牛車で往く

日記や漫画・音楽などについて書いていきます 電車に乗ってるときなどの暇つぶしにでも読んでください

スポンサーリンク

おいおい、不良が挨拶しただけでなぜ「いい子やわ」というのだオカンよ

生きていたら、どうも腑に落ちないことに出会う。そのひとつとして、不良が挨拶をするといい子に見えるというものがある。全然納得できない。なぜ挨拶をしただけで、こうも評価が逆転するのか。オセロでもあるまいし。一発逆転が過ぎる。そもそも彼らは普通の学生たちと比較して、えげつないぐらいに他人に迷惑をかけているではないか。私個人の体験としては、自転車の自動ライトの配線を切られたり、雨の日の部活で校内をランニングしていると上履きをぶつけられたりした。普通に腹が立つし、怖いから何も言えない。普通に怖い。ケンカも強そうやし、仲間も多いし。そんな彼らが挨拶しただけで・・・。『なんでやねん!』と思わずにはいられない。挨拶なんて私も彼も彼女もしてますよ。けれども、一度もそれで褒められたことなどない。いや、褒めてもらうためにしているわけではないけれど。それが不良が挨拶しただけで・・・。そして何より、身内である母親が「あの子挨拶ちゃんとするやん。ホンマはいい子やわ。」などとのたまいだす。いやいやオカンよ。彼らはあなたの愛息子に危害を加えていますよと。気づいてくだされ、母上。私は塾帰りの夜道、無点灯で暗闇の中自転車を漕いでいます。そして、守ってくだされ、母上。普通に不良が怖い。塾に通っている私と、煙草を吸っている不良たちの交わることのない平行線。

 

でもホンマにこういう出来事から思うのは、世の中ギャップやなと。悪そうなやつ(いやもう悪いやつや)が挨拶するだけでこの評価の変わりよう。イケメン俳優がバラエティで面白ければ一気に好きになるし。ストレートのあとにはフォーク。もしくはチェンジアップ。菊池雄星はパワプロで遊んでいるときに、強い投手はみんなチェンジアップを持っていることに気づいて習得しようと思ったそうな。そのフットワークの軽さと素直さに憧れる。メジャーに行っても頑張ってくれ。そして、お笑いの基本は緊張と緩和。チュートリアルがM-1で優勝した直後にイロモネアに出たときのことが忘れられない。一発ギャグに挑む前に徳井が意気込みを聞かれて、「M-1チャンピオンなんで、しゃべりで笑わせますよ。」と言った。その直後に、陽気な坊主と称して、変な顔をしながら踊りだしたときは笑いが止まらなかった。こんなシンプルなフリに引っかかるなんて。M-1優勝という剛速球のごとき肩書きを持っているからこそ活きる変化球。私の中で、ただでさえ高かった徳井の評価がさらに上がった。メジャー級やわ。そして、大学生はGAPのパーカーを着る。話はちょっと逸れるけど、GAPってセールのとき普通の顔して50%以上値引きしてくるけど、そのせいで逆になんでもない普段のときの価格、どうなってんねんって思ってしまう。適正価格なんぼなん?と。しかも割と頻繁にセールしてるし。価格のギャップが凄すぎてセールじゃないときに買うと、損してる気分になるのではないか。

 

そして、もうひとつ腑に落ちないのが、不良の親に会ったときに、彼らが普通の顔をして私に挨拶してくることだ。いやいや、あんたの息子にめちゃくちゃ迷惑してまんねんコッチは。なにを素知らぬ顔で普通に接して来てんねん。まずは息子をどうにかしてくれ。この際、礼儀の初歩の挨拶なんてどうでもいい。別に会っても無視してくれて構わん。ただ息子が上履きを人に向かって投げるのを止めさせてくれ。それ以上は何も望まんから。こう思う一方で、芸能人の二世タレントが何かやらかしたときに親が謝罪しているのを見ると、その必要はないやろと思う。彼らはもう成人しているし、いつまでも尻ぬぐいなどしなくてもいいのではないか。なんなら、その親のタレントに向かって取材をしているマスコミの人はどういう気分なんだろうか。不良の親に違和感を抱いている私と同じ気分なんだろうか。そうだとしたら、それはなんか違うような。

 

そもそも大人と子どもの線引きは難しい。いつまでが子どもで、いつからが大人なのか。成人しているけれど、親のお金で大学に通っている大学生は大人なのか。大人の定義とは。前にも書いたことがあるが、私は大学生になってから受動的に講義を受ける意味が分からなくなった。自分がやりたいことでもない、流れで進学した大学で受ける授業。これに一体何の意味があるのだろう。もしそれと同じことを中学生のころの不良が感じていたのならば、彼らは同じ中学生のころの私よりも精神的に大人であったのではないだろうかと思うのだ。何に使うかも分からない知識を学ぶために学校へ行き、教わる側として無条件に子ども扱いされるということを嫌っていたのならば、不良たちが抱いていた苦しみを今なら分かる気がするのだ。私は同じことを大学生にならなければ気づけなかった。もし、不良の親がそんな彼らを一人の人間として扱い、彼らの言動は全て彼らの責任であるとして放置していたとするならば、私はその考え方に理解を示したいと思う。親は自分の子どもをいつまでも子どもとして扱うものだし、それが時に子どもの自由や成長を妨げることにもなる。果たして本当にそこまで考えていたのかどうかは分からないが。そして、不良になるということは社会のレールから脱線するということだ。中学生にして社会のレールから脱線し、はじかれものとなった彼らが、仲間を集めて群れるという行為も自然なことのように思えてくる。

 

話は変わって、最近ヒットしたドラマ「今日か俺は!」。これをきっかけに西森博之の漫画をどんどんドラマ化してほしい。個人的には「お茶にごす。」が好きやから、ぜひ実写化してほしい。

 

お茶にごす。(1) (少年サンデーコミックス)

お茶にごす。(1) (少年サンデーコミックス)

 

 

西森博之の漫画は、基本的に骨組みが毎回同じやからいけるでしょうよ。「道士郎でござる」でもいいです。ぜひ、ご検討のほどよろしくお願いします。