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中学時代の思い出は永遠に覚えている(ワクサカソウヘイ「中学生はコーヒー牛乳でテンション上がる」)

まだまだ大人じゃない、けれども少しずつ大人には近づいているという時期、中学生。そんな中学生たちの面白おかしい生態を、脚本家であり、コント作家でもあるワクサカソウヘイが書いたこの本。

 

中学生はコーヒー牛乳でテンション上がる

中学生はコーヒー牛乳でテンション上がる

 

 

絶妙な比喩表現、そして出てくる中学生たちのキュートさにやられてしまった。もう、とてつもなく面白かった。そして、もはや中学生だったころなどはるか昔のこととなってしまった大人の方は、この本を読むと少し胸が切なくなるだろう。嗚呼、素晴らしきかな中学時代。

 

個性豊かな中学生たち

この本にはコント作家である筆者のワクサカコウヘイが、ある中学校からコント創作のワークショップの依頼を受け、そこで仲良くなった中学生たちとのエピソードが綴られている。ここに出てくる中学生たちがとても面白いのだ。そして、筆者と特に仲の良い中学生たちに「Tシャツビリビリーズ」と命名されたグループの6人のメンバーがいる。活字中毒で文字ばっかり読んでいるシングウ、おバカな年子の姉妹ハルコとナミコ、虚弱体質でいつも具合が悪いモッチャン、肥満児のコウ、そしてあまりにも「普通」過ぎるヨッシーという面々。その中でもわたしはヨッシーが愛おしくて仕方がない。

 

僕の周りに唯一いる「普通の中学生」、それがヨッシーだ。(中略)ヨッシーの頭は3ヵ月に1回、近所の床屋さんに「短くしてください」とだけ伝えて切ってもらっている。普通だ。(中略)親に隠れてカップラーメンを食べる。ゲームは1日1時間と決めている。 (中略)小学校のときに集めていたBB弾がいまだに捨てられない。普通に優しい。親と並んで歩くのが、最近恥ずかしくなってきた。そして、恥ずかしくなると照れて笑ってしまう。 p34

 

Tシャツビリビリーズのメンバーの中で、唯一普通の中学生であるヨッシーの特徴が羅列されているのだが、もうこれを読んだだけで胸が切なくなる。ここに挙げられているヨッシーの特徴は、まさしく中学時代の自分の特徴でもあるのだ。わたしの中学時代はまさしく、このヨッシーのようなこの世にごまんといるであろう平々凡々の冴えない男子中学生であった。まだ、美容室に行くほどオシャレには目覚めていない。親にカップラーメンは体に悪いと言われ、普段は全然食べさせてもらえないけれど、親がいないときだけこっそり一平ちゃんを食べる(このときの一平ちゃんの美味しさたるや)。これまたゲームは1日1時間までしか親に許されていない(だから友達の家で遊ぶときは狂ったようにゲームばかりする)。小学生のときに持っていたビー玉やBB弾、ポケモンパンのシールなどは捨てられずにいつまでも持っている。休日に親と一緒に買い物をしている姿を友達に見られると少し恥ずかしい。そして、自意識が芽生え始め、色んなことが恥ずかしくなって照れ隠しをしてしまう。この本を読むことで、普段は忘れている中学時代の自分のことが思い出されてきて、なんともいえない気持ちになってくる。ヨッシーに中学生時代の自分を投影することで、よく考えたらあのころは何にも知らずに生きていた、何も気にせずに生きていたなあと思い出す。そして、そんな自分が純粋無垢な存在であったなと思えてくるのだ。

 

そして、中学生あるある。初めて友達といったカラオケは、互いにけん制しあって誰も歌いださなかったり、かといえば変に慣れてる雰囲気を出す者もいる。保健体育の授業で突然、男子と女子が別の教室に分かれて始まる性教育。そして、その内容のピンとこない感じ。他の家の人が作った食べ物がなんとなく気持ち悪くて食べられないなどなど。中学生の時ってそんなことがあったなと思い出す。そして、こういう出来事を経験してきたのは自分だけじゃないんだと、自分のことが分かってもらえた気がして少し嬉しくなる。

 

さらには、中学生たちのなんだかよく分からない生態。

 

モッチャン「俺、オナニーってお金出さないとできないものだと思っていたよ」

ヨッシー「モッチャンはみんなに優しいからなあ(意味不明)」

 

という支離滅裂なやりとり。なぜオナニーにお金を出すという発想が、みんなに優しいということにつながるのか。謎だ。ナニをするにもお金を払うといった、ちゃんとした手続きが必要であると考えているモッチャンの姿勢を、ヨッシーは優しいと捉えているのだろうか。筆者もカギ括弧をつけて意味不明と書いている。また、ハルコはハルコで、肝試しのことを英語でレバーテストと言ってみたりする。漫画「それでも町は廻っている」の歩鳥を思い出すほどの直訳っぷり。歩鳥は高校生だけれども。そして、女子中学生たちの「不良が好き」と「脚が速い人が好き」という価値観。でも、この単純さがいいよね。なににもまみれてないというか、打算的じゃないというか。なんとなく「年収〇〇円以上の人が好き」といったものよりも、自分のことを見て好きと言ってくれているような気がする。大人になったらこんな価値観で人を好きになるなんて無理なんだろうなあ。

 

www.city.nobeoka.miyazaki.jp

 

そして、若山牧水青春短歌大賞の入選作品などを見ていても、やっぱり中学生と高校生で大分違う気がする。

 

中学生には、程よく幼く、だけれども大人にはない視点の短歌が多い気がする。それに比べて高校生のものは、ある程度気持ちが分かるというか、分かりすぎてしまうというか。やっぱり高校生にもなると大人に片足を突っ込んでいるんだなと感じる。中学生のころなんて、芸術に頼らなくとも毎日楽しかった。そもそも芸術の素晴らしさなんて分からなかった。ある意味で芸術の素晴らしさが分かる、芸術に救われるということは、人生が息苦しくなってきているという証拠でもあるのだろうか。

 

文章の面白さ

この本は、登場する中学生が面白いのはもちろんのこと、流石はコント作家というだけあり、筆者の書く文章表現もとても面白く、読んでいて笑えるところがたくさんある。モッチャンが動物園で急激な便意に襲われ、医務室までたどりつけずにオオカミの檻の前で裸になった話なんて最高だ。

 

優しいシングウが、そっとティッシュペーパーをモッチャンに差し出していた。モッチャンは照れながらも「サンキュ・・・・・・」とつぶやいた。シングウは「気にすんなよ」と言った。オオカミがそれを見て「キュウン」と予想外の声を出した。たぶん、この動物園で一番の珍獣がモッチャンだと僕は思った。 p24

 

もうギャグマンガみたいな描写。この文章を読むと、オオカミが絞り出すようにして「キュウン」と鳴いているイメージがありありと頭の中に浮かんでくる。

 

さらには、筆者が中学生のころの合唱コンクールのエピソードも面白い。本番を1週間前に控えたころに、クラスの指揮者である志田さんが指揮が下手だという理由で嫌がらせを受けての話。

 

志田さんは学級会にて「わたしはこの暴力に屈しません。屈せず、そしてタクトだけを振り続けます」というガンジーを1億分の1ほどスケールを小さくさせた名言を皆に放った。 p138

 

この比喩が最高に面白い。そして、指揮棒をタクトと呼ぶところも、少し鬱陶しくて面白い。いや、でも志田さんもよく頑張ったと思う。あの合唱コンクールの異様な雰囲気。女子たちのものすごいやる気は今でも覚えている。わたしのクラスメイトの男子は、女子に「あんた音痴やから歌わんといて。口パクだけしといて。」と言われて、涙を流していた。あれは悔し涙だったのだろうか。いずれにしても、今思い出しても可哀想だ。非情すぎる。それほどに、わたしのクラスの女子たちは勝ちにこだわっていた。勝利至上主義。勝てば官軍、クラスメイトの男子の涙など知ったことか。ただ、確かにその男子生徒は音痴の割に声がよく出ていた。漫画であれば、音痴の代表的な表現である「ボエ〜」という効果音が描かれるくらいには音痴であった。自意識過剰な中学生のころに、音痴であるにもかかわらずなんの恥ずかしげもなく大きな声で歌っていたことから、本人も自分が音痴だという自覚はなかったのだろう。女子による非情な宣告を受けるまでは。そして、正直そのクラスメイトの近くで歌っていた男子たちは、彼の暴力的なまでに狂った音程と声量に引っ張られて変な感じにはなっていた。いつだって、誰かの犠牲の上に栄光があるということを中学生にして学んだ。まあ、7クラス中4位でしたけれど。

 

Tシャツビリビリーズとの別れ

筆者はTシャツビリビリーズのメンバーと様々な遊びに興じ、たくさんの思い出を作っていく。それと同時に、筆者自身の中学生時代のことも思い出していく。

 

帰り道、僕はお母さんと一言も口を聞けなかった。お母さんは最初、不思議な顔をしていたが、そのうち何かに気づき「あーあ、ついに始まったのか」と一言だけ言って、少し寂しそうに笑った。 p151 

 

筆者の「お母さんと一緒に歩きたくない病」発症の思い出。息子が自分から離れていきながらも、それは大人になるということと現実を受け止めた筆者のお母さんの様子に胸が打たれて仕方がない。「少し寂しそうに笑った。」という仕草に、母親の懐の大きさと愛情が表れている。この文章を読んで、単純だがとても親孝行がしたくなった。

 

そして、筆者が大人になった今、なぜ中学生たちと遊んでいるのかといったことについて書かれているのが次の文章である。

 

僕はいま、大人になってから中学生たちと遊んでいる。毎日のように遊んでいる。きっとあの何もなかった頃の自分を誤魔化したくて、中学時代をもう一度ぶり返そうと必死なのかもしれない。どうかと思う。 p156

 

もう戻ってくることはないはずの中学時代を、大人になっていまだに取り戻そうとしている。筆者はそれがおかしいことであるとは自覚しているのだが、それでも昔を引きずって中学生たちと遊び続けている。失われた中学時代を取り戻そうとして。わたしもいつまで経っても、ああ学生時代に戻れたらなあ思い続けている。明日、目が覚めたら中学もしくは高校時代の自分にタイムスリップしていないだろうかなどと考えながら眠りにつく夜もある。終わりがあるからこそ尊い時間であったということは分かるのだが、あのころがずっと永遠に続けば良かったのにと思ってしまう。

 

しかし、そんな中学生たちとの楽しい時間は永遠に続くわけではなく、Tシャツビリビリーズのメンバーはゆっくりと大人になっていき、次第に別れのときが近づいてくる。そんな中学生たちとの別れ、そして中学生たちの成長を筆者は素直に受け入れることが出来ない。

 

 しかしなぜだろう、こうしてどんどん大人へなっていく彼らを見ていると、巨大な無力感が僕を襲う。この子たちの成長を、なぜ僕は止めることができないのだろう。この子たちはなぜ、大人になってしまうのだろう。(中略)中学生たちは、こうして寝ている間にも、どんどんと大人になっていく。背が伸びていく「めりめりっ」という音が、僕には聴こえた気がした。 p192

 

普通の感覚として、子どもたちの成長は喜ばしいことである。けれども、筆者はこのことに関して悲観的である。そんな筆者の態度は、何かがゆがんでいるような気がする。しかし一方で、筆者が抱くそんな気持ちにも非常に共感できてしまうのだ。それは、中学生のころには持っていた何かを、大人になることによって失ったという感覚がどこかにあるからなのだろう。それは純粋さなのか、日々の楽しさなのか、言葉で単純に表すことは難しいのだけれども。やはり中学時代の日常と大人になった今の日常では、決定的に何かが異なっている。

 

 

中学生たちとの別れをうまく受け入れることができていない筆者ではあるが、最後には少し感動的なエピソードによって、別れを決意することができるようになる。気になる方はぜひ読んでみてほしい。出会った人々とは、いずれ必ず別れのときが来るだろう。しかし、離れ離れになったあとでも不意にその人との思い出を思い出す、そんな瞬間があるということが互いにとって素晴らしい出会いであったということなのでないのだろうか。という少しクサいことを考えさせられるぐらい素晴らしい本であった。