牛車で往く

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外っぽさ 自然っぽさ

芦原義信の「街並みの美学」を読む。

 

 

コロナ禍による自粛生活を通してより強く思うようになったのだが、自分は常々もっと気軽に外の雰囲気を味わいたい、矛盾するかもしれないが理想は家に居ながらにして外にいるような開放感がほしいと思っていて、そんなときに「街並みの美学」を読むと、住まいと街の関係や、内部空間と外部空間に対する意識が街並みの形成に及ぼす影響などについて書かれていてかなり面白かった。基本的に日本の街並みを西洋のものと比較してあれこれ述べるといった内容になっていて、日本では家の中では靴を脱いで過ごすが、西欧では靴を履いたまま過ごすといった生活様式の違いを導入として、日本人と西欧人の住まいに対する「内部」「外部」といった境界意識の違い、そこからその違いが街に対する態度の違い(日本人は、自身の住まいの外に広がる街という空間に対して比較的無関心であるのに対して、西欧人は街も住まいの延長にある領域として捉えている)につながっていく説明の流れが分かりやすかった。日本では広場とその周囲を隔てる境界として塀が用いられることが多いが、これでは広場は閉鎖的な空間になってしまう。それに対してイタリアのように広場の周囲に直接建造物を建てて境界とすることで、広場は生活の場として生きた空間となるとの説明を読み、なるほどと思った。日本では大きな公園などに関しても、いずれも木で覆われたり塀で囲われたりしていて、周囲の空間から切り離されている(この本ではその例として日比谷公園が挙げられている)。しかし、イタリアの広場のように住居の外壁が直接の広場との境界となると、住居とその外部(広場)との距離が近くなり、家の中にいても外の活気が伝わってきそうだ。ただ、実際に受ける印象はイタリアに訪れないと分からないだろうし、もっと言えばしばらく住んでみなければ、イタリアの街並みの方がいいのか、自分にしっくり来るのかは分からないのかもしれない。さらには、その町の中で育ってきたかどうかによっても変わりそうで、こういった日本と外国を比較したものに触れるたびに、外国人の知り合いがほしい、意見を聞いてみたいと思う。

 

「街並みの美学」を読んでいると、芦原義信のいう魅力的な街並みというものを実現させるには、街に対しても自分の家と同じように意識を向けられるかが大切であることが分かる。

 

まず第一に、「街並みの美学」を成立させるためには、「内部」と「外部」の空間領域について、はっきりとした領域意識をもつことが必要である。即ち、自分の家の外までを「内部化」して考えられること、あるいは、自分の家の中までを「外部化」して考えられること、二つの領域について空間を同視して考えられること、または、空間を統一して考えられることが肝要である。 p275

 

このような家の外を内部化、もしくは家の内を外部化するような考え方は、「街並みの美学」を読むだけでも十分に身につくものなのか、それとも例えばイタリアのような、そういった考え方に基づいた街並みの中で生活し実感することでやっと育まれるものなのか気になるところではあるが、それを意識することで街を見る目が少し変わるのは確かである(いい感じに見れているのかは分からないが)。

 

ただ、外の活気が部屋の中まで伝わってきたとして、果たしてそれが自分の心持ちに何か作用するだろうか。今住んでいる家にいても、子どもたちの遊ぶ声が聞こえてくることがあるが、特に何か気分が明るくなることはない。それよりも窓を開けて網戸の近くに座ったり、顔を近づけて寝転がったときのほうが、外にいるときのような気分、家とは違う気分を味わえて、それは単純に外気に触れている、外気を肺に取り込んでいるからだろう。だからイタリア式の広場に面した住居に住んでみても、さほど今と変わらない気がするが、街並み自体が気軽に外出したくなるような、外のベンチで腰掛けていられるような、留まっていられるような造りになっているのであれは、それはそれで外に出やすく、直接的に外の空気を味わいやすいという点でありがたい。

 

「街並みの美学」は個人的にかなり面白く、しかし出版されたのが1979年ということもあって、もう少し最近の知見も踏まえたうえで書かれている同じような本はないのか、また、建築や街並みに関して書かれた本をあまり読んだことがなく、この本以外の考えも知りたいと思い、色々と探してみた。普通にGoogleで検索してもあまりいいものが見つからなかったので、Twitterで「街並みの美学」と検索してみると、建築学科の学生らしき人たちが互いに本を紹介しているやり取りや、「街並みの美学」と対照的な意見が書かれているらしい本の情報などが見つかった(建築学科の学生からすると「街並みの美学」は、課題図書としてよく取り上げられる本のようだ)。また、「街並みの美学」に記載されている引用文献にもいくつか気になるものがあって、それらを読んでみようと思った。

 

「街並みの美学」を読んでいると、原風景について書かれた部分があって、それを受けてああだこうだと考える。よく「日本の原風景」という言葉で、海や山や川などのある田舎の風景が掲げられる。それを見るたびにそもそも原風景ってものは個々人にあるもので、「日本の原風景」って言葉は全体を勝手に代表してる感じがしていちゃもんをつけたくなるのだが、人が原風景という言葉を聞いて抱くイメージについて調査した論文などを読んでいると、やはりそういった田舎というか自然の風景を思い浮かべる人が多いようだった。自分が「日本の原風景」としてよく提示されるイメージにいちゃもんをつけたくなるのは、自分の原風景の中にそのような田舎の風景は宿っていなくて、それを根拠として本当にみんなはそんなに田舎での原体験があるのか、どこかで植え付けられたイメージに引っ張られているだけではないのか、と思っているからなのだが、それこそ自分自身の経験から勝手にみんなも自分と同じだと決めつけているだけのようだった。

 

自分にとっての原風景とは?ってことを考えてみると、小学生ぐらいのころの記憶がよく思い出される。学校の中庭に一本だけそびえて立っていた背の高いメタセコイヤの木や、小さな森というのか山というのか、そこを分け入って野良犬と遭遇したことなどが思い出されるのだが、これが本当に原風景なのか、ただの思い出なのかはよく分からない。ただ、自分の原風景について思いを巡らせているときに、自分自身も「日本の原風景」という言葉にいちゃもんを付けていたわりに、自然の風景をいくつか思い浮かべていて、やっぱり原風景という言葉は自然との結びつきが強いのかもしれない。とはいえ自然にまつわるものばかりではなく、友だちの住んでいた団地でドロケイをしたことや、その団地のすぐ下にあった公園で秘密基地を作ったり、木にハンモックを引っ掛けたりしたこと、グラウンドでプラスチックのバットとゴムボールで野球をしたことなども思い出される。「街並みの美学」では、原っぱを原風景としていた昔の世代と比較して、団地で育っていく世代の原風景はどのようになるのかと心配されていたが、そのまま育った団地が原風景の一部となっている。個人的に団地には、塀の隙間や屋根の上などといった、とても大人が入ってこれない子どもたちだけの空間を見つけて、そこで遊んだ身体的な記憶が宿っているから、それが原っぱの代わりになっているのかもしれない。

 

「原風景」の意味を簡単にスマホの辞書、スーパー大辞林で調べてみると、「原体験から生ずる様々なイメージのうち、風景の形をとっているもの」と出てくる。「原体験」も同じように調べてみると、「記憶の底にいつまでも残り、その人が何らかの形でこだわり続けることになる幼少期の体験」となっていて、この"こだわり続ける"とは自覚的な行動を意味するのか、無自覚なものを意味するのか。辞書的な意味しか調べていないので、原風景の学術的な定義にも幼少期の原体験が要因となる旨が含まれているのかは分からないが、原風景について調べる中でたどり着いたこのページを読むと、大人になってから出会う原風景もあるんじゃないかと思えてくる。

 

原風景という名の病 - 旅するTシャツ屋アジアンラティーノ

 

それにしても、さっきから自分は海山川などのことを自然と呼んで書いているけれど、そういった自然と思っているものの大半には人間の手が加えられているってことを、以前にも書いたが自分なんかは藤本タツキのエッセイを読んで初めて意識し始めたのだが、この論考にも同じようなことが書かれていて、それがなぜか嬉しかった。

 

<論考>風景を失うことの意味: 陸前高田と原風景をめぐって 

 

もちろん田は人工的な構築物だし、野原や森も含めて、われわれの周りに人間の手が入らないという意味での純粋な自然はもはや存在しないから、ここでは人々が「自然」と認識するものという意味で使っている。 p56

 

そういうことを意識し始めてからというもの、特に何があるというわけではないが、山の尾根に沿って送電鉄塔が並べられているのに気づいて、一体どうやってあんなところに建てたんだろうか、人間すごいなと思ったりした。海岸線に沿っていくつも積み重ねられているテトラポットを見て、これほどの数を一体どうやって置いたんだろうと、巨人が手のひらから金平糖のようにテトラポットをバラバラと落としては並べていく様を想像したりもした。そんなことを考えていると、街がとてつもない時間をかけて形成されているっていうよくある考えにたどり着くのだが、特にそのことに感動を抱くわけではなく、ただぼんやりとそう思うだけで、だからなんやねん、と自分でも思う。「街がとてつもない時間をかけて......」うんぬんは、純粋に自分の中から出てきた考えじゃなくて、どこかで聞いたことのあるような考えが頭に浮かんだだけ。100%純粋に自分から生まれた考えなんてありえないのだけれど、より自然っぽい思考はある。

あとになって分かることばかりなのかもしれない

最近は講義形式の方がなんとなく話が入ってきやすいかなと思い、そんなタイプの本をよく読んでいる。

 

 

絶対的な過去っちゅうもんは存在しえないし、歴史は完結するものではなくて、絶えずそれを振り返る今現在との関係性によって解釈が変化するものであるということ。最初は信じられていなかったアリスタルコスの地動説が、コペルニクスの登場によって千年以上の時を越えて「意味」を持ち始めた例が分かりやすかった。

 

すでに起こった出来事は、新たに生じた出来事と関係づけられることによって、これまでもたなかった意味を獲得します。少なくとも紀元前二七〇年から一五四三年の間、アリスタルコスの業績は「地動説の先取り」というポジティプな意味をもたず、異端の説として退けられてきました。これから起こる未来の出来事をも勘案するならば、このような意味生成の過程は完結することはありません。その限りで、歴史は絶えず語り直されるものであり、出来事は新たな意味を重層的に身に纏うものなのです。それからすれば、「歴史修正主義」という言葉は現在ではペジョラティフ (侮蔑的)な意味で使われていますが、クワインが「いかなる言明も改訂を免れない」と言った意味で、歴史記述は「修正」や「改訂」を免れることはできず、またそれを絶えず要求しているのです。 p90

 

この本は歴史の認識について考える入門書的位置付けであろうもので、とはいえなんだかいまいち内容が記憶に残らないまま読み終わってしまったのだが、多分より詳しい他の本を読む際に、読んだ部分がなんとなくで頭に残っていて理解しやすくなったりするんだろう。

 

歴史を考える―「歴史=物語り論」の脱/再構築 - 東京外国語大学

 

これとかを読んでいると、歴史といえば"日本の歴史"みたいな国単位の大きなものを思い浮かべてしまうけれど、その中にはもちろん個人レベルの小さなものもあるはずで…といったことについて考えさせられるのだが、簡単に答えが出るもんじゃなかろうに何か答えのようなものを探しながら読んでしまい、思考がまとまらなくなってくる。大きな歴史の物語の中に回収されて個人の歴史が埋もれてしまう問題について考えたときに、大きな歴史の物語は個人の歴史をないがしろにした間違ったものという考えがちらついてしまい、とはいえ歴史には神的な視点つまりは正解なんてものは存在しえないわけで、それこそ人それぞれの歴史に対する視点が無数にあるはずで、それを大きなものひとつに集約しようとするからこっちが正しい、あっちは間違っているなどといったふうになってしまうのではないか。じゃあどうしたらいいのか、個人の歴史を大きな歴史に反映させようとしない限りは、それはないがしろにされたままになってしまうんじゃないのか、コツコツと市井の人々の話を聞き個人史を集めてみてもそれは宙ぶらりんのままになるのか。それこそそんな即時的なことではなくて、いつか訪れる倫理観の変化に伴い歴史的事実が解釈し直されるときに、参照されるものとして個人の歴史がちゃんと残っていることが重要なのだろうか…とか、自分の足りない頭ではいくら考えてももう堂々巡りになってこんがらがってくる。そもそも自分は最初、時間の捉え方というか、時間論的なものについて調べていたはずが、気づけば歴史に関するものにたどり着いており、一体何が知りたかったのかがよく分からなくなった。

 

 

キリスト教について自分はあまりにも何も知らなすぎるから勉強しようと読んだ。

 

 愛が語りうるものであれば、ひとは愛を概念化することができる。けれども、愛は概念化を拒むものであるということを様々な方法でダーシーは語るのです。

 ニーグレンの仕事を否定するわけではないけれども、概念化された愛というものに対するある警戒感を持つ必要はある。ダーシーの言うように、愛は概念化すると、その本質を掴み損ねて部分化していくということは認識し直していいと思うし、概念化を拒む愛のあり方のほうが私たちの日常生活に近いのだと思うのです。ともすれば、何もかもが概念化されることによって普遍化していくという現代の神話のようなものを信じがちですが、けっしてそうではない。 p68

 

もうずっと同じことばかりを考えてしまうけれど、何かを理解しようとするときに行われる概念化・抽象化、その際には圧縮されることで失われる細部が絶対にあるわけで、しかしそうとは分かっていながらも言語化して伝えたいこともあって、伝えたいこと全体とその細部の両立の難しさ、そもそもそれが不可能であることを何度も思い知らされる。愛とかそういったものの本質はそれを感じている瞬間にしかない。この部分を読んで田島列島の「子供はわかってあげない」で朔田さんが馬のジョニーに言われていたセリフ

 

いいか

お前らの使っている言葉っていうのは鋳型であり代用の具なんだ

言っとくがソコに入り切れる程俺の存在は小さくない

 

を思い出すのだけれど、このジョニーすら恋の比喩であってそれ自体ではない。こういったことは「キリスト教講義」の天使について書かれた部分にも出てくる。

 

若松 宗教の世界では、あるところにいくと、言語からほとんど完全に離れてしまうところがあって、天使論はそこを包括して展開していかないといけないのだと思います。人間にとって天使は経験であって論理ではないからです。神というのも神的経験がなければならないところを、言葉だけで語り得る神論にしてしまっては自らの試みを破砕することにもなりかねない。

 宗教の内実は、そもそも概念化し得ないものです。それを概念でのみ語ろうとするとき、最も重要なものから遊離することになる。それを語り得るのは概念化された言葉ではなく、経験に裏打ちされた言葉です。 p135

 

天使は神秘的存在で、論理で説明できるものではない。そういった私たちの理解を超えた存在を認識するためには、"天使に触れた"といった実際の神秘的経験が必要となる。この本を読めば読むほど、キリスト教ってものは勉強で知れるもんではないなあと思えてくる。神の存在を信じて聖書を読まない限り、自分はその上辺をなぞり続けるだけなのだろう。いや、そもそも神の存在を信じて聖書を読んでいるのか、聖書を読むうちに何かが芽生えてくるのか、その何もかもが分からないまま。

 

 

そんなことを思いながらも、ヨーロッパの人々の"キリスト教"に基づく社会が書かれているこの本を読む。この本はまだ日本の社会と比較して書かれているから幾分分かりやすい。比較としての日本があるおかげで抱ける、ヨーロッパにはあって日本にはない文化の"ない"といった感覚。キリスト教を信仰しているヨーロッパの人々は、神という唯一の存在に対して祈りや告白や懺悔によって向き合うことで自分自身が"個人として存在するもの"であると認識しているのが窺い知れ、これも自分にはない感覚だなと思う。裸の自分と一対一で相対する存在って思い浮かばない。

 

 

あとは講義形式じゃないけれど、この本を読んで得られた小説を読む際のメタ的視点。一人称と三人称の視点の違いによって生じる、書かれている内容と筆者との距離の違い。他者の感情を「嬉しかった」などと言い切ることで生まれる不自然さとの戦いや、神的視点の三人称を装いながらも意図的に読者に見えない部分(つまりは見せない、書かない部分)を作ることで、読者側が想像力をはたらかせて作品に介入できる余地を生むといった手法。夏目漱石すげえってなりながらも、果たして自分は今後この本に書かれたことを意識しながら小説を読むことができるのだろうかとも思ってしまう。忘れてしまいそう。

 

そして、長嶋有の「夕子ちゃんの近道」。

 

 

もう何回読み返してんねん、っていうくらい読み返してる。この小説は一人称小説なんだけれど、主人公による心情の吐露とか自分語りがあまりない。だからこそ、たまにくる主人公の感情が揺れた瞬間の描写にはジーンと来る。今回読んだときには、ドイツから帰ってきた朝子さんが主人公の働いている骨董屋を訪ねてきたところがめちゃくちゃ良くて、主人公が久しぶりに朝子さんを見てパッと誰だかすぐに分からなかったとこあたりから、ジワジワ良いと言った感覚が生まれ始め、それがそのあともしばらく続きながら読んだ。あとは、この小説では登場人物の性格が、主人公の分析ではなくて登場人物の行動を見た場面をもって印象づけられていて、その場面設定がめちゃくちゃ上手い気がする。夕子ちゃんだったら変な近道を知ってるだとか、朝子さんだったら家のすぐそこの空き地で大学の卒業制作に没頭していて最終的に熱を出して倒れてしまうだとか。それぞれの登場人物は言葉で分かりやすく説明できるような特徴的な性格ではないんだけれど、それぞれの出てくる場面の描写を丁寧に書くことで知らないうちに自分の中で個別の印象的な人物として立ち上がっている。やっぱり何回読んでもいい。

 

 

「夕子ちゃんの近道」を読んだ流れで、そういえば長嶋有がこの本に影響を受けたって言ってたな、一回読んだけどあんまり内容覚えてないな、と思い読み返した。この本に収録されている四編のうちのひとつ「連笑」は、定職につかずブラブラと生きている主人公が怪我をした弟の面倒を見ることになり、それをきっかけに幼少期の弟との思い出を振り返りながら、主人公自身と弟の関係、そして父親、母親を含めた家族関係について思いを巡らせるといった内容になっている。「連笑」は一人称の小説なのだが、「夕子ちゃんの近道」を読んだばかりということもあって、読んでいると主人公が自分とか弟の性格についてめちゃくちゃ説明するやん!と思ってしまった。いやまあ、過去を振り返るって形式やからそういうふうになるもんやとは思うけど。まあそれはいいとして、兄弟のいる自分にとっては、幼少期の兄弟が互いの人格形成に与え合う影響力の大きさについて考えずにはいられなかった。相手がああいう性格になったのは、もしかしたら自分が小さいころにああいうことをしていたからじゃないか、と気づいたときのヒヤッというかゾッとする感じ。無意識のうちに自分が相手に人生を左右するほどの影響を与えていたのかもしれないという事実に対する恐れとでも言うのか。親からの抑圧といったふうに影響を与えられた側からの視点で書かれた作品は数あるけれど、「連笑」のような影響を与えた側の自覚とそれを自覚したことによって生まれる哀愁について書かれたものはあまり読んだことがなくて、前に読んだときにはよくもまあ引っかからなかったもんだなと思うほど、今回はなんとも言えない読後感が残った。

 


www.youtube.com

 

音楽はアナログフィッシュの新曲「Is It Too Late?」をよく聴いている。作詞がギターの下岡さんで作曲がベースの佐々木さんというバンド史上初の手法で作られた曲らしく、そう言われると確かに佐々木さんが歌う曲にしては歌詞がいつもの感じと違うなと思った。下岡さんの書く少しシリアスな歌詞に影響を受けたのか、曲調がタイトなものになっていて(実際に詞が先か曲が先かは知らないけれど)、このスタイル、めちゃくちゃハマってる気がするぐらい曲がカッコいい。途中の短い間奏も良くて、アナログフィッシュは活動歴が結構長いのにまだまだフレッシュな曲が作れてすごいなと思う。

 

あとは今更だけどMomの「PLAYGROUND」。

 

PLAYGROUND

PLAYGROUND

  • アーティスト:Mom
  • Life Is Craft
Amazon

 

今はもうずいぶん寒くなったけれど、10月上旬ぐらいの涼しい夕方にこのアルバムを散歩しながら聴いていたらめちゃくちゃしっくり来て、たまらない気持ちになった。「スカート」なんて前からいい曲だなと思っていたけれど、ここまでいい曲やったっけ?と思うほど良く感じた。もう色んなものの印象が後から変わっていくのは、自分が変わっているからか。

 

 

あとは「東京」の

 

あの子もその子も

怒る前に泣いてしまう

 

って歌詞のやり切れなさ。

 

pocket.shonenmagazine.com

 

漫画は「錬金術無人島サヴァイブ」を読んでいる。絵が上手で可愛いから。話は普通だけど。そんな感じです。

 

今週のお題「読書の秋」

文芸誌を読んで袋ラーメンを食べたくなる

7月21日、水曜日。4連休に向けて本でも買おうと思い立つ。会社帰りに本屋に向かって自転車を走らせていると、そういえば文芸誌のどれかで長嶋有を特集したものが出ていたな、と思い出す。本屋に着いて雑誌コーナーに足を運ぶと、それは群像であった。

 

 

ただ、自分には小説を連載で追いかけるほど夢中な作家はいないし、もっと言えば、漫画に関しては好きな作家の新刊が出るとなるとすぐに欲しくなるけれど、小説に関してはそこまでにはならない。だから文芸誌は、気になる特集のときにパラパラと本屋で立ち読みする程度で買ったことがないし、大学の図書館で誰でも早いもん順で持っていっていいですよ、となった廃棄雑誌でしか手に入れたことがない。そんなもんだから、今回もちょっと立ち読みしてみようぐらいの感じで手に取ったのだが、巻頭の長嶋有の書いた、日記の体裁をとった私小説「ルーティーンズ」が面白くて、目の前に4連休が控えており気持ちが明るくなっていたのも手伝って、勢いで買ってみることにした。そうすると、なんだかよく分からないけれど少しだけテンションが上がってきて、ケンタッキーでも食べるかとなり、本屋の帰りに寄って、期間限定のブラックホットサンドやらビスケットやらをテイクアウトした。

 

 

子どものころには、その味が素朴すぎておもんないなと思っていたビスケットのことを、いつからか好きになり注文するようになった。ビスケットを食べるときには、まずは上下にバカっと割って薄い輪っかを2つ作り、そこにハチミツを一口ごとにかけてかじる。ハチミツは適量ずつかけるように気をつけないと最後に足りなくなってしまう。おもんないと思っていたビスケットの味の素朴さは、今となっては、そのおかげでハチミツの甘さが引き立てられているような気になっている。そして、ビスケットが好きになったのはすなわち、ハチミツのことも好きになったからかもしれないとも思う。子どものころは、食べると口の中の水分が持っていかれ、持っていかれた水分によってもっちゃりと重たくなるビスケットの生地の咀嚼感も面倒に思っていたが、味が好きになったおかげで、今はそれも気にならなくなった。

 
長嶋有の小説の日記は2020年の4月から始まっており、そこには奥さんと娘さんと過ごすコロナ禍真っ只中での生活が書かれている。そんな長嶋家の日々を追いながら、時折当時の自分の生活を振り返る。そして、購入した翌日の木曜日の午前中に小説が読み終わり、小説の中で何度か出てきた野菜をドバッと入れたラーメンや焼きそばを家で食べるシーンを読んで、なんだか自分も家でしか、しかも休日のお昼ご飯にしか食べることのないあの味が食べたくなった。今日のお昼ご飯は袋のラーメンにしようと決め、自転車でスーパーへと向かった。外は暑い。今週から一段と暑さが増したような気がする。クーラーの効いた室内よりも気温も湿度も高く、肌に触れる空気の感覚も室内とは違ってまとわりつくような息苦しさがあるのに、一日に一度は外に出てこの感覚を味わわないと逆に不健康な気がしてくるのは何なのだろうか。

 
スーパーに向かう途中、信号に捕まって青色に変わるのを待っていたときに、太陽は雲に隠れていて日は差していないにも関わらず、自分が眉間にしわを寄せて目を細めていることに気がついた。眉間にかかっていた力を緩めて目を開いてみると、別に眩しくもなんともなくて、自分は暑いだけでなんとなく無意識にそうしてしまいがちなんだろう。さらには、眉間のしわを緩めてからというもの、変にその部分に意識がいって、さっきまでかかっていた力の名残りのようなものが、かかっていたときの力そのものよりも強い存在感を放っているように感じられて、なんだか落ち着かない気分になった。眉間の辺りの感じをどうすればいいのか分からなくなったまま、いつ変わるのかと信号を見つめていると、信号を渡った先にある家の屋根の上に人が登っているのが目に入って、どうやら職人さんが瓦屋根の修理をしているようだった。職人さんはおそらく怪我の防止を理由に、夏でも素肌の部分を隠せるような長袖長ズボンの格好で作業をしていて、それを見ていくら安全のためとはいえめちゃくちゃ暑そうだな、自分じゃあ体力がなさすぎてとてもあんなふうには働けないな、なんてことを考える。職人さんが作業しているさらに奥側の、こちらからは隠れて見えないハの字の下り坂になっている屋根のほうからは湯気のようなものが立ち昇っていて、信号が青に変わってそちらの方まで進むと、屋根の上にもう一人職人さんがいるのを見つけて、湯気のように見えていたのは、屋根を削って出てきたカスが舞ったものだった。

 
スーパーに着いて、とりあえずカット野菜をカゴに入れる。色んな野菜が入っていて、それらはすでに切られた状態になっているから、一人暮らしにはありがたい。さらには洗わなくていいなんて。そのままインスタントラーメンのコーナーに行って、自分は豚骨ラーメンが好きだからと、チャルメラバリカタ麺豚骨を手に取った。そこでふと、今日はたまたま小説の影響を受けて食べたくなっているけれど、普段袋麺を食べることなんてほとんどなくて、買ったところで5食も消費できるだろうかという考えが浮かんだ。出前一丁にすれば、だいぶ先のことではあるが、冬にキムチ鍋をしたときに〆で入れることがあるから、いつかは食べ切れるだろう。別にチャルメラのほうでも〆に使おうと思えば使えるのだが、スープの残りにごまラー油を入れて食べる美味しさを知ってしまってからというもの、これでなくては物足りない気分になる。棚の前でしばらく悩んだ後、結局、冬を見越して出前一丁をカゴに入れた。

 
家に帰って、早速お昼ご飯を作る。鍋の中で沸騰したお湯に、麺とカット野菜とウィンナーを放り込む。袋に書かれている作り方を無視して、茹でた麺の入っている鍋の中に直接粉末スープを入れようとすると、鍋から立ち上る湯気を吸ったのか、粉末は袋の口のところでダマになってうまく出てきてくれなかった。その度に、ああ、もっと口を大きく切るべきやったな、となるが、次回もそれを忘れて同じように失敗する気がしている。出来上がったラーメンを鍋から直接食べると、なんだか味が薄い。野菜から出た水分で薄まったのか、それとも粉末スープがダマになったことで袋に残ってしまっていたのか。うーん、思ってたのとちがうなあ、となりながらも、そんなもんかとも思い、ご飯を食べ終わったあと急激に眠たくなってきて、4連休で休みも長いし、一日ぐらい無為に過ごしてもいいだろうと、アラームをかけずにお昼寝をした。

自分の中で自分の川を育てる(山納洋「歩いて読みとく地域デザイン」)

ゴールデンウィークは本を読もうと、山納洋の「歩いて読みとく地域デザイン」という本を買って読んだ。

 

歩いて読みとく地域デザイン: 普通のまちの見方・活かし方

歩いて読みとく地域デザイン: 普通のまちの見方・活かし方

  • 作者:山納 洋
  • 発売日: 2019/06/02
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

これまでも誰かと話をしながら散歩するのは好きだったのだけれど、コロナ禍になってから、持て余した時間をどうにかするべく一人で散歩する機会が結構増えてきて、何かしらの町(街)を見る目や知識があればもっと散歩も面白くなるんだろうなと思いこの本を選んだのだが、これが大変面白かった。特に著者の山納さんが大阪ガスに勤めていることもあってか、実例として出てくる場所に関西のものが多く、関西出身の自分にとって知っている場所がいくつもあったのが良かった。

 

yestage-kai.jp

 

上のページで紹介されているような木造の集合住宅は、自分にとっては特に普通の家とかもわざわざ思わないくらい馴染みのあるものだったのだが、これは近畿圏特有の「文化住宅」と呼ばれるものであることをこの本で知った。今まで文化住宅を見てもアパートだと思っていたのだが、文化住宅では玄関やトイレなどが分かれており、この点がそれらが共同のものとなっているアパートとの違いのようである。文化住宅は昭和30年あたりに戦後の住宅不足と人口の急増の影響を受けて一気に増えたそうだが、今では「木造密集住宅地」として火災や地震による災害のリスクが高いとされている。この本では、大阪のおばあさんが文化住宅について語った言葉が載せられている。

 

 (中略)うちの前も裏も文化やったけど、どっちも火事で燃えた。どっちも漏電。40年以上前に建った時分には電化製品はそんなに多なかったけど、その後増えたんを、電源増やさんとタコ足で繋いどった。それと古い家でネズミがいっぱいおって、コードをかじったんが原因。道狭いから、消防車が入れんで往生したわ。火い出たんが1軒でも、水かぶるから建て替えるわな。賃貸やから、出てってもらうのは簡単やろ。 p98

 

この部分を読んで、自分が小学生のころにクラスメイトの家が火事になったことがブワァっと思い出された。たしか彼の家も文化住宅であったから、ネズミかどうかは分からないが、これと似たように漏電などが原因であったのかもしれない(ちなみに誰も火災には巻き込まれず、みんな無事でした)。

 

文化住宅に加えて、腰巻ビルというのも初めて知った。

 

dailyportalz.jp

 

腰巻きビルは、歴史的建造物を残しつつも床面積を稼ぐためにその上に高層ビルを建てるといったもので、大阪や神戸にもいくつも存在する。それにも関わらず、今までわたしはそれらをろくに認識もせず素通りしてきたことをこの本によって知る。これまでなんぼでも横を通ってきたのに・・・。さらには腰巻ビルには歴史的建造物とその上に乗っかる高層ビルという組み合わせの歪さからアンチ派の人も一定数いるようで、インターネットを調べてみれば神戸地裁なんかは特にボロクソに言われている。

 

takahshi.net

 

反対派の人たちからすれば、歴史的な建築物を残す方法が雑に思えるのだろう。とはいえ、なくさずにそのまま保存しようとするのも難しいから仕方ないとも思える。そして再び、神戸地裁の近くを何度も通ったことがあるにも関わらず、これまで本当に何も思わずに素通りしていた自分の感度の低さを思い知る。モダンな建造物の上にガラス張りの建物が乗ってるなあとか、変わってるなあとか、そんなこと一度も思いませんでした。夕方の地方放送局のニュースでたまに見るところだなぐらいのことしか思っていませんでした。これからはわたしも腰巻ビルに向き合っていく所存。

 

他にも読んでいると、町の建物や道路の様相の変わり目には戦争や地震などの災害がきっかけとして存在していることにも気付かされる。散歩をしているときに広い道に出ると爽快な気分になったりもするが、広い道路が通っているということは、それまでそこにあったはずのものが、何かが原因でなくなったことを意味している。

 

 広い道をみて「なぜこんな道を通せたんだろう?」という疑問を抱くのはマニアックだとお思いでしょう。ですがこれは大事なリテラシーなのです。日本では戦争と戦災があったことで、道路建設のための立ち退き問題には気づきにくくなっていますが、戦災を受けていないアメリカでは、戦後の郊外化の時代に、スラムと見なされた貧困近隣地区が高速道路を通すため破壊され、住民は立ち退かされています。都市は誰のために、誰の犠牲のもとにできあがっているのかということを、広い道路は時に教えてくれるのです。 p141

 

「人々が心地よく感じる環境」というタイトルの項も面白くて、神戸の住吉川について書かれている部分を読みながら、良さげな川やなあなんてことを思ったのだが、そう思えば知らない間に川に心惹かれるようになっている自分がいる。というのも、コロナ禍になり暇ができてからというもの、頻繁に近所の河川敷を散歩するようになった。そうすると、自分の中で近所の川が自分の川として育ってきて、散歩中に別の川に出くわしたりすると、自然と近所の川を比較対象として、この川は大きい/小さい、歩きやすい/歩きにくい、きれい/汚いなどと判定してしまっている。そんな風に、気づけば自分なりに川の良し悪しを決める基準として、近所の川が心の片隅に居座っている・・・。平方イコルスンの漫画「スペシャル」の伊賀が煙突が好きなのとか、「駄目な石」で橋をはしごしていた女子高生とかも、始まりはこういう風だったのかもしれない。

 

www.gissha.com

 

Mr.Childrenの名曲「名もなき詩」の歌詞

 

愛はきっと奪うでも与えるでもなくて
気が付けばそこにある物

 

がなぜか脳裏に浮かぶ・・・。

 


www.youtube.com

 

一番のサビもちゃんと歌って欲しい。まあそんなことは置いといて、とはいえ自分の川、自分の煙突、自分の橋といった具合に、まず自分の中で基準をひとつ決めて育て始めれば、今まで何とも思っていなかったものにも興味が湧くようになりそうとも思う。手始めに自分の煙突と橋を育てるか・・・。

積み重なって立ち上がってくるもの(藤原無雨「水と礫」)

寝る前に布団の中でスマホをいじっていると藤原無雨の小説「水と礫」の試し読みに行きついて、それが面白かったから買ってしまおうかと一日悶々と悩んだ結果、買った。

 

水と礫

水と礫

  • 作者:藤原無雨
  • 発売日: 2020/11/13
  • メディア: 単行本
 

 

試し読みはこちら

web.kawade.co.jp

 

試し読みでは、都会での仕事を訳あってやめた主人公が旅に出ようとするところで終わるのだが、実際に買ってその先を読み進めていくと、主人公の旅の話が一度完結すると、そこから最初に戻って新たな視点で再び話が始まり、少しだけ先ほど終わった続きが明らかになる。それが終わると三度話が戻っては視点が変わって進んでいくといったふうに、小説がループ構造をとっていることが分かってくる。そんなふうにループを繰り返しながら、少しずつ話の続きが明らかになり、二歩下がっては三歩進むように話全体が前に進んでいく。だから読者としては、一度知った話をもう一度読む時間と初めての話を読む時間のふたつを過ごすことになる。一度知った話を読んでいる間は、それは読者であるこちら側にとっては過去の出来事になってしまっているから書かれている出来事との間に距離を感じるのだが、そこからまだ聞かされていない話に移っていくと、自然と登場人物たちと同じ高さまで自分の目線が下がっていくのを感じ、少し不思議な感覚を覚える。そして、前の一文で「まだ聞かされていない話」なんてふうに書いたが、自分はこの小説を読んでいると、次第に話を読んでいるというよりは、聞かされているような気分になっていった(実際、途中で人称が語り部的なものになる瞬間がある)。ある話が初めて出てきたとき、つまりはある話を一度目に読んだときには、普通の小説を読んだときと同じ"読んだ"といった感覚を抱くのに、話がループしてその話を二度目に読んだときにはそれが"聞いた"といった感覚に変わっている。だから「一度知った話をもう一度読む時間」とか「一度知った話を読んでいる間は」と書いた部分も本当は「一度"聞いた"話をもう一度読む時間」や「一度"聞いた"話を読んでいる間は」と書いた方が自分の感覚としては正確な気がする。そんな感覚の変化が読み進めるたびに積み重なっていくことで、最終的には物語全体からなにか歴史のようなものが感じられるようになってくる(自分の中ではなぜか星新一のショートショートを読んでるときと似た感じを覚えた)。

 

「水と礫」を読んでから少し時間が経ったある日、散歩をしながらFoZZtoneの「Rainbow man」を聴いていると、ふと「水と礫」のことを思い出した。

 


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どちらにも「砂漠」や「水」がキーワードとして出てきて、単純に作品の世界観が似ているから、この二つが自分の中で繋がったのだろう。思い出した瞬間は『そういえば「水と礫」って「Rainbow man」っぽいな』といった具合に、「水と礫」を読むよりもずっと前から知っていた「Rainbow man」の方を上流として捉えていだが、「Rainbow man」のほうもやっぱり「水と礫」の影響を受けていて、このときはいつも以上に歌詞の

 

バックパッカーが水をオーダーする

俺はじっとそれを見つめる
何て美味そうに飲むのだろう

羨むのは傲慢だろう

 

の部分が耳についたのだった。「水と礫」では、体の中に占める水の割合の話や、砂漠を抜け出して助けられたときに水を飲む描写などがあって、そこが印象に残っていて「Rainbow man」のこの部分がいつも以上に引っかかったのだろう。そんなことを考えていると他にも水を飲むことについて歌っていた曲があったなと思い、しばらく記憶を辿っているとそれがLantern Paradeの「甲州街道はもう夏なのさ」であることを思い出した。

 


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潤すために乾かしたかのような僕の喉が

 

のところ。のどが渇いているときは不快だが、その渇きを癒す瞬間の解放感を味わうと、この渇きがなければこんな解放感を味わうことはできなかったなんて、そんなふうに思ってしまう。こうして「水」や「渇き」といった言葉を共通項として、いくつかの作品が数珠繋ぎになったけれど、それぞれの作品から受ける印象はそれぞれによって違う。「水と礫」からは先ほども書いたように小説から感じる距離感から大分カラッとした印象を受けるが、反対に「甲州街道はもう夏なのさ」からはかなりジメっとした印象を受ける。「Rainbow man」はこの二つの中間ぐらいの感じで、作品から感じとられる湿度がどれも違う。

 

こんなことを考えていると、さらに「ときめき生活日記」というブログの水に関する記述のある記事を思い出した。

 

melrn.hatenablog.com

 

わたしはこの記事の文章が好きで、特に

 

 麦茶が注がれたガラスのコップに水滴がついて、指でなぞるとテーブルの上に小さな水たまりができる。厨房に設置されたクーラーの冷気は座敷まで届かない。背中に汗が滲んでくる。

 

といった部分の描写を読むと、たまらないほどその場の空気感が喚起されたような気分になる。この文章には全体を通して周囲の人物や風景の様子が書かれているだけで、それを見ている本人の心情などはほとんど書かれていないのに、いや、そんなふうに感情が規定されていなくて、こちらが入り込む余地があるからこそなのかもしれないが、その場の明るさや湿度などが読むだけでものすごく伝わってきて、半端じゃないほど夏の空気感が感じられる。「水と礫」の選考委員を務めた磯崎憲一郎が「小説は具体性の積み重ね」と、どこかで言っていたことをなんとなく思い出す。そして、この文章はやたらとジメジメしているように思える。

 

「水と礫」の終盤ではひとりの人間の中には、その親や兄妹、祖父や祖母などの一族みんなの見てきた風景が詰まっていると書かれていたが、他人の文章を読んでいてもその人が見てきた風景が詰まっているな、なんてことを思う。それは当たり前のことかもしれないが、実際に自分が自分の目で見る風景は、その中でも自分の意識に引っかかる部分しか見ていないし見れないわけで、同じ風景を見ていたとしても、人によってそこから得る情報は異なるわけである。そんな自分とは違う他人の見ている風景を小説やら映画やら音楽やら短歌やらブログやらは感じさせてくれるから、それらに触れるたびに自分の中に今までなかった新たな視点が芽生える。そうして印象に残ったものは、自分の中で浮き沈みしながら少しずつ時間をかけて馴染んでいく。いつしか自分にも、夏の定食屋で冷たい麦茶の注がれたコップの表面に、触れていた指の体温が伝わって、そうして溜まった水滴が垂れてテーブルの上に小さな水たまりを作っている瞬間の訪れに気づくかもしれない。それに気づいたとき、自分の世界が少し広がった感覚を覚える、そんなことを想像する。自分は膨大な自分以外の人やものが積み重なってできていると改めて思う。

 

なんやかんや書いたけど、それぞれの作品から感じる湿度の違いは、単純に砂漠か日本の夏かって違いなだけな気もする。多分そうやな。

学んだことを活かしたいけれどその機会が思いつかない

この前、個人的な興味からプルースト現象について調べた。

 

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自分はマスクを外したときに感じられる匂いによって胸がグッとくる体験から、これはどういう仕組みでこんなことになるのだろうと気になり調べたことでプルースト現象にたどり着いたのだが、どうやら世間では別のルートによってプルースト現象が注目されていたようで、というのもそれは瑛人の「香水」によってであった。プルースト現象に関する論文などを探していると、山本晃輔という方の名を非常に多く目にしたもんだから、この方を調べれば色々出てくるんじゃないかと名前を検索したところ、下のような記事がヒットした。

 

www.asahi.com

 

朝日新聞デジタルの有料会員ではないから記事全文を見てはいないが、見出しから「香水」って確かに匂いで何かしらを思い出す歌っちゃ歌やなと思う。ただ、そう思いはしたがこの曲をちゃんと全部聴いたことはなくて、断片的に知っているサビの部分のイメージからだけで言っているのだけれど。

 

自分の家にはプリンターがないから、論文は全てパソコンで読んだのだが、やっぱり印刷して紙で読むのが一番読みやすい気がする。パソコンのPDFだと線を引いたりメモを書いたりできないし、『あれ?これなんやったっけ?』と少し前に戻りたくなったときにページ全体表示にすると、倍率的に文字が小さくなって読みにくく戻りたい箇所の位置がサッと把握できない。とは言ったものの、論文をそんなに頻繁に読むわけではないし、プリンターを買ったところでほとんど使いそうにもない。あったらなあといった不足を感じるけれど、いざ手に入れてみるとそのありがたみを感じないような気もしていて、それはプリンターだけじゃなく他の色んなものに対してもそうなる気がしては買わないといった態度をとっている。

 

自分以外にも山本晃輔先生の論文を読んだ人はいるんだろうか、もしいたらその人はどんなことを感じたんだろうかなんてことが気になってTwitterで調べてみたところ、それとは別に山本晃輔先生の授業が楽しみと言っている大学生のツイートを見つけた。

 

 

 

結構昔のツイートではあるが、自分が大学生のころには受けるのが楽しみな授業なんてほとんどなかったから、楽しみと思える授業があったこの人たちが素直に羨ましい。でもあのころの自分はとりあえず楽に単位を取ることばかりを考えていて、そんなに知らないことを知りたいという知的好奇心もなかったから、自分が大学生のころに山本晃輔先生の授業があったとしても、楽しみにはしていなかったかもしれない。それと同じようなことを、東大の教養学部のサブテキストとして様々な教官によって書かれた「知の技法」という本を読んでいるときにも思った。

 

知の技法

知の技法

  • 発売日: 2019/03/08
  • メディア: Kindle版
 

 

いつかこのブログに書いたことがあったかもしれないが、このまま勉強をしなければこれ以上賢くなることなく歳を重ねることになるのかと思うときがたまにある。そう思うたびに、何か勉強をしなければと本を読んだりするのだが、そうすると今度は『こうして得た(つもりになっている)知識はいつ使うのか? 勉強をしてもそれを使う場面がなければ何の意味があるのか?』みたいなことが頭に浮かんでしまう。大学を卒業してしまうとそういった知識を使う実践の場面はもう自分で設定するしかなくて、やっぱり手に入れたもの(知識)で遊びたいと思うから、何か面白いことできひんかなあと悶々としながらも全く浮かばない日々を過ごしている。

 

最近、スチュアート・ダイベックの「シカゴ育ち」を読んだ。

 

 

なんというか、土地の固有名詞が出てくるような海外小説は、その土地の風景描写が想像できそうでできない(中途半端に日本的な風景が混じったものが頭をよぎって完全に違うなとなってしまう)から、いまいち小説の世界に入り込めないところがある。っていう気になっていたのだが、じゃあ日本の小説を読んでいるときにはそんなにちゃんとその風景を想像しているのかと言われると、そういうわけでもない。じゃあこの海外小説を読んでいるときによく覚える違和感みたいなものは何によるものなのか。すんなり読めている人はどんな感じですんなり読めているのかと、分かりそうにもないことが気になる。それでもこの小説に収録されている掌編を集めた章である「夜鷹」のうちのひとつ「不眠症」は面白くて、夢遊病者がコーヒーに口をつけて夢から醒めてからの描写は身に迫る感じがあって、いいなあとうっとりしてしまった。

 

音楽はBES & ISSUGIの「BOOM BAP」をよく聴いている。

 


BES & ISSUGI - BOOM BAP (BLACK FILE exclusive MV “NEIGHBORHOOD”)

 

自分はヒップホップのカルチャーをよく知らないから、この曲に出てくる単語にも意味のよく分かっていないものが多々あるのだが、それでも言葉の意味が強く耳に入ってくる。ここでも

 

音と言葉と遊ぶ All Night Long

 

って歌詞が出てくるけれど、やっぱり遊びたいってことなんだと言いたくなる。それは旅行みたいなものとかもいいけれど、自分で学んだことや練習したことを発揮して試行錯誤するような遊びをしたい(いや、もちろん旅行もしたいんだけれど)。成長の中に未来があるというか。さらにはそれはもう自分で見つけて自分で楽しむしかねえと。響くけどマジ激ムズ。

2021年1月に読んだ本とか聴いた曲とか

1月は結構本を読んだ。

 

きことわ (新潮文庫)

きことわ (新潮文庫)

 

 

朝吹真理子の「きことわ」はとても丁寧な作品で良かった。この小説では現実と夢と過去の記憶が入り乱れながら話が進んでいくため、読んでいると自分の記憶は現実のものなのか夢のものなのか、正しいのかねじ曲げてしまっているのか、なんてことを考えてしまいそうになるのだが、ぶっちゃけそんなことはあんまりどうでもよくて、それ以上に読んでいると自分の感覚、特に触覚が刺激される感じがあって、その体験がものすごく面白かった。特に冒頭の永遠子が見ている夢の中で、貴子の目に入りそうになったまつ毛を取ってあげるシーンの描写が良すぎる。ゾクゾクする。読んでいると肌触りみたいなものがしてきて、それがとても柔らかい。「きこちゃん」、「とわちゃん」っていう二人の名前の語感もなんだか心地良くて、呼び合うときの呼気が感じられる。そんな風に感覚を優しく刺激されるような文章でもって、現実と夢と記憶の曖昧さについて書かれているから、まさに自分が眠っている間に夢を見ているときに感じる、実際には何も触れていないし聞こえてもいないのに、実感としてはあるといったあの不思議な感覚に近いものを読んでいると味わうことができる。

 

火星年代記 (ハヤカワ文庫SF)

火星年代記 (ハヤカワ文庫SF)

 

 

レイ・ブラッドベリの「火星年代記」は個別に感想を書いたのだけれど、これまた面白かった。

 

www.gissha.com

 

「確かに美しい町だね」隊長はうなずいた。

「それだけではありません。ええ、かれらの町は美しいですとも。かれらは、芸術と生活をまぜあわせるすべを心得ていました。アメリカでは、芸術と生活とは、いつも別物でしょう。芸術は、二階のいかれた息子の部屋にあるものなんです。芸術は、せいぜい、日曜日に、宗教といっしょに服用するものなんです。しかし、火星人は、芸術を、宗教を、すべてを持っていました」 p136

 

作中に出てくるこの言葉は、レイ・ブラッドベリにとっての芸術のあり方の理想なのかは分からないが、これに近いことは色んな人が言っているよなあと思う。

 

57577.hatenadiary.com

 

二階から階段を上りはじめた私が、階段の先でふたたび二階にたどり着くこと。そのとき私は「かつていた二階」と「たどり着いた二階」のふたつを同じ平面で生きはじめることになる。作品がこれら「ふたつの二階」を取り結ぶ階段でないなら、どれほど魅力的な行き先が示されたにせよ、私は結局どこへも抜け出せず、行き止まりで階段を引き返してくるしかない。

 

(我妻俊樹 56577 Bad Request 「たどり着いた二階」)

 

小説の自由 (中公文庫)

小説の自由 (中公文庫)

  • 作者:保坂和志
  • 発売日: 2012/12/19
  • メディア: Kindle版
 

 

小説の想像力とは、犯罪者の内面で起こったことを逐一トレースすることではなく、現実から逃避したり息抜きしたりするための空想や妄想でもなく、日常と地続きの思考からは絶対に理解できない断絶や飛躍を持った想像力のことで、それがなければ文学なしに生きる人生が相対化されることはない。

 

(保坂和志 「小説の自由」 p298)

 

この二つも「火星年代記」の引用した部分と、全く同じではないにしてもそう遠くはないことを言っているような気がする。どんなに面白い作品であっても、その作品が現実に繋がっておらず独立した世界を立ち上げているのであれば、それは現実逃避以外のなにものでもなく、その世界から帰ってきたわたしたちはただただ今まで通りの現実に直面して、その作品世界との対比から読む前よりも息苦しさを感じてしまうことになる。あるべき芸術の力とは、日常の思考からは離れながらも(二階から階段を上がりながらも)、その道中で身につけた新たな価値観やものの見方が現実世界に繋がっている(新たな二階へとたどり着く)必要がある。その作品に触れたおかげで、帰ってきた現実は、同じ現実でありながらも今までとは違う現実になっているといったような。とはいえ難しいよな。

 

はじめての沖縄 (よりみちパン! セ)

はじめての沖縄 (よりみちパン! セ)

  • 作者:岸政彦
  • 発売日: 2018/05/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

岸政彦の「はじめての沖縄」は、沖縄のガイドブックなどではなくて、沖縄の歴史を辿りながら、その構造に迫っていくといった本。沖縄のタクシーの運転手に関して書かれている部分を読んで、自分の中学時代、修学旅行で沖縄のタクシーに乗ったときに運転手のおじちゃんからスニッカーズをもらったことを思い出した。おそらくそのおじちゃんはダッシュボードの中にスニッカーズを常備しており、ただでさえ暑い沖縄の、その車の中はもっと暑いだろうから、手渡されたスニッカーズの表面はチョコがドロドロに溶けていて、中はネチョネチョでものすごいことになってた。おじちゃんは溶けていることなんて全く気にしていない様子であったが、わたしは食べている間に溶けてカップの底に液状に溜まったアイスにすらちょっと嫌な気分になるタイプであり、『あんまチョコを車の中に入れとかへんやろ…』と心の中で思わずにはいられず、そのスニッカーズも結局開けたけれど食べなかった気がする。まあそんな思い出話は置いておいて、

 

(中略)私たちは「単純に正しくなれない」のだ、という事実には、沖縄を考えて、それについて語るうえで、なんども立ち戻ったほうがよい。 p242

 

といった考えは肝に銘じておくべきであるし、これは沖縄のことだけでなく、あらゆる物事について考える際に重要なことのように思える。自分の立場とそれに対峙する立場のそのどちらもが、単純にどちらかが正しいとは言い切れない。そんなことは頭で分かっておきながら、いざそうするのはこれまた難しいけれども。

 

ネットの記事ではtofubeatsとミツメの川辺素の激長対談が面白かった。

 

fnmnl.tv

 

読んでいて音楽的なことは全く分からないのだけれど、川辺素の歌詞に対する考え方が特に面白かった。

 

川辺 - (中略)コラージュ的な、何の変哲も無いものが同じ空間に合わさると、急に意味分からなくなるようなことが好きだったりするので。出来るだけプレーンな言葉を使いつつも。

 

tofubeats - プレーンな言葉を使うことは意識してるんですね。

 

川辺 - そうですね。あんまり言葉一つで意味を持ちすぎてることが嫌で。だから歌詞の中に「渋谷」とか入れたくないんですよ。

 

tofubeats - あー、それは確かに分からないでもないですね。

 

川辺 - いつ読んでも大丈夫っていうのは極論を言うと無理なんですけど。どうしてもこの時代に生きてる感覚になるので。でも出来るだけ、100年後とか200年後に聴いてもなんとなく分かるぐらいの感覚が良いなって。

 

tofubeats - タイムレスな感じって、超意識してやってるんですね。それはめっちゃ面白いです。

 

わたしはどちらかと言うと、小沢健二とかandymoriみたいな、歌詞にゴリゴリの固有名詞が出てくる人たちが結構好きで、固有名詞が入っているとその時代感、まさに今を歌っている感じというか、自分の暮らしや人生に近いところを歌っている感じがして感情移入しやすい。そんな曲の例として、フッと頭に浮かんだスピッツの「Na・de・Na・deボーイ」でも「明大前で乗り換えて街に出たよ」という歌詞の部分で一気に曲の世界に入り込める感がある(明大前で乗り換えたことはないけれど)。でもそうすると、tofubeatsや川辺が言うように、言葉の意味が限定されてタイムレスな感じが出ないのも分かる。オザケンの「LIFE」とかは、色褪せない名盤だと思うが、時代を感じはするし(この二つは厳密には意味的に両立するのか...)。ただ、川辺の言うプレーンな歌詞にすると心情の吐露が難しいっていうのも、聴いている側としてはめちゃくちゃ分かる。言葉がシンプルな分、具体的なイメージがつかみにくいし、ブルースみたいなものも感じにくい気がする。でもミツメみたいな、世界と一定の距離を保っているような歌詞の曲は曲で、自分の気分がその歌詞の距離感とちょうど合うときがあって、そのときに聴くとなんとも言えないぐらい胸にジーンと来る。

 


ミツメ - 天気予報 @ mitsume plays "A Long Day"

 

ミツメの「天気予報」とか、めちゃくちゃハマる日があって、その日に聴くとカッコ良すぎて何回もリピートしてしまう。淡々と進んでいくこの感じ。ベースが特に良い。

 

音楽では最近、YUKIの「WAGON」をやたらと聴いてしまいます。

 

 

特にライブ版が良くて、joyのツアーDVDに収録されている「WAGON」を見まくっている。

 

ユキライブ YUKI TOUR “joy” 2005年5月20日 日本武道館 [DVD]

ユキライブ YUKI TOUR “joy” 2005年5月20日 日本武道館 [DVD]

  • アーティスト:YUKI
  • 発売日: 2006/01/25
  • メディア: DVD
 

 

ライブ版の「WAGON」は、歌にも演奏にもパワーがこもっていて、聴くと問答無用にエネルギーをぶち込まれる感じがして最高である。YUKIすごい。ちなみにこのライブDVD、途中で『まだ歌わんの?』ってぐらい長めのMCが入っていて、そこで2005年ってインリン・オブ・ジョイトイがまだまだМ字開脚してたころかと知ることができます。ついでにFM802で土曜日に放送されていたチャートトップ20に「joy」が一生ランクインしていたことも思い出す。そんな感じで1月が終わりそう。

どこに行ってもついて来る歴史(レイ・ブラッドベリ「火星年代記」)

最近は外に出るのも憚られるから、外出したとしても家と会社の間、もしくは家とスーパーの間を往復するぐらいしかない。そうすると、もう飽きるほどに通ったこれらの道中に、なにか面白いものはないかと探すようになった。そんな風にして日々を過ごしていると、冬になると河川敷には鴨がたくさん集まるようになることや、流れが一段低くなる川の段差の直前の部分では、水面がゼリーみたいにツルツルプルプルしていること、町のなんともないところのなんの意味があるのか分からない工事が始まっていることなんかに気づいたりする。かといって、そんなことに気づいたところで特になにか面白いわけではなくて、『ああ、そうなんや』ぐらいの感情しか湧いてこない。自分はこのブログでたまに、近所の河川敷で起きたことや見かけた風景について書いたりしているが、特にこの河川敷が好きというわけでもなく、歩いていて特段楽しいといったこともない。ただ、歩いていると、そう言えばこんなことがあったなあと、なんとなく覚えている瞬間がその河川敷にはある、ただそれぐらいの感じなのである。とは言いながらも、それまで何も思っていなかった地元に対して就職を機に離れてから急に愛着みたいなものを感じるようになったことを考えると、今住んでいる場所に関してもいつか離れるとなったときに、近所の河川敷を含めた町全体をいいところだったなあなんて思うようになるのかもしれない。そのときになってそんな風に思うのは、うまく言葉にはできないが、なんだか少しズルい気がするのだけれど、それはそれでそういうものなのかもしれないとも思う。

 
なんてことを考えながらレイ・ブラッドベリの「火星年代記」を読んでいると、仮にそんなときが実際に訪れるのかは分からないが、もしも地球を離れるとなったときに、果たして自分は地球に対しても、地元を離れたときと同じような寂しさを感じるようになるのだろうかなんて疑問が湧いてくる。

 

火星年代記 (ハヤカワ文庫SF)

火星年代記 (ハヤカワ文庫SF)

 

 

もしも地球が恋しくなって、そのときに思い浮かべるであろう母星の風景は、自然と日本の風景になるのだろうし、そうして思い浮かべる母国の風景は、自分が実際に住んだり行ったりしたところの風景になるのだろう。わたし自身の人間のスケールの問題なのかもしれないが、どこまで行ってもわたしは、自分の身近な範囲までしか自分の世界として捉えられないような気がしている。

 

「火星年代記」は火星を舞台にしてはいるけれど、あくまで焦点は人間に当てられていて、地球人が地球と同じように火星を発展させようとする過程における、地球人と火星人、もしくは火星での地球人同士の関係が描かれている。ブラッドベリ自身も、この作品をサイエンスフィクションとして捉えるのは間違っていると思うとの旨を冒頭の章「火星のどこかにグリーン・タウン」で記述しており、この章名からも窺えるように、ブラッドベリは火星における市井の人々の営みを描こうとしている。それは言わば、火星の世界ではなく、火星を舞台にしたレイ・ブラッドベリの世界。

 

収録されている短編の中で、「月は今でも明るいが」ももちろん素晴らしいのだが、わたしは特に、火星に来た神父たちが火星人たちの原罪を見つけ出し、そして救済しようとする「火の玉」が好きだ。神父たちの奮闘する様が滑稽でもあり(火星に教会を造り鐘を設置しようとするところなんて特に)、たとえ自分たちにとっては意味を成さなくとも、自分たち以外の人々にとっては意味のある世界もまた我々は信じなければならないといった神父の演説は教訓にもなり、はたまた日本人であるわたしには最後のオチがまだ地球の重力を振り切れてない皮肉のようにも思えて、なんとも色んな魅力の詰まった話のように思える。

 

この小説で描かれている多くの地球人は、たとえ火星に行ったとしても地球人でしかない。地球人の地球人らしさの大部分は今現在置かれている環境ではなく、これまで積み重ねられてきた地球それ自体の歴史によって支えられている。そしてそれは、アメリカ人らしさはアメリカの歴史に、日本人らしさは日本の歴史に、そして個人の自分らしさは個人の歴史にと、フォーカスが小さくなっていったとしても同じようなことが言えるように思える。最後の章、「百万年ピクニック(これまた、タイトルがいい)」では、地球を逃れてきた一家の主が火星で再生しようとするにあたって、地球に関する様々な書類を燃やして、これまでの地球での生き方を清算する。その場面を読むと、歴史(過去)が人間を規定する、縛り付ける力がいかに強いかを思い知らされる。と、ここを読んでから再び「夜の邂逅」に戻ると、火星人と地球人の言い合いを、一周目に読んだときとはまた違った不思議な味わいを伴って読むことができる。*1

 

 火星人は目をとじ、またひらいた。「とすると、結論は一つです。これは何か、時間と関係のあることなのです。そう。あなたは過去の幻影なのだ!」

「いや、あなたが過去の人ですよ」と、もう余裕をもって地球人は言った。

「ずいぶん自信があるのですね。だれが過去の人間であり、だれが未来の人間であると、どうやって証明できます。今年は何年ですか」

「二〇三三年です!」

「それがわたしには・・・・・なんの意味があります?」

 トマスは考え、肩をすくめた。「ないでしょうな」

「今年は四四六二八五三SECだと、あなたに言ってもなんの意味もないのと、おなじことです。無ですよ、無以上ですよ! 」 p177

 

「火星年代記」はそれぞれの短編が互いに反響しあっていて、読み返すたびに面白い。

*1:この場面、火星人サイドから「今年は何年ですか」と聞いてきて、それに答えたら「なんの意味があります?」って、そりゃあそうやねんけど、なんか腹立つなぁってなります。この後も、最初はそっちから先に「あなたは過去の幻影なのだ!」とビックリマークを付けてまで言ってきたのに、最終的に「わたしたちが生きてさえいれば、だれが過去であろうと未来であろうと、そんなことがなんでしょう。」なんて言ってくるもんやから、もう戸惑ってしまいます。ほんで、それを言われた地球人のトマスはトマスで手を差し出して「また逢えるでしょうか」って、どこでそんな友情芽生えてんって感じですけど、なんとなく芽生えてる感もあるのが不思議な場面でございます。この場面、好きです。

続・蜜柑の輝きは何によるもの?(平岡敏夫「ある文学史家の戦中と戦後」)

以前に読んだ荒川洋治の「読むので思う」の中で引用されていた、平岡敏夫の「ある文学史家の戦中と戦後」を読んだ。

 

 

「読むので思う」では、平岡敏夫の「ある文学史家の戦中と戦後」の中における、アメリカの学生は芥川龍之介の「蜜柑」を読んで、作中における蜜柑の輝きは神の御加護であると解釈するといった部分が引用されており、わたしはその部分を読んで『そんななんでも神様に結び付ける?』なんて風に思ったのであった。

 

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これはアメリカの学生がキリスト教を信仰しており、そこからわりと無理やりに神様を連想したんじゃないかなんて邪推をしたのだが、実際に引用されている文献を読まずにそんな意見を書くのはいかがなもんかというところで、「ある文学史家の戦中と戦後」を図書館で探し、実際に該当する部分を読んでみた。そうすると、まあなんとも自分の考えの浅はかさを思い知った次第でございます。そんな事の顛末を下に記そうと思います。

 

アメリカの学生が「蜜柑」をどのように読んだのかは、「日本文学とアメリカ」という章に書かれている。アメリカの学生は作中の登場人物である小娘が弟たちに向かって蜜柑を投げる場面を読んで、

 

蜜柑は神の助力で自然の中に生長する。田舎娘がこの果実を投げたとき、それは神の加護によるものだったのだ。 p.203

 

といった解釈をしており、このような解釈は英訳の問題も絡んできていると筆者は言う。該当の場面は原文では

 

窓から半身を乗り出していた例の娘が、あの霜焼けの手をつとのばして、勢よく左右に振ったと思うと、忽ち心を躍らすばかり暖な日の色に染まっている蜜柑が凡そ五つ六つ、汽車を見送った子供たちの上へばらばらと空から降って来た。

 

と書かれており、この「空から」の部分が英訳では「from the heavenly skies」とされており、この"heavenly"によって神の姿が連想されると考えられる。そして、「空から」の部分に日本人の訳者が"heavenly"を当てはめたことを受けて、もう一度原文を読み直してみると、そもそもなぜ芥川本人がわざわざ「空から」と書いたのかといった疑問が生じてくる。小娘が投げた蜜柑は、当たり前のように小娘が乗っていた汽車から降ってきたはずである。にも関わらず「空から」と描写されているのは、そこで何かを表現したくてあえて書かれたのではないか。その考えに基づき、芥川の作品に「奉教人の死」や「西方の人」などといった切支丹(きりしたん)物と呼ばれるものが多いこと、芥川が自殺した際にすぐ近くに聖書が置かれていたことを踏まえると、この場面の描写に神の存在を感じとる読み方は全く的外れなんてものではなく、なんなら本当に作者の意図を理解したものではないかと思えてくる。

 

この「空から」の部分に違和感を覚え英訳時に"heavenly"を付け加えた翻訳者の凄さに、わたしはただただ感服いたしました。なんて丁寧な読み、そしてプロの仕事。一言一句を丁寧に読んでいない自分自身の読書に対する姿勢を反省するとともに、果たして意識したところで自分はそんな風に読むことができるのだろうかとも思う。そして、芥川の「蜜柑」に隠れているキリスト教的思想に光を当てたアメリカの学生たちの読みもすごい。実際、当時の日本人の中でアメリカの学生のような指摘をした人はいなかったようで、これはアメリカの学生によってはじめて見出された読みであるそうだ。よく言われることではあるが、人間はそれぞれ違う人生を通してそれぞれに異なる価値観を形成しているから、同じ作品を読んでも人間の数だけ違う解釈があるといったことを改めて認識した。だからみんなネットにもっと感想を書いてほしいなんて勝手なことも同時に思う。そして、芥川龍之介といった人物の背景や、その他作品から新しい読みの妥当性を検証する手続きも尊い。ショウペンハウエルは「読書について」において、作品に接しながらも、作品のきっかけとなった出来事や、作者自身に対して興味をもつことは滑稽なことであると言っており、確かに作品は作者と切り離して独立して読まれるべきかもしれない。しかし、作者について知らなければたどり着けない読みも実際にはあり、その作品を深く理解しようとするために抱くこのような興味は決して滑稽なものではないように思われる。

 

 

色んな本を読むことで価値観が広くなるって、それは本当にそうだとは思うのだけれど、どの本を読むかといった選択は自分自身によるから、結局自分の読みたいものばかりを読んでしまうと同じようなものばかりに触れることになるし、自分の考えも凝り固まっていく。ってことを考えて、「読書によって心が広くなるより、狭くなる人の方が多い」といった北村太郎の言葉を引用した荒川洋治の「読むので思う」に再び戻る・・・。自分の読んだ作品を他人がどう思っているかをネットで検索するときに、共感できる感想ばかりを探してしまうけれど、そんな時流に逆らって、積極的に自分とは違う読み方をした人の感想も読んでいこうと思う。

 

蜜柑の輝きは何によるもの?(荒川洋治「読むので思う」)

荒川洋治のエッセイ「読むので思う」を読んでいると、アメリカの学生は芥川龍之介の「蜜柑」における汽車の窓から蜜柑が投げられるシーンを読んで、その場面には神様が関わっていると解釈するとの記述があった(正確には、荒川洋治が平岡敏夫の「ある文学史家の戦中と戦後 ―戦後文学・隅田川・上州―」を読んで引用した部分の記述)。

 

www.aozora.gr.jp

 

読むので思う

読むので思う

  • 作者:荒川 洋治
  • 発売日: 2008/11/01
  • メディア: 単行本
 

 

「蜜柑は神の助力で自然の中に生長する。田舎娘が、この果実を投げたとき、それは神の加護によるものだったのだ。」

 

「神は蜜柑を輝かしいものにし、三人の男の子のために記憶すべき刹那を造ろうとしたのだ。」


自分が「蜜柑」のその場面を読んだときには、胸のすくような気持ちになることはあれど、それが神様によってもたらされたものとは考えなかった。アメリカの学生が蜜柑の輝きは神様によってもたらされたと考えるのは、キリスト教を信仰しているからであろうか。わたしはキリスト教には全く明るくないし、高校生のころに学校の校門近くで配られていたどこかの予備校の宣伝と思って勘違いして受け取った聖書もろくに読まないまま大人になってしまった。だからかは分からないが、神様のおかげだと思うことなんて生きていてそうそうない。何か良いことがあっても、神様のおかげ!と言うよりは運が良かった!と思うものだ。思えば「普段の行いが良いから良いことが起きた」といった物言いも、真面目な自分を見ていてくれた神様のおかげというよりは、神様がご褒美をくれるほど真面目にしていた自分のおかげといった意味合いが強いのかもしれない。


と、ここまで書いて思ったのだが、そもそもわたしとアメリカの学生たちでは、感情移入している立場が違う。アメリカの学生たちは小娘とその弟たちの立場に立って、彼ら彼女たちの純粋さに対して神様の御加護が与えられたんだといったことに感動している。特に先に引用した後者の感想なんて、弟たちのために神様が蜜柑を輝かせたといった解釈だ。しかし、わたしはあくまでその様子を見ている主人公の立場に立って読んでおり、ここで鮮やかな蜜柑の色が目に焼き付いて離れなくなったのは、小娘でもなくその弟たちでもない、車両の中で人生の退屈を覚えていた第三者である主人公の立場だからこそであり、小娘の弟たちの目にも同じように蜜柑の色が焼き付いて離れなくなったのかは分からないと思う。蜜柑が輝いたのは誰かのためなどではなく、あくまでまず観察者として人生に退屈を覚えていた"自分"があって、そこから小娘とその弟たちの純粋さを瞬時に感じ取ったから輝いて見えた。

 

そもそもこの、何かしらの瞬間において神の存在を感じるって一体どんな感じなのだろうか。アメリカのスポーツ選手などは、自身のスーパープレイの後に胸で十字を切って天に手を掲げたりしているが、これは『わたしの素晴らしいプレイは神様、あなたのおかげです。ありがとうございます』といった意味合いなのだろうよ。そのときって、どれくらい具体的に神様のイメージを思い浮かべているんだろうか。そう思うと、逆にわたしが何かあって『どうか上手くいってくれ・・・!』と思っているときは、誰に対して祈っている?

 

井上宏生の「神さまと神社」では、日本では神様は自然崇拝により誕生し、日々の生活の中に溶け込んでいると書かれている。

 

 

日本では八百万の神と言うように、神様はあらゆるものに宿っており(まあ別に宿っていると意識することもないが)、そのあまりの自然さゆえに、日々のいただきますの際にも新年の初詣の際にも神様を思い浮かべることはそれほどない。さらに、日本の神道では「敬神崇祖」といった神々を敬いながら祖先に感謝するとの考えが重んじられており、その考えが日本人に自然と身についているとするならば、日本人にとって神様は人間とは全く異なった存在というわけではなく、なにか自分のルーツのような、つながりをもった存在のように感じられるのかもしれない。アメリカ人には日本人のこの感覚が分かるのだろうか。とか思っていたら、このブログを見つけた。

 

takairap.exblog.jp

 

なるほどね。日本人が思い浮かべる神様は、アメリカ人にとってはSpirit、精霊なんだね。ただ、そうなると今度はこっちがアメリカ人にとっての唯一神"God"の姿を全く想像できないんだけれども。やっぱりわたしは蜜柑を投げた後の

 

小娘は何時かもう私の前の席に返って、相不変皸だらけの頬を萌黄色の毛糸の襟巻に埋めながら、大きな風呂敷包みを抱えた手に、しっかりと三等切符を握っている。

 

といった、小娘の何事もなかったような平然とした姿にも感動するわけで。そこには神様の御加護とかではなく、自分の姉が奉公先に赴こうとしているのであれば、それを見送りに行くのが弟たちにとっては当たり前のことだし、そんな弟たちをねぎらって列車から蜜柑を放り投げるのも当たり前のこと、そんな風にして生きている、言うなれば彼ら彼女たちの魂の純潔さにわたしは感動している。そんな魂の純潔さをも神様の御加護によるものだとアメリカ人は考えるのかもしれないが。わたしはなにも神様の存在を否定したいわけではない。神様の御加護と考えるからこそ感じられる感覚もあるのだろうことは容易に想像ができる。ただ、それでもやっぱりその感覚はわたしには分かりにくいところがある。アメリカ人のように、人間になにかをもたらしてくれる神様ような存在を思い浮かべることができないからこそ、わたしは彼ら以上に人間自身にこだわっているのかもしれない。彼らの目には、わたしのこんな気持ちは傲慢な考えに映るのだろうか。

 

そしてもうひとつ、「蜜柑」の主人公が心打たれた理由に、普段はなんとも思わないし、なにを考えているのかも分からない自分以外の人間が確かに生きていると感じられる瞬間、そんな瞬間に出くわしたからというのもあると思う。人間は自分以外の人間について想像を巡らせることはできるけれど、その人の本当の中身を知ることはできない。だから極端なことを言えば、わたしはこの世にはめちゃくちゃ優しい人もいれば、その逆でめちゃくちゃ悪い人もいるのだろうことを頭では想像できるんだけれど、普段、本当にそんな実感をもって生きているわけでないから、本当はめちゃくちゃ優しい人なんていない気がしているし、めちゃくちゃ悪い人だっていないんじゃないかと思っている。いや、彼らの存在を"別にいちいち信じていない"といったほうがより正確だろうか。この主人公は憂鬱な気持ちで電車に乗っており、窓をしきりに開けようとする小娘のことをはじめは鬱陶しがっており、なんなら少し見下していた。そんな、自分のことで頭がいっぱいなときに(人間は基本的に普段は自分のこと以外は考えられないものだとは思うが)小娘とその弟たちのやりとりを見て、『ああ、素晴らしい人っているんだ』みたいな、普段は希薄な自分以外の人間の存在を強く感じられたから感動したんじゃないだろうか。まあ長々と書いたけれど、要するに他人の優しさに触れるとか、そういったことと同じでございますよ。もっと俗っぽく言えば、自分ばっかり働いている気がするけど、当たり前のようにそんなことはなかったみたいなことですよ。そんなん分かってんねんけど、なんか思ってまうよねって。でもそうじゃないって分かったときにハッとさせられるよねって。

 

なんにせよ、人によって読み方って色々あるよねという当たり前のことを思った。こんなことを考えた後に芥川龍之介の「運」を読むと、『やっぱ芥川龍之介って皮肉屋よね~』とより一層強く思ってしまった。

 

www.aozora.gr.jp

 

 

後日談

自分の読みの浅はかさを反省いたしました・・・

www.gissha.com