脂汗がにじむ夏に肌が乾燥することなんてあるのか分からないが、なんとなくでお風呂上りに顔に塗り続けている乳液が、暑さでシャバシャバになって容器から出てきすぎる。夏用にもっとさらっとした化粧水を買おうかと思ったりもするが、夏のワンシーズンだけでは到底使いきれないから結局買わない。ひじだけは季節に関係なくいつも乾燥している。だから乳液を塗る意味がある。ひじがきれいになってどうすんねんって話ではなくて、ひじが汚いのをどうにかしたいって話。汚いのは避けたいって話。
家に帰って、さっさと晩御飯を食べて、洗い物もちゃっちゃと終わらせて、19時半ぐらいに散歩に出る。5月ぐらいにハマっていたそんな行為をもうすっかりしなくなったのは、最近蒸し暑くなってきたのに加えて日が長くなってきたから。19時半ぐらいの空は、5月であれば完全に暗くなっていたのに対して、このごろでは太陽は沈み切ってこそいるがまだほんのり明るさを残しており、夜って感じが薄い。お風呂から上がってもまだ空が明るい、そんな一日が長く感じられる夏が好きだったのに、夜の散歩を楽しみだすと当たり前のように相対的に夜が短くなっていることに気づいて、今はそれが少し物足りない。19時半に家を出て、一時間ぐらい散歩をして、それから帰ってきてお風呂に入って、21時以降は寝るまでゆっくりするという理想のタイムスケジュールを、日が完全に暗くなるのを待っていると後ろにずらすことになる。別に薄明のうちに家を出たとしても歩いているうちに夜になるのだが、空が完全に暗くなってから家の中から外に出るといった工程を、ある種儀式のようにして踏まないと、昼の時間との切り離され具合が弱くなるというか断絶の幅が小さくなる。理想的な夜の散歩の途中に寄る薬局での時間は、例えば会社帰りの夕方に寄る場合などと比較して、日中のそれまでの時間の流れから切り離された、点で存在している時間のように感じられ、より薬局本体と向き合っているような気になる。まあそれは単純に夜の散歩のほうが、必要なものを買いに行くために訪れるのではなく、ただ単に暇だから寄る、そんなふうに薬局に寄ること自体が目的になっているからなのだが。とりあえず夜の寄り道は楽しいって話。
この曲を聴けば、大学生のころに旅行で訪れた宮古島の夜の海で星を眺めたことを思い出す。空には見たことのないくらいたくさんの星が輝き、ときおり流れ星が走っていくのを見つけられる。その感動よりも、星々以外の光のない周囲の暗闇への恐怖のほうが勝った。浜辺に自分たちだけが立っている状況。その浜辺がどこまで続いているのかも、真っ暗だから見通せず分からない。周囲の空間を隙間なく埋めつくす大きくて実体のない暗闇に、半袖を着てむき出しになった自分の腕やらをずっとさわさわ触られているような、そんな居心地の悪さ、不安が身にまとわりついて離れない。ここで急に変な人が現れて自分たちを襲ってきたら、おお〜とか感嘆しながら空の星に気を取られている友人たちは、襲撃者の来訪に気づくのが遅れて、なすすべもなくやられてしまうだろう。早くレンタカーの中に戻って安心したい。何も寄せ付けない、確固とした空間の中に入りたい。そんな気持ちになったのを思い出す。夜はやっぱり、ある程度安心感のある町の明かりがあるところにいたい。海で襲われる可能性と、町中で襲われる可能性を天秤にかけたら、全然後者のほうが現実味があるなどといった話ではなく、ただただ安心感のある明かりがほしい。自分をバリアのように包んでくれる街灯の広がりのある明かりが。星の光は遠くにありすぎて自分を包んではくれないから、それだけでは安心できない。暗闇の不安のほうが勝つ。
ロバート・F・ヤングの「たんぽぽ娘」を読んだ。
短編のロマンスがいくつも入ったもので、そういった作品はジャンルとしてはヤングアダルトと捉えられがちなのか、昔は若者向けの集英社コバルト文庫として販売されていたらしい。タイムスリップや宇宙などを持ち出すことによって、時間的にも空間的にも男女間に距離を生み出すことができるから、ロマンスとSFの組み合わせは親和性が良いってことを思い知らされるほど、綺麗にまとまった作品が多かった。慕情。サザンの「バラッド3」を通して聴いていたら、『慕情』から『クリスマス・ラブ(涙のあとには白い雪が降る)』、一曲飛んで『BLUE HEAVEN』まで歌詞に慕情が出てくるから、「慕情・慕情・慕情」ってなる。「リンダ リンダ リンダ」がなにやら4Kリマスター版になって公開されるらしく、触発されてAmazonプライムの買い切り版を見直したら、軽音楽部の部室のごみ箱にスムルースの「純愛サプリメン」のジャケットが貼られていたことに今さらになって気がついた。
日本語には恋と愛という言葉がそれぞれあるけれど、英語では恋も愛もLOVEで一緒ってことを、愛内里菜の「恋はスリル、ショック、サスペンス」のサビを聴いて思った。曲のタイトルが「恋はスリル、ショック、サスペンス」で、サビの歌詞が「This love is thrill, shock, suspense」だったもんだから。こんなこと、中学生のころに気づいてもおかしくないので、気づいたことを忘れてしまっていたのかもしれない。恋も愛もLOVEで一緒くたにするとか、アメリカ人はそれらの違いを知らないの? それに気づくような繊細な心を持ち合わせていないの?だなんて、自分はまた勝手にアメリカ人を大雑把な性格のやつらだと決めつけている。英語にも慕情に相当する単語はあるのかと調べてみればlongingやらyearningやらが出てきて、ただ恋と愛がLOVEで一緒なだけで、繊細な心情を表す言葉はもちろん存在している。四季のある国に生まれた日本人は、季節の移ろいに触れることで繊細な心が育まれているなどという、冷静に考えたら繊細さの四季への依存度そんなに高くないやろって常套句を、自分はこれまで大して気にもせずに聞き流していた。だいたい繊細っつうのも曖昧な言葉やし。ほんで恋は下心、愛は真心ってよう聞くけど、ただのダジャレ、言葉遊びやないか。
シオドア・スタージョンの「輝く断片」を読んだ。
「たんぽぽ娘」も「輝く断片」もなんとなく海外のSFを読みたいなあと思い、穂村弘のおすすめをもとに選んだのだが、「輝く断片」に関しては、穂村弘はスタージョンの「一角獣・多角獣」とやらを薦めていたところ、それが今では入手困難だからとりあえず近所の本屋にあったこっちを手に取った。それが結果的に、あまり自分にはハマらなかった。収録されている短編はSFではなく、だいたいなにか社会不適合な要素を持つ人物が、一般的にはずれている自身の価値観をもとに行動し、それがやっぱり一般の人たちの価値観とはずれているから最後にはうまくいかないってオチのものが多くて、自分はあまりそういう人物の生き様を読んで、いびつながらもまっすぐ生きていて感動みたいなことにはならず、どういうふうに受け止めればいいのか分からないまま、ただただなんでそんなことなんねんと思いながら読んだ。ブコウスキーの小説の主人公みたいに、『くそったれ! お前らがおかしい!』ってふうに真っ向からぶつかってくれたほうがそれなりに読める。真っすぐ苦しまれると、こっちもただただ見ていて不憫という感想しか抱けなくなる。調べてみるとスタージョンはやっぱりSFで有名になったらしいので、一発目に読む作品集として「輝く断片」を選んだのは、あまり良くなかったのかもしれない。