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大人になった今、もう一度子どもの気持ちを考えてみる(河合隼雄「子どもの宇宙」)

子どもって、いつまでが子どもなんだろう。大人って、いつからが大人なんだろう。明確に大人になったなあと思った瞬間はない。けれども、人間は緩やかに変化していて、気づかないうちに、子どもの頃の自分とは考え方が変わってきているのだろう。仮に、今の自分が子どもの頃の自分に出会ったとしたら、子どもの頃の自分の気持ちや考えをしっかりと受け止めることはできるのだろうか。そんな子どもの頃の気持ちをもう一度思い出し、大人になった今、子どもたちとしっかりとコミュニケーションを取れるようになるためにこの本を読んだ。

 

子どもの宇宙 (岩波新書)

子どもの宇宙 (岩波新書)

 

 

子どもも一人のしっかりとした人間

 

大人になるということは、子どもたちのもつ素晴らしい宇宙の存在を少しづつ忘れていくこと p1 

 

私たちは大人になっていくにつれて色んなことを忘れていく。子どもの頃は、大人に子ども扱いされることがいやであったのに、大人になった今、気づけば無条件に子どもを子ども扱いしてはいないだろうか。

 

子どもに対して「大きなりはった」といって頭をなで、大人たちは子どもと「対話」したと思ったり、「可愛がってやった」と思ったりしている。そうして子どもたちに「(大人は)みんなおなじことをいう」と思われる。 p4 

 

子どもたちは、大人が思っている以上に大人の行動をよく観察している。私たち大人が思っているほど、子どもは何も考えずに生きているわけではないのだ。子どもには子どもの考えがあり、子どもの世界をもっている。子どもも大人同様、一人の人間、人格として見なければならないのだ。自分の方が年齢を重ねているからと言って、子どもを幼稚な存在として見下すのは、あまりにも愚かな行為ではないか。たとえ、それが無意識に行われていたとしても。

 

大人と子どもの世界の違い

 

大人は月給や地位などの目先の現実に心を奪われている。自分の中の宇宙に気づくことは、案外不安や恐怖がつきまとう。そんな不安を避けるために大人は子供の宇宙の存在を無視したり破壊したりするのかもしれない。 p8 

 

ここで語られてる「宇宙」とは、社会的な価値などは度外視した自分にとって素晴らしい世界を意味している。大人になると働いてお金を稼いで、明日の食べ物に困らないように、年をとっても生活していけるようにということばかり気にしてしまう。その一方で、自分の好きなことだけをしていたいという気持ちもある。大人はそういった2つの気持ちのせめぎ合いの中で生きている。しかし、子どもは明日を生き抜くことなど気にはせず、自分の「宇宙」だけを追いかけている。そんな子どもの姿は、現実世界にさらされた大人にとっては、ひどく不安定で先の見えない生き方をしているように映る。だから、実の息子が自分の夢を追いかけようとしても、もっと現実を見なさいと止める親もいる。親は息子のことを思って発言しているのかもしれないが、実は親自身が子どものそんな生き方が不安だから押し付けているだけかもしれない。でもこれは、かなり難しい問題だ。

 

詩人や芸術家には、このような子どもの頃の宇宙を忘れずにもったまま大人になった人が多いのかもしれない。そして同じ日常に向ける眼差しとしても、子どものころに日常の些細なことが気になって色んな事に感受性をはたらかせていたことと、大人になってから平凡な日常生活を愛おしく感じることは全く中身が違うのではないだろうか。前者は純粋な好奇心から来るものであるが、後者は仕事などから来る日々の疲れの反動のように思える。私たちは子供のころの感性を一度失ってから、無理矢理取り戻したかのようにふるまっているに過ぎないのではないか。子どものころに戻りたいと思う気持ちは、子どもへの憧れと同時に、その純粋な生き方への恐れも抱いている。

 

子どもにとってのアイデンティティ

 

父親や職業などといった他人の存在によって支えられているアイデンティティとは異なり、自分しか知らない秘密は他人に依存していないので、アイデンティティとしては真に素晴らしい。 p49 

 

大人はあくまで社会的に生きている。だから、大人にとってのアイデンティティは、社長であるとか、一流企業の社員であるとか、全て他人との関係によって生じるものである。一方、子どもにとってのアイデンティティは、自分しか知らない秘密をもっているということなのである。秘密をもつことによって、今までの自分とは違った自分になれる。その秘密の存在が自分のアイデンティティを支えてくれるのだ。そして、この秘密を自分だけのものにしたいという気持ちと他人にも教えてみたいという矛盾を抱えながら、子どもたちは社会とかかわっていくこととなる。

 

この秘密はときに、アイデンティティを支えるだけでなく、自分自身を苦しめる原因にもなりうる。この本において、幼少期に痴漢に襲われた女性がその事実を誰にも言わずに隠し続け、30歳になろうとしたときに母親に打ち明けたというエピソードがある。母親は娘の話を聞いて、そんな昔のことを今更と一蹴してしまい、娘はそれがショックで自殺をしてしまうのだ。秘密とは自分の世界を支えるもの(いい意味でも悪い意味でも)であるからこそ、その秘密を他人にぞんざいに扱われたとき、それは自分の世界を否定されたと同等のことを意味する。秘密というものの殺傷能力の高さ。それほど、子どもにとってのあるいは幼少期の秘密というものは、とても大事で繊細なものなのである。

 

近代教育の盲点

 

こちらの世界を「技術の世界」、あちらの世界を「超越の世界」としてとらえると、近代教育の盲点のひとつは、子どもに技術を身につけさせること、技術を教えることに熱中し、超越の世界の存在を忘れていることにある。技術の世界に住む人間は"よく"(目的)をどれほど達成したかによって測られる。子どもは、学校の成績によって測られる。上位の子ども、下位の子ども、と相対的に分けられる。子どもを相対的にとらえることが教育の基本となる。"ひとりひとりの子ども大切に"と絶対的にとなえることを強調しても、超越の世界を無視しているために、その声は空虚である。 p114 

 

子どもにはそれぞれの宇宙があり、「超越の世界」がある。だからこそ、子どもは成績という「技術の世界」の物差しだけで測ることはできないのである。いくら子どもひとりひとりを他人と比べずに絶対評価しようとしても、学校の成績というものは「技術の世界」の価値観であり、相対評価によってしか評価することはできない。子どもたちひとりひとりを絶対評価するためには、「超越の世界」からのアプローチが必要となる。しかし、「超越の世界」というものは社会的な価値観が全く当てはまらないものだ。教育現場というものが、社会に適応できる人間を育成する場であるとするならば、どのようにしてこれは達成されるのであろう。う~ん、本当に難しい。

 

子どもにとって日常は死の連続

 

日常は変化の連続だ。私たち大人はこれまでの積み重ねてきた経験によって、その変化に多少は慣れている。しかし、人生経験の浅い子どもたちにとっては、変化とはこれまでの自分の死に近いほどの振り幅をもったものかもしれない。人生が始まったばかりの子どもたちにとっては、変化に対応するということは、それほどにエネルギーを必要とすることなのだ。思えば自分が幼少期のころは、些細なことで不安になっていた。今になってみると、そんなに不安になるほどのことではないのかもしれない。しかし、そこで子どもたちに対して、そんな大したことではないと適当に笑ってやり過ごすのではなく、真剣に親身になって考えてあげることが必要なのではないか。子どもたちは、自分の話を真剣に聞いてくれる大人を必要としている。そして、そんな大人の存在が子どもたちにとって、どれほど心強い味方であるかということは、想像に難くないと思う。自分が幼いころに、そんな大人が身の回りにいてくれたら、かなり救われていただろう。大人になった今、次は自分が子どもたちにとって、そういう存在にならなければいけないと思う。それが、大人が子どもにできるはじめの一歩ではないだろうか。