牛車で往く

日記や漫画・音楽などについて書いていきます 電車に乗ってるときなどの暇つぶしにでも読んでください

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秋の寂しさはどこから来るもの?

ただの日記を書きます。気づけば8月も最終日。ただ今実家に帰省しておりまして、こんなタイミングで夏休みをもらっても、友人たちは働いているからすることがない。でも家にいても仕方が無いので、自分が中学生、高校生だったころによく通っていた道をその当時よく聴いていた音楽を聴きながら歩くという、まあまあキツめの散歩を敢行することにした。この「キツめ」という言葉の意味は、読んでくれた方それぞれの解釈をしていただければ幸いです。8月も最終週に入ってからはだいぶ涼しくなってきて、散歩をしていてもそれほど汗をかかなくなった。もう夏も終わりなのかと思ったりもするが、テレビの天気予報を見ていると来週から暑さがまた戻ってくるらしい。夏が終わると思うと寂しい気もするが、一度涼しくなったのならそのまま季節が進んで欲しいとも思う。まあいずれにせよ、いつでもいいなあと憧れる季節は今現在の季節ではなく少し先の季節なのだ。

 
自分が中学生だったころにリリースされた曲、よく聴いていた曲をシャッフルで聴きながら地元を歩いた。今日は小雨が降っていて、雨上がりを歩いていると雨のにおいが鼻をついた。そうすると、中学生の頃の、雨が上がった日の部活のことを思い出した。雨上がりにグラウンドを整備しているときは、いつもこのにおいを無意識に嗅いでいた気がする。グラウンドを整備し終わった後には、ほとんど部活をする時間が残っていなくて楽しくなかった。それに、せっかくグラウンド整備をした次の日に雨が降るなんてこともざらにあった。自分達は阪神園芸並みの整備スキルなんて持っていなかったし、グラウンド自体もそんなに良い土ではなかった。それに加えてやる気も無かった。ないないないの三拍子が揃っていたから、雨の日の次の日は、まあ本当に楽しくなかった。それなのに思い出として振り返る当時は、そんな自分達のことさえも愛しく思えてしまうので、思い出補正とは本当に恐ろしい。星野道夫が著書「ノーザンライツ」において、

 

ノスタルジアからは何も新しいものは生まれてはこない。自然も、人の暮らしも、決して同じ場所にとどまることはなく、すべてのものが未来へ向かって動いている。

 
と書いていたが、果たして自分は未来へ向かって歩いていけているのだろうか。いや、こんなキツめの散歩を敢行している時点で現在、未来と向き合えていないのは明らかである。

 

ノーザンライツ (新潮文庫)

ノーザンライツ (新潮文庫)

 

 
それにしても、音楽を聴いたり、においを嗅いだりして昔のことを思い出すたびに、五感と記憶の関係がいつも気になる。それっぽいことを調べては「ふ~ん」となんとなく分かった気になり忘れてしまうということを繰り返してきた。これも良い機会と思い、ちゃんと調べてみよう。ということで調べてみたところ、どうやら記憶と一番強く結びついている感覚は嗅覚のようだ。

 

www.sankei.com

 

五感のうち嗅覚のみが、脳において記憶を司る大脳辺縁系に直結しているためとのこと。それでも調べているとそれっぽい学術論文等を引用したサイトは見つからなかったため、詳細を知るためには専門書等を読んだ方が良さそうだ。果たしてそこまでするのか私は・・・。

 

散歩を始めたのはお昼も回った比較的遅い時間ではあったが、途中に喫茶店で休んだりしていると実家の近くまで戻って来たときには18時ぐらいとなっており、結構遅い時間になってしまった。夕方になるとより一層涼しくなってきた。これまたひとつ思うのだが、夏から秋へと季節が変わるとき、なぜ少しだけ寂しくなるのだろうか。涼しくなることが何か関係しているのだろうか。ということでこれも調べてみた。

 

news.livedoor.com

 

気温の低下が生命維持の観点において人間に不安を抱かせやすくなること、日照時間の低下が精神の安定に作用するセロトニンの分泌を低下させることが関係しているらしい。一日中家に引きこもって全く陽に当たっていない日にも、セロトニンの分泌が低下しているはずなのに、別に寂しくも切なくもならないのは、人間として何か大事なものが欠けてしまっているからなのだろうか。それでも秋が近づいてきて寂しさを感じている間はまだ大丈夫だと思いたい。そしてこの時期、やたらとアジカンの「転がる岩、君に朝が降る」を思い出して聴きたくなる。

 

転がる岩、君に朝が降る

転がる岩、君に朝が降る

 

 

 

昔のことを思い出して感傷に浸っていると、

 

初めから持ってないのに胸が痛んだ

 

の部分を思い出す。なにかを失ったような喪失感に胸を刺された気になっているけれど、そもそも失うようななにかを持っていたっけ?この感傷はどこからくるものなんだろう?それが分からないから、ずっと同じようなことを繰り返しているんだろうけど。


そんなことを考えながら歩いていると、空もだいぶ暗くなってきた。2019年の8月31日は18時50分頃が夕方と夜の境目のようだ。西の空にはまだ少しオレンジ色が残っているが、反対の東の空はもう明るくはない。自分の前に歩いている人の姿が見えるが、こっちに向かって歩いているのか、同じ方向に向かって歩いているのかが分からない。実家に到着し、玄関の鍵を開けようとすると、鍵穴に一人暮らしの家の鍵を刺そうとしてしまった。今日は自分の昔を振り返ってばかりであったが、この瞬間、今の生活はこことは違う場所で営まれているということをはっきりと意識させられた。夏休みも終わりです。

 

そういえばモノポリーってしたことがない

朝の通勤途中、公園に小学生たちが集まっている様子をよく目にする。なんといっても彼らは絶賛夏休み中だからね。朝からみんなで集まって遊ぶのって楽しかったよな。お昼に一回解散して、ご飯食べてからもう一回集まるとかあったな。あのころはお昼ご飯を外で食べるお金なんてなかったから、いちいち一回家に帰っていた。今思うとよくもまあそんなにめんどくさいことをしていたなと思う。今なら一回家に帰ってしまったら、「ああ~」って声を出しながら寝ころんでしまい、もう外に出る気は失せてしまうだろう。朝でも十分暑いもん。そんな公園に集まる小学生たちの様子を見ていたら、GRAPEVINEの「真昼の子供たち」を思い出した。

 


真昼の子供たち

 

 

でかい当たりを掴んでしまった

世界を変えてしまうかもしれない

毎日があっという間に終わった

油断すると大人になっちまう

 

油断してた~。大人になっちまった~。それにしてもいい曲。まあ私が目にしているのは真昼じゃなくて朝の小学生たちやけど。彼らもでかい当たりを掴んだ気になって、世界を変えてしまうかもしれないとワクワクするような夏を送っているんだろうか。い~や、送ってないね。そんなん考えずに遊んでいるね。でも楽しそうでなにより。

 

半袖半ズボンで遊んだあの少年時代の日々。大人になり、数年前にメンズファッションで半ズボン(ハーフパンツがシャレオツな言い方でしょうか)が流行したときに、自分も服屋で試着してみたけれど、試着室の鏡に映った自分の姿が気持ち悪くて結局買わなかった。なんで気持ち悪かったんだろう?履いている人を見て気持ち悪いなんて思うことはないけれど、自分が履いている姿を見るとそれはそれは気持ち悪かった。弱そうだった。めちゃくちゃ防御力が低そうだった。自分のことが嫌いだから?いやいや、自分のことが可愛すぎるから、理想と現実のギャップを受け入れられないだけなんだろう。なんて大げさなことを考えたけれど、とりあえず似合ってなかっただけだと思う。ホンマに純粋に筋肉量が足りずに弱そうに見えただけだと思う。私もムキムキになりたいけれど、そのための努力をする気はない。つまり一生、ハーフパンツを履くことはないだろう。フェアウェル、ハーフパンツ。

 

私にも与えられた小学生たちと比べたら雀の涙ほどの夏休み。というか盆休み。何日か友達と飲みに行ったけれど、あとはほとんど家でゴロゴロしていた。夏休みなのにゴロゴロしてばっか。

 


Alfred Beach Sandal "モノポリー"

 

 

そう思うとモノポリーってしたことがない。人生ゲームと似たようなものなんだろうか。調べてみた。

 

yanodaichi.com

 

不動産の取引や土地の売買をしながら資産を増やしていくすごろくゲームのようだ。人生ゲームと比較して、実際にプレイヤー同士で交渉して取引を上手く行わなければ勝てないらしい。あんまり自分の周りを見てみてもモノポリーをしている人はいないし、「モノポリーしようぜ」といった展開になったこともない。桃鉄ばっか。おんなじジャンルにくくっていいのか分からないが。ただ、日本においてやはりモノポリーはそれほど人気があるわけではなく、それには以下のような理由が考えられるそうだ。なんでもモノポリーは、資産を形成するためにお金の使い方を考えながら進めなければならないゲームであり、世界と比較して日本ではそのような考え方を必要とする「投資」を日常的に行っている人が少ないため、それほど流行していないということらしい。なるへそ。実際、日本におけるモノポリー人口はそれほど多くはないようで、日本モノポリー協会のHPは、単独のHPとして運営されているのではなく、糸井重里が主宰を務める「ほぼ日刊イトイ新聞」のHPを間借りして運営されている。

 

www.1101.com

 

最近は友人がボードゲームにはまっており、実際に一緒にやってみると面白いものが結構多い。この機会にモノポリーを提案してみてやってみようかな。なんせ外に出ると暑いし、家の中はクーラーが効いてるし。子どもは子ども、大人は大人の遊び方がそれぞれにあるよね。これが大人の遊び方なのかは何とも言えないが。

 

そうそう、そして、Alfred Beach Sandalといえば「Typhoon Sketch」。

 

 

ちょうど台風10号が近づいてきている。台風が迫ってきているときに感じる、謎の高揚感を歌ったこの曲。確かに小学生のころは、台風による非日常が自分を妙なテンションにさせていた。それは警報によって学校が休みになるかもしれないってことも影響していた。台風といえばそれ町を思い出す。最終巻の「嵐と共に去りぬ」もいいけど、5巻の「大嵐の夜に」のほうがより身近な内容となっていて好きだ。

 

それでも町は廻っている(5) (ヤングキングコミックス)

それでも町は廻っている(5) (ヤングキングコミックス)

 

 

それでも最近の現実世界の台風は、割とシャレにならない規模の爪痕を残して去っていく。去年はおそらく隣の部屋の人のサンダルが私の部屋のベランダまで飛んできていた。明日、明後日、台風が何事もなく過ぎ去ってくれることを祈るばかり・・・。

 

旅行代理店の前を通るときの気持ちと、うしろのほうの海

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旅行代理店の前を通るたびに、店の前に出された様々な旅行先のパンフレットが気になってしまう。そして、旅行に行けたとして年に最大2~3回ぐらいかなあと考えると、この先いろんなところに行くためには全然時間が足りないじゃないかということに気がつく。この夏、どこかに旅行に行きたいなあ。そして、去年の夏の旅行のことを思い出す。8月に行った旅行、暑すぎて楽しさよりもしんどさの方が勝っていたんじゃないか。もちろん思い出の中では楽しいものになっているんだけれど。そんな夏の旅行について考えていると、1ヶ月以上の長期休暇なんてこの先の人生においてもう全く訪れないんだろうなと、おそらくこれまで何人もの人が考えたことを、ご多分に漏れず自分も考えてしまった。そんなことを考えたからといって、夏休みをたっぷり取れるような人生に変えて行こうとどうこうするつもりはないんだけれど、急に精神的にしんどいなあなんて思ってしまった。かといって、膨大な時間を与えられていた大学時代の夏休みを有意義に過ごせていたかと問われてみれば、イエスとは答えられない。そして、仮に今の自分がタイムスリップして大学時代の夏休みを過ごせるようになったとして、何をしたらいいかは全く思いつかない。う~ん、悲しいね。でも、これに似たようなことは毎週末味わっていて、休日が始まったばかりの土曜日はダラダラしてしまい、休日が終わろうとする日曜日の夜に『ああ、この休日の間にあれやっとけば良かった・・・』なんて思ってしまうことが多い。そしてこの経験が次の週の土日に活かされることなんてほとんどない。タイムスリップしても、私は今の自分とさほど変わらない人生を歩んでしまう気がする。それどころか今よりも・・・。


土曜日に、スズリという誰でも簡単にオリジナルデザインのTシャツを作成して販売できるサイトを眺めていた。

 

suzuri.jp

 

いろんな人たちが、オシャレなデザイン、はたまたユニークなデザインのTシャツを作っては販売している。そんな中、不特定多数の誰かに販売するためではなく、特定の誰かへ個人的にプレゼントするためにデザインされたTシャツを時折見つける。多くの人に買ってもらおうとかそんな考えは一切感じられない、ただプレゼントする人ひとりのために考えられたデザイン。おそらく仲のいい友人の若い頃の写真や、その人たちにしか理解できないメッセージなどが載せられたTシャツ。明らかにその他のTシャツとは趣が異なっており、はっきり言ってめちゃくちゃ浮いている。そんなTシャツたちがやたらと目につくのと同時に、なぜか憧れのような感情を抱いてしまう。


そんな風にスズリを眺めながら、Lantern Paradeの「花」を聴く。

 

 

ビートルズのハーモニーもスライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンのファンキーもカーティス・メイフィールドのメロウネスも夢中にならない人のほうがはるかに多いという歌詞。確かに周りにはビートルズは知っていても、スライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンとカーティス・メイフィールドは知らない人の方が多い。そして自分自身、ビートルズのハーモニーやスライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンのファンキー、カーティス・メイフィールドのメロウネスに夢中になっているかと言われれば、そんなことはない。世の中には自分よりももっと色んなアーティストを知っている人たちは当たり前のようにたくさんいて、そしてさらに、その人たちよりももっと詳しい人たちがいて・・・。色んな作品を知っていなくても、自分にとって意味のある作品だけを知っていたらそれでいいんじゃないかと思うこともある。それでも外から見れば、もっと世の中には良いものがあふれているのにと思われてしまうんだろうか。私たちはどこまで行ってもすべての作品を聴いたり、見たり、触れたりすることはできない。そんな事実に途方もなさを感じると同時に、私にとって人生を変えうるほどの決定的な作品であったかもしれないのに、日の目を浴びずに埋もれてしまった作品もこの世にはあったのだろうかといったことまで考えてしまう。売れなかったから埋もれてしまった作品。世間の人には受け入れられなかったけれど、私個人には刺さっていたかもしれない作品。とはいえ、そもそも何かに人生を変えられるほど私は感受性が豊かなのだろうか。私には他人にオススメされた作品を素直に受け入れることができないところがある。自分にとっては良い作品とは思えないから、それはもうしょうがないことだと思ってしまうんだけれど、逆に自分の好きな作品の良さが友人に伝わらないときは、本当に理解できない気持ちになる。『なんでこんなに良いのに、面白いのに、素晴らしいのに分からへんねやろう?』って。私は、心のどこかで自分自身の感性は絶対であると信じているんだろう。それは傲慢かもしれないが、自分の感性が信じられなくなったら生きていけないじゃないかって思うときもある。そして、友人たちも私が彼らからオススメされたものの良さが分からないときに、同じような感情を抱いているんだろうか。思ってんだろうね、多分。


日曜日には、永田紅の「ぼんやりしているうちに」を読んだ。

 

ぼんやりしているうちに―永田紅歌集 (21世紀歌人シリーズ)

ぼんやりしているうちに―永田紅歌集 (21世紀歌人シリーズ)

 

 

夏に長らく海に行っていない。嘘。沖縄には結構行っていて、そのたびに海には入っている。でもそれはマリンスポーツの類いであり、海水浴は長らくしていない。それでも永田紅の短歌の

 

袋から出すときタオルのあたたかく湿りて海はうしろのほうよ


で呼び起こされる感覚が確かにある。私はあの湿ってあったかい水着とかタオルが気持ち悪くて嫌いだったな。でもこの歌を読んで、あのあたたかさは、先ほどまで入っていた海を引き連れていたんだということに気づかされた。海はうしろのほうよという部分からは、海水浴を終えて海から遠ざかっていく物理的距離とともに、もう入らなくなり思い出すだけになってしまった海との心理的距離を私は感じてしまう。夏のノスタルジー。春にも秋にも冬にもそれぞれのノスタルジーを感じている気がするけれど。andymoriの「すごい速さ」の歌詞

 

そのセンチメンタルはいつかお前の身を滅ぼすのかもしれないよ

感傷中毒の患者 禁断症状 映画館へ走る


の部分を聴いて、自分は感傷に浸りたくて無理矢理いろんなことを思い出そうとしてるんじゃないかって思うときがある。

 


andymori "すごい速さ"

 

それでもやめられないから、自分はもう感傷中毒の患者なんでしょう。いつからなんだろう。

 

学生の最後の年となりぬれど牛のようには懐古するまい

永田紅

 
学生じゃなくなって、はや数年です。

 

夏風邪が呼び起こした大学生のころの暇な昼間の記憶

先週、風邪をひいてしまった。夏風邪なんて人生で初めてかもしれないというくらい、この時期に風邪をひいた記憶がない。なんでも咳が止まらないタイプのものであった。ということで、一日会社を休んで病院へ。わたしは基本的に仕事なんて好きじゃないから、風邪をひいているとはいえ会社を休めて少し嬉しかった。朝、布団の上で目を覚ますと身体がいつもよりも重い。そしてのどがやけにイガイガする。これまで生きてきた経験から「これはもう風邪でしょう・・・」とすぐに分かった。正直、無理をすれば働けるぐらいのしんどさではあったが、「周りの人に風邪をうつしてしまっても悪いし・・・」というのは建前であって、会社を休む口実ができたので休もうと即座に決心した。いざ会社に連絡し、今日は休むということを告げると、それだけでもう幾分か身体が楽になった。どんだけ働きたくないねんと自分で思わないこともないが、平常時でも働くのはしんどいのに、しんどいときに働くなんてもっとしんどいから、もう働きたくないのだ。もはや子どもが駄々をこねているようなものではあるが、これは本当にそうだからもう仕方がない。とはいえ、確実に風邪をひいてはいるので、お昼前ぐらいに電車に乗って最寄りの病院へと向かった。

 

家を出て駅に向かっていると、夏なのにそんなに暑くないなと感じた。とはいえ汗は絶えず噴き出てくる。ホームにて電車を待っている間、やはり少し身体が重く感じられた。しんどさっていうのは動いているときよりも、止まっているときのほうが感じやすいような気がする。歩いているときはそんなにしんどくなかったのに。中学の部活のときもそうであった。球拾いをして動いているときはしんどくなかったのに、集合がかかって後ろに手を組んで先生の話を立って聞いていると急にしんどさが顕在化してきた。急に暑さとか疲れとかがジワァーっと頭の中を満たしてくるような感覚。ただ、思ったよりも電車はすぐに来てくれたため助かった。クーラーの効いた車内に座ると「フゥー」と大げさに息をつきたくなった。各駅停車の電車が動き出し、車内の様子を見渡すとお年寄りと子ども連れの母親が多いことに気づく。それでもやはり平日の真昼間ということで会社で働いている人が多いのであろう、車両の中はガラガラであった。人がガラガラで進行方向と直交する向きに座るタイプの座席であったから、向かい側の窓の景色を座りながら堂々と眺めることができた。窓の外の景色を見ていると、空に浮かんでいる雲はほとんど動かないのに、軒先の景色は次々と横へと流れていった。ああ、ここの駅は学生っぽい人がよく乗ってくるから大学でもあるんだろうな。お昼に高校生がいるけど今ってテスト期間で早く学校が終わったんだろうか。もしかしてサボり?など、色んなことを考えてしまった。そしてふと、なんかこの感じ、大学生の暇なころの昼からしか授業が入ってなかった一日に似ていて懐かしいなと思った。なんだかそれに気づくと急に嬉しい気持ちが湧いてきて、あのころは確かに暇で退屈でこんな毎日いつまで続くねんって思っていたけれど、社会人になった今、そんなころの空気がふと顔をのぞかせるとこんな感情になってしまうなんて、思い出補正は恐ろしいなと感じる。思い出は美化されて全てがフィクションっぽくてそれっぽいワンシーンになってしまう。まあでもそれで心が軽くなったのも事実、そんな感傷が呼び水となり、大学生の夏によく聴いていたThe Beach Boysの「California Feelin'」をウォークマンで再生した。

 

 

懐かしい。なんといってもコーラスが最高。YouTubeに別バージョンのPVが上がっているのだが、私はこのアルバムバージョンが好きなのである。あのころ考えていた、このまま何者にもならずにフラフラしたまま生きれたらいいのにという感情まで呼び起こされる。そしてなぜか、思い切って仕事をやめてもどうにかなるんじゃないかという浅はかな考えまで頭に浮かんできた。どうにもならんよ、ノープランのノービジョンじゃあ。それにやめる勇気もないだろう、自分よ。それにしても車内はクーラーが効いていて心地よく、このままずっと乗っていられるなあなんて思った。

 

病院のある駅に着き、受付に行って問診票を受け取った。その際に自分の受付番号を教えられ、およそ1時間後ぐらいに呼ぶことになると告げられた。まあまあ待つなと思ったが、こんなときのために小説を持って来ていたから、どうにか暇は潰せそうだ。長嶋有の「夕子ちゃんの近道」を読む。

 

夕子ちゃんの近道 (講談社文庫)

夕子ちゃんの近道 (講談社文庫)

 

 

この小説の主人公は、「フラココ屋」という名の骨董屋の2階に住んでいて、その骨董屋の手伝いをしながら生活している、いわゆるほぼほぼプー太郎のような感じの人物である。先ほどの電車内において浮かんだ「仕事やめてもどうにかなるんじゃないか」という考えは、少なからずこの小説から受けた影響が起因している。自分にとって都合の良い部分だけに影響を受けてしまうのはいかがなものかと自分でも思うが、なんだかそんなことを繰り返しながら生きてきた気もする。それはさておき、私はこの「夕子ちゃんの近道」の収録されている一篇「瑞枝さんの原付」において、瑞枝さんが主人公を心配してストーブを運んでくるシーンがとてつもなく好きなのだ。重そうにストーブを運んでくる瑞枝さんの姿を、フラココ屋の2階から見つけた主人公が「手伝いにいかなくては」と思いながらも動かなかったこと。主人公のためにストーブを持って来てくれた瑞枝さんの姿を見て、今ここで庇護されているのは、ストーブを与えられようとしている自分のほうではなくて、瑞枝さんのほうだと錯覚してしまったこと。人のやさしさに感動するも、そんなやさしい人の姿がなぜか、とてもか弱いものに見えてしまうといった気持ちがものすごく分かる。なんなんだろう、この感情は。本当の本当にやさしい人っていうのはそんなにいるわけじゃなくて、でもやさしい人について考えたときに何人かの顔は頭に浮かんで来る。そんな頭に浮かんだやさしい人たちのやさしさを純粋な"やさしさ"としてそのまま素直に受け止めてくれる人って、一体どれだけいるのだろうか。そのやさしさにつけこむと言ってはなんだか違うかもしれないが、あまりにも無防備なそのやさしさが利用されることもあるんじゃないかと心配になってしまうときもある。それでもそんな彼らの無垢なやさしさ、やさしい姿はやはり尊いものであり、愛おしくて抱きしめたくなる。

 

小説を読んでいるうちに自分の順番がきて、先生に診察してもらった。自分の家に体温計がないため体温を測定できていないが、おそらく熱はないだろうと先生に伝えた。すると、念のため測っておきましょうということになり、いざ測ってみるとゴリゴリに熱があった。道理で外に出てもそんなに暑さを感じなかったわけだ。あとで夕方の天気予報を見て知ったが、この日は普通に気温が30度を超えており真夏日であったようだ。そして、熱があると自覚すると急にしんどくなってきた。知らないほうが幸せってこともある。処方箋をもらい、薬局で薬をもらってとりあえず帰宅した。

 

家に着くやいなや、すぐに布団に倒れこんだ。手持ち無沙汰になりスマホをいじるが気分が悪くなってくる。風邪をひいたときや二日酔いのときにスマホをいじると気持ちが悪くなる。熱があると知って急にしんどくなり、スマホを手放して目を閉じ眠りについた。目が覚めたころには夕方になっており、眠る前よりも身体が熱く、本格的に熱が出ているようであった。晩ごはんに冷凍うどんを作り食べた。風邪をひいたときって、なんだか感覚が冴えているような気がする。元気な時よりもうどんの味がはっきりと分かる。いつも冷凍うどんを美味しいなあと思いながら食べていたが、今日は味の細かいところまで分かってなんだか不味い。それでも、少しでも栄養をということで残さずに食べたが、果たしてうどんにどれだけの栄養があるのだろうか。うどんを食べ終わって、また寝ようかと思ったが、今度は咳が止まらない。咳が止まらないから眠れない。最悪だ。とりあえず部屋の電気を消して横になる。すると、普段は意識しない周りの音が急に気になってきて余計に眠れなくなった。冷蔵庫ってこんなにモーター音がしてたっけ。家の前を原付が通っただけでうるさいなあって思う。しまいにゃあ、なにか分からない「ボコッ」という音。眠れなさが焦りを生んで、より眠れなくなる。それでもこまめに時計を見ると、意外と時間が進んでいない。夜って結構長いんやなあということに今さら気づいた。そして気が付けば眠りに落ちており、朝、目が覚めたときには身体はずいぶん楽になっていた。

 

風邪をひいてしんどいといえばしんどかったが、なんだかゆっくりできたような気もする。ひいて良かったとまでは思わないが、ひいても悪くはなかったような気がする。そんな気がするということで終わりです。風邪をひくたびにバンプの「supernova」を思い出し、名曲だと思うことも書いておきます。

 

夜の松屋からの古本屋で漫画立ち読みのコース

この前、友人と買い物に行った帰り、晩ごはんを食べに行きつけの松屋に行った。行きつけの松屋って表現、なんだか変な感じやけども。私、松屋が大変好きでございまして、その日はブラウンソースハンバーグ定食を食べようと心に誓い、店へと足を運びました。夜の9時を回ったころに松屋に着いたのだが、店内にはなかなかお客さんが入っていた。珍しいなと思いながらも席に着き、店内の様子を眺めてみると、ある音楽フェスのTシャツを着ている人が多いことに気が付いた。なるほど、フェス帰りの人たちが松屋に晩ごはんを食べに来ているんだな。そして、そこでは同じフェスのシャツを着たそれぞれ別のグループ間で謎の一体感が生まれており、互いに会釈などをしていた。『あなた方もフェス帰りで松屋ですか』、『今日のあのバンドの演奏、最高でしたよね』なんていう心の会話が聞こえてきそうであった。自分はそもそもフェスに行ってはしゃげるような性分でもないし、仮にフェスに行ったとしても見ず知らずの人たちと急に仲良くなれる気なんて全くしない。なんなら心の中に聖なるバリアミラーフォースを張ってしまうタチだ。だから、そんな同じフェスに行ったという一体感によってすぐに仲良くなれる人たちのことをすごいなあと思う。

 

なんてことを考えていたのだけれど、まあ混んでるからブラウンソースハンバーグ定食がなかなか来ない。いつもの松屋なら速攻で来るのに。そして、ようやく定食が来て、いざ食べようと思ったときに、あることに気が付いた。サラダが付いていない・・・。『あれっ、ブラウンソースハンバーグ定食ってサラダ付いてなかったっけ? 定食って全部サラダ付いてたよな。あ~、でも自信ないしなあ。それになんか今忙しそうやしなあ』なんてことを考えて、結局サラダが付いていないことは伝えずにそのまま食べてしまった。そして、お店を後にして外に出てからHPでメニューを調べてみると、やっぱり定食にはサラダが付いているのが普通であった。

 

自分はこういったイレギュラーなことが起こったときに、スッと行動ができずに固まってしまうところがある。頭の中では色んなことを考えているのだが、いかんせん体のほうが動かない。とにかく自分が正しいという自信がもてないのだ。店員にサラダが付いていないことを伝えた場合に、もしサラダが付いていないほうが正解であり自分の認識が誤っていたらと思うとビビッてしまうのだ。そうなるぐらいなら、よく分からんけどこのまま食べようと思ってしまうのだ。そして、この私がよく行く松屋の店員さんが結構な頻度でミスをする。おそらく中国人の店員さんであるのだが、なかなかに日本語がたどたどしい。そして、本人もその自覚があるようで、非常に声が小さくビクビクしながら接客をしている。今回のサラダのつけ忘れも恐らく彼によるものであろう。その日のキッチンの様子をチラッと見ていると、盛り付けをしていたのは中国人の彼であったからだ。さらに、以前にも彼に定食のご飯大盛の食券を渡したにも関わらず、普通盛りのご飯を出されたことがあった。そのときも私は『あれ、なんかご飯大盛の割に少なくない? ていうか大盛のときって器のデザインが違うかった気がすんねんけど、これ隣の並盛のおっちゃんとおんなじデザインやな。間違ってんのかな? え、どうしよ・・・』と悩んでしまった。スッと言えばいいのに、自分。「これって大盛ですか?」って聞くだけやんって、今振り返れば思う。私はそのとき、結構な時間悩んだ末に、大盛かどうかを中国人の彼ではない店員さんに聞いて、やっぱり大盛ではなかったようで取り換えてもらったのだった。

 

ただですね、やっぱり異国に来て言葉もおぼつかないのにそこで生活をして、なんなら働いてお金を稼ぐなんてことは、すごいことだなと思うわけですよ。自分なら絶対にしないなと。中国人の彼がどんな理由で日本に来ているのかは知らないけれど、その勇気が凄いなと思うわけですよ。かといって私も注文ミスをスッと指摘できる性格じゃないので、彼と私の組み合わせは最悪だなと。私にとって。でも松屋が好きだから行ってしまう。自分が変わろう。

 

そんな松屋での出来事がきっかけとして、大学生のころ、親が家を空けて自分で晩ごはんを用意しなければいけないときに、よく松屋に行っていたことを思い出した。夜の9時ぐらいに歩いて松屋に向かい、晩ごはんを食べた後に松屋の近くの古本屋で漫画を立ち読みするのがたまらなく楽しかった。なんなんだろう、あの夜の古本屋での漫画立ち読みの楽しさは。ひたすらスラムダンクから幽遊白書、ハチワンダイバーにバガボンドなどを読んだ。買えよってぐらい読んでいた。でもあのころはお金がなかったからしょうがない。そして当時、そんな古本屋からの帰りによく聴いていたのがHomecomingsのこのアルバムだ。

 

Somehow, Somewhere

Somehow, Somewhere

 

 

このアルバム、本当に全曲いいんだよなあ。当時はこのアルバムに収録されている楽曲のPVなどもYouTubeでめちゃくちゃ見ていた。

 


Homecomings "LEMON SOUNDS"(Official Music Video)

 

このアルバムを聴きながら帰る夜道は、なんだか涼しくて楽しかった。私は特にアルバムの最後に収録されている「Ghost World」がお気に入りであった。

 

 

友だちを誘って晩ごはんを食べるという手もあったであろう。でも当時の私にとっては松屋に行って、古本屋で漫画を読んで、Homecomingsの「Somehow, Somewhere」を聴きながら帰るといった、そんな時間がたまらなく楽しかったのだ。至福の時間であったのだ。なんやったんやろう、あのときのあの感じは。そんなことを思い出して、ブラウンソースハンバーグ定食にサラダを付け忘れられた帰りに、このアルバムを聴きながら帰ったのだけれど、相も変わらず最高であった。多分このアルバムはずっと聴き続けるんだろうな。そして、その度に松屋に行ってから古本屋で漫画を読んでいた夜のことを思い出すのだろう。

 

歌の出だしがスッと入ってくる楽曲たち

金曜日にたまに誘われて飲みに行くことがある。で、飲みすぎるじゃないですか。そして終電間際の電車に乗って、家に帰ってきてしんどいからそのまま寝る。あんまりお酒が強くないので、2時間おきぐらいに目が覚めてはまた眠るということを3、4回繰り返す。気づけばカーテンの隙間から太陽の光が差し込んでいて、朝が来ていることに気が付く。それと同時に昨日のお酒が残っていて、そのせいで頭が痛いことにも気が付く。頭が痛いから起き上がる気が全くせず、寝っ転がりながらスマホを触る。スマホの画面を眺めていると頭痛がひどくなってくる気がして、すぐに触るのをやめる。二日酔いになったときのこの一連の流れがしんどい。

 

二日酔いがめちゃくちゃ嫌いだ。なんだか昨日を引きずったまま今日になっている気がして、気持ちが切り替わらずフワフワしている。そして土曜日が台無しになり、2日間の休日が大変短く思える。もったいない。実にもったいない。

 

それでも二日酔いになったときに唯一好きなことがある。それは二日酔いのときに食べるカレーだ。なんかめちゃくちゃ美味しく感じる。お酒をめちゃくちゃ飲んだ次の日って、なんだかいつも以上にお腹が空く。けれども頭が痛くてあんまり食欲が湧かない。そんな時はカレーに限る。カレーが身体に沁みる。

 

そして先ほど言ったように、動く気は起きないけれど、寝転がってスマホを触ると頭痛がひどくなる。目の疲れが頭痛につながるのは風邪を引いたときに似ている。じゃあもう視覚に頼らずに、かつしんどいから受動的に楽しめるものと言えば、それはもう音楽になる。ということで先週の土曜日に二日酔いになった私は、音楽に頼ることにした。そして、音楽の中でも特に、曲の冒頭の歌詞がスッと入ってくる曲を聴いた。

 


Sweet Soul

 

 

冒頭の「真夜中がいまぁ」のスッと入ってくる感じ。「真夜中がいまぁ」のスッとさ加減が凄い。声が透き通ってる。まるで静かな水面に水滴を一滴落とした際に生じる波紋のように、「真夜中がいまぁ」の部分が心の中にスーッと広がっていく。エコーでもかかってるんじゃないかというほど。二日酔いにも優しい。この部分だけで何十回もリピートできるほど。タール(コールタール)という言葉は、この「スウィートソウル」に「汗染みは淡いブルース」、「君の胸に抱かれたい」などのキリンジの曲の歌詞から学びました。

 

そしてシャカラビッツの「モノローグ」。

 


[SHAKALABBITS] "モノローグ" Full Ver. [Music Video]

 

 

冒頭の歌詞の「相変わらず無力で」の「あぁい」の部分ね。この「あぁい」がもう最高。めちゃくちゃ好き。カッコいい。まずイントロから醸し出されている雰囲気がいい。そしてイントロでゆっくり期待感が高められたところに来る「あぁい」。シビれます。ボーカルUKIの声が色っぽくて良い。キリンジの「スウィートソウル」同様、この曲も「あぁい」の部分だけで何回もリピートできる。あぁいい。

 

最後にサニーデイ・サービスの「太陽と雨のメロディ」。

 

 

ここまで来たらもう二日酔いは関係ない。ただただ、出だしの部分が好きな曲です。この曲は「東京の街には」といきなり歌から入る。この「東京」の部分が好きだ。なんか「東京」の前に、ちっちゃい"ン"が入っているような感じがいい。「ンッ東京」みたいな感じ。実際にちゃんと聴くと全然入ってる感はないけど、なぜか自分にはそう感じられる。まあなんにせよ、この「ンッ東京」の部分を一聴するだけで、グッとサニーデイのこの曲の雰囲気に引きずり込まれる。そして、この曲はアルバム「MUGEN」の一曲目であり、この曲に引きずり込まれたままアルバム全体をまるっと通して聴いてしまう。「太陽と雨のメロディ」は最高のトップバッターじゃないでしょうか。サニーデイの「MUGEN」は個人的名盤。

 

MUGEN

MUGEN

 

 

個人的に歌の出だしが好きな曲について書きましたが、みなさんのオススメを教えていただければ幸いです。

シティポップって結局どんなジャンルやねん

つい最近公開されたSugar's Campaignの楽曲、「City Pop」がめちゃくちゃいい。

 


Sugar's Campaign / City Pop (Audio Only)

 

背景の模様が80年代のそれっぽくていい。でも曲の感じ、めちゃくちゃインディーロックやん。ていうかシティポップってなに?まずシティポップがなんたるかを、自分はちゃんと理解していない。最近のオシャレな楽曲は、全部シティポップというジャンルでくくられている気がする。もっといえばインディーロックってなに?さっき自分でめちゃくちゃインディーロックやんって言ったけれども。それすらもちゃんと分かっていない。ちょっとスカスカ気味のリズムギターが入ってて、こもっている感じのボーカルがインディーロック?ややチープな感じがインディーロック?それにオルタナティブロックも分かりません。オルタナティブってどういう意味よ。

 

調べてみると、インディーロックは、最初はどこのメジャーレーベルにも所属せず独立しているレコードレーベルを表すために用いられていた用語のようだった。それから意味が変化していき、時にはオルタナティブロック、ギターポップと同義になったこともあるとのことで、結局、時代時代によって意味がなんとなく合わせられてる感じだと認識した。そりゃつかみどころがないわけだ。そして、オルタナティブロック。当初はメインストリームのロック(いわゆる商業ロックと揶揄されるもの)とは、一線を画した商業的ではないロックのことを表していた。しかし、オルタナティブロックというジャンルに人気が出てメインストリームに近づいてしまい、当初の意味とはズレが生じることもあったようだ。さらにはオルタナティブロックは、ブリットポップからグランジといったジャンルを内包している説もある。オルタナティブロック、幅が広すぎませんかね。結局、なにがなんだか分からない。高校の数学Aで習った集合みたいな感じで誰か教えてくれ。なんとなくでジャンル分けするしかないのか・・・。

 

まあなんにせよ、とりあえずいいものはいいものとして受け止めることにしよう。にしてもこの「City Pop」というタイトル、なんかあえて付けられているような気がしないでもない。だって「City Pop」って今更感あるし。なんとなく、都会的な雰囲気を出していればシティポップというざっくりとした認識はあるのだが、これは正しいのでしょうか。歌詞の「Ideal girl」なんて部分は、イケてる都会の女の子感があるけれど。「きまぐれオレンジロード」の鮎川的な。古いっすかね。まあ深読みというか、考えすぎはやめよう。相手の思うつぼです。

 

それにしてもこの曲を聴いたら、The Drumsを思い出した。曲の感じといい、歌詞の「Let's Go」の部分といい、Drumsを喚起させる。

 

Summertime!

Summertime!

 

 

このEP、好きです。アルバムのタイトルにビックリマークが入っているあたりも、絶妙にダサくてDrumsっぽさが出ていていい。イケてない感じ。「Ideal girl」とは真逆の、冴えない男の子。特に3曲目の「Don't Be a Jerk, Johnny」が好きです。

 

 

夏が来たら、またこのEPを聴こう。

 

そして、冴えない男の子の恋の物語といえば、バスティアン・ヴィヴェスの「塩素の味」。

 

塩素の味 (ShoPro Books)

塩素の味 (ShoPro Books)

 

  

恋は甘酸っぱい味ではなく、塩素の味がする。いや、失恋は苦い味ではなく、塩素の味がするといったものかな、この漫画は。この「塩素の味」では、主人公の一人称視点の移り変わりが、セリフの無いコマを細かく刻むことで表現されている。

 

sample.books.shopro.co.jp

 

まるで漫画とアニメの中間のような印象。このように主人公の目に映る風景を描くことで、セリフはないけれども、主人公が何を探していて何に心が惹かれているのかといったことがより印象的に伝わってくる。あんまりこういった表現方法を見たことがない気がする。私が知らないだけかもしれないけれど。

 

それにしても、このようにコマを刻んで描写する方法って、最近のスマホの縦読みマンガと相性がいい気がする。熊倉献も「生花甘いかしょっぱいか」において、吹き出しのセリフがグニャグニャと変化して夢から覚めるシーンを、コマを刻むようにして描いていた。

 

 

スマホの縦読みマンガって、意外と既存の漫画とは異なった新しい表現方法が生み出されて面白くなるかもしれませんね。なんか偉そうなことを言ってしまいました。反省します。

 

縦読みマンガというスタイルをとっている、そして登場人物の一人称視点の移動によって心の機微を表現している漫画のひとつに、発狂するエラーというサイトで描かれている「鈴木さん」がある。

 

dnsksrn.web.fc2.com

 

この漫画の「空隙」というエピソードなんて絶妙です。

 

dnsksrn.web.fc2.com

 

最後の空を映しているシーンなんてね、もうね。目は口程に物を言うとは、相手の目の表情から考えていることを読み取るという意味だが、相手の視点になってみて実際になにを見ているかが分かれば、それ以上に心の機微が分かる。実際には無理なんだけれども、漫画ならそれが表現できる。素晴らしいよね。

 

あだち充にも実験的に縦読みマンガに挑戦してみてほしい。H2において木根が甲子園で完投したことを告げるシーンなんて、まさにセリフの無いコマ、しかも直接的ではなく、家電屋のテレビに映った中継映像によって表現するという粋な演出。あれにはグッときた。あだち充って、こういう視点をずらした描写が上手い。

 

なんか話が色々飛んだけれど、Sugar's Campaignの「City Pop」いい曲。

 

結局モスバーガーはチリドッグが最強

5月なのにちょっと暑すぎやしませんでしょうか。私の住んでいるところは昨日、気温が33ºCほどあったらしい。梅雨もまだ来ていないのに、こんなに暑いなんてクレイジーだぜ。平方イコルスンの「スペシャル」で、伊賀とさよちゃんが、今年の夏は暑くするのが下手くそと会話していたのを思い出す。

 

to-ti.in

 

さながら今年の夏は、まだ呼ばれてもいないの来てしまった早とちり野郎でございましょうか。もっとゆっくりしてていいのに。

 

今日のお昼はなんだか暑くて食欲があまり湧かない、けれどもお腹は空いているという混沌とした状態になってしまった。ガッツリご飯を食べる気が起きないので、ハンバーガーでも食べに行こうとモスバーガーへ。店内に足を踏み入れたときの外気との温度差に夏を感じる。この店に入って感じるクーラーの恩恵、「ふぃ~」と声を漏らしてしまいそうになるのが夏よなと思う。そして、モスバーガーに行くたびに、メニューを見るまでは「今日は何を食べようかな」と思いながらレジ前に立つのだが、いざメニューを見てしまうと毎回チリドッグに視線が吸い寄せられてしまう。

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この前もチリドッグを食べたし、たまには違うのを食べようと心に誓うときもあるのだが、それでもメニューを見てしまうとチリドッグが食べたくなってしまう。なんなんだ、このチリドッグの求心力は。最強すぎる。結局今日もチリドッグを注文した。

 

飲み物のオレンジジュースだけを先に渡され、チリドッグとポテトは出来上がり次第、席まで持って来てくれるということに。カウンター席に座ると、カウンターのテーブルと椅子が遠いことに気づく。椅子を引こうと思ったら固定されている。もうちょい椅子は前のほうが良かったやろと思うも、まあしょうがない。たまにあるよね、距離感のイマイチなカウンター席。

 

暑くてのどが渇いていたから、オレンジジュースがめちゃくちゃ美味しい。そして、チリドッグとポテトが届いたころには結構な量を飲んでしまっており、ペース配分を間違えていることに気がつく。しょうがねえよ、何回も言うけど暑いもん。まだ体が慣れてないもん。ということで、オレンジジュースを飲む頻度をセーブしながら、チリドッグとポテトを食べるしかない。だが、セーブしようと考えていると、余計にのどが渇いてくる気がする。「ああ、めっちゃ一気に飲んでしまいたい」と思いながらも我慢しながら食べていたが、とうとう耐え切れなくなり、チリドッグがまだ半分ぐらい残っているのにオレンジジュースを一気に飲み干してしまった。めちゃくちゃ美味しい。なんだか刹那的に生きてしまったという背徳感も相まって、のどごしがすごいと感じるのは大げさでしょうか。そんな風に勢いで道半ばにしてジュースを飲み干してしまったが、幸いにも店内には水が用意されており、なんとかその後も喉の渇きを癒すことができた。まあ水がなくても追加で注文すればいいんですけど。そして、この水もまたうまい。もう今なら飲み物全部美味しく感じるんやろうなと思うほど。そして、チリドッグからはみ出したソースをポテトにつけながら食べるのも美味しい。全部美味しい。マクドナルドのチキンナゲットのバーベキューソースも、ポテトに付けて食べると美味しいですよね。小学生のころにめちゃくちゃやってました。

 

 

ポテトを食べた後はこれをやっちゃう。やっぱりあるあるなんやね。油と水やからイマイチ落ちない感じもあるけどやっちゃう。

 


そして、私が食べている途中で隣の席に人が来たのだが、その人のメロンソーダがめちゃくちゃ美味しそうに見えた。あの透き通った緑色。あの色が化学的な色に見えて体に悪そうと思う日もあるが、今日はめちゃくちゃ美味しそうに思えた。これも暑さのせい。話は飛ぶけれど、ご飯を食べに行ってどっちのメニューにするか迷ったときに、頼まなかった方を友達が食べていたら「ああ、今日はあっちが正解やったわ」って思っちゃうことあるよね。なんであんなにも他人が食べているものは美味しく見えるんだろう。私は卑しい愚か者なんでしょうか。

 

ここのモスバーガーは、私の最寄り駅から2駅ほど行ったところにあるのだが、お客さんがいつも少ない。だから、なんだか広々としていて居心地がいい。この駅からさらに1駅進んだところはかなり栄えた駅となっており、そこから近いこともあって、この駅自体はそんなに利用客が少ないわけではない。しかし、大半のお客さんは栄えている駅のほうのお店を利用するのだろう。そんなこともあって、この駅周辺の飲食店やスーパーなどは割と閑散としている。それでも私はこの駅周辺の雰囲気が自分の肌に合っているなと感じており、なかなかに気に入っている。この駅周辺に引っ越してもいいなあとまで考えていた。しかし、やっぱり利用客が少ないということは問題であるようで、この駅にあったスーパーは最近閉店してしまった。スーパーが潰れてしまうのは中々に痛手であり、私の引っ越し計画もそれを受けて中止になってしまった。まあ引っ越してから潰れられるよりもマシかと思うことにしたが。それでも自分の気に入っている町がそんな状況になってしまうのは残念なことである。ここのモスバーガーも、お客さんが少なくて居心地がいいから気に入っているのだが、潰れられると寂しい。どうにか良いバランスを保ちながら残ってほしいところだ。

 

一人暮らしを始めたばかりのときは寂しくて、「私があんまり好きになれないこの町も、誰かにとっては故郷であり、帰りたい場所なのだろう。そして、私にとっての故郷が、誰かにとってはあんまり好きになれない町であることもあるのだろう。」みたいなことをよく考えていた。けれども時間が経つと人間は慣れるもんで、今住んでいる町のことも好きになってきている。

 

 

別に強がっているわけじゃなくて、本当に。

熊倉献の「生花甘いかしょっぱいか」があっさり終わってしまって悲しい

熊倉献のウェブ漫画、「生花甘いかしょっぱいか」が終わってしまった。悲しい。

 

comic-days.com

 

終わり方がなんともあっさりしていて、少し物足りない感じがしたが、それでも全体を通して面白かった。主人公の相田君の変なポイントでときめいてしまうところが好きでした。女子のちょっとした行動を拡大解釈して、深読みして、どんどん自分の中で妄想が膨らんでいく感じ。『え、もしかしておれのこと好き?』みたいな。女子とちょっとしゃべっただけでいちいちときめいていた中学生のころを思い出して、なんだか甘酸っぱい気持ちになりました。最終話のコメントには「体力の限界...ッ」と書かれており、描くのに疲れてしまったんだなということが分かる。お疲れさまでした。でも、できればすぐになにかしらの媒体で帰ってきてください。終わってすぐに言うのもなんだけど。それぐらいファンです。

 

熊倉さんの描く漫画のキャラには、絶妙に男心をくすぐられる気がする。分かってるなあって思います、偉そうにも。そして、熊倉さん初の単行本である「春と盆暗」を読んでいる時点では、熊倉さんのことをてっきり男性だと思っていた。しかし、ある日ネットサーフィンをしていて、熊倉さんが対談している記事を見つけたのだが、なんと予想外にも女性であった。

 

www.cinra.net

 

対談相手であるシュリスペイロフというバンドのボーカルの宮本さんも「てっきり男性だと思っていた」と言っている。やっぱりそう思うよね。だってホントにキャラが絶妙やもん。前にも書いたけれど、「春と盆暗」の、嬉しいことがあると手が出てしまう女の子のキャラとかめっちゃいいもん。『うわあ、いいなあ』ってなります。そういう女子のちょっとした心惹かれる仕草を描くのが上手い。あざとくない自然な女子の感じ。そして、この対談で熊倉さんは漫画の描き方に関して

 

ストーリーを組み立てるというよりも、「こういうシーンを描きたいな」というイメージが頭のなかにいっぱいあって、それを組み合わせながらひとつのお話にする、という描き方をしているからかもしれないですね。自分でもどういうあらすじになるのか、最後までよくわからないんです。

 

と言っている。そうだとすればやっぱりストーリーものよりは、一話完結型の話のほうが書きやすいのかな。ぶっちゃけ「生花甘いかしょっぱいか」の終わり方は、もう話が思いつかないから終わり!って感じやったもんなあ。

 

小説家の長嶋有は、男性であるのになぜこんなにも女性の気持ちが分かるのかと言われている。

 

www.bookbang.jp

 

熊倉さんはその逆で、女性なのになんでこんなにも男心が分かっているのかと思ってしまう。なんかあだち充の漫画を読んでいるときと近い感情を抱くときもある。「春と盆暗」なんて何回読み返してんねんっていうぐらい読み返している。

 

春と盆暗 (アフタヌーンKC)

春と盆暗 (アフタヌーンKC)

 

 

「春と盆暗」に収録されている話は全て、明日からの人生、ちょっと楽しくなるんじゃないかという予感を残しながら終わっていくのがいい。いいことがあった日の夜、布団に入りながら一日を振り返って、「今日はいい日だったなあ。明日も楽しみだなあ」と少しだけワクワクする感じに似ている。要は最高ってことです。表紙もいい。黄色がいい。もうべた褒め。

 

そして、熊倉さんと同様に、シンガーソングライターのカネコアヤノも男心が分かってるなあと思う。いや、この言い方には語弊があるかもしれない。男心が分かっているというよりは、自分と物事に対する考え方が近いというか、歌詞の内容が自然に受け入れられる気がする。曲もそんなにキャピキャピしてないし、恋の歌を歌っているけれど、それが大げさではなくどこか素朴でミニマルな世界観であるのがいい。カネコアヤノの「恋する惑星」は本当にいいアルバム。

 

恋する惑星

恋する惑星

 

 

「マジックペンと君の名前」がすごい好き。

 

 

でもこのアルバムの曲は全部好き。最近の曲も、もちろんいい。先ほども書いたけれど、熊倉さんもカネコアヤノも、女性なのに男心が分かっているとかではなく、ただ単に人としての気質が近いだけなのかもしれませんね。男でも別に二人に共感できない人はいると思うし。人生においてなにを大切に思っているのか、それが一緒かどうかが肝心なのかもしれません。単純に気が合うかどうかってことやね。

 

色々書いたけれど、熊倉さんの描いた漫画をまたどこかで読めることを楽しみにしております。

 

www.gissha.com

 

一年も経たずに終わっちゃったんだね・・・。

 

ハトとスズメはハトのほうが少し賢い気がする

最近川の土手を自転車で走っていたら、生い茂っている草と舗道の境目、草際とでも言おうか、そこにミミズの死骸がめちゃくちゃ落ちているのを目にする。

 

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怖い。何が起きているんだ、ミミズたちに。と思っていたら、その草と舗道の境目にスズメが数羽いるではないか。なるほど、おそらくミミズの死体はスズメが食べ残した残骸であろう。にしてもミミズが結構丸ごと残っている。スズメは小食なんだろうか。確かに身体は小さいけれど。どうせそんなに食べないのなら、ことあるごとにミミズを掘り返さなくてもいいのにと思ってしまう。スズメたちの世界に、エサのミミズの鮮度などの問題があるのだろうか、などという少しグロテスクな想像をしてしまう。

 

このスズメたち、私が自転車で脇を通り過ぎようとすると、別にぶつかりそうにもないのに飛んで逃げようとする。飛んで逃げようとするのはいいのだが、飛ぶ方向が問題なのである。私がいる方向に飛んでくるのである。だからもう、そこにおってくれたらいいのに飛んだほうがぶつかりそうになるという、よく分からないことになっている。「何かが近づいている」⇒「危ない」⇒「逃げる」までのシステムは組み込まれているが、逃げる方向まではちゃんと考えられないのだろうか。そしてなんだか、歌人の穂村弘が、車が来ているにもかかわらずいきなり道路に飛び出す、その死を恐れない猫の行動に憧れるといっていたことを思い出した。その点、ハトはまだ少し賢い、というか厚かましい。ハトはよく舗道の真ん中で堂々とエサを食べている。私がぶつかりそうだなあと思いながら自転車で脇を通ろうとしても、ハトたちはギリギリまで飛んでいかない。けれども、こちらがどこから近づいてきているかはしっかり認識しており、私から遠ざかる方向に少しずつ歩いていく。ハトとスズメだったらハトのほうが賢いんだろうな。

 

生き物の賢さ自体(賢さと書いたら曖昧な表現にはなるが)は、脳の大きさに左右されると思われがちだが、その脳が備わっている容れ物、つまりは身体の構造が重要であるとは池谷裕二さんの本で読んだ。

 

進化しすぎた脳―中高生と語る「大脳生理学」の最前線 (ブルーバックス)

進化しすぎた脳―中高生と語る「大脳生理学」の最前線 (ブルーバックス)

 

 

脳は身体の構造によって使う領域が変化し、イルカの脳は大きいけれど身体の構造自体は人間ほど複雑ではないから 、脳のポテンシャルをすべて活かしきれてないんだったっけ。もしイルカに手足や指が生えていたら、もっと賢くなっていたかもしれないといったことが書かれていた気がする。また読み直そう。

 

最近はすっかり暑くなって、先週の土日は半袖でも十分なぐらいであった。ゴールデンウィークが終わってしまって、仕事が始まるのが嫌だなあと思いながらも、いざ始まると割とすんなりいけてしまう。いつでも嫌なのは久しぶりに仕事が始まるその最初の日だけだ。とはいえ、モチベーションは確実に低いままであり、五月病とまでは言わないがやる気は出ませぬ。正直、ゴールデンウィークが始まる前からその感じはあったけれども。終わってしまったゴールデンウィークは、もはやフィクションだったように思える今日この頃。

 

 

キリンジの「五月病」、めちゃくちゃ好きだ。タイトルとは裏腹に爽やかな曲調。歌詞の意味は全く分からない。なにが五月病なんだ・・・。そしてこっちのファミコンアレンジも可愛くて好きです。

 


キリンジをファミコンアレンジ 「五月病」

 

音程が外れている気がするのはわざとなんでしょうか。

 

「五月病」が収録されているキリンジのファーストアルバム、「ペイパー・ドライヴァーズ・ミュージック」もめちゃくちゃいい。個人的に捨て曲なしの名盤。

 

ペイパー・ドライヴァーズ・ミュージック

ペイパー・ドライヴァーズ・ミュージック

  • アーティスト: キリンジ,堀込泰行,堀込高樹
  • 出版社/メーカー: ダブリューイーエー・ジャパン
  • 発売日: 1998/10/25
  • メディア: CD
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今思えば「捨て曲」っていう表現、えげつないな。キリンジを聴きながらのらりくらりと五月病をやり過ごそう。