家にいる時間が多くなると自然とネットサーフィンにかける時間も増えてしまい、その結果、ずっと欲しかった本などをポチポチと購入してしまいました。
「不思議というには地味な話」が新版として復活したため、こちらも絶版のところを復刊してくれないもんかと待っていましたが、ついに堪えきれずに買ってしまいました。近藤聡乃の描く線の柔らかさが好きすぎて、肘とか親指の付け根の膨らんでるところとかの描き方を眺めているとたまらない気持ちになってきます。この本に収録されている話には、昔のことを不意に思い出したけれど、その思い出したことは果たして本当に記憶通りだったっけ?といったものが多い。
思い出してはみたものの、本当のことかわかりません
楽しかったはずなのに、なんだかとてもあいまいです
いつもいつも私はこんなことばかりしている気がします
昔懐かしい夢を見たけれど、その日の午後にはそれがどんな内容だったのかを忘れてしまい、思い出そうとしても全く出てこない。そして、そんな忘れてしまった夢を思い出そうとしたことそれ自体も次の日には忘れてしまっている。でも、そんな風にして忘れてしまうのはなにも夢ばかりではなくて、現実の出来事だって同じなのかもしれない。この本にはそのようななんとも言えない独特の浮遊感がある。わたしゃあ最近、高校時代のことを思い出していると、そこに大学生になってからの友達がいたような気がしてくることがちょいちょい増えてきた。その度に、学校の友達全員が今までの仲の良い友達であるオールスター版の高校生活を過ごしてみたいと思ってしまう。手塚治虫ばりのスターシステム。絶対に楽しいはず...はず...はず...
黒田硫黄の「茄子」は宇多川八寸さんのnoteを見て知った。
こちらの漫画も絶版しており、コロナ禍以前にあちこち古本屋を巡って探したのだが、そもそも黒田硫黄の漫画が古本屋には全然置かれていなかった。あったとしてもアップルシードぐらいだった。ほんで京都国際マンガミュージアムの所蔵を調べてみたところ、どうやらここにはあるぞとなった矢先、コロナ禍で営業休止(今はやってます)。っていうことでネットで買ってしまいました。この漫画は何かストーリーがあるといったものではなく、生きている時間そのものを描いていて、読んでいると湿気みたいなものがすごく感じられる。そして、結構読むのに疲れました。でもこの疲れたっていうのは、一般的にマイナスの意味に捉えられるかもしれないけれど、決してそうではなくて、普通のストーリーのある漫画じゃあ省かれるような部分もいちいち描いてくれているからこそ抱いた印象なのだと思う。まあそれが逆に漫画にはストーリーがあるものだ、それが当たり前だと思っている人にとっては「それで何が言いたいん?」みたいに思えてきて、読んでいてストレスを感じる要因になりうるのだろうとも思います。音楽とかでも抑揚の少ない曲を聴いて『サビないやん』とか思う人にはこの漫画は向いてないと思います。でもわたしにとっては、この漫画の、夜の台所の前に立って歯磨きをしながら独り言を言う瞬間だとか、寝る前にホテルのベッドのサイドテーブルに眼鏡を置いて目を細める瞬間だとか、そういったいちいち描いてくれている瞬間が妙によくて、自分の生きている現実世界のある瞬間にまで繋がってくるような感覚を覚えるのです。『おれの人生にもそんな瞬間たまにあるわ』って、そう思えただけでなんであんなにも感動してしまうんでしょうね。っていうか茄子って美味しいよね。茄子自体にそんなに味はないけれど、煮びたしとかみたいにめちゃくちゃ調味料とかダシを吸うじゃないですか。そこがいいですよね。茄子の味噌炒め、簡単で美味しいので結構な頻度で作ってしまいます。
「小説の自由」は、保坂和志が小説について考えたことを書いたシリーズのひとつ。続編の「小説の誕生」を先に読んで面白かったので買いました。面白いんだけれど、この本も読むのに体力を使うので、ちょっとずつ読んでいます。そうすると、反動としてサクッと読める本も欲しくなってきて、それには何かしら対談している本がいいなと思い、詩人の谷川俊太郎と歌人の岡野大嗣、木下龍也による連詩とその感想戦が収録された「今日は誰にも愛されたかった」を買った。
感想戦において谷川俊太郎が、対談の進行役を務めるナナロク社編集部の方からの、自身の作った詩に対するやや深読みをした質問に対して、否定するときはスパッと否定していたのが面白かった。ある作品に対して過剰に意味やメッセージを見出そうとするのはどうかと思うときもあるけれど、確かに自分の読み方はあっているんだろうかといったことは気になるもんなあ。そして谷川俊太郎の生み出した「詩骨(しぼね)」という言葉にグッとくる。なにかしらの出来事をなんでもストーリーに組み込んでドラマチックなオチを作り同情させるといった世間の流れに逆らって、どれだけ自分の見方、姿勢を保ち続けられるか。そんな分かりやすいように脚色されたドラマによって隠された、かき消された本当に大事な細部に気づくことができるのか。テーマは脱ストーリー、ドラマ化かもしれない。
ほんで夏ということで、ある日急にクレイジーケンバンドの「ガールフレンド」を思い出し、それ以来めちゃくちゃ聴いている。
クレイジーケンバンドはね、歌詞のフレーズが魅力的なんです。ガールフレンドの「ってなわけでね」とか「中学生でもあっるっまいにっ!」とか。「中学生でもあっるっまいにっ!」のほうは、この曲を知ってる人相手には積極的に使っていきたいほど。
「中学生でもあっるっまいにっ!」、自分が中学生くらいのころに聴いていたアナログフィッシュとシャカラビッツのMVがYouTubeに上げられているのを発見して、テンションが上がった。
[SHAKALABBITS] "Ladybug" Full Ver. [Music Video]
シャカラビッツの「Ladybug」なんて、ガラケーの着うたにしておりましたから、大変懐かしい気持ちでございます。そういえばこの前、カウントダウンTVにロードオブメジャーのボーカルの人が出演していたらしいですね。こっちもめちゃくちゃ懐かしい。そんなにファンでもなかったけれど、中学ぐらいのときにベスト盤だけは聴いていました。
個人的に「スコール」が好きでした。
こういう風にして、懐かしい曲を一曲聴くと、連鎖反応的に当時よく聴いていた他の曲も聴きたくなってくる。シャカラビッツつながりで175Rの「空に唄えば」を思い出す。MDに入れてめちゃくちゃ聴いてたな。
曲の中で何度も訪れるサビの中でも、最後のサビだけハモるセンスよ。あそこにグッと来ていたもんよ。以前にも書いたことがあるけれど、小中学生のころのわたしは、曲のサビでは絶対にハモってほしい、ハモってくれななんか物足りんといった価値観をもっていた。
抑揚が少なくて分かりやすく盛り上がるところのない曲を聴いては『サビないやん』と思ってました。くるりの「赤い電車」とかを聴いて『サビないやん』って思っていました。それが今じゃあもう中学生でもないんで、ハモリモセズ、サビデトクニモリアガリモセズ、そういう曲の良さもわたしは分かるようになりました。曲のサビ以外の部分でも好きなところを見つけられるようになりました。少しは成長したというか、世界の捉え方の枠が広くなった気がします。