牛車で往く

アーサー王の物語を知りたくてマーク・トウェインの「アーサー王宮廷のヤンキー」って本を買ったら、現代人がアーサー王のいた時代にタイムスリップする「仁」とか「信長協奏曲」みたいな話やった

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慕情・慕情・慕情

脂汗がにじむ夏に肌が乾燥することなんてあるのか分からないが、なんとなくでお風呂上りに顔に塗り続けている乳液が、暑さでシャバシャバになって容器から出てきすぎる。夏用にもっとさらっとした化粧水を買おうかと思ったりもするが、夏のワンシーズンだけでは到底使いきれないから結局買わない。ひじだけは季節に関係なくいつも乾燥している。だから乳液を塗る意味がある。ひじがきれいになってどうすんねんって話ではなくて、ひじが汚いのをどうにかしたいって話。汚いのは避けたいって話。

 

家に帰って、さっさと晩御飯を食べて、洗い物もちゃっちゃと終わらせて、19時半ぐらいに散歩に出る。5月ぐらいにハマっていたそんな行為をもうすっかりしなくなったのは、最近蒸し暑くなってきたのに加えて日が長くなってきたから。19時半ぐらいの空は、5月であれば完全に暗くなっていたのに対して、このごろでは太陽は沈み切ってこそいるがまだほんのり明るさを残しており、夜って感じが薄い。お風呂から上がってもまだ空が明るい、そんな一日が長く感じられる夏が好きだったのに、夜の散歩を楽しみだすと当たり前のように相対的に夜が短くなっていることに気づいて、今はそれが少し物足りない。19時半に家を出て、一時間ぐらい散歩をして、それから帰ってきてお風呂に入って、21時以降は寝るまでゆっくりするという理想のタイムスケジュールを、日が完全に暗くなるのを待っていると後ろにずらすことになる。別に薄明のうちに家を出たとしても歩いているうちに夜になるのだが、空が完全に暗くなってから家の中から外に出るといった工程を、ある種儀式のようにして踏まないと、昼の時間との切り離され具合が弱くなるというか断絶の幅が小さくなる。理想的な夜の散歩の途中に寄る薬局での時間は、例えば会社帰りの夕方に寄る場合などと比較して、日中のそれまでの時間の流れから切り離された、点で存在している時間のように感じられ、より薬局本体と向き合っているような気になる。まあそれは単純に夜の散歩のほうが、必要なものを買いに行くために訪れるのではなく、ただ単に暇だから寄る、そんなふうに薬局に寄ること自体が目的になっているからなのだが。とりあえず夜の寄り道は楽しいって話。

 


畦道に宇宙 / 小田晃生

 

この曲を聴けば、大学生のころに旅行で訪れた宮古島の夜の海で星を眺めたことを思い出す。空には見たことのないくらいたくさんの星が輝き、ときおり流れ星が走っていくのを見つけられる。その感動よりも、星々以外の光のない周囲の暗闇への恐怖のほうが勝った。浜辺に自分たちだけが立っている状況。その浜辺がどこまで続いているのかも、真っ暗だから見通せず分からない。周囲の空間を隙間なく埋めつくす大きくて実体のない暗闇に、半袖を着てむき出しになった自分の腕やらをずっとさわさわ触られているような、そんな居心地の悪さ、不安が身にまとわりついて離れない。ここで急に変な人が現れて自分たちを襲ってきたら、おお〜とか感嘆しながら空の星に気を取られている友人たちは、襲撃者の来訪に気づくのが遅れて、なすすべもなくやられてしまうだろう。早くレンタカーの中に戻って安心したい。何も寄せ付けない、確固とした空間の中に入りたい。そんな気持ちになったのを思い出す。夜はやっぱり、ある程度安心感のある町の明かりがあるところにいたい。海で襲われる可能性と、町中で襲われる可能性を天秤にかけたら、全然後者のほうが現実味があるなどといった話ではなく、ただただ安心感のある明かりがほしい。自分をバリアのように包んでくれる街灯の広がりのある明かりが。星の光は遠くにありすぎて自分を包んではくれないから、それだけでは安心できない。暗闇の不安のほうが勝つ。

 

ロバート・F・ヤングの「たんぽぽ娘」を読んだ。

 

 

短編のロマンスがいくつも入ったもので、そういった作品はジャンルとしてはヤングアダルトと捉えられがちなのか、昔は若者向けの集英社コバルト文庫として販売されていたらしい。タイムスリップや宇宙などを持ち出すことによって、時間的にも空間的にも男女間に距離を生み出すことができるから、ロマンスとSFの組み合わせは親和性が良いってことを思い知らされるほど、綺麗にまとまった作品が多かった。慕情。サザンの「バラッド3」を通して聴いていたら、『慕情』から『クリスマス・ラブ(涙のあとには白い雪が降る)』、一曲飛んで『BLUE HEAVEN』まで歌詞に慕情が出てくるから、「慕情・慕情・慕情」ってなる。「リンダ リンダ リンダ」がなにやら4Kリマスター版になって公開されるらしく、触発されてAmazonプライムの買い切り版を見直したら、軽音楽部の部室のごみ箱にスムルースの「純愛サプリメン」のジャケットが貼られていたことに今さらになって気がついた。

 

 

日本語には恋と愛という言葉がそれぞれあるけれど、英語では恋も愛もLOVEで一緒ってことを、愛内里菜の「恋はスリル、ショック、サスペンス」のサビを聴いて思った。曲のタイトルが「恋はスリル、ショック、サスペンス」で、サビの歌詞が「This love is thrill, shock, suspense」だったもんだから。こんなこと、中学生のころに気づいてもおかしくないので、気づいたことを忘れてしまっていたのかもしれない。恋も愛もLOVEで一緒くたにするとか、アメリカ人はそれらの違いを知らないの? それに気づくような繊細な心を持ち合わせていないの?だなんて、自分はまた勝手にアメリカ人を大雑把な性格のやつらだと決めつけている。英語にも慕情に相当する単語はあるのかと調べてみればlongingやらyearningやらが出てきて、ただ恋と愛がLOVEで一緒なだけで、繊細な心情を表す言葉はもちろん存在している。四季のある国に生まれた日本人は、季節の移ろいに触れることで繊細な心が育まれているなどという、冷静に考えたら繊細さの四季への依存度そんなに高くないやろって常套句を、自分はこれまで大して気にもせずに聞き流していた。だいたい繊細っつうのも曖昧な言葉やし。ほんで恋は下心、愛は真心ってよう聞くけど、ただのダジャレ、言葉遊びやないか。

 

シオドア・スタージョンの「輝く断片」を読んだ。

 

 

「たんぽぽ娘」も「輝く断片」もなんとなく海外のSFを読みたいなあと思い、穂村弘のおすすめをもとに選んだのだが、「輝く断片」に関しては、穂村弘はスタージョンの「一角獣・多角獣」とやらを薦めていたところ、それが今では入手困難だからとりあえず近所の本屋にあったこっちを手に取った。それが結果的に、あまり自分にはハマらなかった。収録されている短編はSFではなく、だいたいなにか社会不適合な要素を持つ人物が、一般的にはずれている自身の価値観をもとに行動し、それがやっぱり一般の人たちの価値観とはずれているから最後にはうまくいかないってオチのものが多くて、自分はあまりそういう人物の生き様を読んで、いびつながらもまっすぐ生きていて感動みたいなことにはならず、どういうふうに受け止めればいいのか分からないまま、ただただなんでそんなことなんねんと思いながら読んだ。ブコウスキーの小説の主人公みたいに、『くそったれ! お前らがおかしい!』ってふうに真っ向からぶつかってくれたほうがそれなりに読める。真っすぐ苦しまれると、こっちもただただ見ていて不憫という感想しか抱けなくなる。調べてみるとスタージョンはやっぱりSFで有名になったらしいので、一発目に読む作品集として「輝く断片」を選んだのは、あまり良くなかったのかもしれない。

大川

冬が本気を出し始めてからというもの、部屋の底冷えが酷くなった。こたつに入って座っている間はなんともないのだけれど、寝転がるとカーペットから体に冷気が伝ってきて寒い。セントラルヒーティングやら床暖房やら、いまの自分では実現不可能な解決策ばかりが頭に浮かぶ。現実的にどうにかするべく、自分が寝転がったぐらいの長さの小さめの電気カーペットをネットで探してみると、すぐに見つかったのだが、思っていたよりもちょっとだけ高かった。できるだけ安いものがほしくて探し続けているうちに、電気敷毛布なるものに行き当たった。これが電気カーペットよりも一段安いぐらいで、いいではないかと早速近所のニトリに買いに行く。ニトリではちょうど一年前のモデルがアウトレットで売られていて、これまたラッキーと即購入した。実際に購入したものは思っていたよりも薄っぺらかったが、こたつの中に敷いてみたところ、十分に底冷えを解消してくれた。本来は布団と敷毛布の間に挟み込み、その上に寝転がって掛布団をかぶって眠るといったふうに、その他の布団で蓋をする、保温をする構造で使うものであり、これだけを電気カーペット的なニュアンスで野ざらしで使うとおそらく全然暖かくならなかっただろうが、こたつと一緒に使うことでうまいこと行ってくれた感じがあった。

 

最近は日本探偵小説全集「江戸川乱歩集」を読んでいる。

 

 

その中に収録されている「陰獣」を読んでいたら浅草の辺りの描写があって、自分は隅田川と大川は呼び方が違うだけでだいたい同じだと思っていたのだが、どうやら乱歩には明確にその2つを使い分けている節があった。どう違うのかを調べてみたところ、東京都の建設局のページに説明があるのを見つけた。

 

www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp

 

呼び名は時代や場所により種々変化します。古くは千住大橋付近から下流が隅田川と呼ばれ、 上流が荒川や宮戸川と呼ばれていましたが、江戸時代に入ると更に吾妻橋から下流を大川とか浅草川と呼ぶようになりました。 現在の大川端リバーシティなどの呼び名にその名残を見ることができます。

 

調べたあとでどこかで聞いたことがあったような気になり、でもそれが全く思い出せないので、これを機に脳みそに刻み込もうと思います。そういえば大阪にも大川という名前の川があって(ていうか大川という名前の川は他にも全国にたくさんある)、桜ノ宮駅で降りるとすぐに大川に行き当たるのだが、個人的に大阪の大川は隅田川にちょっとだけ似ていると思っている。川の流れに沿うようにして阪神高速道路の伸びている様子が、隅田川沿いを走る首都高速道路を彷彿とさせる。大川に沿って続く毛馬桜之宮公園は道がきれいに舗装されていて歩きやすく、そんな舗装路を淀川に向かって歩いていると、おそらく伊丹空港発着のものであろう飛行機が頻繁に頭上を飛び交っていく。大川を下っていった先で行き当たる淀川の堤防には、与謝蕪村生誕の地の石碑が建てられていて、自分が一度そこを訪ねたときには、おばちゃんが蕪村の石碑に腰かけて本を読んでおり、どこで読んでんねん、となった。おばちゃんのせいで、蕪村の石碑をまじまじと見ることは叶わなかった。

 

「陰獣」は乱歩初期作品のベストアルバム的な作品で、「屋根裏の散歩者」などのその他短編のセルフオマージュがよく出てくる。思えば陰獣とはハンターハンターで出てきたと思い、冨樫は乱歩の影響を受けているのか調べてみたら、そもそも冨樫は日本のミステリー全般が好きそうだった。レベルEに筒井康隆の影響が色濃く反映されているという情報もついでに発見し、言われるまで全く気付かなかった(そういえば幽遊白書の海藤のひらがな五十音がひとつずつ使えなくなっていくのも筒井康隆だった)。「陰獣」のあとに読んだ「芋虫」が、言ってしまえば気味の悪い作品で、戦争で両手両足を失った男の姿を想像しては、触覚的なぞくぞく、ぞわぞわを感じた。その際に、自分が小説を読んでいて面白いと思う瞬間のひとつに、ある情緒が起きる、感覚が更新される、風が吹いたみたいにフッと感情が動く、もしくは不意に何かを思い出したりするみたいなことが起きる瞬間があって、それは触覚的な表現によって誘発されることが多い気がすると、昔に考えたのを思い出した。そのときは、朝吹真理子の「きことわ」の序盤、貴子と永遠子が車の中でふざけ合うシーンを読んでそんなことを考えたのだが、そうするとホラー小説が一番そういった感覚を呼び起こすのに向いてるんじゃないかと思えてきた。でも冷静になったら、ホラーの気味の悪さに由来するぞくぞくは、別に小説に限らずともジャンルがホラーのものであれば、なにであろうと同じように感じられるように思えるし、「きことわ」の場合は文章だからこそあそこまで触覚を意識させられたような気がしていて(「きことわ」のそのシーンはあまりに良い)、はっきりとした感情(怖いとか気味が悪いとか)には定まらない触覚的な表現を読むことが、そういったフッとした感覚が起こるためのポイントなんじゃないかと思った。でもこれはあくまで現時点での予想というだけで、実際にホラー小説を読んで確かめたわけではないから、一度読んでみようと思う。

風景を担う

年末年始、実家に帰って特に何の用事もない日には、よくそこら辺を適当にぶらついた。天気が良くて、寒さもそこまで厳しくない日が多かったから、歩いていて中々気分が良かった。息を吸ったときに、適度に冷たい冬の空気が鼻の中をスッと冷やしていくその感覚が、本当は匂いじゃないのに冬の匂いがするってみんなが言うように、少しの爽快さを覚えさせる。冬の澄んだ空気なんてふうにも言うけれど、澄んでいるという感覚は、なんとなく温かいものよりも冷たいものによって連想されやすいから、本当に澄んでいる熱めのお湯とかを飲んでも、澄んでるわあ、とか思えない気がする。でも冬の空気のほうが夏の空気よりも湿度が低く、つまりは空気中に含まれる水分が少ないはずだから、確かに温度は関係なく澄んでるっちゃあ澄んでるのか。じゃあ仮に、冬の空気と同じぐらい湿度の低いぬるい空気を吸い込んだ場合に、それを澄んだ空気と思えるのかと考えてみれば、とてもそうは思えない気がするから、やっぱり澄んでいるって感覚には冷たさもある程度必要だな、とかどうでもいいことを考えながら歩いた。どうでもいいことを考えるのと同時に、音楽を聴きながらも歩いていて、散歩中にはよく超右腕のアルバム「OBAKE IN TSUSHIMA-NAKA」を聴いた。弾きまくっているギターとそのフレーズがカッコ良く、特に「ブルー」のイントロや「インユーテロ」のアウトローなどにはグッと来る(イントロはイントロで伸ばさないのに、アウトローはアウトロじゃないの、めっちゃ日本語やなって思う)。

 


ブルー- 超右腕(Music Video)

 

アルバムの「インユーテロ」から「ビール」の流れも良い。ツインボーカルのうち、「ビール」を歌っている方の、とにかくワーって声を吐き出すような歌い方が好きで、前のアルバムの「手紙」や、ゆ~すほすてるとのスプリットアルバムに収録されている「春の夜」でもそういう歌い方がされているから、それらもあわせてよく聴いた。アルバムタイトルの「TSUSHIMA-NAKA」ってなんやと調べてみれば、おそらく岡山県の津島中のことを指しているっぽく、岡山と聞いてベタにロンリーを思い出した。「OBAKE IN TSUSHIMA-NAKA」の曲には、別れや変化の憂いを歌ったものが多く、夕方ぐらいに聴いているとちょっと切なくなってくるから、ロンリーを聴くことにすると、なんとなく流れで台風クラブが聴きたくなったので聴く。自分は台風クラブのボーカルのSoundCloudにある、「ニュータウンの野郎ども」がかなり好きで、特に歌詞が良い。

 

 

「児童公園のベンチで放課後の風景担う」っていう自分自身を俯瞰した描写が好きで、それは家の近くのいわゆる観光地を、こちとら近辺に住んでるもんだから普通の買い物目当てで歩いていたところ、外国人観光客たちが街並みを眺めて感心しているさまを目撃し、ああ、自分は今、あの外国人観光客たちの目には観光地の風景の一部として映っているんだな、と自分も似たようなことを思ったことがあったからだった。そう思った瞬間に、自分が街に馴染んでいるといった、ある種の帰属意識みたいな感覚を抱いて妙に嬉しくなったのを、「ニュータウンの野郎ども」を聴いたときに思い出し、さらには「風景を担う」って言葉がその感覚をピッタリと表現してくれているように感じられて痺れた。風景を担うかあ、いやホンマに担うって感じやなあ、ってマジで痺れた。でもこの風景を担うって感覚は、自分から迎えに行ったら駄目というか、迎えに行くと「担ってるわ〜」と自己陶酔みたいになってしまう。不意に思うっていうのが重要。ついでに自分は台風クラブの「まつりのあと」の最後の歌詞

明け方にそっと 通り雨降って

路上に残る熱を どぶ川に還して

踏切が鳴った 町は静まった

やっとおれは気付く 手遅れだってこと

も好きで、酔いがさめて白けて冷静になっていく心のさまを風景描写と絡めてこんなふうに描くなんて、本当に痺れる。

 

稲垣足穂の新潮文庫版『一千一秒物語』に収録されている「美のはかなさ」を読んでいたら、次の文章に出会った。

 

 

 自分の場合は、「以前ここに居たことがある」あるいは「いつだったか此処ここで、まさしくこれらの人々と共に、ちょうどこれと同じことを語った」という突然感情は、同時に、「ひょっとしてこれから先に経験すること」のようだし、「それは自分ではなく、他人の上に起っていることでないか」などと思われたりする。
 時折に自分をとらえて、淡い焦慮の渦の中へき込む相手をもって、かつて僕は一種の「永遠癖」だと考えた。それでは不十分なので「宇宙的郷愁」に取りかえたが、この都会的、世紀末的、同時に未来的な情緒は、つとに自動車のエグゾーストのにおい、雨の降る街頭にぎつけたあのガソリンの憂愁の中に、きざしていた。それからまた、青き夜の映画館の椅子いすいた音楽の、半音下る箇所にも、それは確かに在った。

『一千一秒物語(新潮文庫)』 p300

 

もうこのブログで飽きるほどに言っているけれど、稲垣足穂もまた、プルーストの無意志的記憶のような体験について考えている!とテンションが上がった。でも読み進めていくと、少しニュアンスが違うようにも思えた。

 

はて、こいつはいつぞやフィルムの中に観たのでないか? いつかの真昼、海沿いの競馬場で、人々の装いの線やひだによって織出されていた象形文字でなかったろうか? やはりこんな宵に、だし抜けにけたたましい音を立てて頭上を低く行き過ぎたエァロプレーンの紅緑燈でなかったのであろうか?

『一千一秒物語(新潮文庫)』 p305

 

稲垣足穂は目の前の風景に関して、どこかで見たことがあるような無数の印象を呼び起こしては照らし合わせていく。自分の思う無意志的記憶が呼び起こすハッとした感覚は、具体的な過去の一瞬が蘇るといったものだから、その点において違うのかもしれない。また、稲垣足穂の言う「宇宙的郷愁」には、過去の記憶だけでなく未来への予感も含まれている。稲垣足穂のこのような過去だけではなく未来へも向けた視線は、『飛行機の黄昏』に収録されていた「横寺日記」を読んでいたときにも現れていた。

 

 いったん帰って裏に出ると、電車道を距てた高台の木がくれに、ビァズリー描くサロメの挿絵のような赤銅色の月がせり上っている。右べりは既に輪郭があいまいだ。星図を調べて再び表へ出た。アークトルスとヴェガと北極星とで大三角形を描いてみる。のあいだから伸びているに注意する。海辺の町の夜更け、彼女を送ってから堀割に沿うてふらりふらり、ちょうど程よい酔心地で帰ってくる折に、初めて婉々えんえんと北天にのた打っているさまが明かにされた。この巨竜は次の機会に、自分にどんな回想をもたらせるであろうか?

『稲垣足穂 飛行機の黄昏』 p104

 

目の前に広がる星空を見ながらにしてすでに、この先訪れる未来のどこかで今を過去として振り返る瞬間を予感している。しかも「自分にどんな回想をもたらせるであろうか?」と、未来において振り返った今が、今この瞬間に受けている印象とはまた異なった形で思い出される予感も感じている。こんなふうに、いつか思い出すだろうと思うことは、その瞬間を思い出しやすくなる未来への種まきのようになるのだろうか。でもこれはかなり迎えに行った行為のようにも思え、"不意に"って感じが薄まるような気もするが。とはいえ、稲垣足穂は続けて下記のようにも言っており、

時に循環のリングがたれて、僕らは不意に孤立し、茫然ぼうぜん自失する。此処ここにこうしていることが実は昔なのではないか? あるいは何処どこにもやってこない遠い先の夜のことではないのか知ら? それともこの一瞬に幾世紀かが飛び過ぎて、自分らは未来の夜に立っているのではあるまいか? おしまいには、其処そこは地球上でなく、星の都会の夜を歩いている誰かの話でないのかとまで、疑われてくるものだ。

『一千一秒物語(新潮文庫)』 p305

このように無数の似通ったイメージの氾濫による時間的感覚の失調が、この宇宙的郷愁をもたらしているとするならば、それが喚起される仕組みは、我妻俊樹の言う旅情のあらわれる仕組みと同じように思え、やっぱり無意志的記憶に近い感覚のようにも思える。

旅情があらわれる契機として、距離感の失調というのが考えられるかもしれない。

旅情生活者 - 57577 Bad Request

 

まあなんにせよ、不意に一瞬でどこか(時間的・距離的)遠くに連れて行ってもらえたら、郷愁のようなものが感じられる点は共通している。それから自分は何か自分の出会いたい文章が書かれているんじゃないかと期待しながら「美のはかなさ」を読み進めたのだが、それ以降の内容はなかなか難解でいまいち理解できなかった。また時間が経ったら読み直そうと思う。

二重の極み

紙で指を切った。そうしてこの曲を思い出した。

 


チャットモンチー 『ハナノユメ』

 

それから「るろうに剣心」で、剣心が切った大根の断面をもう一度合わせると元通りにくっついたシーンを思い出し、傷口を指でつまんでギュッとくっつけた。自分は紙で指を切るたびにチャットモンチーの「ハナノユメ」を思い出し、それからるろうに剣心を思い出して傷口をギュッとつまむ。くっつくわけがないって、この文章を書いている今は思っているのに、いざ指を切ったときにはより合わせて薄くなった切り口の線がそのままスーッと消えないかと、つまんだ傷口をしばらく見つめてしまう。チャットモンチーの曲は、彼女たちが解散してから頻繁に聴くようになった。もう解散してしまったからこそ帯びているちょっとした切なさみたいなものを、チャットモンチーの曲から勝手に感じている。「Majority Blues」なんて解散しているからより一層良いまである。初めてライブハウスで聴いた生音の衝撃と、その衝撃の残ったグラグラと揺れているような不安定な体で帰る帰り道。バンドによって出力の仕方は違うとは思うが、音楽と出会った瞬間のことを明るくじゃなくてこういう曲調で歌うのが良い。ギターを弾かないから分からないけれど、歪んでいると言うのか、そういうギターの音色もめっちゃ良い。自分は好きだったバンドには再結成なんてしてほしくないタイプで、本人たちの気持ちがどうとかは置いといて、自分がしてほしくないからしてほしくない。好きだったのに解散してしまったバンドの曲は、ちゃんと終わったバンドのものとして自分の中で結晶化している。一度そうなったからには、それは一生そのままにしておいてほしい。自分は彼らの曲を解散したバンドの曲、もう二度と新しく曲は出さない人たちの曲として聴いているのに、再結成してなにやらわだかまりみたいなものも溶けて、和気藹々と『音楽ができる喜び!』みたいな表情で演奏されても、『あれ本気じゃなかったんかよ』と冷めてしまう。声もなんか柔らかくなってるし。幸いにも自分の好きだった解散したバンドが再結成したことはまだないから、みんなどうかそのままじっとしておいてほしい。こんなことを言っておきながら、再結成したらしたで一度はリリースされた楽曲を聴いてみるとは思うけど。でも実際、再結成ではないけれど、学生のときにめちゃくちゃハマって聴いていたアジカンの「ソルファ」が、時間が経って新録版としてリリースされたのを聴いてみると、全く良いとは思わなかった。「サーフ ブンガク カマクラ」の完全版に関しても同じで、あの三十分ちょいっていう短さが良かったのにという感想を抱いた(まあ本人たちもそんなことは承知でやってんだろうけど)。アジカンのそんな新録アルバムたちを聴いて、やっぱりめっちゃ良かったやつの一発目の感触を更新するのは相当難しく、せめてもっとあんまり売れなかったアルバムでやり直したら良かったのにと思った。だから解散してしまっためっちゃ良かったバンドも、めっちゃ良かった記憶のままでいてほしい。もう帰ってこないことによる補正をかけてしまっているから、それを超えるのはなかなか難しい。

 

チャットモンチーの曲では他に「8cmのピンヒール」が好きなのだが、この前読んでいた稲垣足穂の『飛行機の黄昏』に

針でつついた穴のようにたくさんピカピカしている星

という文章が出てきて、「8cmのピンヒール」の歌詞みたいだと思った。稲垣足穂のころはまだ、夜になると星が多く見えていたから星に焦点がいってこういうふうに表現したのだろうが、町の電気の明るさに星の光がかき消されるようになった現代を生きるチャットモンチーは、星よりも大きくて輝きの強い月に目がいったのだろう。

 

 

『飛行機の黄昏』に収録されている「彗星一夕話」や「おそろしき月」、「横寺日記」などを読んでいると、ふいに『稲垣足穂ってマジで生きててんな』と感じる瞬間が訪れる。それは稲垣足穂の書く文章に、親しみを感じたからだった。

 

 小学校前の文房具屋の店先に、月じるし鉛筆の台紙を見るたびに、私には不審にたえない一事があった。紙製のお月様は実は半月に近いほど肥えているがともかく三日月型だとしておこう。三日月型をしているものの正確には三日月でなかった。三日月様はかおを向かって左側へ向けているのに、この西洋の紙の三日月は顔を右に向けていたからだ。これは暁方あけがたに東へ差しのぼるだと気が付いたのは、ずっとあとの話だった。そのうちにある明け方、まだあたりが暗い時刻におもてに立って、私は未明にのぼってくるお月様が、なるほど人間の横顔に酷似していることを知った。つまり明暗線のジグザグが、宵月にくらべていっそう人間の横顔に近いのである。月じるし鉛筆会社の創設者はきっと早起きなのだと思わずにおられなかった。 

p53

 

月じるし鉛筆の会社、ステッドラー社の三日月はこんな顔をしている。

 

jaa2100.org

 

自分は、稲垣足穂が最後の「月じるし鉛筆会社の創設者はきっと早起きなのだと思わずにおられなかった」ってふうに考えたのがたまらなく好きで、この文章のおかげでステッドラー社の三日月をちゃんと血の通った、誰かしらの人間によって作られたマークと思えるようになった。こういう何かの背景にあるものを感じ取ったり想像したりすることで、一気に対象との距離が縮まるのが面白い。そして『飛行機の黄昏』を読んでいて一番グッと来たのは、稲垣足穂が、星々を軸にして過去と未来とが今に重なり合うのを感じている瞬間だった。

 

八月八日 日曜
 八時過ぎに崖上に立って、の胴を指しているはずを求めた。月光は既にみなぎっているが、かすかな、然しくっきりした愛らしい矢形は見付かった。
 山羊、、水瓶、、が判明しないのでいずれ他の星を台に導き出すことにし、カシオペアの上方にケフェウス五辺形を求めた。ペガススの方形はいつもながら堂々としている。みんな昔見たのと同じ星座だ。にもかかわらず異ったものに映じるのは何故であろう? これら星々は今後とても仰ぐことだろうが、その度毎に変った印象を与えるに相違ない。太陽は日毎におじみだが、時刻によってずいぶん印象に差異がある。同一時刻でも窓越しに見るのと庭先で仰ぐのとは別物だ。この事柄は、常にこちらに向って何事かを囁きがちな星々の上に移してみると、いっそう度合が著しい。既に墓の下へ去った人々が目にしたもの、今後生れてくる人々が見るであろうもの、そしてこういう自分が前世にあって、又、考えられもしない将来にあって、何処どこからか眺めているかも知れないところのもの!

p135

 

今、遠く夜空に認めている輝く星は、多分過去も未来も同じように夜空にあった、もしくはあるのだろうという、自分と他人との人生を比較した大きな時間軸の奥行き。それから、今の自分は昨日の自分と同じ星を見ているのに昨日とは違うものを感受していて、ということは未来の自分もまた今の自分とは違う印象をこの星から受けるのだろうという、自分自身の人生単位の時間軸の奥行き。星々に、夜空にずっと浮かんでいるという変わらなさと、それらの表情はずっと変わり続けているという計れなさが同居していることに気づいたとき、胸中に複雑な距離感が生まれるのを感じ、それが胸がキュッとなる郷愁のような何とも言えない切なさを覚えさせる。我妻俊樹のブログの旅情について語られた文章や、プルーストの無意志的記憶に関する考察を読んで、自分の中で異なる二つの時間がダブったときに旅情や懐かしさといった感慨が生まれるということを考えるようになったのだが、ここでもそれと似たようなことが起きている。過去の一瞬が今の自分にフッと湧いてくるように、星を通して想起した未来の自分が、想起した途端に確かな輪郭をもって今の自分にフッと重なった感覚。星を眺めて遠い時間に思いを馳せるなんてことは、別に珍しいことじゃないのかもしれないけれど、稲垣足穂のこの文章のように、一日の時間の中で星を眺め、そこでどんなふうに感慨を抱いたのかを自分の言葉で詳細に書かれると、安い感傷なんかではなく本気なんだと思えて、こちらも胸を打たれる。

ほんで誰もおらんようになった

レジ袋削減のためにエコバッグを推奨するのはいいねんけど、コンビニで商品をレジに通す順番をもうちょっと考えてほしい。本当はピッ、ピッって通ったものからどんどんエコバッグに詰めていきたいところを、お弁当などのしっかりした包装形態のものより先にパンみたいな中身も包装も柔らかいものを通されると、上に重ねることを考えて、お弁当のほうからエコバッグの底に置きたいから待つことになる。その時間めっちゃ無駄やん。ほんで詰め始めたころに金額を言われて、慌てて詰めてるこっちを『早よせえよ』みたいな感じで見てくるのをやめてほしい。そっちの協力もいるやん。共同作業やん。頼むわ。とか偉そうに思ったけれど、こちら側が商品を買い物かごに入れていく時点で、底にお弁当、その上にパンとかお菓子の順番にしているから、そりゃあレジ通すときに上から取っていったらパンとかが先になりますよね。ものをよく考えずに文句を言ってごめんなさい。とはいえ、何かうまいやり方ないもんですかね。

 

アガサ・クリスティーの「そして誰もいなくなった」を読んだ。

 

 

登場人物を覚えられなかった。だから自分はひとを顔メインで覚えているんだと気づけた。熱が出たりすると気付くんだ、僕には体があるって事ってな感じで。小説の登場人物には名前も性格も行動もあったけれど、顔がないから誰が誰だか覚えられなかった。現実の特定の人物のことを思い浮かべるときにまず出てくるのは、性格などの言葉で表せられるものじゃなくてぼんやりとした顔の感じで、性格などはその顔の感じに雰囲気として紐づいている。だから人を覚えるにはやっぱりベースとして顔が必要である、自分には。顔がなければ印象が生まれない。漫画などであれば絵があるからキャラの顔と性格を紐づけられる、だから覚えられる。でも洋画だとあまり登場人物を覚えられないことがある。自分はまだ外国の人の顔をちゃんと細かく見分けられていない、雑にしか捉えられない。あと、海外文学を読んでいるとちょくちょく出てくる軍人の階級の、社会的な地位がいまいちよく分からず、「そして誰もいなくなった」に出てきた元陸軍大尉の登場人物に関しても、その人物がいかほど偉いのかが掴めず、発言力があるのかどうかが分からなかった。「そして誰もいなくなった」は、単純に物事が進行していって最後に種明かしといった内容であり、ただただ人が殺されていく流れを文章で追っていくだけで、閃きを覚える一文などはなかった。そんなふうにトリックとその種明かしに重きを置いた推理小説は、自分には合わないのかもしれない。そのあとに読んだ江戸川乱歩の作品では、でろでろに作者の嗜好みたいなものがにじんでいて面白かった。でも江戸川乱歩の作品は、誰が犯人か?と考えるような謎のある推理小説ではないから、そりゃあ読後感は違うだろうとも思う。あとは「群像短篇名作選 2000~2014」に収録されていた黒井千次の「丸の内」を読んで、やっぱりこの作家の書き方は自分の好みだと思った。

 

 

大人になったら連想することそれ自体に面白さを感じるようになったと実感する。だから大して面白くないダジャレを言ってしまう。中身がどうこうよりも、思いついたこと自体が面白くて嬉しくてテンションが上がってしまい、そのままの勢いで口を滑らせる。連想するのはダジャレに限らず、上でコンビニの商品をエコバックに詰めているのを見つめる店員の視線について書いたときにも、「モントゥトゥユピーがシュートを見るみたいな感じで見るのをやめてほしい」っていう喩えが浮かんで書きたくなったけれど、冷静になったらそこまで蔑まれていないというか、虫けらを見るような感じでは全くないのでブレーキがかかった。多分、友だちに話す状況だったらそのまま言っていたと思う。他にも、この前ゴスペラッツの「ハリケーン」を聴いていたら(シャネルズ、ラッツ&スター世代ではないからゴスペラッツの「ハリケーン」)、間奏のメロディをどこかで聴いたことがある気がして、それがキンモクセイの「さらば」のイントロにそっくりだって繋がっただけでテンションが上がった。それから友田オレ(これも"共倒れ"のダジャレですか?)の組んでいるコンビの名前「Let Me Show You THE まごころ」が、そういや「ハリケーン」の歌詞から来てんのかって気づいたことにもテンションが上がった(「Everyday is THE どしゃ降り」とどれくらい悩んだ?)。ただただ何かが何かに繋がっただけでテンションが上がる。本当に面白いあるあるやモノマネなども、感じていたけれど意識はしていなかった潜在的な認識に繋がるから面白く、その面白さを感じるに至るまでの経路は忘れていた記憶を思い出して懐かしさを覚えるときのものと少し似ている。ただ、これは経路が似ているってだけで、感情の動く幅は全然違う。

確かにそこに回鍋肉の食べかすが引っかかっている

回鍋肉を食べ終わった口の中で歯の間になんか引っかかってんなってことに気づいて、それを最初はキャベツかと思ったんだけれど、普通に考えてキャベツじゃなくて豚肉やろなと冷静になった。そのときに、ああ自分は回鍋肉の主役をキャベツと思ってたんやってことに気がついて、ほんでまあ奥歯の引っかかってるところに舌先をチョロチョロ当ててかき出そうとしていると、急になんかちゃんと考えてみたら挟まってんの、布の切れ端みたいな触感やなと思って。触ってるときはそうとは思わへんけど、考えてみたときだけなんか布っぽいなと思う感じ。そんな感触が舌先にチョロチョロ当たりつつ、一向に取れそうにはならない。ほんでここでまた時間が飛んで思う。布を舌先で触った記憶なんかないなと。でもなんか触ったことはある気がする。そんな瞬間が自分の人生にあったかどうかは分からないけれど、多分あったんやろうなって思えるくらい舌で布を触ったときの触感が頭の中でイメージできる。そんな感じでテレビを見ながらほとんどオートマチックに引っかかっているものを舌で何度も撫で続けていたんだけれど、CMに入ったところで、全然取れへんし舌の付け根と顎のあたりが疲れて来たわ、っていい加減イライラしてきて、もう爪で取ろうと口の中に指を突っ込んで引っかいてみる。でもそこに食べかすが引っかかってる感じがないというか、ヒットしてる感じがない。一旦舌で確かめてみて、やっぱあるあるってなって、多分そこやろうってとこをもう一回爪で引っかいてみるけど、まあ手応えがない。ほんでこれは自分の頭の中の何番目の歯と歯の間っていうイメージに対して、舌のインプットの感覚が狂ってんのか、それとも指のアウトプットの感覚が狂ってんのか、そのどっちかやろうとなり、なんとなく指のほうが普段から繊細なことに使ってるから自分は指の方を信頼することにした。でも冷静になったら別に指が自分の思ってるところに触れてたとしても、舌で読み取った場所と自分の認識に齟齬があったら、そもそも指で取ろうとしてるところに引っかかってないやんってことに気がついて、じゃあ舌を一番奥の歯に当ててそこから何番目の歯のところに引っかかってるかをちゃんと確かめることにしようと。いち、にぃ、さん、って舌でなぞって奥から二本目と三本目の間に引っかかってることが分かったから、じゃあ早速引っかこうと直接爪を現地に派遣したところ、やっぱりそこには何も引っかかってなくて、ちょっと待てよと指のほうも奥からいち、にぃって数えてみたら、指は一本目と二本目の間を引っかいていた。実際は指のほうが間違えていた。指のほうが間違えていたというのか、指令を出した脳みそが間違えていたというのか。

 

それにしてもあれですね、家で作る回鍋肉はどうあがいてもキャベツが水っぽくなって美味しくならないですね。いや、水っぽいのが問題なのではなく、キャベツだけを先に炒めてから一旦取り出し、お肉を炒めて火が通ったところでキャベツを戻して、水っぽくならないように作ったとしても何か物足りない。ほんで王将に行って回鍋肉を食べたら、これこれ!ってなる。火が通ってるのにシャキシャキしているのは油通しだからこそ為せる業なのか。家で作ったのとは全然違う香ばしさも鉄鍋と圧倒的火力だからこそもたらされるものなのか。よくよく考えてみれば、水っぽくない回鍋肉を食べたいわけではなく、単純に美味しい回鍋肉を食べたいわけであって、目的が三歩ぐらい手前のものにすり替わっていた。チャーハンもチャーハンでパラパラだったらいいってわけじゃなく、パラパラで美味しいチャーハンを食べたい。ていうか美味しければそれでいい、っていう考えは大雑把すぎて逆に美味しいから遠ざかる。まるで蜃気楼。自分はもう王将の味に慣らされているから、たまにちょっといい中華料理屋なんかに行ったとしてもなんか物足りないって思うことがあるし、ちょっと前にブームになった町中華に行った場合も王将のほうが好きやなってなる。回鍋肉もムーシーローも海老の天ぷらも豚キムチも王将のものが一番美味しい。美味しいとは自分に一番フィットするという意味。でも豚キムチってよく考えたら全然中華料理じゃないから王将以外で見かけることはない。キムチって韓国やから。そんな王将の唯一の欠点は青菜炒めがないことで、それこそちゃんとした中華料理屋の青菜炒めは無限に食べられる気がするぐらい洗練されたシンプルな美味しさがある。青菜炒めも家で再現しようと、空芯菜にニンニクひとかけ、ほんでもって鶏ガラスープの素を組み合わせて炒めたらベッチャベチャのベチャで美味しくなかった。一旦王将とか中華料理屋で修行したい。でも忙しそうだし厳しそうだから影分身の術を習得して、自分の影分身に頑張ってもらいたい。あらゆることをそういうふうにしたい。火影なんか目指してる場合じゃない。関東では中華料理屋といえば日高屋というイメージがありメニューを調べてみたら(王将が真の中華料理屋かどうかは一旦置いておいて)、思っていたよりもメニューが少なくて、どうやら認識を誤っていたらしい。関東における関西で言うところの王将は、普通にそのまま王将なのか。そんなこんなで中華料理屋と呼んでいいのかどうかも分からない王将のことを考えていたら、PANDA1/2の「中華街ウキウキ通り」を思い出した。

 


PANDA 1/2  / 「中華街ウキウキ通り

 

見た感じ王将は出てきていないから、王将は中華料理屋じゃないのかもしれない(よく見たら東方明珠電視塔が出てくるから上海に行っとりますね)。PANDA1/2って数曲しか知らないけれどポップで良かったなと思う。

 


PANDA 1/2「ぼくらがスリジャヤワルダナプラコッテへ旅に出る理由」

 

自分はパンダを全く可愛いとは思わないのだが、世間はそうじゃないらしい。パンダを可愛くないと言っている人に一度も会ったことがないのは、そんなこといちいち言うほどのもんでもないからなのか。

 

Google PixelのCMの、写真の空の色を変えるやつ、それはもう嘘やんって思う。それはもう嘘やんとか思うのも今更かもしれんけど。人物を撮るならまだしも風景を撮る場合には、最近はもう記録用にといった感じで、良い写真を撮ろうとは最初から思わなくなった。撮ろうと思うときはだいたい肉眼で見て感動した風景を、その肉眼で見た感動を思い出しやすいように、肉眼での見え方とできるだけ同じような映し方で撮ろうとするといった具合で、写真の画像だけで純粋に感動することを目的には撮らなくなった。ただただ思い出すために撮っている。だから他人の撮影した綺麗な風景の写真などにもあまり心が惹かれなくなってきた。そこには自分に由来する思い出がないし、だいたい色味とかいじってて嘘やんって思ってしまうから。海とかあんなに綺麗なわけがない。写真の海と目の前の海は全然違う色をしているはずなのに、撮ってる人はどういう心境? でも他人が撮ったものでも、自分の行ったことのある風景だったら感動するし、絵とかだったらなおさら、写真よりもっと曖昧というか正確じゃないがゆえに、こっちが勝手に似ていると思った知っている風景を投影する余地がそこにはあって、それに伴い思い出したという行為によって感動することがある。ロラン・バルトの「明るい部屋」を解説した荒金直人の「写真の存在論:ロラン・バルト『明るい部屋』の思想」 に

 写真は事物の存在を確証するものとして主観に現われる。つまり、ある事物がカメラの対物レンズの前に現われた(対物レンズに現前した)という事実を証明する力を持ったものとして主観に現われる。その意味で、写真は「現前証明書」あるいは「存在証明書」である。しかし、現前したその存在がそこでいかなる意味を担っていたのか、そしてそれが今われわれに何を意味しているのか、この点に関しては、写真は何も確実なことは教えてくれない。意味の圏域では、すべてが解釈に委ねられているのだ。写真は過去の存在を存在として与える(存在として経験させる)。思い出は、写真が与えてくれるのではなく、写真を見ているわれわれが、そこに与えられている存在をきっかけに、意味として再構築するのである。 p.49

と書かれているけれど、写真が被写体の存在を確証するとかどうのこうのは、もはや自分には関係がない気がする。そもそも現代に生きる他人の写真を本当だとはいまいち信じられなくなった自分は、写真から被写体が過去にいたという存在の実感を受け取ったからなどといった理由のありなしは関係なく、積極的に自ら写真に意味を与えようとして見ている。よく考えてみたら、その姿勢はもはや泣くために映画を見に行くみたいなもんで、それはなんかちょっと嫌やななんてふうに思いもするけど、微妙に違うような気もする。とかなんとかを、原本のロラン・バルトの「明るい部屋」を読むことなく、その解説本だけを読んで考えている。なんとなく原本を読んだ方がいいんかな、という思いと、でも解説してくれてる本のほうが絶対分かりやすいし、という思いのせめぎ合い。今のところ後者が優勢だから読んでいない。いつかVR技術が行くところまで行ったら、日差しが眩しいみたいな、もっと実際の体験に近い感覚を実感できるようになるのだろうか。写真を見ても眩しいとは思わないし景色の広がりなども物足りないから、VR形式で実際に訪ねたところを記録できたらいいのに、とVRを一度も体験したことがないのに思う。

 

 

ホンマにその、「想い出は いつも キレイだけど それだけじゃ おなかが すくわ」って歌詞、良すぎやしませんか。年々良くなってる。

着地の瞬間

近所のスーパーに行こうとショートカットで公園を通ったら、奥のほうの雑草の生えた茂みの中を白ブリーフ一丁のおじいちゃんが小走りで横切っていった。それを見た瞬間ちょっとだけテンションが上がった。雪山でイエティを見つけた(と思った)人もこんな気持ちだったんだろうか。これまで幾度となく通り抜けてきた公園で、こんな変わった人を見たのは初めてだった。夏やし暑いからなあ、とか思ったけれど、もっと緊急事態で走っていた可能性もある。なにはともあれ、自分からかなり距離が離れていたからこんなふうに呑気に思えたのだと思う。そんな瞬間を目撃し、おじいちゃんが小走りで横切っていった残像を脳内で何度も再生しながらスーパーに向かって歩いていたら、ごっつええ感じの「みどりぃ~の中を~走り抜けてく真っ赤な人志!?」ってやつがふいに浮かんできた。そんな夏の1ページ。

 

オリンピックのスケートボードのストリートがかなり面白かった。東京オリンピックのときには全く見なかったことを後悔したほど。女子も男子も面白くて、二日連続最後までちゃんと見たから寝不足になり、その状態で浴びる通勤時の朝の強い日差しは殺人的でめまいがした。トリックの具体的な難易度などは分からないけれど、解説の瀬尻選手が「うわあ」とか「やべえ」とか素直な感想を言ってくれるおかげで、それが出たときはとりあえずすごいんだろうと思えた。自分は男子の白い服を着たカナダの選手がカッコ良いと思った。ランの時点で出遅れ金メダルはおろか銅メダルも取れないような状況の中、そんなことは関係ないといったようにトリックでボードをグルングルン回して背面で着地する技を決めていて、素人目に派手でカッコ良かった。トリックを決めた後に吠える姿は、バスケの選手がダンクを決めたときみたいだった。アメリカのナイジャ・ヒューストンもキレがあってカッコ良かったし、堀米雄斗が最後の最後にトリックを成功させ、吠えたあとにボードを蹴とばしたのもカッコ良かった。

 

 

この技がどれだけすごいのかも分からないのに決めた瞬間は興奮したし、実際めちゃくちゃすごい技で逆転したのにも興奮した。国籍関係なく競技自体が面白いから普通に全部見ていただけだけど、この時間まで起きていて良かったと思った。スケボーは着地の瞬間のシュタって感じがカッコいい。障害物の手前で飛び上がり、一緒に跳ね上がったボードも体と同じ軌道を描く。着地するほんの寸前で空中のボードを両足で踏みつけてレールの上に乗る。このときのカシューって音も良い。ほんでもって地面の上に上半身前かがみの姿勢で着地。シューゲイザー。って感じがカッコ良い。なんかもう出ているひと全員カッコ良くて普通に憧れの感情を抱いた。スケボーが面白すぎて、終わった後もまだまだオリンピックは続いているのにスケボーロスでそれなりの喪失感を抱く。自分はスケボーと言えばTV GirlのこのMVを思い出す。

 


TV Girl - Misery (Official Video - Deluxe Version)

 

いまだにボーカルのTrung Ngoに戻って来てほしいと思う。

 

オリンピックは面白かったし、最近開幕した今期のサッカープレミアリーグには日本人選手が増えてるしで、スポーツを見るのが面白い(EUROも面白かった。アベマありがとう)。でもふとしたときに山内マリコの「ここは退屈迎えに来て」の「家帰ったらスカパーでプレミアリーグ見るだけで寝る時間だし」ってセリフを思い出す。

 

 

このセリフに出会ってからというもの、ことあるごとに思い出しては冷や水をぶっかけられ人生の退屈に無理やり向き合わさせられるような気持ちになる(とはいえ面白いから山内マリコの他の小説も読みたいのだけれど、やっぱり現実を直視させられそうで怖くてなかなか手が伸びない)。部活動をしていた高校生のころの自分が『スポーツなんてやるもんで見るもんじゃない。見て何がおもしろいねん』と思っていたことは明確に覚えていて、そんな当時の自分が何がおもろいねんと理解できなかった人間に今の自分はなっている。そんなことを考えて、ああ~、とかちょっとテンションが下がるけれど、大谷が40-40を達成したニュースを見て、すげえ!やっぱスポーツっておもしろ!って元気になる。

 

 

このアメリカ感強めの演出がいい。最後の水をかぶるところがスローになっているのとか最高。

 

もうちょっとちゃんと小説を読めるようになりたいなあ、と漠然と思っていたので文学批評に関する本を何冊か読んだ。

 

 

手始めにやさしそうなものを、とこの本を読んだ。構造主義などの話でちょくちょく聞く、古今東西の物語は似たような骨組みでできているってことを簡単に解説してくれていて分かりやすかった。でもちょっとやさしすぎた感もある。

 

 

次に読んだこの本は翻訳がぎこちない日本語で分かりにくく、すぐに読むのをやめました。

 

 

個人的に入門編としてはこの本が一番わかりやすかった。これまでの文学批評がどのように発展してきたのかが簡潔にまとめられていて、新しい批評論はひとつ前の批評論のカウンターとして生まれてくるという流れは、ロックンロールリバイバルやらヒップホップやら流行の音楽の流れに似てんなと思った。

 

 

自分は頭にボルトの刺さった怪物をフランケンシュタインだと思っていたのだけれど、怪物を生み出した博士こそがフランケンシュタインだった。バカボンと思ったらバカボンのパパかい、キテレツや思ったらコロ助かい、マッサンや思ったらエリーなんかい、のやつでした。他に何がありますかね。

 

 

結局一番面白かったのはこれだった。というか勉強という感じに疲れたから、話し言葉のこの形式が読みやすくかつ面白く思えた。ただ、いくつか読んだ本の内容が身についている気は一切せず、本当はもう一段階上の実践的な内容のものを読んだり(立ち読みしたところ「文学理論のプラクティス」という本が良さそうだったけれど、途中でくじける気がしてやめました)、それから実際に批評してみようとして読んだりする必要があるのだろうが、そこに至る前に力尽きた感じがある。自分は新しい何かを勉強するときに入門編の本を読んで、そこで飽きることが多い。それを自覚しながらもどうにも頑張れない。

 

そういえば筒井康隆の小説って「富豪刑事」しか読んだことがないなと思い、「虚人たち」を買った。

 

 

この小説では物語中において1ページ当たりに進む時間が決められていて、その時間の進むスピードに合わせて描写を書き進めなければならないという制約がある。その制約をこの小説の主人公とされる一人称的視点の人物は了解しており、その了解のもとに行動を決定する。でも行動をつかさどるのはあくまで作者で――もっと言えばこの作品自体で――、登場人物たちはみな自分の行動がそういった小説のルールに則って決められているのだとメタ的な自覚を持っている。そうして小説のルールについて考えてみたり、自分は所詮ルールのある小説内の登場人物に過ぎない、作り物の人格に過ぎないと思ってみたりする。この小説は、そういった登場人物の思考を通して「小説を書くこととは」について考えられた作品のように思えた。途中に出てくるひたすら車で道路を走るだけのシーンでは、1ページ当たりに進む時間が決められているから(というか筒井康隆がそういうルールで書くとして決めたのだが)、目的地に到着するまでにかかる時間分は車で走っている描写を書き続けなければいけないのだけれど、そうして無理やりに書こうとしても風景に変化がないから書くのがしんどいだとか、普通の小説だったらこんななんでもないシーンは省略してしまうけどそうはいかないだとか、そういったことを登場人物が考える。それは多分、なにかを描写するときにはそれをどれだけ細かく書くのか、そもそも書くのか省くのか、人間が目で見るときには風景の全体から印象を受けるのに、小説の風景描写はそれとは違って部分部分を詳細に一つずつ分解して書いているから実際とは違うのではないか、と小説家が考えるのと同じことで、筒井康隆はこの作品でそういったことを真面目に、それとも茶化しながら書いている(どっちかと言えば、そういうルールについて真剣に考えている小説家が書いたらこんなふうになるだろうと、もうひとつ上の次元に立って筒井康隆は書いている感じがする)。ほんで実際に車で走る描写をちゃんと詳細に書いてみると、退屈で長くて面白くないことが分かる。読んでいて本当に読み飛ばしたくなる。でもニコルソン・ベイカーの「中二階」は、詳細な描写でも広がりを感じて面白い(細かい描写でも退屈しないのは、あの思い出したって感じがミソなんだろう。一生連想ゲームできる面白さ。ストーリーがある作品で描写を詳細にしようとしても、話を前に進める必要があって、いつまでも同じ事柄について考えをこねくり回せない限界があるから)。ことはそう単純ではない。

 

漱石さんと蕪村くん

改めて夏目漱石の「草枕」が良く、あのコンパクトでリズムが良くて、でも描写は十分って文章は漢文がポイントなんだろうと思い色々調べていたところ、漱石と与謝蕪村の関係について書かれている本「月は東に 蕪村の夢 漱石の幻」を見つけた。

 

 

この本において「草枕」は、蕪村の俳句に詠われている情景をモチーフにしたような描写が頻繁に出てくる、蕪村俳諧を小説化した作品だと解説されている。さらには「草枕」以外にも、蕪村の俳句から着想を得たのではないかと考えられる漱石の作品がいくつか挙げられており、読めば読むほど漱石が蕪村に多大なる影響を受けていたように思えてくる。そして、そんな蕪村の影響は漱石の俳句により色濃く現れている(ほとんど真似をしていると思えるほどのものがいくつもある。習作ってやつ)。漱石の文体のポイントは漢詩なんだろうと大した根拠もなく、そして検証や勉強をしてみることもなく適当に考えていたけれど、この本を読んでいると漱石は蕪村の俳句に影響を受けていて、漱石のリズム感が良く歯切れの良い文章は確かに俳句っぽいかもしれないと、なんとなくで腑に落ちた気になった。特にp256から始まる『漱石五首』と題された章では、漱石が自身の文体について悩んでいたことが書かれていて、どうやら散文に俳句的な表現を落とし込もうとして苦心していたようだった。

 

自分は大して作品を読んだわけでもないのに、松尾芭蕉よりも与謝蕪村の俳句のほうが好きだと思っていて、この本でも芭蕉の俳句と蕪村の俳句が比較されていた。芭蕉が「世界の外に通じる俗世放棄の道」を目指したのに対して、蕪村は「世の中の美しいものを見つけ、その芸術性により現実世界で過ごす日々を明るくしよう」とする道を選んだ。自分が芭蕉の句から受け取る自我の強さというか、悟ってます感が苦手なのは、無理やりに求道的に世の中を見ようとしているからか、なんて思ったりもする。

 

此道このみち行人ゆくひとなしに秋の暮」と芭蕉は「一筋」を吟じた。だが、蕪村は「もんいずれば我も行人ゆくひと秋のくれ」と詠む。
 そう。これこそが、正真正銘の「第三の道」である。芭蕉が「此道や行人なしに」と誇らかに詠んだ秋の暮れ、蕪村も、ふと、わが家を立ち出てみる。むろん、そのまま求道の旅に出られるわけもない。けれど、一歩、門を出れば、自分もまた「行人」のように見立てられるではないか、というのだから。そして、ここから蕪村の世界が夢のように広がっていくのである。 p55

 

秋の暮れ、道の先に人の姿が見えない風景から、何となく寂しい気持ちを掬い取った芭蕉お得意の”さび”的な俳句よりも、たとえ目の前の道を誰も歩いていなかったとしても、「一歩、門を出れば、自分もまた「行人」のように見立てられるではないか」と考えられる蕪村の明るさ、朗らかさ、前向きで開けた感じが自分は好きなのかもしれない。ただ芭蕉と蕪村を比較したそんなことは、すでに正岡子規が「俳人蕪村」により詳しく書いてくれている。

 

www.aozora.gr.jp

 

自分が感じる蕪村の明るさというものは、正岡子規が言うところの積極的美ってやつである(蕪村の積極的な美に対して、芭蕉のものは消極的な美である)。そして何より、自分が蕪村の俳句が良いと感じていたその理由は、蕪村の俳句が客観的美に優れたものであるからだと正岡子規の批評を読んで思う。客観的美を表現した俳句の味わいはほとんど絵画を眺めるようなもので、そんな蕪村の俳句には対象をありのままに淡々と詠んだものが多い。正岡子規が蕪村の絵画的な俳句として挙げているものの中でも、自分は

夕風や水青鷺あをさぎはぎを打つ

が好きで、川の流れの中でじいっと立っているアオサギの姿を、風の通る河川敷の土手の上から見下ろすみたいな光景が想像できて良い。落ち着く。自然にものを見た結果詠われる蕪村の句、それは漱石の「草枕」の

 住みにくき世から、住みにくきわずらいを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。こまかにいえば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌もわく。着想を紙に落とさぬとも摎鏘きゅうそうおんは胸裏に起こる。丹青たんせいは画架に向かって塗末とまつせんでも五彩の絢爛けんらんはおのずから心眼に映る。ただおのが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸れいだいほうすんのカメラに澆季溷濁ぎょうきこんだくの俗界を清くうららかに収めえれば足る。

 

夏目漱石「草枕」

そのものの実践のように思える。とはいえ正岡子規は、芭蕉の俳句にも客観的美を詠ったものがあるとしていくつかその例を挙げており、その中には読んでみれば良いと思えるものもあり、自分はろくに芭蕉の俳句に触れずして偏見でものを語っていたんだと、分かっていたことでありながら反省した。それにしても「俳人蕪村」において正岡子規は、蕪村と比較して芭蕉をなかなかにこき下ろしている。まるで世の中で売れてはいるけれど、その良さが全く分からず過大評価に思えて気に入らねえんだわ、と言うかのように。

 

大学生くらいのころには、俳句よりも短歌のほうが、三十一文字と情報量が多いために書かれていることが分かりやすくて面白いと思っていたのだが、最近は俳句の風景を切り取って描写しているシンプルな感じが好みになってきた。俳句は短いから体言で止めるみたいな書き方が多く、短歌は文字数に余裕があるから連用形で言葉を繋ぐことが多い、そのキレの違い。そうは言いながらも、俳句を鑑賞していてもピンと来ないことも多く、自分は文章から映像を思い浮かべる能力が欠如している気がする。さらには俳句単体での鑑賞よりも、小説や随筆などの散文の中に引用されている俳句を鑑賞するほうが、理解ができるというか、意味が分かったような気になれる。国木田独歩の「武蔵野」の中で与謝蕪村の俳句が出てくるところなども、それを読んで良いなと思うのだけれど、それはその俳句に至るまでの独歩の風景描写のおかげのように思う。

 

 日が落ちる、野は風が強く吹く、林は鳴る、武蔵野は暮れんとする、寒さが身にむ、その時は路をいそぎたまえ、顧みて思わず新月が枯林の梢の横に寒い光をはなつているのを見る。風が今にも梢から月を吹き落しそうである。突然また野に出る。君はその時、
  山は暮れ野は黄昏たそがれすすきかな
の名句を思いだすだろう。

 

国木田独歩「武蔵野」

 

この俳句の良さというか、書かれていることが分かった、解釈できたのは、その前に書かれている「日が落ちる……」の部分が言わば助走のように、補助線のようになっているからで、突然この句だけをポンと目の前に出されてみれば、それほど良いなあと思うことはなかったような気がする。それは大学生のころに短歌にハマっていた(というか穂村弘にハマっていた)ときも同じで、穂村弘の短歌を本人と山田航が解説する「世界中が夕焼け」という本を面白いなあと思いながら読んでいたのだが、それは短歌自体を純粋に楽しんでいたのではなく、むしろその後に控えた二人の解説を面白いと思って読んでいた節がある。多分、自分は俳句や短歌をそのままでは面白く感じられない程度の感受性で、俳句や短歌がなにかしらの文章に付属してある状態じゃないと楽しめない、楽しみにくい。穂村弘の「世界音痴」というエッセイの、各話の最後に短歌が一句引用されている形式が好きだったのも、エッセイの部分が短歌に物語というか意味を付け足してくれ、それにより一気に短歌の意味が理解しやすくなった気になったからだった。中には単体で鑑賞しても映像が浮かんでくるものもあるのだけれど、それは自分が見たことのある光景に近いものを読んでいる作品で(上に挙げた「夕風や水青鷺あをさぎはぎを打つ」もそう)、結局自分は自分の経験や思い出をフッと蘇らせてくれるものにしか感動しないのかもしれないという、これまで何度も思ってきたことをまたここでも思った。

頼んでない普請

Momの新しいアルバム「産業」を聴く。

 

産業

産業

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「大事なものはありません」が何かの曲に似ていると思ったけれど、それが思い出せなくてモヤモヤする。

 


Mom / 大事なものはありません


冒頭の部分を何度も聴き返す。脳みそが一瞬発熱して思い出せそうになり、掴みかけたそれが冷めて遠ざかっていくのを繰り返してようやく、秦基博の「季節が笑う」じゃないかってことが分かった。

 


季節が笑う

 

やっとの思いで思い出し久しぶりに聴いてみると、思っていたほど似ていなかった。でもどうにかして思い出せたときのえげつないスッキリさは、ずっと出てきそうで出てこなかった曲はまさにこれ、頭の中でフワッと湧いては消えていった曲の雰囲気はまさにこれといった感じで、思い出そうとした曲自体に間違いはなかった。「産業」では特に後半の三曲が好きで、「歌は遠ざかり、僕が追いかけてくる」の

プラットホームの小さな売店が
昔から憧れだったんだ
売店から見える景色を想像するのが
今でも凄く好きなのさ

って部分にハッとした。自分も抱いていたかもしれない、駅の売店に対する秘密基地感。個人的に、こういうちょっとしたエピソードというか一瞬、フレーズ、思いついたこと、考えたことをそれほど脈略に縛られずにパッと挿入できるのが曲のいいところだと常々感じており、その一瞬の跳躍により、聴いているこっちは歌詞の内容にグイッと引き込まれ、ハッと気づかされたような感覚を覚える。でもそこにはもちろんメロディや歌い方も関係していて、それらによって言葉にある程度情緒を補完できる音楽だからこそなせる業のように思える。自分は勝手にMomはほとんど東京のことを歌っていると思っているから、「地図の向こう側へ」の

歩いても歩いても工事中の文字さ

っていうのも東京のことだと思った。ちょうど読んでいた「東京百年物語2」という一九一〇年から一九四〇年のまでの東京について書かれた短編やエッセイ、詩をまとめた本*1の中にも、「東京は普請中」ということが書かれている作品がいくつもあった。東京のどこかしらはいつも工事中なんて考えは、誰もが思いつく別に珍しいものじゃないんだろうけど、とはいえそれに気づくと何か言いたくなる気持ちも分かる。自分と関係のある街に、自分と関係のないところで決まったことにより、自分と関係があるのかないのか分からないものができようとしている。そんな複雑な距離感の出来事を頻繁に目にすれば、別に頼んでないけど何作ってんねんと言いたくもなる。

 

 

「東京百年物語2」に収録されている江戸川乱歩の「押絵と旅する男」には凌雲閣という建物が出てくる。それは明治時代における今で言うところの東京タワーやスカイツリーのようなもので、作中の登場人物はこの凌雲閣のことを

あれは一体どこの魔法使が建てましたものか、実に途方もない、変てこれんな代物でございましたよ。

(中略)

高さが四十六間*2と申しますから、半丁の余で、八角型の頂上が、唐人の帽子みたいに、とんがっていて、ちょっと高台へ昇りさえすれば、東京中どこからでも、その赤いお化が見られたものです。

と評している。Momは「雑稿 pt.1」でスカイツリーに対して同じようにどこからでも見えると歌っており、我妻俊樹は我妻俊樹でスカイツリーを同じように少し不気味なものとして捉えている。東京には昔から高くて不気味なものが定期的に生えてくるよう。自分は夜に光るスカイツリーを見上げて特に不気味とも思わず、なんならきれいやなあと思いながらパシャパシャ写真を撮る。この新しくできた変なものに対する違和感はそこに住んでいる人が抱くものであり、それはその人の日常に非日常のものが現れるからで、東京自体が非日常の世界である自分は、非日常の世界に非日常のものがあるのは普通のことだから嬉々として写真を撮る。そんな自分ですら、スカイツリーの麓に建つアサヒビールの金のビルと金のウンコには、本当にセンスがなくてどうにかしたほうがいいと思うから、地元民の方々の中に自分より強くそう思っている人がいてもおかしくない。金色のウンコはウンコなんかではなく「新世紀に向かって飛躍するアサヒビールの燃える心」を表わす炎らしいけど、そんなもん自分の内に秘めといたらいいのにとしか思えない。

 

「産業」の最後に収録されている「ムーンリバーを待ちながら」の後半では、Momが語りかけるように

目黒通りとあの町を繋ぐ橋 
完成は2030年を予定しているらしい
思ってもみない自分を 思ってもみない喜び悲しみを
一体だれが表現してくれるのだろう

とささやくのだが、これまたちょうど読んでいた『文学に描かれた「橋」』の中に、松尾芭蕉が隅田川にかかる新大橋の工事に関心を寄せていたとの記述があり、松尾芭蕉が東京に新しく橋ができる場面に立ち会っていたように、Momもまたそういった場面に立ち会っている。

 

 

「ムーンリバーを待ちながら」の歌詞に出てくる橋は、多摩川にかかる等々力大橋のことのようで、最近のMomの曲は生活の記録みたいになっており、ここでも起きていることのスケールが個人にとっては大きすぎて想像できずに戸惑ってしまう感情がうまく表現されていて、そのリアルタイムな感じが何とも言えず良い。

 

www.tokyo-np.co.jp

 

ちなみに『文学に描かれた「橋」』には、加えて松尾芭蕉が仕事として神田上水道の工事に従事していたとの記載があるのだが、松尾芭蕉といえばギャグマンガ日和によって戯画化されたイメージが真っ先に頭に浮かんでくる自分には、芭蕉さんが働いている姿なんて想像ができないから意外に思えた。それから松尾芭蕉のことを調べていると、なにやら実は忍者説があるらしく、さらには与謝蕪村は松尾芭蕉に憧れていたとのことで、そんなに作品に触れているわけでもないのに偉そうなことを言うが、松尾芭蕉の句はそんなに良いと思ったことはないけれど、与謝蕪村の句は良いなあと思うものがいくつかあるから、これまた意外な事実に思えた。与謝蕪村の句のほうが個が消えているというか、作者の自我が薄いというか。

 

『文学に描かれた「橋」』を読んでいると、橋のあるところに川があるという当たり前のことを改めて意識したのだけれど、そうすると不意に昔Twitterで見つけたドット絵のことを思い出した。

 

 

Twitterで初めてこれを見たときにはめちゃくちゃ既視感を感じて (この絵を見たことがあるという既視感ではなく、この絵に書かれた景色を見たことがあるという既視感)、これは橋の上から見ている景色だなという、見ているってだけじゃなくて橋の上に立っている、橋の上に立ちながら眺めているという体のある場所までもが感じられて感動した 。改めて見ても、このドット絵のGIF画像は本当にずっと眺めてられるというか、風景を見ているときに近い感覚があってすごく良い。

 

Momの「ムーンリバーを待ちながら」って曲のタイトル、ムーンリバーとはなんぞやと思い調べていると、「ティファニーで朝食を」という映画がやたらとヒットして、作中において「ムーン・リバー」というタイトルの曲をオードリーヘップバーンが歌うシーンがあるようだった。ということで見てみた。

 

ティファニーで朝食を (字幕版)

ティファニーで朝食を (字幕版)

  • オードリー・ヘプバーン
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正直、自分にはあまりハマらなかった。オードリーヘップバーンが痩せていて、顔とかの骨の形が出ているのが不健康そうで嫌だなと思っていたところ、劇中でオードリーヘップバーンの旦那も彼女のことを「骨と皮だ」と言っていて、やっぱり痩せすぎよな、と思い、それとともに役作りで痩せたのかもしれないと思った。とはいえ苦手な見た目ではあるし、主人公にも魅力を感じず(普通に性格がおかしい)、ストーリーも割としょうもなかった。

*1:表紙の川瀬巴水の版画が良い

*2:高さが四十六間とはおよそ84メートルほどで、凌雲閣のWikipediaには高さが52メートルと書かれている。どっちが本当?と思って調べてみれば、「東京浅草公園高塔凌雲閣十二階之図 高サ三十六間余」とかいう台東区立図書館のデジタル資料が出てきて、この高さ三十六間とは凌雲閣の避雷針まで含めた高さ(およそ67メートル)と一致するから、単純に江戸川乱歩が三と四を間違えてしまっただけだろう。

たまらん坂

加藤典洋の「小説の未来」を読んだ。

 

 

以前に同じ著者の書いた「世界をわからないものに育てること」を読んだときに、柴崎友香の「わたしがいなかった街で」の読み方を紐解いた批評が面白く、この「小説の未来」にも自分の読んだことのある作品に関する批評がいくつかあったので読んでみた。自分は小説を読むときに、部分的にというか、ある一部の場面や描写に心が惹かれることこそあれど、小説全体として何を言わんとしているかといった構成・構造的な作者の狙いを捉える読みはできていない自覚があって、これまでにそういった読み方を解説している本を読んでみたりもしたのだが、いまいちその捉え方がしっくりこず、そういう小説の大枠の構造があったとしてそれがなんなん? そういうのを当てはめたとしてなんやねん、と思うことが多かった。そんな中、加藤典洋の批評には個人的に納得できるものが多く、「わたしがいなかった街で」に関するものでは、作品に書かれたことを紐解くときに、その作品をそれ以外の作品や社会の出来事の流れの中に置くことで見えてくる読みもあるということに気付かされた。自分ではほとんど見出せそうにないそんな読み方を、こちらに提示して気付かせてくれる批評家の存在はありがたい。「小説の未来」の中では、町田康の「くっすん大黒」と「河原のアパラ」が村上春樹などのその他文学作品と比較されていて、それぞれの作品は、それぞれが刊行された時代の社会的価値観を反映した構造になっていることが読み取れて面白かった。そして、それはたくさんの小説読んでいて、さらにはリアルタイムで文芸作品を追っている人にしかできないことだなと思い知らされた。とかなんとか言いながら、「くっすん大黒」よりも「河原のアパラ」のほうが勢いがあって面白いなと思っていたところを、加藤典洋も同じように「くっすん大黒」よりも「河原のアパラ」のほうがすばらしい作品であると評していることに、やっぱりそうやんな!と、読んでいてそこで一番テンションが上がった。「河原のアパラ」では、冒頭のケンタッキーでレジ前に列を作って並ぶ客に対して

「フォーク並び、した方がいいな、きっと」

などとぶつぶつ独り言を言うところが面白い。自分自身も駅のホームで、二列もしくは三列で並ぶようにと書かれているにも関わらず、二人目にやってきた人間が一人目の後ろに並んだがために、 あとに続く人たちもなんとなくでそれに従い、ホームに細長くて邪魔な一列ができているのに遭遇して『二人目なにしてんねんっ。おまえのせいでホーム窮屈になってるやんけっ』と、よく心の中で腹を立てることがあるから、分かるわぁ、となったし、単純に共感できただけじゃなくその書き方が可笑しくて笑えた(三人目に並んだ人に対しても、まだあなたまでだったら二人目を無視して一人目の横に立つことで、二列の陣形を取り戻すことができる、だからそこは怖気づかずいっちゃってくれと思う)。ほんでもって第七章に入ったところの、言葉を継いで継いで語り続ける息の長い文章が自分にはたまらなく、読んでいるとどんぶらこっこ、どんぶらこっこって感じで、読み進める中にリズムが出てくるのが気持ちいい。それに「ルー・リードのような顔をしたおばはん」っていう小ネタみたいな表現も、ルー・リードみたいな髪型と目力のおばはんを見たことある気がして笑ったし、なんならよくよく考えてみれば自分のおばあちゃんこそまさにルー・リードみたいな髪型をしたおばはんだった(というかルー・リードがおばはんみたいな髪型をしているのかもしれない)。加藤典洋の他の著作に「日本風景論」というものがあって、そこには国木田独歩の「武蔵野」に関する批評が収録されているらしく、なんならその内容が自分が「武蔵野」を読んだときに感じた風景描写の良さについて書かれたものになっているとの情報をネットサーフィンにより得たのでぜひとも読んでみたいのだが、今はもう絶版してるようで、どうにかして手に入れたい。

 

そんな「武蔵野」って頭で本屋に行ったら、「武蔵野短編集」って文字が目に入って気になったから、黒井千次の「たまらん坂」を買ってみた。

 

 

この短編集に収録されている話には、前からちょっと気になっている場所があって、些細な出来事をきっかけにそこを訪ねてみようとなる展開のものが多く、そうして街を歩いて風景を眺め、気になっていた場所の本当の姿を知るっていう流れが、適当に買ったわりに面白くて良かった。なんとなく黒井千次はまず書きたい場所があって、逆算的にそこを舞台として登場させるにはどんなストーリーにすればいいかと考えたときに、とりあえずその場所におもむくきっかけとなる出来事を前半に書けばいい(それはだいたい女性関係)といったふうに話を作ってそうで、「せんげん山」などでは、訪ねるきっかけとなる女性関係の問題が起きるまでの流れが結構粗くて、街を歩けりゃあ、散策する口実になりゃあなんでもいいみたいなやっつけ感が、逆に散策の場面を本当にウキウキしながら書いているように感じられて良かった。ここまで来たら、もはや女性にまつわる何かなどはなしで、ただただ普通に街に繰り出してくれていいとさえ思う。それに、時折挟まれるユーモアのある描写が狙い過ぎておらずちょうどいい具合で、散策に伴い過去を思い出すシーンも感傷に浸りすぎていないのが良かった。描かれている作品世界の、現実世界と近すぎず遠すぎない絶妙な距離感。「多摩蘭坂」の名前の由来が、落ち武者が「たまらん」と言いながら登って逃げたからではないかという説を耳にして、色々事実を調べているところの

 初めからそうたやすく目指す相手に巡り合えるとは要助も決して考えてはいなかったが、せめてそれらしい可能性を漂わせる戦が史実の中に幾つか見定められ、探索の環を絞っていくうちに木の間隠れに落武者の姿がちらつき出し、やがては彼等を武蔵野の片隅の丘に追い上げるその手掛りくらいは掴めるのではないか、との漠とした期待は、幾冊かの史書の叙述に触れるうちにかえって裏切られていくかのようで要助を失望させた。(中略)つまり、合戦は何時のものでもかまわなかったし、それなりの落武者はいくらでも存在すると思われるのに、彼等の内の誰一人として小さな坂道を登ろうとはしてくれないのだ。

って書き方などにはちょっとニヤリとした。ほんでもって「せんげん山」の

浅間山
 浅間山は前山・中山・堂山の三つの小さな峰からなり、その名は堂山の頂に祀られている浅間神社に由来します。海抜八〇メートルで、周囲との高さの差は三〇メートルに過ぎませんが、周囲にさえぎるものがないため、眺望はなかなか良好です。
 この浅間山は、地質的にみると、多摩川対岸の多摩丘陵と同じで、古多摩川やその他の河川により周囲がけずり取られ、ここだけが孤立丘として残ったものと考えられています……

の部分を読んで、最後の方にちらっと映る「浅間神社」という名前を手がかりに調べようと思っていた、peanut buttersの「パワーポップソーダ」のMVに出てくる河川敷が多摩川であることが図らずとも判明して、ちょっとだけテンションが上がった。

 


peanut butters 「パワーポップソーダ」 Music Video

 

実際に何度か訪ねてみたことで、東京に対してただただ大都会という雑なイメージだけではなく、生活する土地でもあるというイメージも抱けるようになった。そうすると、いわゆるでっかい東京じゃなくて、小さい東京にフォーカスを当てた曲の良さを改めて感じられるようになり、そういった曲を歌うアーティストとしてまず思いつくのは、自分の場合はandymoriになる。武蔵野に西荻窪、高円寺に井の頭公園やら渋谷道玄坂やらやら。でっかい東京のことを歌うのって大分粗いなあと思うのは、自分が夢をもって上京なんてしていないし、都会の繁華街や歓楽街ではしゃぐような人間でもないからなのだろう。