歌人の錦見映理子によるエッセイ「めくるめく短歌たち」。
著者の思い出や考えたこと、感じたことなどが、たくさんの短歌を引用しながら書かれている。この本を読むことで著者のエッセイを楽しめるだけでなく、様々な短歌と出会うことができる。
人物を映し出す短歌
著者はこの本において、知り合いの歌人たちの性格や人となりを、本人たちが作った短歌から感じとっている。たとえば藤田千鶴の
ちょんちょんとタオルの隅でその頭拭いてやりたし雀の頭 p12
という短歌を受けて、雀の頭を拭いてやりたいなんて言う藤田のことをちょっと変わっていると評している。しかし藤田のもつ、雀は自分の頭を拭くことができないことに気づいてあげられる慈しみの心、世界を掬いとる目の細かさについてもこの短歌から同時に感じ取り、著者は嬉しくなってしまったと言っている。芸術とは本来、作品と作者は切り離して扱われるべきなのかもしれない。例えどんなダメ人間が生み出した作品であろうと、素晴らしいものは素晴らしいはずだ。その素晴らしさは作者の性格や略歴とは関係がないものとして評価されてしかるべきであろう。しかし、作者の人間性や人生観が、作品からにじみ出てしまうのも事実としてある。そして、短歌は特にそういう作品から立ち上ってくる作者のにおいというものが濃いものではないだろうか。短歌とは日常におけるささやかな瞬間を切り取って表現する一面がある。作者が、日常のどの部分にフォーカスを当てているのか、どの部分を大切に思っているのかが、短歌を味わうことで自然と読み取れてしまうのであろう。
短歌のもつ余白が呼び起こす個々人の記憶、感情
著者は歌集について以下のように書いている。
歌集を読むと(中略)自分がよく知っている風景がふいに立ち上がってきて驚くこともある。もちろん見たことがあるはずもなくて、その歌の力によって 、他者の書いた景色が自分の内面にある景色と重なっているかのように思えるのだろう。 p149
実際、著者は短歌を呼び水として過去にあった様々な出来事を思い出している。そしてわたし自身、短歌を読むことでその短歌の内容とは異なってはいるが、似たような感情を呼び起こされるという経験を何度もしている。著者は与謝野晶子の
何となく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな
という歌を読んで以下のように感じたと書いている。
このとき晶子がどのような恋をしていたのかは全く知らなかったけれど、恋の始まりの陶酔がここに書かれていることはわかった。
人生には、どうしても散文では書けないことが起こることがある。韻文でしか書けないことが、この世にはあるんだ。 p70
短歌は韻文であり、5・7・5・7・7と定型が決められている。そして、定型が決められており、全てを書ききれないからこそ生まれる余白が短歌には存在する。この余白を、自分の人生の思い出や経験などを当てはめて埋めようとするからこそ、赤の他人が作った短歌を読んでも、身に迫る感情が呼び起こされるのであろう。そしてこれはまた、それぞれの人生の数だけ、短歌の解釈や鑑賞の仕方があることも意味するのではないだろうか。だからこそ、この本の帯文にも書かれている著者の
歌集って不思議なものだなあと改めて思う。全く縁のない見知らぬ人の、非常に個人的で心の深い場所にあることが書かれているほど、自分が誰にも見せず、自分自身にさえ蓋をしていた気持ちのすぐそばまできて、友だちになってくれたりする。 p150
という言葉にひどく共感し、感動した。
短歌を読むことで、社会における価値観が反転し、気づいていなかった世界に出会うことができることは以前に書いた。
しかしそれだけではなく、短歌を読むことで自分自身を見つめなおすことができ、短歌は自分に寄り添ってくれることを知ることができた。