牛車で往く

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夏風邪が呼び起こした大学生のころの暇な昼間の記憶

先週、風邪をひいてしまった。夏風邪なんて人生で初めてかもしれないというくらい、この時期に風邪をひいた記憶がない。なんでも咳が止まらないタイプのものであった。ということで、一日会社を休んで病院へ。わたしは基本的に仕事なんて好きじゃないから、風邪をひいているとはいえ会社を休めて少し嬉しかった。朝、布団の上で目を覚ますと身体がいつもよりも重い。そしてのどがやけにイガイガする。これまで生きてきた経験から「これはもう風邪でしょう・・・」とすぐに分かった。正直、無理をすれば働けるぐらいのしんどさではあったが、「周りの人に風邪をうつしてしまっても悪いし・・・」というのは建前であって、会社を休む口実ができたので休もうと即座に決心した。いざ会社に連絡し、今日は休むということを告げると、それだけでもう幾分か身体が楽になった。どんだけ働きたくないねんと自分で思わないこともないが、平常時でも働くのはしんどいのに、しんどいときに働くなんてもっとしんどいから、もう働きたくないのだ。もはや子どもが駄々をこねているようなものではあるが、これは本当にそうだからもう仕方がない。とはいえ、確実に風邪をひいてはいるので、お昼前ぐらいに電車に乗って最寄りの病院へと向かった。

 

家を出て駅に向かっていると、夏なのにそんなに暑くないなと感じた。とはいえ汗は絶えず噴き出てくる。ホームにて電車を待っている間、やはり少し身体が重く感じられた。しんどさっていうのは動いているときよりも、止まっているときのほうが感じやすいような気がする。歩いているときはそんなにしんどくなかったのに。中学の部活のときもそうであった。球拾いをして動いているときはしんどくなかったのに、集合がかかって後ろに手を組んで先生の話を立って聞いていると急にしんどさが顕在化してきた。急に暑さとか疲れとかがジワァーっと頭の中を満たしてくるような感覚。ただ、思ったよりも電車はすぐに来てくれたため助かった。クーラーの効いた車内に座ると「フゥー」と大げさに息をつきたくなった。各駅停車の電車が動き出し、車内の様子を見渡すとお年寄りと子ども連れの母親が多いことに気づく。それでもやはり平日の真昼間ということで会社で働いている人が多いのであろう、車両の中はガラガラであった。人がガラガラで進行方向と直交する向きに座るタイプの座席であったから、向かい側の窓の景色を座りながら堂々と眺めることができた。窓の外の景色を見ていると、空に浮かんでいる雲はほとんど動かないのに、軒先の景色は次々と横へと流れていった。ああ、ここの駅は学生っぽい人がよく乗ってくるから大学でもあるんだろうな。お昼に高校生がいるけど今ってテスト期間で早く学校が終わったんだろうか。もしかしてサボり?など、色んなことを考えてしまった。そしてふと、なんかこの感じ、大学生の暇なころの昼からしか授業が入ってなかった一日に似ていて懐かしいなと思った。なんだかそれに気づくと急に嬉しい気持ちが湧いてきて、あのころは確かに暇で退屈でこんな毎日いつまで続くねんって思っていたけれど、社会人になった今、そんなころの空気がふと顔をのぞかせるとこんな感情になってしまうなんて、思い出補正は恐ろしいなと感じる。思い出は美化されて全てがフィクションっぽくてそれっぽいワンシーンになってしまう。まあでもそれで心が軽くなったのも事実、そんな感傷が呼び水となり、大学生の夏によく聴いていたThe Beach Boysの「California Feelin'」をウォークマンで再生した。

 

 

懐かしい。なんといってもコーラスが最高。YouTubeに別バージョンのPVが上がっているのだが、私はこのアルバムバージョンが好きなのである。あのころ考えていた、このまま何者にもならずにフラフラしたまま生きれたらいいのにという感情まで呼び起こされる。そしてなぜか、思い切って仕事をやめてもどうにかなるんじゃないかという浅はかな考えまで頭に浮かんできた。どうにもならんよ、ノープランのノービジョンじゃあ。それにやめる勇気もないだろう、自分よ。それにしても車内はクーラーが効いていて心地よく、このままずっと乗っていられるなあなんて思った。

 

病院のある駅に着き、受付に行って問診票を受け取った。その際に自分の受付番号を教えられ、およそ1時間後ぐらいに呼ぶことになると告げられた。まあまあ待つなと思ったが、こんなときのために小説を持って来ていたから、どうにか暇は潰せそうだ。長嶋有の「夕子ちゃんの近道」を読む。

 

夕子ちゃんの近道 (講談社文庫)

夕子ちゃんの近道 (講談社文庫)

 

 

この小説の主人公は、「フラココ屋」という名の骨董屋の2階に住んでいて、その骨董屋の手伝いをしながら生活している、いわゆるほぼほぼプー太郎のような感じの人物である。先ほどの電車内において浮かんだ「仕事やめてもどうにかなるんじゃないか」という考えは、少なからずこの小説から受けた影響が起因している。自分にとって都合の良い部分だけに影響を受けてしまうのはいかがなものかと自分でも思うが、なんだかそんなことを繰り返しながら生きてきた気もする。それはさておき、私はこの「夕子ちゃんの近道」の収録されている一篇「瑞枝さんの原付」において、瑞枝さんが主人公を心配してストーブを運んでくるシーンがとてつもなく好きなのだ。重そうにストーブを運んでくる瑞枝さんの姿を、フラココ屋の2階から見つけた主人公が「手伝いにいかなくては」と思いながらも動かなかったこと。主人公のためにストーブを持って来てくれた瑞枝さんの姿を見て、今ここで庇護されているのは、ストーブを与えられようとしている自分のほうではなくて、瑞枝さんのほうだと錯覚してしまったこと。人のやさしさに感動するも、そんなやさしい人の姿がなぜか、とてもか弱いものに見えてしまうといった気持ちがものすごく分かる。なんなんだろう、この感情は。本当の本当にやさしい人っていうのはそんなにいるわけじゃなくて、でもやさしい人について考えたときに何人かの顔は頭に浮かんで来る。そんな頭に浮かんだやさしい人たちのやさしさを純粋な"やさしさ"としてそのまま素直に受け止めてくれる人って、一体どれだけいるのだろうか。そのやさしさにつけこむと言ってはなんだか違うかもしれないが、あまりにも無防備なそのやさしさが利用されることもあるんじゃないかと心配になってしまうときもある。それでもそんな彼らの無垢なやさしさ、やさしい姿はやはり尊いものであり、愛おしくて抱きしめたくなる。

 

小説を読んでいるうちに自分の順番がきて、先生に診察してもらった。自分の家に体温計がないため体温を測定できていないが、おそらく熱はないだろうと先生に伝えた。すると、念のため測っておきましょうということになり、いざ測ってみるとゴリゴリに熱があった。道理で外に出てもそんなに暑さを感じなかったわけだ。あとで夕方の天気予報を見て知ったが、この日は普通に気温が30度を超えており真夏日であったようだ。そして、熱があると自覚すると急にしんどくなってきた。知らないほうが幸せってこともある。処方箋をもらい、薬局で薬をもらってとりあえず帰宅した。

 

家に着くやいなや、すぐに布団に倒れこんだ。手持ち無沙汰になりスマホをいじるが気分が悪くなってくる。風邪をひいたときや二日酔いのときにスマホをいじると気持ちが悪くなる。熱があると知って急にしんどくなり、スマホを手放して目を閉じ眠りについた。目が覚めたころには夕方になっており、眠る前よりも身体が熱く、本格的に熱が出ているようであった。晩ごはんに冷凍うどんを作り食べた。風邪をひいたときって、なんだか感覚が冴えているような気がする。元気な時よりもうどんの味がはっきりと分かる。いつも冷凍うどんを美味しいなあと思いながら食べていたが、今日は味の細かいところまで分かってなんだか不味い。それでも、少しでも栄養をということで残さずに食べたが、果たしてうどんにどれだけの栄養があるのだろうか。うどんを食べ終わって、また寝ようかと思ったが、今度は咳が止まらない。咳が止まらないから眠れない。最悪だ。とりあえず部屋の電気を消して横になる。すると、普段は意識しない周りの音が急に気になってきて余計に眠れなくなった。冷蔵庫ってこんなにモーター音がしてたっけ。家の前を原付が通っただけでうるさいなあって思う。しまいにゃあ、なにか分からない「ボコッ」という音。眠れなさが焦りを生んで、より眠れなくなる。それでもこまめに時計を見ると、意外と時間が進んでいない。夜って結構長いんやなあということに今さら気づいた。そして気が付けば眠りに落ちており、朝、目が覚めたときには身体はずいぶん楽になっていた。

 

風邪をひいてしんどいといえばしんどかったが、なんだかゆっくりできたような気もする。ひいて良かったとまでは思わないが、ひいても悪くはなかったような気がする。そんな気がするということで終わりです。風邪をひくたびにバンプの「supernova」を思い出し、名曲だと思うことも書いておきます。