皮を剥いてはその場で口に放り込み、そのまま一個を食べ切ってしまう。梨には赤梨と青梨の二種類があって、赤梨の方が甘みが強いらしく、それを知ってから梨は甘けりゃあ甘いほど美味しいと思っている自分は、赤梨に属する品種ばかりを買うようになった。この前新しく見つけた「あきづき」という品種も赤梨に分類されるもので、その実は強く掴むとミシッとへこんでしまいそうなほど軟らかく、例のごとく台所で切ったその場でかじると、今まで食べた梨よりも一層甘い果汁が口の中に広がった。毎日毎日梨ばかりを食べていたある日、ふと、一日一個のペースで食べるのって糖分とかどうなんだろう、といった考えがチラッと頭に浮かんできたが、なんてしょうもないことを気にしているだろう、糖分の取り過ぎを気にするなんてそんな思考どこで身につけてしまったのか、んなもん気にせんとガシガシ剥いてガシガシ食べてしまえ、とすぐに思い直し、梨を食べ過ぎて糖尿病になって死ぬことなんてないだろうに、別に死んでもいいとか大袈裟なことを考えながら躍起になってかじった。梨はあまりにも美味しくて、季節が進むのとともに食べごろが終わりに近づいていくのが惜しい。