牛車で往く

電車に乗ってるときなどの暇つぶしにでも読んでください

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涼しい夜から肌寒い夜に変わったころ

初めて訪ねた街を歩いていると、その風景の中に自分の知っている街の面影を探してしまう。あ、ここはあそこらへんっぽいなあとか、ここはあそこらへんの雰囲気に似てるなあとか。そんなふうにして目の前の街の輪郭を知っている街のものに当てはめてみるのだけれど、ある地点から見えた一瞬の風景にこそ似てるなあと感じることはあれど、少し歩みを進めて景色が変わればすぐに全く似てなんかないな、気のせいだったなと考えが変わる。どうも自分は中学、高校時代によく通っていた道の風景に強烈な執着心をもっているようで、当時その道を歩いていたとき、はたまた自転車を走らせていたときに感じていた空気みたいなものを、大人になって地元を離れた今、別の土地でもう一度味わいたいと思っているのである。そんなことを思っているから、気持ちばかりが先行して、目に入った風景を無理やりに当時の景色に似ていると錯覚するようにして自分の頭を騙している。それでもやはりどの街の風景を見ても地元に近い雰囲気を感じることはないし、その当時の空気感が蘇ることもない。

 

そんな街の景色よりも、風の匂いのほうが当時の感覚を自分に思い出させる。秋晴れの休日、外を歩いているときにマスクを少し下にずらしてみると、澄んだ空気が鼻の中に入ってきて、その匂いがなんだか秋の日の夕方に部活動をしていたときの空気と同じ匂いに思えることがよくある。その瞬間心が少し若返ったような気分になるのだけれど、そんなふうに部活動の記憶を思い出すのは秋の澄んだ空気のおかげで不意にといったわけではなくて、先ほども書いたようにただただ自分自身が昔のことを恋しいと常々思っていて、些細なきっかけから無理やりに当時を思い出そうとしているからであろう。

 

中学時代の秋、夜が近づいて空の色が暗くなってきたころ、当時の自分はそんな時間に吹いてくる風を浴びて、涼しくて気持ちいいだとか、なんだか切ないだとか、そんなことは一切思っていなかったはずなのに、思い出した今はそう思っていたような気がしていて、どうしようもないななんて思いながら部屋で仰向けに寝転んで足を組んでは足先にジーンと血が通って熱くなるのを感じている。今の時期の夜、部屋の窓を開けているともはや涼しいではなくて少し肌寒いほどの風が入ってくる。正確には風が吹いて入ってきているのではなくて、空気が忍び込んできているといった感じ。そう思うのは、風というほどの空気の動きを感じるわけではなくて、床に寝転んだときに座っていたときよりも体全体で感じるひんやりとした空気が増すような気がするからである。それは冷たい空気は暖かい空気よりも重たくて下に沈むからだろう。寝転びながら組んだことによって、床よりも高いところに位置することになった足は体の他の部分よりも少しだけ寒くないのも、これによるのかもしれない。

 

窓の外からどこかで近所の子どもが縄跳びをしている音がする。それが本当に子どもかどうかは分からない。縄が空を切る音と地面を叩く音の隙間にときおり大人と子どもの声が聞こえてくるから、そこにいるのは親子で、縄跳びをしているのは子どもの方だと勝手に思い込んでいたけれど、大人の方が飛んでいる可能性だってある。秋なのにカネコアヤノの「春」を聴きながら、

 

汗臭く泥臭くいつでもいまでもなれたら

 

なんて歌詞にほんまにそうよなあと頷いてしまう。

 


DRIP TOKYO #2 カネコアヤノ

 

子どもじゃなくて親のほうが縄跳びを跳んでいればいいのに、なんてことを何となく窓の向こうに思う。