牛車で往く

日記や漫画・音楽などについて書いていきます 電車に乗ってるときなどの暇つぶしにでも読んでください

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たまらん坂

加藤典洋の「小説の未来」を読んだ。

 

 

以前に同じ著者の書いた「世界をわからないものに育てること」を読んだときに、柴崎友香の「わたしがいなかった街で」の読み方を紐解いた批評が面白く、この「小説の未来」にも自分の読んだことのある作品に関する批評がいくつかあったので読んでみた。自分は小説を読むときに、部分的にというか、ある一部の場面や描写に心が惹かれることこそあれど、小説全体として何を言わんとしているかといった構成・構造的な作者の狙いを捉える読みはできていない自覚があって、これまでにそういった読み方を解説している本などを読んでみたりもしたのだが、いまいちその捉え方がしっくりこず、そういう小説の大枠の構造があったとしてそれがなんなん? そういうのを当てはめたとしてなんやねん、と思うことが多かった。そんな中、加藤典洋の批評には個人的に納得できるものが多く、「わたしがいなかった街で」に関するものでは、作品に書かれたことを紐解くときに、その作品をそれ以外の作品や社会の出来事の流れの中に置くことで見えてくる読みもあるということに気付かされた。自分ではほとんど見出せそうにないそんな読み方を、こちらに提示して気付かせてくれる批評家の存在はありがたい。「小説の未来」の中では、町田康の「くっすん大黒」と「河原のアパラ」が村上春樹などのその他文学作品と比較されていて、それぞれの作品は、それぞれが刊行された時代の社会的価値観を反映した構造になっていることが読み取れて面白かった。そして、それはたくさんの小説読んでいて、さらにはリアルタイムで文芸作品を追っている人にしかできないことだなと思い知らされた。とかなんとか言いながら、「くっすん大黒」よりも「河原のアパラ」のほうが勢いがあって面白いなと思っていたところを、加藤典洋も同じように「くっすん大黒」よりも「河原のアパラ」のほうがすばらしい作品であると評していることに、やっぱりそうやんな!と、読んでいて一番テンションが上がった。「河原のアパラ」では、冒頭のケンタッキーでレジ前に列を作って並ぶ客に対して

「フォーク並び、した方がいいな、きっと」

などとぶつぶつ独り言を言うところを読んで、自分自身も駅のホームで、二列もしくは三列で並ぶようにと書かれているにも関わらず、二人目にやってきた人間が一人目の後ろに並んだがために、 あとに続く人たちもなんとなくでそれに従い、ホームに細長くて邪魔な一列ができているのに遭遇して『二人目なにしてんねんっ。おまえのせいでホーム窮屈になってるやんけっ』と、よく心の中で腹を立てることがあるから、分かるわぁ、となったし、単純に共感できただけじゃなくその書き方が可笑しくて笑えた(三人目に並んだ人に対しても、まだあなたまでだったら二人目を無視して一人目の横に立つことで、二列の陣形を取り戻すことができる、だからそこは怖気づかずいっちゃってくれと思う)。ほんでもって第七章に入ったところの、言葉を継いで継いで語り続ける息の長い文章が自分にはたまらなく、読んでいるとどんぶらこっこ、どんぶらこっこって感じで、読み進める中にリズムが出てくるのが気持ちいい。それに「ルー・リードのような顔をしたおばはん」っていう小ネタみたいな表現も、ルー・リードみたいな髪型と目力のおばはんを見たことある気がして笑ったし、なんならよくよく考えてみれば自分のおばあちゃんはルー・リードみたいな髪型をしていることに気がついた(というかルー・リードがおばはんみたいな髪型をしているのかもしれない)。加藤典洋の他の著作に「日本風景論」というものがあって、そこには国木田独歩の「武蔵野」に関する批評が収録されているらしく、なんならその内容が自分が「武蔵野」を読んだときに感じた風景描写の良さについて書かれたものになっているとの情報をネットサーフィンにより得たので、ぜひとも読んでみたいのだが今はもう絶版してるようで、どうにかして手に入れたい。

 

そんな「武蔵野」って頭で本屋に行ったら、「武蔵野短編集」って文字が目に入って気になったから、黒井千次の「たまらん坂」を買ってみた。

 

 

この短編集に収録されている話には、前からちょっと気になっている場所があって、些細な出来事をきっかけにそこを訪ねてみようとなる展開のものが多く、そうして街を歩いて風景を眺め、気になっていた場所の本当の姿を知るっていう流れが、適当に買ったわりに面白くて良かった。なんとなく黒井千次はまず書きたい場所があって、逆算的にそこを舞台として登場させるにはどんなストーリーにすればいいかと考えたときに、とりあえずその場所におもむくきっかけとなる出来事を前半に書けばいい(それはだいたい女性関係)といったふうに話を作ってそうで、「せんげん山」などでは、訪ねるきっかけとなる女性関係の問題が起きるまでの流れが結構粗くて、街を歩けりゃあ、散策する口実になりゃあなんでもいいみたいなやっつけ感が、逆に散策の場面を本当にウキウキしながら書いているように感じられて良かった。ここまで来たら、もはや女性にまつわる何かなどはなしで、ただただ普通に街に繰り出してくれていいとさえ思う。それに、時折挟まれるユーモアのある描写が狙い過ぎておらずちょうどいい具合で、散策に伴い過去を思い出すシーンも感傷に浸りすぎていないのも良かった。描かれている作品世界の、現実世界と近すぎず遠すぎない絶妙な距離感。「多摩蘭坂」の名前の由来が、落ち武者が「たまらん」と言いながら登って逃げたからではないかという説を耳にして、色々事実を調べているところの

 初めからそうたやすく目指す相手に巡り合えるとは要助も決して考えてはいなかったが、せめてそれらしい可能性を漂わせる戦が史実の中に幾つか見定められ、探索の環を絞っていくうちに木の間隠れに落武者の姿がちらつき出し、やがては彼等を武蔵野の片隅の丘に追い上げるその手掛りくらいは掴めるのではないか、との漠とした期待は、幾冊かの史書の叙述に触れるうちにかえって裏切られていくかのようで要助を失望させた。(中略)つまり、合戦は何時のものでもかまわなかったし、それなりの落武者はいくらでも存在すると思われるのに、彼等の内の誰一人として小さな坂道を登ろうとはしてくれないのだ。

って書き方などにはちょっとニヤリとした。ほんでもって「せんげん山」の

浅間山
 浅間山は前山・中山・堂山の三つの小さな峰からなり、その名は堂山の頂に祀られている浅間神社に由来します。海抜八〇メートルで、周囲との高さの差は三〇メートルに過ぎませんが、周囲にさえぎるものがないため、眺望はなかなか良好です。
 この浅間山は、地質的にみると、多摩川対岸の多摩丘陵と同じで、古多摩川やその他の河川により周囲がけずり取られ、ここだけが孤立丘として残ったものと考えられています……

の部分を読んで、最後の方にちらっと映る「浅間神社」という名前を手がかりに調べようと思っていた、peanut buttersの「パワーポップソーダ」のMVに出てくる河川敷が多摩川であることが図らずとも判明して、ちょっとだけテンションが上がった。

 


peanut butters 「パワーポップソーダ」 Music Video

 

実際に何度か訪ねてみたことで、東京に対してただただ大都会という雑なイメージだけでなく、生活する土地でもあるというイメージも抱けるようになった。そうすると、いわゆるでっかい東京じゃなくて、小さい東京にフォーカスを当てた曲の良さが改めて感じられるようになり、そういった曲を歌うアーティストとしてまず思いつくのは、自分の場合はandymoriになる。武蔵野に西荻窪、高円寺に井の頭公園やら渋谷道玄坂やらやら。でっかい東京のことを歌うのって大分粗いなあと思うのは、自分が夢をもって上京なんてしていないし、都会の繁華街や歓楽街ではしゃぐような人間でもないからなのだろう。

 

ロマンティックあげ合いっこ

のだめカンタービレを映画版も含めてすべて見終わった。我ながら単純ではあるが、出てきたクラシックの楽曲をやたらと聴いている今日このごろ。最終楽章前編の、千秋先輩とのだめが夜の川のほとりでお話しするシーンが好きで、そのシーンを何度か繰り返し見ている。千秋先輩が音楽と宇宙の深遠さについて考えている後ろで流れる、エルガーの「エニグマ」変奏曲 第9変奏「ニムロッド」が優雅で感動的で良い。

 


Elgar: Enigma Variations / Rattle · Berliner Philharmoniker

 

エルガーはこのエニグマ変奏曲を友人たちのことを思い浮かべながら作ったらしく、中でも第9変奏のニムロッドに関してはWikipediaによると「エルガーは第9変奏において、(友人のひとりである)イェーガーの気高い人柄を自分が感じたままに描き出そうとしただけでなく、2人で散策しながらベートーヴェンについて論じ合った一夜の雰囲気をも描き出そうとしたらしい」とのことで、めちゃくちゃロマンティックなことするやんって感じ。自分にも、なにか特別なことを話したわけではないけれど、あのときあいつとあのあたりを歩いたなあって記憶に残っている夜の散歩はあって、そのときのことをこんなふうに素晴らしい曲にして表現できたなら、別に他人に聴いてもらわなくても自分で聴くだけで満足してしまいそう。エルガーは果たしてイェーガーにニムロッドを聴かせたのだろうか。

 

このシーンの千秋先輩いわく、音楽理論を熟知して理性の力によって作品全体に対し入念に音楽の判断ができる人をムジクス、ただ音を歌ったり演奏したりする人をカントルと言うらしい。カントルはカンタービレの語源とのことで、のだめカンタービレというタイトルから、この漫画はのだめがカントルからムジクスに至るまでの物語なのかと思ったりした。

 

www.virtuoso3104.com

 

作品を深く理解するためには作者のことを知る必要があるとは、音楽ではないけれど芥川龍之介の作品を読んだときにも思ったことで、作者の宗教観などが作品の表現ににじみ出てくるから、そういった知識がないとそれに気付けない、理解できない、だから単純に賢くなりたい、そのほうが多分様々な芸術作品に触れる際にもっと面白がれるから。とはいえそんな急には無理だから、先に作品を鑑賞し終えた他人の力を借りて勉強していく。

 

国木田独歩の「武蔵野」を読んだ。

 

 

年末年始はなんとなく海外小説でも読もうと思い、本屋で面白そうなものを立ち読みしてみたのだが、書き出しで状況を説明される感じがなんか違うなあとなり、なんなら「私は」っていう一人称と地の文で語られている内容の距離が離れすぎのように感じられて、主人公というか書き手が文章にもう一歩二歩踏み込んでいるものが読みたい、自分が読んたことのある作品でそういったものは川上未映子の「乳と卵」とか町田康の「河原のアパラ」とか井戸川射子の「マイホーム」とかが該当するのだけれど、それはそれで違う人の作品が読みたいとなり、なんやかんやあって「武蔵野」に行き着いた。ちょうど随筆らしい書き方が、今の自分の気分に合っていて良かった。「私は」じゃなくて「自分は」って書くこの距離感。

 

二日おいて九日の日記にも「風強く秋声にみつ、浮雲変幻ふうんへんげんたり」とある。ちょうどこの頃はこんな天気がつづいて大空と野との景色が間断なく変化して極めて趣味深く自分は感じた。

 

吹く風が乾いていて涼しいことから、夏が終わりを感じ取り嬉しくなることはこれまで何度もあったが、それが夏と秋が混ざっているから良いとはっきりと意識したことはおそらくなくて、もっと言えば日差しは夏だけれど風は秋っていうふうに具体的に要素を分けて考えたこともなくて、でもこんなふうに書かれたのを読むと、自分が狭間の季節に嬉しくなっていたのは同じようなことを感じ取っていたからだと思えてくる。自分は単純に風が涼しくなったってことだけを意識していたけれど、確かに日差しが夏の強さを保っているっていうのも重要で、そのおかげで秋の過ごしやすさ+夏のいきいきとした空気が混ざり合って調和しているのが良い。

 

橋の下では何とも言いようのない優しい水音がする。これは水が両岸に激して発するのでもなく、また浅瀬のような音でもない。たっぷりと水量みずかさがあって、それで粘土質のほとんど壁を塗ったような深い溝を流れるので、水と水とがもつれ、、、からまっ、、、、て、あつて、自から音を発するのである。何たる人なつかしい音だろう!

 

エルガーとイェーガーよろしく、主人公とその友人が小金井の堤を散歩するこの場面の描写も良い。自分は多分「たっぷり」って言葉が好きで、「たっぷり」と書かれると本当に「たっぷり」っていう量感で胸がいっぱいになる。ここでは水源豊かな情景がイメージできるし、ニコルソン・ベイカーの「室温」でも

窓のシェードはどれも半分下ろしてあり、シェードの硬い布地が日の光を受けて、たっぷりの油で揚げたハニー・ドーナツの色に輝いていた。

と「たっぷり」が使われていて、この「たっぷり」のおかげで、頭の中のハニー・ドーナツがただ輝いているだけじゃなく、ムッチムチのモッチモチに膨れた姿として思い浮かび、満たされた感じ、幸福な感じが乗っかって嬉しくなる*1。あとは「水と水とがもつれ、、、からまっ、、、、て、あつて」っていう触覚的な表現も良くて、前に書かれている「粘土質」という言葉の印象とも相まって、水が白く泡立ち擦れるような音ではなく、チューブ状の水の流れ同士が文字通りもつれてからまるような、もっとぬるりとしたイメージの音(実際はどちらも言葉にすればジョボジョボと同じ音に聞こえるかもしれないが)が想像される。自分はずっとやってみたいことがあって、それはこの武蔵野のように誰かとどこかを散歩して、その散歩を振り返った日記をお互いに書いて見せ合うってことをしたい。『へぇ、そっちはそこでそんなとこ見てたんや』とか、自分が気づいていないことに相手は気づいていたとか、はたまた同じところが気になっていただとか、そういったことを知りたい。きっと楽しいと思うから、イェーガーと武蔵野の友人のあなたがたも、曲を作ったり、随筆を書いたりしてください。お互いに聞かせ合いっこ、読ませ合いっこしてください。

 

ということで国木田独歩の「武蔵野」は風景描写が好みで読んでいて落ち着いて良かったのだけれど、その反動で今度は明るくて楽しい気分になれる本が読みたくなった。

*1:このすぐ後のセーターの描写でも「たっぷり」が出てきてそれもまた良い。

やぶにらみの東京

三日くらい前に都筑道夫の「やぶにらみの時計」を読み終わった。

 

 

 きみの目蓋は、たしかに重い。けれど、盤陀づけされてしまったわけではない。だから、その気になれば、持ちあげられる。その気になって、そっと持ちゃげてみるとしよう。まず、目蓋が半透明になる。光がさしこんだのだろう。

書き出しの二人称での知覚や風景の描写が良さそうだったので期待しながら読んだ。要所要所でグッと来るところはあったけれど、描写をもっとしつこく詳細に書き込んでくれてもいいと思った(それが自分の好みってだけだけれど)。描かれている舞台は一九六〇年代の東京で、具体的な地名がいくつも出てきたが、いまいちその場所のイメージや雰囲気がつかめなかった。「やぶにらみの時計」の前に山内マリコの「東京23話」を読んでいたときも、同じように書かれていることにあんまりピンと来なくて、それは単純に自分が東京をあまり知らない(実際に東京で時間を過ごしていない)からだった。

 

 

ピンと来ないとは言ったものの、個人的に三年くらい前からなんとなく東京が好きになって来て、東京が舞台の作品を読むと安易に東京に行きたくなる。東京は小説以外にも音楽やら漫画やらで出てくることが多いから、東京を訪ねるとそれは勝手に小さな聖地巡礼がたくさんみたいになって楽しい。東京という言葉から自分が真っ先に思い浮かべるのは隅田川のあたりで、隅田川は今まで三度ほど訪ねたことがある。隅田川では小名木川と合流する地点が好きで、他の地点よりも水面の面積が大きく、たくさんの太陽の光を跳ね返して明るいのが良い。

 

 

夜の隅田川も遠くから届くスカイツリーや高速道路の光、ライトアップされた橋の光などに照らされて明るく、川沿いの綺麗に整備された舗道でおしゃべりをしている人たちが、夜にも関わらずそこそこいるのが良い。夜の隅田川を見たあとに芥川龍之介の「都会で」の一節

夜半の隅田川は何度見ても、詩人S・Mの言葉を越えることは出来ない。──「羊羹のやうに流れてゐる。」

を知ったときには、途端に記憶の中の夜の隅田川の水面が、周囲の街の光を照り返してつるつるぷるぷるしていたように思えてきて、近いうちにそれを確かめにもう一度行きたいと思った。そんなふうに自分は隅田川が好きで、たまに隅田川の近くに住んだら……と想像することがあるのだが(想像する生活は全然リアリティのあるものではなく、ただただ毎日晴れた日のお昼に隅田川に散歩に出かける、働いてなんていないありえない生活)、実際に東京に住んでいる人にとって隅田川がどれほど身近な川なのかが気になる。隅田川がいいと思えるのは、住んでいないからこそってことには気づいていて、現に自分が今暮らしている地域にほど近い有名な観光スポットなんかには、行ったとしても自分の生活との距離が近すぎて気分を遠くまで飛ばせない、普段の生活の空気感から抜け出せないから、気分が上がりきらない。これと同じように東京在住の人の中には、隅田川がしみったれて見える人もいるのだろう。Momの「雑稿 pt.1」を聴いていると、

どこに住んだって見えちゃうスカイツリー
逃げも隠れもしないってのに

って歌詞が出てきて、そういえば我妻俊樹もブログでスカイツリーを不気味なものとして捉えていたなと思い出し(こちらはスカイツリーに監視されているのは自分たちではなく、もっと他に監視されるべき何かがあるのではないか、といった内容だった)、実際にスカイツリーに対して、見るとワクワクする自分とは違う見方をしている人たちがいる(二人が東京に住んでいるのかは知らない)。

 


雑稿 pt.1

 

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でも、東京に住んでいる人のうち、ランニングコースとして隅田川を気に入っている人や、反対に嫌な思い出があって隅田川が好きじゃない人、隅田川のことなんて考えたこともないし、これから考えることもないって人など、様々な人がいるっていうのは考えてみれば当たり前のことで、本当に自分が気になっているのは、自分と同じような感じで隅田川が気に入っている人がいるのかどうかで(それこそ、そんな人は絶対いるとは思うけれど)、そう言っている人を実際にこの目で見たい、あ、ホンマにおるやんって思いたい。なんでそう思いたいのかは自分でもよく分からない。Momの新しいアルバム「悲しい出来事 -THE OVERKILL-」はいいんだけれど、歌詞が結構切迫しているというか現実の生活に踏み込んだ内容になっているから、通して聴くと疲れてしまう。それを中和するために聴いていたラッキーオールドサンの「I wanna be your boyfriend」では、「東京タワー蹴とばして」ってなふうに歌われている。

 


I wanna be your boyfriend

 

東京タワーも建てられたばかりのころは不気味がられていたのかもしれないし、今はスカイツリーができたことで、落ちぶれた天才みたいな感じで、蹴とばそうと思えるぐらいの親近感を抱けるようになったのかもしれない。芥川龍之介や永井荷風の随筆を読んでいると当時も変わりゆく東京の姿を嘆いていて、そんなことを繰り返しながら時代は流れていくんだろうなと何の実感も抱かず言葉だけで思い、例えば百年後の東京でスカイツリーは一体どんな存在になっているんだろうか、とこっちは割と真剣に気になって想像してみたが、東京で暮らしていない自分には過去と今の東京タワーの印象が変わっていないように(というよりも見てきていない)、今と未来のスカイツリーの印象もどう変わっていくのか全く見当もつかなかった。

月面と眼窩と月光眼球天体説

自分もずっと行ってみたかった国立国会図書館に先日行ったという話。

 

何のやる気も出ないときや暇なときなどに、バンドや小説家、漫画家のインタビューを読んで時間を潰すことがよくあるのだが、ある日の会社の昼休みにpanpanyaのインタビューを読んでいると、panpanyaが武宮閣之という作家の「魔の四角形」という児童文学が好きだと言っているのを見つけた。一体どんな本なんだろうと気になり調べてみたところ、今では絶版になっていて結構レアな本のようだった。こういう絶版の本は図書館には置かれていることがあるから、試しに比較的近所の図書館の蔵書を検索してみた。すると運良く所蔵されていることが分かった。ラッキーと思いながらも、自宅の立地的には図書館よりも本屋のほうがさっと行ける、だから「魔の四角形」の作者である武宮閣之の作品のうち、今でも本屋に売られているものがあれば、そちらのほうが手軽に立ち読みができてありがたい。そんな作品はないもんかねと、引き続き調べていると、武宮閣之の作品についてまとめている「奇妙な世界の片隅で」というブログにたどり着いた。たどり着いたとは書いたものの、「武宮閣之」で検索した結果のほぼ先頭に出てきたし、そもそも武宮閣之に関する情報はネット上に少なく、作品についてまとめられているのはこのブログがほとんど唯一と言っていいほどだった。ブログの作品紹介にざっと目を通していくとある文字に目が止まった。「月光眼球天体説」。何やら魅力的なそのタイトルに興味をひかれた。

 

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あらすじは、転校生のおじいさんから変わった望遠鏡を受け取った主人公の少年が、その望遠鏡を使って月の光を集めることで眼球を眼窩から解き放ち、天体となった眼球を宇宙空間に遊泳させて宇宙旅行を体験するといったもののようで、月と眼球というその要素の組み合わせから、自分は好きな漫画である熊倉献の「春と盆暗」に収録されている「月面と眼窩」を思い出した。

 

 

 

「月面と眼窩」にも、眼球に取って代わって月が眼窩にはまるといった、月と眼球を結びつけた印象的なシーンが出てくる*1。そういった月と眼球に関する表現が、自分の好きな漫画に似ていると思った途端に、猛烈に「月光眼球天体説」を読んでみたいという気持ちが湧き上がってきた。ただ武宮閣之の「月面眼球天体説」を含む作品のほとんどは、二十年以上昔のハヤカワのミステリマガジンに掲載されていた短編ばかりで、それらの作品は短編集としてまとめられての出版はされておらず、「魔の四角形」以外はそう簡単に読めそうになかった。しかし、この簡単には読めそうにないという事実が、より自分の読んでみたいという気持ちを強くさせ、今やもう「魔の四角形」よりも「月光眼球天体説」のほうに心が傾いていた。

 

そうして、どうにかして読めないもんかと調べ続けて出会ったのが、国立国会図書館のデジタルコレクションのページだった。デジタルコレクションのページによると、国立国会図書館には「月光眼球天体説」が収録されているハヤカワのミステリマガジンが所蔵されているようだった。それを知ってからというもの、東京を訪ねることがあれば行くっきゃないと、国立国会図書館に想いを馳せる日々が始まった。それと同時に、東京にはなんでもあるとまでは言わないけれど、やっぱり他所よりはあるものが多いな、なんてことを考えた。まだサブスクリプションサービスが主流じゃなかった自分が高校生や大学生のころは、音源を手に入れるのはCDを通してが普通だった。そのほとんどはTSUTAYAのレンタルでどうにかしていたのだが、あんまり有名じゃないアーティストのCDが聴きたくなったときに、近所のTSUTAYAでは取り扱われていないことがよくあった。その場合、もう少し品揃えのマシな比較的都会のTSUTAYAに行く、もしくはタワーレコードで新品を買うのどちらかの選択肢を取ることになるのだが、あんまりお金がなかったもんだったから、できることならCDはレンタルで安く済ませたく、タワーレコードでの購入を選ぶ前に一旦はTSUTAYAのホームページで在庫検索をかけていた。それでも自分の住んでいる県にほしいCDが置かれていることは少なかったのだが、渋谷のTSUTAYA(SHIBUYA TSUTAYA)にだけはほぼ毎回のごとくほしいCDが置かれていた。そのたびに東京っていいなあと思っていたことを思い出し、そういう点では国立国会図書館という巨大データベースがあるのも大変羨ましいと思った(当時もツタヤディスカスという、借りたいCDをオンラインで注文すれば郵送してもらえるサブスクみたいなサービスがあった。登録や月額の支払いが面倒で利用しなかったけれど、今は普通にサブスクを使っているから、よう分からんことになっている)。

 

そんな経緯で国会図書館に行きたいと思い始めたのがおよそ二年前。それから去年、東京を訪れることがあったのだが、そのときは国会図書館には行かなかった。それはコロナ禍の国会図書館は入館が抽選予約制になっていて、そのシステムをちゃんと確認する前にややこしそうだなという気持ちが勝ってしまい、行くのを諦めたからだった。そんなこんなで時が過ぎ、ちょっと前に宇多川八寸さんの国会図書館に行ったというブログの記事を読んだ。

 

yudoufu.hatenablog.com


東京ってええなあと改めて羨ましく思いながら、なんとなしに国会図書館のホームページを見ると、コロナも落ち着いてきたので予約なしで入館できるようになったとのニュースが。おおっとなり、ほな行くかと。ということで三月に行った。ほんで読んで来ました(ちなみにハヤカワのミステリマガジンはデジタル化はされていたけれど、国会図書館の館内限定公開だった)。

 

熊倉献の「月面と眼窩」では月が眼窩にはまってしまうが、武宮閣之の「月光眼球天体説」では月の光を浴びた眼球は宇宙に飛び出して眼窩は空っぽになる。どちらの作品も月と眼球を取り扱っているけれど詳細は違う(まあその違いは読む前に「奇妙な世界の片隅で」の記事から分かっていたけれど、再度認識したという感じ)。「月光眼球天体説」の主人公は小学六年生で、父親と母親の仲がうまくいっておらず、親戚の家に預けられている。主人公は表面上それほど深刻に悩むことなく生活しているように見えるのだが、ふとした場面の思考から家庭の問題が主人公の心に影を落としているのがうかがえる。そんな主人公にとって、眼球を解き放ち遊泳する宇宙は、未知のワクワクする空間というよりは、その静けさと広がりが精神に落ち着きをもたらしてくれる穏やかなものとして書かれていて、読んだ印象としては寂しいような、でもそうとも言い切れない、独特の透き通った感じがあった。また、二人称小説でこちらに語りかけてくるような文体になっていること、その語り口がどこか上品で丁寧なことも、透明感のある印象を与えるのに一役買っている。読み進めるにつれて自分は、「きみは」と二人称で語りかけられながらも、主人公の少年と同じ目線になるわけではなく、主人公の少年が望遠鏡に目を当ててじっと空を眺めている様子をすぐ後ろで見守っているような、そんな気分になりながらこの作品を読んだ。他の作品を読んでいないから本当に合っているのかは分からないけれど、「月光眼球天体説」を読んだ限りでは、武宮閣之の少年の書き方は、『あの頃の幼かった自分……』みたいな、ある種大人になった自分と切り離したデフォルメの効いた子どもっぽい感じではなくて、ちゃんと今の自分と繋がっている、その年齢の人間がもっている聡明さをきちんと書いている感じがあって、それが個人的に良かった。そしてなによりもやっぱり「月光眼球天体説」って題名がいい。

 

月と言えば、自分にはなぜかずっと我妻俊樹の「月光酔い」という作品が印象に残っている。

 

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晴れた日の夜、自身を取り囲む雲だけを明るく照らしている月の姿を見ていると、そんなはずはないのに、本当はもっとずっと遠くにあるはずなのに、月が雲のほんのすぐ後ろにいるように思える。そんな瞬間に我妻俊樹の「月光酔い」を思い出す。昔、月のあれこれについて知ろうと思い「月と幻想科学」という本を読んだときには、書かれている内容がほとんど分からなかった。

 

 

荒俣宏と松岡正剛が対談形式で月について語り合うといった内容で、わりとぶっ飛んだ発言ことを言っているのに、二人は何食わぬ顔で(実際表情は載ってないからおそらくの何食わぬ顔、でも確信している)互いの言うことを了承し合い、月の魅力をズンズン語っていく。自分には全く理解できないのに、二人の間では会話が普通に成り立っていることに、ある種の恐ろしさを覚えたほど。自分が月を見て綺麗と思ったとき、それは大きくて、丸くて、明るくて、輪郭が際立っているといった意味で綺麗という言葉を使っていて、そこに美しいという思いや感動の意が含まれているわけではない。今夜はスーパームーンなんて日にも、わざわざ外に出てまで見ようとはしない。でも夜の帰り道、ふと月の存在に気づいて目をやってしまうことはよくある。そもそも自分はなぜこんなにも月が綺麗って、そう簡単に言いたくない気持ちになっているのか。「ふと月の存在に気づいて」って書いたけれど、気づかされてって表現のほうが正しいというか、暗い夜にあんなに空で輝かれたら、そりゃあ誰だって見てまうやろっていう、そういう月の問答無用さに対して謎の悔しさを抱いているのかもしれない。それこそがやっぱり、月の不思議な魅力を証明していることになるのだろうか。

*1:ここでは関係ないけど、「月面と眼窩」の最後のシーンの、いちご牛乳を渡してカルシウムを取らせようとするところが良い。おいおい握るつもりなのが良い。

最近読んだ本の感じ方やら

自分は柴崎友香の「ビリジアン」が好きなのだけれど、読みながらいまいち掴みきれない感覚があって、みんなどんなふうに読んでいるのだろうと調べたところ、この作品は過去を思い出すようにして書かれている、そんなふうに思いながら読むとよい、とのコメントを見かけたので、それに倣って読み返してみた。デパートの屋上でダラダラする「片目の男」という章の

七月になって、また屋上にいた。売店の前の白い椅子に座っていた。前と違って緑色のパラソルが開いていた。同じ素材の白いテーブルを挟んで座っていた七井が言った。

「禿げたらどうしようと思って」 p48

っていう場面転換のところを読んだ瞬間、デパートの屋上にいたって感じがぶわっと伝わってきてすごかった。デパートの屋上の空気感じゃなくて、デパートの屋上にいたっていう読者である自分の存在をも含めた没入した感じ。それはこの部分を、そのすぐ前に書かれていた、片目の片足を引きずったおっちゃんに写真の撮影を頼まれた前日の場面からの流れで読んだからで、そりゃああらゆる小説はそういうもんだろうとは思うけれど、ビリジアンのこの部分ではそういった文章の流れがより一層意識されたというか、前の場面から「七月になって・・・」に移ったときに、アパートの屋上の全景がぶわっと頭の中に広がった感じが本当にしたのだった。自分は「ビリジアン」の、

近くのブランコでは、下級生が一回転しそうな勢いで思いっきり漕いでいた。錆びた鎖がきいきい鳴っていた。赤錆色の鎖の冷たい手触りが自分の手にも蘇ってきた気がして、そのとき、あの錆と血が同じ鉄の味だとわかった。 p117

って気づくところが好きなんだけれど、その気づくまでの手順というか、ブランコを漕いでいる様子を見たり、錆びた鎖のきしむ音を聞いたりしたことで、そこから実際には触れていないはずの鎖の冷たさが手のひらに宿って、そうして感覚が高められたことで味覚が拡張され、口の中で感じている血の味がブランコの錆の味にまで繋がった、意識が届いたっていう描写の流れが、ちゃんと体があるなって感じがしてたまらなくいい。

 

 

そんなふうに読みながら、やっぱり他の人の読み方が気になって色々調べていると、三村尚央の「記憶と人文学」という本を見つけ、読んでみたところこれが面白かった。

 

 

「ビリジアン」の読み方が載っているわけではないのだけれど、さまざまな文学作品の記憶にまつわる描写を現象学的に考えてみるといった内容の本。プルーストの「失われた時を求めて」に関して書かれた部分を読んで、何か懐かしいと感じたとき、それは思い出を思い出したから懐かしいの順番ではなくて、懐かしい感覚がまずあって、それに合った記憶が後から蘇ってくる、その順番のときがあるなと思った。そして、後者の順番の方が懐かしいといった感覚が強い気がするとも思った。そうして読み進めた先で、意図的に思い出した記憶(意志的記憶)と不意に思い出された記憶(無意志的記憶)では、後者の方が強い情緒的反応を引き起こすといった、さっき自分が考えていたことが書かれていてなるほどとなり、そこからさらに自分が最近本を読んで感じたことについて考えた。井戸川射子の「マイホーム」の、主人公がおじいちゃんを図書館で見かけて無視したことを思い出す場面を読んだときに、自分が子どものころにおばあちゃんと一緒に図書館に行ったときのことを不意に思い出し、その瞬間体にぶわっと情動が引き起こされた。それに対して、並行して読んでいたジャン=フィリップ・トゥーサンの「カメラ」のフェリー船内の描写がなかなかすんなり入ってこなくて、昔自分が乗ったフェリーの記憶を手がかりにして読み進めようとしたときに、それに伴ってあまり綺麗でない船内に古びたアーケードゲームの筐体が二つだけ置かれていたこと、誰もそれをプレイしているところを見たことがなかったことなどを思い出したのだが、そのときには特に感情の昂りなどは生じなかった。それは能動的に思い出したのと受動的に思い出されたの違いがあったのかもしれない。そう考えると、確かに不意に思い出した無意志的記憶の方がより迫真性のある記憶の蘇り方で、そして自分の場合には、そういった無意志的記憶が呼び起こされるきっかけとして、文章によって身体感覚を刺激されることがある気がする。「マイホーム」のその場面では、まずそれ以前に書かれた身体を使った描写を読むことで、自分の身体の感覚が刺激され励起状態になるとでも言うのか(例えばドアを身体で押し開ける描写のところとか)、なにせそういった状態にさせられ、その状態で過去の記憶にまつわる描写を読むことで(おじいちゃんを図書館で見かけて無視したところ)、その描写にまつわる自分自身の身体の記憶が不意に呼び起こされ激しい情動を催したのかもしれない。

 

 

 

などと考えて、またまた「記憶と人文学」について調べていると、次は「日常記憶地図」という、ある土地にまつわる色んな時代の記憶を色んな人々から集めた記録集に出会った。

 

my-lifemap.net

 

販売されている冊子は深川・清澄白河が舞台のもので、去年隅田川に行きたくてそのあたりを訪れたのもあって、手に入れて読んでみた。色んな人の深川・清澄白河周辺にある公園や小学校、商店にまつわる思い出が書かれていて、自分は最近こういった他人の個人的な生活が垣間見れるものに興味を持っていたから面白かった。さらには日常記憶地図では、色んな人の視点で同じ町を眺めている、比較しているものになっていて、もし自分の住んでいる町もしくは住んでいた町が舞台であれば、同じところに生きてる他人の存在がもっとリアリティを持って感じられて面白いんだろうなと思った。ホームページには深川・清澄白河以外に、大阪・上町台地と奈良・郡山城下町のものがあって、これからあらゆるところでこの企画をどんどんやって、がんがん増やしていってほしい。

 

mylifemap.web.fc2.com

 

深川・清澄白河編では、職場のある東京駅の方から自宅に帰る際、永代橋を渡って隅田川を越えることで、仕事とプライベートのスイッチが切り替えられたと書いている人がいて、都会を流れる大きな川にはそういった境界的な認識が宿ることもあるんだなと興味深かった。それから隅田川といえば永井荷風も何か書いているんじゃないかと思い随筆集を開いてみれば、「深川の散歩」という題の一編があり、日常記憶地図の番外編として読んだ。読んでいる途中で、書かれているところは今どうなっているんだろうということが気になり始めたので調べてみたところ、「深川の散歩」の内容に沿って写真を撮っているブログを見つけ、それと突き合わせながら読み進めたのだけれど、そうしながら何かが足りない、しっくりこない気がずっとしていて、それはやっぱりブログの写真が、自分が撮ったわけじゃない、自分がいなかった風景のものだからだった。自分は、実際に見たことのない風景の写真によって心が動かされることはあまりない。でもそれが文章であれば、上に書いたように、書かれた風景を読んでそれがリアルに頭に思い浮かぶとは別に、何かのはずみでその文章に関連した、もしくは全く関係のない自分の記憶が蘇って、それによって感情が湧き上がることがある。自分にとって写真は、ピントの合い方が肉眼とは違うし、そこに写っている空気感もいまいち掴めないから相性が良くないもののような気がしていて、だからまた時間ができたら、実際に深川・清澄白河のあたりを訪ねて自分の目で見てみたい。

 

 

外っぽさ 自然っぽさ

芦原義信の「街並みの美学」を読んだ。

 

 

コロナ禍による自粛生活を通してより強く思うようになったのだが、自分は常々もっと気軽に外の雰囲気を味わいたい、矛盾するかもしれないが理想は家に居ながらにして外にいるような開放感がほしいと思っていて、そんなときに「街並みの美学」を読むと、住まいと街の関係や空間に対する意識が、街並みの形成に及ぼす影響などについて書かれていてかなり面白かった。基本的に日本の街並みを西洋のものと比較してあれこれ述べるといった内容になっていて、日本では家の中では靴を脱いで過ごすが、西欧では靴を履いたまま過ごすといった生活様式の違いを導入として、日本人と西欧人の住まいに対する「内部」「外部」といった境界意識の違い、そこからその違いが街に対する態度の違い(日本人は、自身の住まいの外に広がる街という空間に対して比較的無関心であるのに対して、西欧人は街も住まいの延長にある領域として捉えている)につながっていく説明の流れが分かりやすかった。日本では広場とその周囲を隔てる境界として塀が用いられることが多いが、これでは広場は閉鎖的な空間になってしまう。それに対してイタリアのように広場の周囲に直接建造物を建てて境界とすることで、広場は生活の場として生きた空間となるとの説明を読み、なるほどと思った。日本では大きな公園などに関しても、いずれも木で覆われたり塀で囲われたりしていて、周囲の空間から切り離されている(この本ではその例として日比谷公園が挙げられている)。しかし、イタリアの広場のように住居の外壁が直接の広場との境界となると、住居とその外部(広場)との距離が近くなり、家の中にいても外の活気が伝わってきそうだ。ただ、実際に受ける印象はイタリアに訪れないと分からないだろうし、もっと言えばしばらく住んでみなければ、イタリアの街並みの方がいいのか、自分にしっくり来るのかは分からないのかもしれない。さらには、その町の中で育ってきたかどうかによっても変わりそうで、こういった日本と外国を比較したものに触れるたびに、外国人の知り合いがほしい、意見を聞いてみたいと思う。

 

「街並みの美学」を読んでいると、芦原義信のいう魅力的な街並みというものを実現させるには、街に対しても自分の家と同じように意識を向けられるかが大切であることが分かる。

 

まず第一に、「街並みの美学」を成立させるためには、「内部」と「外部」の空間領域について、はっきりとした領域意識をもつことが必要である。即ち、自分の家の外までを「内部化」して考えられること、あるいは、自分の家の中までを「外部化」して考えられること、二つの領域について空間を同視して考えられること、または、空間を統一して考えられることが肝要である。 p275

 

このような家の外を内部化、もしくは家の内を外部化するような考え方は、「街並みの美学」を読むだけでも十分に身につくものなのか、それとも例えばイタリアのような、そういった考え方に基づいた街並みの中で生活し実感することでやっと育まれるものなのか気になるところではあるが、それを意識することで街を見る目が少し変わるのは確かである(いい感じに見れているのかは分からないが)。

 

ただ、外の活気が部屋の中まで伝わってきたとして、果たしてそれが自分の心持ちに何か作用するだろうか。今住んでいる家にいても、子どもたちの遊ぶ声が聞こえてくることがあるが、特に何か気分が明るくなることはない。それよりも窓を開けて網戸の近くに座ったり、顔を近づけて寝転がったときのほうが、外にいるときのような気分、家とは違う気分を味わえて、それは単純に外気に触れている、外気を肺に取り込んでいるからだろう。だからイタリア式の広場に面した住居に住んでみても、さほど今と変わらない気がするが、街並み自体が気軽に外出したくなるような、外のベンチで腰掛けていられるような、留まっていられるような造りになっているのであれば、それはそれで外に出やすく、直接的に外の空気を味わいやすいという点でありがたい。

 

「街並みの美学」は個人的にかなり面白く、しかし出版されたのが1979年ということもあって、もう少し最近の知見も踏まえたうえで書かれている同じような本はないのか、また、建築や街並みに関して書かれた本をあまり読んだことがなく、この本以外の考えも知りたいと思い、色々と探してみた。普通にGoogleで検索してもあまりいいものが見つからなかったので、Twitterで「街並みの美学」と検索してみると、建築学科の学生らしき人たちが互いに本を紹介しているやり取りや、「街並みの美学」と対照的な意見が書かれているらしい本の情報などが見つかった(建築学科の学生からすると「街並みの美学」は、課題図書としてよく取り上げられる本のようだ)。また、「街並みの美学」に記載されている引用文献にもいくつか気になるものがあって、それらを読んでみようと思った。

 

「街並みの美学」を読んでいると、原風景について書かれた部分があって、それを受けてああだこうだと考える。よく「日本の原風景」という言葉で、海や山や川などのある田舎の風景が掲げられる。それを見るたびにそもそも原風景ってものは個々人にあるもので、「日本の原風景」って言葉は全体を勝手に代表してる感じがしていちゃもんをつけたくなるのだが、人が原風景という言葉を聞いて抱くイメージについて調査した論文などを読んでいると、やはりそういった田舎というか自然の風景を思い浮かべる人が多いようだった。自分が「日本の原風景」としてよく提示されるイメージにいちゃもんをつけたくなるのは、自分の原風景の中にそのような田舎の風景は宿っていなくて、それを根拠として本当にみんなはそんなに田舎での原体験があるのか、どこかで植え付けられたイメージに引っ張られているだけではないのか、と思っているからなのだが、それこそ自分自身の経験から勝手にみんなも自分と同じだと決めつけているだけのようだった。

 

自分にとっての原風景とは?ってことを考えてみると、小学生ぐらいのころの記憶がよく思い出される。学校の中庭に一本だけそびえて立っていた背の高いメタセコイヤの木や、小さな森というのか山というのか、そこを分け入って野良犬と遭遇したことなどが思い出されるのだが、これが本当に原風景なのか、ただの思い出なのかはよく分からない。ただ、自分の原風景について思いを巡らせているときに、自分自身も「日本の原風景」という言葉にいちゃもんを付けていたわりに、自然の風景をいくつか思い浮かべていて、やっぱり原風景という言葉は自然との結びつきが強いのかもしれない。とはいえ自然にまつわるものばかりではなく、友だちの住んでいた団地でドロケイをしたことや、その団地のすぐ下にあった公園で秘密基地を作ったり、木にハンモックを引っ掛けたりしたこと、グラウンドでプラスチックのバットとゴムボールで野球をしたことなども思い出される。「街並みの美学」では、原っぱを原風景としていた昔の世代と比較して、団地で育っていく世代の原風景はどのようなものになるのかと心配されていたが、そのまま育った団地が原風景の一部となっている。個人的に団地には、塀の隙間や屋根の上などといった、とても大人が入ってこれない子どもたちだけの空間を見つけて、そこで遊んだ身体的な記憶が宿っているから、それが原っぱの代わりになっているのかもしれない。

 

「原風景」の意味を簡単にスマホの辞書、スーパー大辞林で調べてみると、「原体験から生ずる様々なイメージのうち、風景の形をとっているもの」と出てくる。「原体験」も同じように調べてみると、「記憶の底にいつまでも残り、その人が何らかの形でこだわり続けることになる幼少期の体験」となっていて、この"こだわり続ける"とは自覚的な行動を意味するのか、無自覚なものを意味するのか。辞書的な意味しか調べていないので、原風景の学術的な定義にも幼少期の原体験が要因となる旨が含まれているのかは分からないが、原風景について調べる中でたどり着いたこのページを読むと、大人になってから出会う原風景もあるんじゃないかと思えてくる。

 

原風景という名の病 - 旅するTシャツ屋アジアンラティーノ

 

それにしても、さっきから自分は海山川などのことを自然と呼んで書いているけれど、そういった自然と思っているものの大半には人間の手が加えられているってことを、以前にも書いたが自分なんかは藤本タツキのエッセイを読んで初めて意識し始めたのだが、この論考にも同じようなことが書かれていて、それがなぜか嬉しかった。

 

<論考>風景を失うことの意味: 陸前高田と原風景をめぐって 

 

もちろん田は人工的な構築物だし、野原や森も含めて、われわれの周りに人間の手が入らないという意味での純粋な自然はもはや存在しないから、ここでは人々が「自然」と認識するものという意味で使っている。 p56

 

そういうことを意識し始めてからというもの、特に何があるというわけではないが、山の尾根に沿って送電鉄塔が並べられているのに気づいて、一体どうやってあんなところに建てたんだろうか、人間すごいなと思ったりした。海岸線に沿っていくつも積み重ねられているテトラポットを見て、これほどの数を一体どうやって置いたんだろうと、巨人が手のひらから金平糖のようにテトラポットをバラバラと落としては並べていく様を想像したりもした。そんなことを考えていると、街がとてつもない時間をかけて形成されているっていうよくある考えにたどり着くのだが、特にそのことに感動を抱くわけではなく、ただぼんやりとそう思うだけで、だからなんやねん、と自分でも思う。「街がとてつもない時間をかけて......」うんぬんは、純粋に自分の中から出てきた考えじゃなくて、どこかで聞いたことのあるような考えが頭に浮かんだだけ。100%純粋に自分から生まれた考えなんてありえないのだけれど、より自然っぽい思考はある。

あとになって分かることばかりなのかもしれない

最近は講義形式の方がなんとなく話が入ってきやすいかなと思い、そんなタイプの本をよく読んでいる。

 

 

絶対的な過去っちゅうもんは存在しえないし、歴史は完結するものではなくて、絶えずそれを振り返る今現在との関係性によって解釈が変化するものであるということ。最初は信じられていなかったアリスタルコスの地動説が、コペルニクスの登場によって千年以上の時を越えて「意味」を持ち始めた例が分かりやすかった。

 

すでに起こった出来事は、新たに生じた出来事と関係づけられることによって、これまでもたなかった意味を獲得します。少なくとも紀元前二七〇年から一五四三年の間、アリスタルコスの業績は「地動説の先取り」というポジティプな意味をもたず、異端の説として退けられてきました。これから起こる未来の出来事をも勘案するならば、このような意味生成の過程は完結することはありません。その限りで、歴史は絶えず語り直されるものであり、出来事は新たな意味を重層的に身に纏うものなのです。それからすれば、「歴史修正主義」という言葉は現在ではペジョラティフ (侮蔑的)な意味で使われていますが、クワインが「いかなる言明も改訂を免れない」と言った意味で、歴史記述は「修正」や「改訂」を免れることはできず、またそれを絶えず要求しているのです。 p90

 

この本は歴史の認識について考える入門書的位置付けであろうもので、とはいえなんだかいまいち内容が記憶に残らないまま読み終わってしまったのだが、多分より詳しい他の本を読む際に、読んだ部分がなんとなくで頭に残っていて理解しやすくなったりするんだろう。

 

歴史を考える―「歴史=物語り論」の脱/再構築 - 東京外国語大学

 

これとかを読んでいると、歴史といえば"日本の歴史"みたいな国単位の大きなものを思い浮かべてしまうけれど、その中にはもちろん個人レベルの小さなものもあるはずで…といったことについて考えさせられるのだが、簡単に答えが出るもんじゃなかろうに何か答えのようなものを探しながら読んでしまい、思考がまとまらなくなってくる。大きな歴史の物語の中に回収されて個人の歴史が埋もれてしまう問題について考えたときに、大きな歴史の物語は個人の歴史をないがしろにした間違ったものという考えがちらついてしまい、とはいえ歴史には神的な視点つまりは正解なんてものは存在しえないわけで、それこそ人それぞれの歴史に対する視点が無数にあるはずで、それを大きなものひとつに集約しようとするからこっちが正しい、あっちは間違っているなどといったふうになってしまうのではないか。じゃあどうしたらいいのか、個人の歴史を大きな歴史に反映させようとしない限りは、それはないがしろにされたままになってしまうんじゃないのか、コツコツと市井の人々の話を聞き個人史を集めてみてもそれは宙ぶらりんのままになるのか。それこそそんな即時的なことではなくて、いつか訪れる倫理観の変化に伴い歴史的事実が解釈し直されるときに、参照されるものとして個人の歴史がちゃんと残っていることが重要なのだろうか…とか、自分の足りない頭ではいくら考えても堂々巡りになってこんがらがってくる。そもそも自分は最初、時間の捉え方というか、時間論的なものについて調べていたはずが、気づけば歴史に関するものにたどり着いており、一体何が知りたかったのかがよく分からなくなった。

 

 

キリスト教について自分はあまりにも何も知らなすぎるから勉強しようと読んだ。

 

 愛が語りうるものであれば、ひとは愛を概念化することができる。けれども、愛は概念化を拒むものであるということを様々な方法でダーシーは語るのです。

 ニーグレンの仕事を否定するわけではないけれども、概念化された愛というものに対するある警戒感を持つ必要はある。ダーシーの言うように、愛は概念化すると、その本質を掴み損ねて部分化していくということは認識し直していいと思うし、概念化を拒む愛のあり方のほうが私たちの日常生活に近いのだと思うのです。ともすれば、何もかもが概念化されることによって普遍化していくという現代の神話のようなものを信じがちですが、けっしてそうではない。 p68

 

もうずっと同じことばかりを考えてしまうけれど、何かを理解しようとするときに行われる概念化・抽象化、その際には圧縮されることで失われる細部が絶対にあるわけで、しかしそうとは分かっていながらも言語化して伝えたいこともあって、伝えたいこと全体とその細部の両立の難しさ、そもそもそれが不可能であることを何度も思い知らされる。愛とかそういったものの本質はそれを感じている瞬間にしかない。この部分を読んで田島列島の「子供はわかってあげない」で朔田さんが馬のジョニーに言われていたセリフ

 

いいか

お前らの使っている言葉っていうのは鋳型であり代用の具なんだ

言っとくがソコに入り切れる程俺の存在は小さくない

 

を思い出すのだけれど、このジョニーすら恋の比喩であってそれ自体ではない。こういったことは「キリスト教講義」の天使について書かれた部分にも出てくる。

 

若松 宗教の世界では、あるところにいくと、言語からほとんど完全に離れてしまうところがあって、天使論はそこを包括して展開していかないといけないのだと思います。人間にとって天使は経験であって論理ではないからです。神というのも神的経験がなければならないところを、言葉だけで語り得る神論にしてしまっては自らの試みを破砕することにもなりかねない。

 宗教の内実は、そもそも概念化し得ないものです。それを概念でのみ語ろうとするとき、最も重要なものから遊離することになる。それを語り得るのは概念化された言葉ではなく、経験に裏打ちされた言葉です。 p135

 

天使は神秘的存在で、論理で説明できるものではない。そういった私たちの理解を超えた存在を認識するためには、"天使に触れた"といった実際の神秘的経験が必要となる。この本を読めば読むほど、キリスト教ってものは勉強で知れるもんではないなあと思えてくる。神の存在を信じて聖書を読まない限り、自分はその上辺をなぞり続けるだけなのだろう。いや、そもそも神の存在を信じて聖書を読んでいるのか、聖書を読むうちに何かが芽生えてくるのか、その何もかもが分からないまま。

 

 

そんなことを思いながらも、ヨーロッパの人々の"キリスト教"に基づく社会が書かれているこの本を読む。この本はまだ日本の社会と比較して書かれているから幾分分かりやすい。比較としての日本があるおかげで抱ける、ヨーロッパにはあって日本にはない文化の"ない"といった感覚。キリスト教を信仰しているヨーロッパの人々は、神という唯一の存在に対して祈りや告白や懺悔によって向き合うことで自分自身が"個人として存在するもの"であると認識しているのが窺い知れ、これも自分にはない感覚だなと思う。裸の自分と一対一で相対する存在って思い浮かばない。

 

 

あとは講義形式じゃないけれど、この本を読んで得られた小説を読む際のメタ的視点。一人称と三人称の視点の違いによって生じる、書かれている内容と筆者との距離の違い。他者の感情を「嬉しかった」などと言い切ることで生まれる不自然さとの戦いや、神的視点の三人称を装いながらも意図的に読者に見えない部分(つまりは見せない、書かない部分)を作ることで、読者側が想像力をはたらかせて作品に介入できる余地を生むといった手法。夏目漱石すげえってなりながらも、果たして自分は今後この本に書かれたことを意識しながら小説を読むことができるのだろうかとも思ってしまう。忘れてしまいそう。

 

そして、長嶋有の「夕子ちゃんの近道」。

 

 

もう何回読み返してんねん、っていうくらい読み返してる。この小説は一人称小説なんだけれど、主人公による心情の吐露とか自分語りがあまりない。だからこそ、たまにくる主人公の感情が揺れた瞬間の描写にはジーンと来る。今回読んだときには、ドイツから帰ってきた朝子さんが主人公の働いている骨董屋を訪ねてきたところがめちゃくちゃ良くて、主人公が久しぶりに朝子さんを見てパッと誰だかすぐに分からなかったとこあたりから、ジワジワ良いと言った感覚が生まれ始め、それがそのあともしばらく続きながら読んだ。あとは、この小説では登場人物の性格が、主人公の分析ではなくて登場人物の行動を見た場面をもって印象づけられていて、その場面設定がめちゃくちゃ上手い気がする。夕子ちゃんだったら変な近道を知ってるだとか、朝子さんだったら家のすぐそこの空き地で大学の卒業制作に没頭していて最終的に熱を出して倒れてしまうだとか。それぞれの登場人物は言葉で分かりやすく説明できるような特徴的な性格ではないんだけれど、それぞれの出てくる場面の描写を丁寧に書くことで知らないうちに自分の中で個別の印象的な人物として立ち上がっている。やっぱり何回読んでもいい。

 

 

「夕子ちゃんの近道」を読んだ流れで、そういえば長嶋有がこの本に影響を受けたって言ってたな、一回読んだけどあんまり内容覚えてないな、と思い読み返した。この本に収録されている四編のうちのひとつ「連笑」は、定職につかずブラブラと生きている主人公が怪我をした弟の面倒を見ることになり、それをきっかけに幼少期の弟との思い出を振り返りながら、主人公自身と弟の関係、そして父親、母親を含めた家族関係について思いを巡らせるといった内容になっている。「連笑」は一人称の小説なのだが、「夕子ちゃんの近道」を読んだばかりということもあって、読んでいると主人公が自分とか弟の性格についてめちゃくちゃ説明するやん!と思ってしまった。いやまあ、過去を振り返るって形式やからそういうふうになるもんやとは思うけど。まあそれはいいとして、兄弟のいる自分にとっては、幼少期の兄弟が互いの人格形成に与え合う影響力の大きさについて考えずにはいられなかった。相手がああいう性格になったのは、もしかしたら自分が小さいころにああいうことをしていたからじゃないか、と気づいたときのヒヤッというかゾッとする感じ。無意識のうちに自分が相手に人生を左右するほどの影響を与えていたのかもしれないという事実に対する恐れとでも言うのか。親からの抑圧といったふうに影響を与えられた側からの視点で書かれた作品は数あるけれど、「連笑」のような影響を与えた側の自覚とそれを自覚したことによって生まれる哀愁について書かれたものはあまり読んだことがなくて、前に読んだときにはよくもまあ引っかからなかったもんだなと思うほど、今回はなんとも言えない読後感が残った。

 


Analogfish - Is It Too Late? (Official Lyric Video)

 

音楽はアナログフィッシュの新曲「Is It Too Late?」をよく聴いている。作詞がギターの下岡さんで作曲がベースの佐々木さんというバンド史上初の手法で作られた曲らしく、そう言われると確かに佐々木さんが歌う曲にしては歌詞がいつもの感じと違うなと思った。下岡さんの書く少しシリアスな歌詞に影響を受けたのか、曲調がタイトなものになっていて(実際に詞が先か曲が先かは知らないけれど)、このスタイル、めちゃくちゃハマってる気がするぐらい曲がカッコいい。途中の短い間奏も良くて、アナログフィッシュは活動歴が結構長いのにまだまだフレッシュな曲が作れてすごいなと思う。

 

あとは今更だけどMomの「PLAYGROUND」。

 

PLAYGROUND

PLAYGROUND

  • アーティスト:Mom
  • Life Is Craft
Amazon

 

今はもうずいぶん寒くなったけれど、10月上旬ぐらいの涼しい夕方にこのアルバムを散歩しながら聴いていたらめちゃくちゃしっくり来て、たまらない気持ちになった。「スカート」なんて前からいい曲だなと思っていたけれど、ここまでいい曲やったっけ?と思うほど良く感じた。もう色んなものの印象が後から変わっていくのは、自分が変わっているからか。

 

 

あとは「東京」の

 

あの子もその子も

怒る前に泣いてしまう

 

って歌詞のやり切れなさ。

 

pocket.shonenmagazine.com

 

漫画は「錬金術無人島サヴァイブ」を読んでいる。絵が上手で可愛いから。話は普通だけど。そんな感じです。

 

今週のお題「読書の秋」

文芸誌を読んで袋ラーメンが食べたくなる

七月二十一日、水曜日。四連休に向けて本でも買おうと思い立つ。会社帰りに本屋に向かって自転車を走らせていると、そういえば文芸誌のどれかで長嶋有を特集したものが出ていたな、と思い出す。本屋に着いて雑誌コーナーに足を運ぶと、それは群像であった。

 

 

ただ、自分には小説を連載で追いかけるほど夢中な作家はいないし、もっと言えば、漫画に関しては好きな作家の新刊が出るとなるとすぐに欲しくなるけれど、小説に関してはそこまでにはならない。だから文芸誌は、気になる特集のときにパラパラと本屋で立ち読みする程度で買ったことがないし、大学の図書館で誰でも早いもん順で持っていっていいですよ、となった廃棄雑誌でしか手に入れたことがない。そんなもんだから、今回もちょっと立ち読みしてみようぐらいの感じで手に取ったのだが、巻頭の長嶋有の書いた、日記の体裁をとった私小説「ルーティーンズ」が面白くて、目の前に4連休が控えており気持ちが明るくなっていたのも手伝って、勢いで買ってみることにした。そうすると、なんだかよく分からないけれど少しだけテンションが上がってきて、ケンタッキーでも食べるかとなり、本屋の帰りに寄って、期間限定のブラックホットサンドやらビスケットやらをテイクアウトした。

 

 

子どものころには、その味が素朴すぎておもんないなと思っていたビスケットのことを、いつからか好きになり注文するようになった。ビスケットを食べるときには、まずは上下にバカっと割って薄い輪っかをふたつ作り、そこにハチミツを一口ごとにかけてかじる。ハチミツは適量ずつかけるように気をつけないと最後に足りなくなってしまう。おもんないと思っていたビスケットの味の素朴さは、今となっては、そのおかげでハチミツの甘さが引き立てられているような気になっている。そして、ビスケットが好きになったのはすなわち、ハチミツのことも好きになったからかもしれないとも思う。子どものころは、食べると口の中の水分が持っていかれ、持っていかれた水分によってもっちゃりと重たくなるビスケットの生地の咀嚼感も面倒に思っていたが、味が好きになったおかげで、今はそれも気にならなくなった。

 
長嶋有の小説の日記は二〇二〇年の四月から始まっており、そこには奥さんと娘さんと過ごすコロナ禍真っ只中での生活が書かれている。そんな長嶋家の日々を追いながら、時折当時の自分の生活を振り返る。そして、購入した翌日の木曜日の午前中に小説が読み終わり、小説の中で何度か出てきた野菜をドバッと入れたラーメンや焼きそばを家で食べるシーンを読んで、なんだか自分も家でしか、しかも休日のお昼ご飯にしか食べることのないあの味が食べたくなった。今日のお昼ご飯は袋のラーメンにしようと決め、自転車でスーパーへと向かった。外は暑い。今週から一段と暑さが増したような気がする。クーラーの効いた室内よりも気温も湿度も高く、肌に触れる空気の感覚も室内とは違ってまとわりつくような息苦しさがあるのに、一日に一度は外に出てこの感覚を味わわないと逆に不健康な気がしてくるのは何なのだろうか。

 
スーパーに向かう途中、信号に捕まって青色に変わるのを待っていたときに、太陽は雲に隠れていて日は差していないにも関わらず、自分が眉間にしわを寄せて目を細めていることに気がついた。眉間にかかっていた力を緩めて目を開いてみると、別に眩しくもなんともなくて、自分は暑いだけでなんとなく無意識にそうしてしまいがちなんだろう。さらには、眉間のしわを緩めてからというもの、変にその部分に意識がいって、さっきまでかかっていた力の名残りのようなものが、かかっていたときの力そのものよりも強い存在感を放っているように感じられて、なんだか落ち着かない気分になった。眉間の辺りの感じをどうすればいいのか分からなくなったまま、いつ変わるのかと信号を見つめていると、信号を渡った先にある家の屋根の上に人が登っているのが目に入って、どうやら職人さんが瓦屋根の修理をしているようだった。職人さんはおそらく怪我の防止を理由に、夏でも素肌の部分を隠せるような長袖長ズボンの格好で作業をしていて、それを見ていくら安全のためとはいえめちゃくちゃ暑そうだな、自分じゃあ体力がなさすぎてとてもあんなふうには働けないな、なんてことを考える。職人さんが作業しているさらに奥側の、こちらからは隠れて見えないハの字の下り坂になっている屋根のほうからは湯気のようなものが立ち昇っていて、信号が青に変わってそちらの方まで進むと、屋根の上にもう一人職人さんがいるのを見つけて、湯気のように見えていたのは、屋根を削って出てきたカスが舞ったものだった。

 
スーパーに着いて、とりあえずカット野菜をカゴに入れる。色んな野菜が入っていて、それらはすでに切られた状態になっているから、一人暮らしにはありがたい。さらには洗わなくていいなんて。そのままインスタントラーメンのコーナーに行って、自分は豚骨ラーメンが好きだからと、チャルメラバリカタ麺豚骨を手に取った。そこでふと、今日はたまたま小説の影響を受けて食べたくなっているけれど、普段袋麺を食べることなんてほとんどなくて、買ったところで5食も消費できるだろうかという考えが浮かんだ。出前一丁にすれば、だいぶ先のことではあるが、冬にキムチ鍋をしたときに〆で入れることがあるから、いつかは食べ切れるだろう。別にチャルメラのほうでも〆に使おうと思えば使えるのだが、スープの残りにごまラー油を入れて食べる美味しさを知ってしまってからというもの、これでなくては物足りない気分になる。棚の前でしばらく悩んだ後、結局、冬を見越して出前一丁をカゴに入れた。

 
家に帰って、早速お昼ご飯を作る。鍋の中で沸騰したお湯に、麺とカット野菜とウィンナーを放り込む。袋に書かれている作り方を無視して、茹でた麺の入っている鍋の中に直接粉末スープを入れようとすると、鍋から立ち上る湯気を吸ったのか、粉末は袋の口のところでダマになってうまく出てきてくれなかった。その度に、ああ、もっと口を大きく切るべきやったな、となるが、次回もそれを忘れて同じように失敗する気がしている。出来上がったラーメンを鍋から直接食べると、なんだか味が薄い。野菜から出た水分で薄まったのか、それとも粉末スープがダマになったことで袋に残ってしまっていたのか。うーん、思ってたのとちがうなあ、となりながらも、そんなもんかとも思い、ご飯を食べ終わったあと急激に眠たくなってきて、四連休で休みも長いし、一日ぐらい無為に過ごしてもいいだろうと、アラームをかけずにお昼寝をした。

自分の中で自分の川を育てる(山納洋「歩いて読みとく地域デザイン」)

ゴールデンウィークは本を読もうと、山納洋の「歩いて読みとく地域デザイン」という本を買って読んだ。

 

歩いて読みとく地域デザイン: 普通のまちの見方・活かし方

歩いて読みとく地域デザイン: 普通のまちの見方・活かし方

  • 作者:山納 洋
  • 発売日: 2019/06/02
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

これまでも誰かと話をしながら散歩するのは好きだったのだけれど、コロナ禍になってから、持て余した時間をどうにかするべく一人で散歩する機会が結構増えてきて、何かしらの町(街)を見る目や知識があればもっと散歩も面白くなるんだろうなと思いこの本を選んだのだが、これが大変面白かった。特に著者の山納さんが大阪ガスに勤めていることもあってか、実例として出てくる場所に関西のものが多く、関西出身の自分にとって知っている場所がいくつもあったのが良かった。

 

yestage-kai.jp

 

上のページで紹介されているような木造の集合住宅は、自分にとっては特に普通の家とかもわざわざ思わないくらい馴染みのあるものだったのだが、これは近畿圏特有の「文化住宅」と呼ばれるものであることをこの本で知った。今まで文化住宅を見てもアパートだと思っていたのだが、文化住宅では玄関やトイレなどが分かれており、この点がそれらが共同のものとなっているアパートとの違いのようである。文化住宅は昭和30年あたりに戦後の住宅不足と人口の急増の影響を受けて一気に増えたそうだが、今では「木造密集住宅地」として火災や地震による災害のリスクが高いとされている。この本では、大阪のおばあさんが文化住宅について語った言葉が載せられている。

 

 (中略)うちの前も裏も文化やったけど、どっちも火事で燃えた。どっちも漏電。40年以上前に建った時分には電化製品はそんなに多なかったけど、その後増えたんを、電源増やさんとタコ足で繋いどった。それと古い家でネズミがいっぱいおって、コードをかじったんが原因。道狭いから、消防車が入れんで往生したわ。火い出たんが1軒でも、水かぶるから建て替えるわな。賃貸やから、出てってもらうのは簡単やろ。 p98

 

この部分を読んで、自分が小学生のころにクラスメイトの家が火事になったことがブワァっと思い出された。たしか彼の家も文化住宅であったから、ネズミかどうかは分からないが、これと似たように漏電などが原因であったのかもしれない(ちなみに誰も火災には巻き込まれず、みんな無事でした)。

 

文化住宅に加えて、腰巻ビルというのも初めて知った。

 

dailyportalz.jp

 

腰巻きビルは、歴史的建造物を残しつつも床面積を稼ぐためにその上に高層ビルを建てるといったもので、大阪や神戸にもいくつも存在する。それにも関わらず、今までわたしはそれらをろくに認識もせず素通りしてきたことをこの本によって知る。これまでなんぼでも横を通ってきたのに・・・。さらには腰巻ビルには歴史的建造物とその上に乗っかる高層ビルという組み合わせの歪さからアンチ派の人も一定数いるようで、インターネットを調べてみれば神戸地裁なんかは特にボロクソに言われている。

 

takahshi.net

 

反対派の人たちからすれば、歴史的な建築物を残す方法が雑に思えるのだろう。とはいえ、なくさずにそのまま保存しようとするのも難しいから仕方ないとも思える。そして再び、神戸地裁の近くを何度も通ったことがあるにも関わらず、これまで本当に何も思わずに素通りしていた自分の感度の低さを思い知る。モダンな建造物の上にガラス張りの建物が乗ってるなあとか、変わってるなあとか、そんなこと一度も思いませんでした。夕方の地方放送局のニュースでたまに見るところだなぐらいのことしか思っていませんでした。これからはわたしも腰巻ビルに向き合っていく所存。

 

他にも読んでいると、町の建物や道路の様相の変わり目には戦争や地震などの災害がきっかけとして存在していることにも気付かされる。散歩をしているときに広い道に出ると爽快な気分になったりもするが、広い道路が通っているということは、それまでそこにあったはずのものが、何かが原因でなくなったことを意味している。

 

 広い道をみて「なぜこんな道を通せたんだろう?」という疑問を抱くのはマニアックだとお思いでしょう。ですがこれは大事なリテラシーなのです。日本では戦争と戦災があったことで、道路建設のための立ち退き問題には気づきにくくなっていますが、戦災を受けていないアメリカでは、戦後の郊外化の時代に、スラムと見なされた貧困近隣地区が高速道路を通すため破壊され、住民は立ち退かされています。都市は誰のために、誰の犠牲のもとにできあがっているのかということを、広い道路は時に教えてくれるのです。 p141

 

「人々が心地よく感じる環境」というタイトルの項も面白くて、神戸の住吉川について書かれている部分を読みながら、良さげな川やなあなんてことを思ったのだが、そう思えば知らない間に川に心惹かれるようになっている自分がいる。というのも、コロナ禍になり暇ができてからというもの、頻繁に近所の河川敷を散歩するようになった。そうすると、自分の中で近所の川が自分の川として育ってきて、散歩中に別の川に出くわしたりすると、自然と近所の川を比較対象として、この川は大きい/小さい、歩きやすい/歩きにくい、きれい/汚いなどと判定してしまっている。そんな風に、気づけば自分なりに川の良し悪しを決める基準として、近所の川が心の片隅に居座っている・・・。平方イコルスンの漫画「スペシャル」の伊賀が煙突が好きなのとか、「駄目な石」で橋をはしごしていた女子高生とかも、始まりはこういう風だったのかもしれない。

 

www.gissha.com

 

Mr.Childrenの名曲「名もなき詩」の歌詞

 

愛はきっと奪うでも与えるでもなくて
気が付けばそこにある物

 

がなぜか脳裏に浮かぶ・・・。

 


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一番のサビもちゃんと歌って欲しい。まあそんなことは置いといて、とはいえ自分の川、自分の煙突、自分の橋といった具合に、まず自分の中で基準をひとつ決めて育て始めれば、今まで何とも思っていなかったものにも興味が湧くようになりそうとも思う。手始めに自分の煙突と橋を育てるか・・・。

積み重なって立ち上がってくるもの(藤原無雨「水と礫」)

寝る前に布団の中でスマホをいじっていると藤原無雨の小説「水と礫」の試し読みに行きついて、それが面白かったから買ってしまおうかと一日悶々と悩んだ結果、買った。

 

水と礫

水と礫

  • 作者:藤原無雨
  • 発売日: 2020/11/13
  • メディア: 単行本
 

 

試し読みはこちら

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試し読みでは、都会での仕事を訳あってやめた主人公が旅に出ようとするところで終わるのだが、実際に買ってその先を読み進めていくと、主人公の旅の話が一度完結して、そこから最初に戻って新たな視点で再び話が始まり、少しだけ先ほど終わった話の続きが明らかになる。それが終わると三度話が戻っては視点が変わって進んでいくといったふうに、小説がループ構造をとっていることが分かってくる。そんなふうにループを繰り返しながら、少しずつ話の続きが明らかになり、二歩下がっては三歩進むように話全体が前に進んでいく。だから読者としては、一度知った話をもう一度読む時間と初めての話を読む時間のふたつを過ごすことになる。一度知った話を読んでいる間は、それは読者であるこちら側にとっては過去の出来事になってしまっているから書かれている出来事との間に距離を感じるのだが、そこからまだ聞かされていない話に移っていくと、自然と登場人物たちと同じ高さまで自分の目線が下がっていくのを感じ、少し不思議な感覚を覚える。そして、前の一文で「まだ聞かされていない話」なんてふうに書いたが、自分はこの小説を読んでいると、次第に話を読んでいるというよりは、聞かされているような気分になっていった(実際、途中で人称が語り部的なものになる瞬間がある)。ある話が初めて出てきたとき、つまりはある話を一度目に読んだときには、普通の小説を読んだときと同じ"読んだ"といった感覚を抱くのに、話がループしてその話を二度目に読んだときにはそれが"聞いた"といった感覚に変わっている。だから「一度知った話をもう一度読む時間」とか「一度知った話を読んでいる間は」と書いた部分も本当は「一度"聞いた"話をもう一度読む時間」や「一度"聞いた"話を読んでいる間は」と書いた方が自分の感覚としては正確な気がする。そんな感覚の変化が読み進めるたびに積み重なっていくことで、最終的には物語全体からなにか歴史のようなものが感じられるようになってくる(自分の中ではなぜか星新一のショートショートを読んでるときと似た感じを覚えた)。

 

「水と礫」を読んでから少し時間が経ったある日、散歩をしながらFoZZtoneの「Rainbow man」を聴いていると、ふと「水と礫」のことを思い出した。

 


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どちらにも「砂漠」や「水」がキーワードとして出てきて、単純に作品の世界観が似ているから、この二つが自分の中で繋がったのだろう。思い出した瞬間は『そういえば「水と礫」って「Rainbow man」っぽいな』といった具合に、「水と礫」を読むよりもずっと前から知っていた「Rainbow man」の方を上流として捉えていだが、「Rainbow man」のほうもやっぱり「水と礫」の影響を受けていて、このときはいつも以上に歌詞の

 

バックパッカーが水をオーダーする

俺はじっとそれを見つめる
何て美味そうに飲むのだろう

羨むのは傲慢だろう

 

の部分が耳についたのだった。「水と礫」では、体の中に占める水の割合の話や、砂漠を抜け出して助けられたときに水を飲む描写などがあって、そこが印象に残っていて「Rainbow man」のこの部分がいつも以上に引っかかったのだろう。そんなことを考えていると他にも水を飲むことについて歌っていた曲があったなと思い、しばらく記憶を辿っているとそれがLantern Paradeの「甲州街道はもう夏なのさ」であることを思い出した。

 


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潤すために乾かしたかのような僕の喉が

 

のところ。のどが渇いているときは不快だが、その渇きを癒す瞬間の解放感を味わうと、この渇きがなければこんな解放感を味わうことはできなかったなんて、そんなふうに思ってしまう。こうして「水」や「渇き」といった言葉を共通項として、いくつかの作品が数珠繋ぎになったけれど、それぞれの作品から受ける印象はそれぞれによって違う。「水と礫」からは先ほども書いたように小説から感じる距離感から大分カラッとした印象を受けるが、反対に「甲州街道はもう夏なのさ」からはかなりジメっとした印象を受ける。「Rainbow man」はこの二つの中間ぐらいの感じで、作品から感じとられる湿度がどれも違う。

 

こんなことを考えていると、さらに「ときめき生活日記」というブログの水に関する記述のある記事を思い出した。

 

melrn.hatenablog.com

 

わたしはこの記事の文章が好きで、特に

 

 麦茶が注がれたガラスのコップに水滴がついて、指でなぞるとテーブルの上に小さな水たまりができる。厨房に設置されたクーラーの冷気は座敷まで届かない。背中に汗が滲んでくる。

 

といった部分の描写を読むと、たまらないほどその場の空気感が喚起されたような気分になる。この文章には全体を通して周囲の人物や風景の様子が書かれているだけで、それを見ている本人の心情などはほとんど書かれていないのに、いや、そんなふうに感情が規定されていなくて、こちらが入り込む余地があるからこそなのかもしれないが、その場の明るさや湿度などが読むだけでものすごく伝わってきて、半端じゃないほど夏の空気感が感じられる。「水と礫」の選考委員を務めた磯崎憲一郎が「小説は具体性の積み重ね」と、どこかで言っていたことをなんとなく思い出す。そして、この文章はやたらとジメジメしているように思える。

 

「水と礫」の終盤ではひとりの人間の中には、その親や兄妹、祖父や祖母などの一族みんなの見てきた風景が詰まっていると書かれていたが、他人の文章を読んでいてもその人が見てきた風景が詰まっているな、なんてことを思う。それは当たり前のことかもしれないが、実際に自分が自分の目で見る風景は、その中でも自分の意識に引っかかる部分しか見ていないし見れないわけで、同じ風景を見ていたとしても、人によってそこから得る情報は異なるわけである。そんな自分とは違う他人の見ている風景を小説やら映画やら音楽やら短歌やらブログやらは感じさせてくれるから、それらに触れるたびに自分の中に今までなかった新たな視点が芽生える。そうして印象に残ったものは、自分の中で浮き沈みしながら少しずつ時間をかけて馴染んでいく。いつしか自分にも、夏の定食屋で冷たい麦茶の注がれたコップの表面に、触れていた指の体温が伝わって、そうして溜まった水滴が垂れてテーブルの上に小さな水たまりを作っていることに気づく瞬間が訪れるかもしれない。それが訪れたときに、自分の世界が少し広がった感覚を覚える、そんなことを想像する。自分は膨大な自分以外の人やものが積み重なってできていると改めて思う。

 

なんやかんや書いたけど、それぞれの作品から感じる湿度の違いは、単純に砂漠か日本の夏かって違いなだけな気もする。多分そうやな。