牛車で往く

日記や漫画・音楽などについて書いていきます 電車に乗ってるときなどの暇つぶしにでも読んでください

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在宅勤務のいいところはすぐにトイレに行けるところ

全国に緊急事態宣言が発令されてから、一週間のうちの何日かは在宅勤務をするようになった。在宅勤務のいいところは、なんと言ってもギリのギリまで寝ていられるところと、お腹が痛くなってもすぐにトイレに駆け込めるところだ。一度、在宅勤務中に腹痛に襲われ、すぐにトイレに行った際に抱いた謎の勝った感はすごかった。お腹が痛いのに『こんなん無敵やん』と思いながら気張りました。会社でもこうありたいので、本気でどこでもドアがほしくなりました。その他にも在宅勤務のいいところとして、ラジオや音楽を流しながら仕事ができるといったものがある。頭を使って考える必要のある作業中にはなにも流さないが、単に手を動かすだけの作業のときにはなにか聴きたくなる。確か、高校のころに使っていた英単語帳の速読英単語に、BGMは作業効率を向上させるみたいなことが書かれていた気もするし、ガンガン流していこうといった所存。

 

速読英単語1必修編[改訂第6版] (Z会文章の中で覚える大学受験英単語シリーズ)

速読英単語1必修編[改訂第6版] (Z会文章の中で覚える大学受験英単語シリーズ)

  • 作者:風早寛
  • 発売日: 2013/12/09
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

速読英単語には他にも、空気が綺麗な家庭環境で育つよりは、兄弟姉妹がいたり犬や猫を飼ったりしている空気の汚い家庭環境で育った方が、相対的に免疫力が強くなるみたいなことも書かれていた気がする。振り返ってみると、結構ためになる雑学的エピソードが多かった気がするが、あのころはそれに対する面白さなんて全く感じていなくて、英単語を覚えるのはただただ苦痛でしかなかった。まあそんなことは置いておいて、在宅勤務中によく聴いているアルバムはこの2つ。

 

MUSIC FROM BIG PINK

MUSIC FROM BIG PINK

  • アーティスト:The Band
  • 発売日: 2001/08/27
  • メディア: CD
 

 

 

わたしの音楽再生ソフトではアルバム名のアルファベット順的に、The Bandの「Music from Big Pink」の次にVulfpeckの「My First Car」が来るようになっている。特に選曲などせず適当に音楽をかけていたときに流れてきたこの2枚のアルバムのつながりが妙にしっくり来て、それ以来やたらとこの2枚を連続で聴くようになってしまった。さらには、Vulfpeckのアルバム「My First Car」の一曲目「Wait for the Moment」の中にあるベースソロ前の「Bassmen!」という掛け声を聴き、andymoriの「ベースマン」が聴きたくなったりした。

 


3rd LIVE DVD「FUN!FUN!FUN!」より『ベースマン』

 

いま思えば全く作業に集中できていない。音楽以外のラジオ、というかインターネットラジオではこれをよく聴いている。

 

hokuohkurashi.com

 

「チャポンと行こう!」通称"チャポ行こ!"は、北欧、暮らしの道具店というお店の店長さんである佐藤さんとスタッフの青木さんによるインターネットラジオなのだが、このお二方の声がなんだか心地いいのだ。佐藤さんと青木さんは女性だから、話すエピソードの中には男性のわたしにはあまり馴染みのないものがたまにあるのだが、それでもなんだか聴いてしまうのだ。笑い声とかもなんだかちょうどいいのだ。聴いていると落ち着くのだ。なんかガッシュみたいになってしまった。

 

まあ、そんな風にして在宅勤務をこなしている。そんな中、レインボーのこの動画を見てめちゃくちゃ笑ってしまった。

 


【リモートコント】リモート会議終わったと思ってはしゃいだ結果、クビになった男

 

もうこのね、なんでそんなにリモート会議終わってちゃんとカメラを切れへんねんって思うくらい、何度もカメラをつけっぱなしではしゃぐのが面白い。『これ・・・切れてるよな・・・?』みたいな顔が画面に映るのが最高。13:55くらいからの流れも最高。池田演じる部下の「切れて・・・ますねっ・・・」からのジャンボ扮する上司の「ヤバい、最終確認が終わった」、そっからの完全にカメラが切れたと勘違いした池田の舌を出した悪い顔がジャンボの画面に映し出されるといった流れ、何回見ても笑える。もうこの悪い顔大好き。このはしゃぐ気持ちも分かる。なんなんやろな、あの、部活の顧問とか職場の上司がどっかいった後すぐに変な顔をしたくなる感情。もうこのネタ最高。自分は在宅勤務中にリモート会議をすることはないから、このネタみたいになる危険性もないし安心して笑える。てか、ホンマになんでそんなにカメラ切れへんねん。

 

話は変わって、最近、前田司郎の「愛でもない青春でもない旅立たない」を読み返した。

 

愛でもない青春でもない旅立たない (講談社文庫)

愛でもない青春でもない旅立たない (講談社文庫)

  • 作者:前田 司郎
  • 発売日: 2009/10/15
  • メディア: 文庫
 

 

なんか変な話だった気がすると思いながら読み返したところ、やっぱり変な話であった。そして、主人公とその友人の山本が大学の部室棟の階段に座る場面を読んで、自分の高校時代の部活のことを思い出した。いや、正確には思い出そうとしたが思い出せなかった。

 

二人並んで座るとこの狭い階段は人が通れなくなる。それに気付いた山本は、僕の前の段にお尻をずらした。手すりから足を出して、僕らはグラウンドを見下ろす格好になる。グラウンドの向こうを小田急線が通る。

 

手すりの縦棒はちょうど僕の顔の幅くらいで、顔を突っ込んでみたい欲望に駆られるが、取れなくなっちゃったら大変なので、僕は両手を柵にそえその間に顔を置いた。山本は柵の一本に寄りかかっている。

 

自分が高校生のころ、部室棟はグラウンドの練習場所から遠かったため、より練習場所に近い校舎の端に備えられている非常階段の踊り場で部活の着替えをしていた。その非常階段のスペースはそれほど広くなかったため、最上級生にならなければ1階のスペースを使って着替えることはできず、1年生の間と3年生が抜けるまでの2年生の間は、わざわざ階段を上って2階以上のスペースで着替えなければならなかった。下級生でも最上級生に気に入られているごく少数の者だけは、1階のスペースで着替えることが許されていた。わたしは1階での着替えが許されるような後輩ではなかった。部活の着替えはこんな感じだったはずなのだが、2階以上のスペースで着替えていたころの記憶が全く思い出せない。最上級生になり、1階で着替えていたころのことはいくつか思い出せるのだが、2階以上のスペースで着替えていたころのことは全く記憶に残っていない。そして、この非常階段には小説の描写のように柵と手すりが付いていたはずなのだが、もちろんそれもどんなものだったのかは思い出せない。手すりの塗装は白色だった気がするが自信はない。塗装は所々剥げていて下から錆びた部分が見えていたかどうかも分からない。足が出せるくらい柵の間隔は開いていただろうか。顧問の先生の名前が、寺島ではなく寺嶋であったことは覚えている。そう思うと、自分の記憶を頼りにして風景を詳細に描写するのはめちゃくちゃ難しいことだと感じる。そんなことを考えていると、漫画「ものするひと」で小説を初めて書いてみた大学生のマルヒラくんが

 

突飛なことじゃなくてさ

普段 わざわざ人に言わないけど

なんか考えちゃうこととか 微妙な感覚とか妄想とか

そういうのを 丁寧に詳細に 書けるのって

やっぱりすごく・・・・・・すごいんだよ

 

と言っていたセリフをふと思い出した。

 

ものするひと 2 (ビームコミックス)

ものするひと 2 (ビームコミックス)

 

 

自分の見たもの、考えたもの、感じたものを文字として出力する際に、自分はそれらの純度をどれだけ落とさずに出力できているんだろうか。おそらくかなり低い気がする。目の前の風景を描写することすらひどく難しいことであるのに、ましてや記憶を頼りに書くなんて。それでも、自分の書いた日記を読み返したときに、『ああ、そうやった、そうやった』と思えることはある。ただ、それを読んだ自分以外の人が、自分と同じ感情や空気感を得られるのかは分からないが。自分自身が一度身をもって体験し分かっていることを、体験していない人たちに伝えるのって、別にこれは小説や日記のような書くものだけではなく、仕事や勉強、スポーツなどでも難しいことだよなと思う。そう考えると、日常的に行われる他人とのコミュニケーションという行為も結構難しいことのように思えてきて、教え方の上手な先生や上司のことはやっぱり尊敬すべき存在だなと感じる。とか思いながらも、日記かどは自分さえ分かりゃあいいみたいな部分も少なからずあって、他人への情報の伝達が目的の100%ではないところもある。とはいえ読んでもらえたら嬉しいんですけども。それに、なんでもかんでも伝わりやすいことが正義みたいな世界観が気に入らない日もあるし。さらには、見たもの、感じたものを丁寧に描くことと、伝わりやすいことがイコールとも思えない。自分の伝えたいことを正確に表現するためには、難解な言葉を使わなければならないことだってあるだろうよ。なんてことを考えていたら、ナンバーガールの向井秀徳が恥とは分かっときながらも自己を顕示して、自分が作った作品を他人と共有して脳内ビリビリしたいみたいなことを言っていて、それを読んでグッときたことを思い出した。あの文章、めちゃくちゃカッコよくて感動したな。向井秀徳が人の心を惹きつける片鱗を見た気がする。とは言いながらも、ナンバーガールは全然聴かんけどね。なんだか話があっちこっちに行ってしまったので、急に終わります。

呼び起こされる個人的ノスタルジア(楠見孝 編「なつかしさの心理学」)

大学生の後半あたりから、やたらと昔を懐しむことが多くなってきたのだが、そもそもなぜ懐かしい気持ちになるのだろうとずっと気になっていた。自分の思い出に由来する懐かしさもあれば、全く身に覚えがないはずのものから感じる懐かしさもある。これは一体どういうことなんだろうと考えていたところで、この本に出会った。

 

なつかしさの心理学: 思い出と感情 (心理学叢書)

なつかしさの心理学: 思い出と感情 (心理学叢書)

  • 発売日: 2014/05/25
  • メディア: 単行本
 

 

この本の帯文には以下のようなことが書かれている。

 

過去がいつの間にか美化されているのはなぜか

久しぶりに訪れた小学校が縮んで見える?

体験していない大正時代がなつかしいのはなぜか

なつかしさを感じる商品はよく売れる?

 

うーん気になる。ただ先に書いておくが、これらの疑問に対して期待していたほどのスッキリとした回答が書かれているわけではなかった。というのも、懐かしさという感情に関する研究は、注目され始めてはいるがまだそれほど進んでいるものではなく、まだまだ明らかでないことの方が多いようなのだ。とはいえ、これらの疑問の回答に繋がるような示唆は十分に含まれていた。

 

まず、懐かしさ(ノスタルジア)*1は大きく2つの種類に分けられる。

 

・個人的ノスタルジア

・歴史的ノスタルジア

 

これらのなつかしさは、タルヴィングの記憶のモデルを用いて説明される。タルヴィングの記憶のモデルとは、記憶は以下の3つに分けられるといったものだ。

 

①自分の人生で経験した個人的、自叙伝的物事に基づく「エピソード記憶」

 

②テレビや本などを通して学んだ知識に関する「意味記憶」

 

③知っているという感覚がない無意識レベルの記憶である「知覚表象システム」

 

この3種類のなかで、個人的ノスタルジアは①「エピソード記憶」に基づくもの、歴史的ノスタルジアは②「意味記憶」に基づくものと考えられている。簡単に書くと、個人的ノスタルジアは自分自身の思い出に由来する懐かしさ、歴史的ノスタルジアは学んだ知識に由来する懐かしさということになる。そして、

 

"個人的ノスタルジアにあって歴史的ノスタルジアにないもの"とは、過去から現在へとつながっている自己の存在および自己と他者の関係

 

とこの本には書かれている。このことから、個人的ノスタルジアは人とのつながりから喚起されることになる。なるほど、自分の人生を懐かしんで感じる個人的ノスタルジアは、家族や友人、クラスメイトたちなど、人との関りに関する思い出から来るものがほとんどだ。一方、神社仏閣、海や山、川から感じる懐かしさについて考えてみると、実はこれらに関する個人的な思い出がそれほどないことに気がつく。わたしにとってこれらから感じる懐かしさは、映像や書物で学んだ知識からくる歴史的ノスタルジアということになるのだろう。そして、この実体験を伴っていない歴史的ノスタルジアは、何度も味わうと食傷気味になってしまうこともあると本書には書かれている。

 

これらのことを踏まえて、以前に書いたこの記事を振り返ってみたい。

 

www.gissha.com

 
この記事では、わたしが個人的に「デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!」は好きなのに、それのリメイク作品である「サマーウォーズ」は全く好きじゃないのはなんでなのだろうといったことを書いた。ぼくらのウォーゲームとサマーウォーズの比較。デジモンアドベンチャーを見て感じるノスタルジアは完全に個人的ノスタルジアだ。なんでも自分が小学生のころに実際に見ていたという実体験が伴っているし、団地という舞台設定から、当時団地に住んでいた友達や団地鬼ごっこをしたことなどが思い出される。これはもう個人的ノスタルジアの詰め合わせである。一方で、サマーウォーズ。舞台は田舎。わたしはサマーウォーズに出てくるような田舎には行ったことがない。だから、わたしにとってこれは歴史的ノスタルジアなのである。つまりは、サマーウォーズがぼくらのウォーゲームのリメイク作とはいえ、リメイクによって変更された点によって、わたしにとっての個人的ノスタルジアの要素がゴッソリと欠けてしまったために、ぼくらのウォーゲームほど好きにはなれなかったのだろう。さらには、このように懐かしさの象徴として田舎を舞台にした作品は数が多いため、それに少し飽きてしまっている部分もある。

 

しかしわたしとは異なり、夏の海や田んぼなどの田舎の風景にえげつないほどの感傷を覚える人もいる。その中には、実際に田舎に関する思い出をもっていないにも関わらず、ノスタルジアを感じている人もいるのだろう。この人たちはおそらく、実際には田舎に行っていなくとも、幼少期や思春期などの多感な時期に田舎を舞台とした芸術作品に強い感銘を受け、大人になってから田舎が舞台である作品を見ると、意識的もしくは無意識的にその感銘を受けた芸術作品のことを思い出し、その作品に紐づいた多感な時期の思い出までが掘り起こされるために個人的ノスタルジアを感じるのではないだろうか。ジブリ作品から感じる懐かしさも同じもののように思える。自分が幼いころにジブリの作品をよく見ていて、大人になってから金曜ロードショーなどで放送されているものを見たときに、その幼少期の記憶が思い出されて個人的ノスタルジアを感じるのではないだろうか。わたしは子どものころはジブリが嫌いだったから、ジブリ作品から懐かしさを感じることはない。もののけ姫のアシタカの腕がグジャグジャっと呪われるところや、ナウシカの大きな虫の大群、さらにはホタルの墓の悲しいイメージなどからジブリがめちゃくちゃ苦手だった。だからわたしは、トトロを見ても全く懐かしい気持ちにはならない。かまいたちの山内もきっと同じ。わたしの場合は、同じアニメでも「幽☆遊☆白書」や「らんま1/2」の方が小学生のころの夏休みに朝のアニメ劇場で見ていたから懐かしく感じる。とはいえ、作風的にそれほど感傷には浸れないが。それでもジブリの音楽に携わっている久石譲の楽曲からは懐かしさを感じる。これは一体なぜだろうと「久石譲 懐かしさ 理由」で検索したところ、1発目にこのサイトがヒットした。

 

anotherdaycomes.com

 

なるほど、久石譲の「Summer」のイントロには学校のチャイムと同じ音階が使われており、このイントロを聴くことで潜在的に学校のチャイムを思い出し個人的ノスタルジアを感じていたのか。

 


Joe Hisaishi - Summer

 

他にも、となりのトトロの挿入曲である「風の通り道」には、演歌や歌謡曲でよく使われる二六抜き音階が使用されており、これが懐かしさを感じる要因と考えられている。

 

night-cap.net

 

久石譲の楽曲には色々と仕掛けが隠されているようであり、ジブリからは懐かしさを感じない自分が久石譲の楽曲からは懐かしさを感じる理由が少し分かった気がする。

 
そして、音楽から来るノスタルジアといえばvaporwave。実際にわたしは70、80年代のシティポップを聴いていたわけではない。めちゃくちゃ幼かったしね。それでもvaporwaveの中にはノスタルジアを感じる作品がいくつかある。

 


ΛDRIΛNWΛVE - it's good to see you again!!

 


ナニダトnanidato - doki doki no disco ドキドキのディスコ 『FUTUREFUNK』 X 甘い日本のディスコ'89

 

それはまたまたなぜだろうと考えてみたところ、ひとつだけそれっぽいことに気がついた。それは、わたしの好きなvaporwaveの作品のGIF画像には、後藤真砂子が作画監督を務めたことのあるアニメが多いということだ。

 

w.atwiki.jp

 

「きまぐれオレンジ☆ロード」に「魔法の天使クリィミーマミ」。そのどちらのアニメも幼い頃に見た記憶は全くないのだが、同じように後藤真砂子が作画監督を務めていたアニメ「らんま1/2」は、小学生のころに朝のアニメ劇場で再放送されていたものを死ぬほど何度も見ていた。「きまぐれオレンジ☆ロード」や「魔法の天使クリィミーマミ」の絵柄から「らんま1/2」が喚起され、そこから幼少期の懐かしさが思い出されたのかもしれない。これは個人的ノスタルジア。さらにはノスタルジアを感じるには、現在とのある程度の連続性が必要とも本書には書かれている。ちょうどvaporwaveが流行したころはシティポップのリバイバル期。vaporwaveでサンプリングされている楽曲たちの影響を受けたアーティストたちの音楽が流行していたことも、ノスタルジアを感じた要因の一つかもしれない。ややこじつけ感あるけど。

 

そして、多くの人が青春時代を思い出すバンドといえばNUMBER GIRL。このNUMBER GIRLは2002年に一度解散した後、最近再結成がなされた。正直、NUMBER GIRLの再結成に際しては、わたしは何の感慨ももたなかった。というのも、わたしは青春時代にNUMBER GIRLに夢中になっていなかったからだ。先日、コロナの影響を受けてYouTubeで生配信していた無観客ライブもカッコ良かったけれど、ノスタルジアを感じることはなかった。NUMBER GIRLに感傷を覚える人たちは、自らの思春期において、彼らによる衝撃を受けた人たちなのだろう。さらには、実際にNUMBER GIRLの歌詞のような青春を過ごした人はそれほどいないだろうが、彼らの歌詞の青春っぽさは歴史的ノスタルジアとして十分に作用し得るものであり、それが個人的ノスタルジアと相まってえげつないほどの感傷を引き起こすのだろうよ。とはいえ、ノスタルジアは感じなかったとは書いたが「YOUNG GIRL SEVENTEEN SEXUALLY」の入りはめちゃくちゃカッコ良かった。「わっかるかなあ。わかんねえだろうな。」という向井秀徳の謎のセリフから、ギターがジャーンジャーンジャッジャッジャッジャッ。なんやこれ、かっこよすぎ。わたしがNUMBER GIRLに夢中にならなかったのは、入り口のアルバムが間違っていたからかもしれない。中学生のころ、とりあえず手に取ったNUMBER GIRLのアルバムは「SAPPUKEI」であり、齢14のわたしには、いささかこのアルバムは尖り過ぎていた。

 

SAPPUKEI 15th Anniversary Edition

SAPPUKEI 15th Anniversary Edition

 

 

NUMBER GIRLのフォロワーであるBase Ball Bearの「HIGH COLOR TIMES」にはちゃっかりハマっていたから、NUMBER GIRLも「SCHOOL GIRL BYE BYE」から入っていたらハマっていたかもしれない。

 

HIGH COLOR TIMES

HIGH COLOR TIMES

  • アーティスト:Base Ball Bear
  • 発売日: 2005/03/16
  • メディア: CD
 
SCHOOL GIRL BYE BYE

SCHOOL GIRL BYE BYE

 

 

とはいえ人生は一期一会。良さがさっぱり分からなくて挫折したこと、それだけがおれのNUMBER GIRLに対する個人的ノスタルジア。

 

話が個人的なものに逸れてしまったが、この本にはその他にも、ノスタルジアは退屈な気分のときに感じやすい、ノスタルジアを感じるとポジティブな気分になる、ノスタルジアを感じている間は痛みに耐えやすいなどといったことが書かれている。こんなことを知ると、昔のことを思い出して懐かしもうとする行為は、まるで自己防衛本能のように思えてきた。いまが退屈でネガティブな感情になっていて辛いから、ノスタルジアを感じてポジティブな気分になろうとし、やたらと昔を振り返るのだろうか。そんなことはないと信じたいけれど、深層心理の自分よ、そこんとこはどうなんだい?

 

*1:この本では「懐かしさ」と「ノスタルジア」は同じ意味で使われているが、厳密には意味が異なるとも考えられている。例えば「ノスタルジア」は「懐かしさ」とは異なり、“感傷を伴う懐かしさ”とより一歩踏み込んだ意味であると提唱する論文もある(長峯聖人・ 外山美樹 (2018). 本邦におけるノスタルジアの機能的特徴 ―感傷を伴う懐かしさという観点から ― 筑波大学心理学研究, 56, 21-26.)
また、ノスタルジアと同じ意味でよく使われるノスタルジーはフランス語である(ちなみにノスタルジアは英語)。

おれの人生の延長線上にいる富樫勇樹を見に行くのだ(アナログフィッシュ「Iwashi」)

先日、大阪エヴェッサvs千葉ジェッツのバスケの試合を観に行った。千葉ジェッツには彼がいる。そう元NBA契約選手、富樫勇樹が。富樫勇樹を見てみたい、友人と話しているときにそんな話題になり、じゃあ大阪エヴェッサとの試合があるときに見に行こうとなったのだ。

 

試合は15:00から。『富樫のプレーが見れるのか・・・。』とワクワクしながら、会場のおおきにアリーナ舞洲へと向かう。行きの電車の中で村上龍の「空港にて」を読む。

 

空港にて (文春文庫)

空港にて (文春文庫)

  • 作者:村上 龍
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2005/05/10
  • メディア: 文庫
 

 

一人称視点であるはずなのに、まるで三人称視点のように感じられる感情を排除した冷めた文体。日常生活において、我々の身にまとわりつく何とも言えない息苦しさ。人生に生きづらさを感じる、そんなときにわたしは、自分の頭の中だけで色んなことをグルグルグルグル考えてしまっている。『あのとき、あの人との会話でこういう風に答えていれば、いまとは違う関係になっていたのか?』『この人は果たして、わたしと同じように人生に悩んだり迷ったり嫌になったりすることがあるのだろうか?』などと考えてしまう。この本は、人生で息苦しさを覚えるワンシーンの風景や、その瞬間の主人公の心理を徹底的に書きこんでいるため、主人公が頭の中でグルグル考えてしまっていることを恐ろしいほどリアルに追体験できる。そして、そんな閉塞感の漂う日常生活から抜け出すためには、他人の価値観に左右されない、自分だけの希望を何とかして見つけなければならないと書かれている。この本を読んでいる間、やたらとアナログフィッシュの「Living in the City」が頭の中に流れた。

 

 

 

本が読み終わり、耳にイヤホンを付けて、ゆnovationの「wannasing」を聴く。

 

 

画面越し眺める君らの暮らしは窓辺に飾る花のように、そっと心ゆたかに

 

わたしに生きづらさを与えるのは周りの人間であるのと同時に、わたしに生きる希望を与えてくれるのもまた、周囲の友人たちであるのだ。友人たちの明るくひたむきに生きている日常を垣間見ることで励まされる瞬間は確かにある。村上龍とゆnovationの2人は、表現の仕方こそ真逆ではあるが、希望を抱いて行動し続けることが重要であるという共通のメッセージをわたしに伝えてくれる。それにしても「wannasing」の歌詞の乗せ方、たまりません。このアルバム「朗らかに」はめちゃくちゃ良いアルバムだ。

 

 

おおきにアリーナ舞洲にて友人と合流し、会場へと入る。バスケの試合観戦は今回で2回目。富樫勇樹がいるからなのか、千葉ジェッツが人気球団だからなのか分からないが、以前観に来たときよりも客席がパンパンに埋まっている。

 

www.gissha.com

 

コート上にいる富樫を見つける。

 

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ヤクルトの青木や山田哲人を球場で見たときと同じように『うわ~、ほんまにおるんや。』という感情になる。自分の人生と彼らの人生がリンクしているとは全く思えない不思議さ。まあ向こうはこっちのことなんか認識していなくて、一方的なリンクの仕方ではあるが。わたしにとって富樫、青木、山田哲人は向う三軒両隣にちらちらするただの人ではないのだ。当たり前だけれど。そうこうしているうちに試合が始まった。ぶっちゃけこの日の試合で「富樫すげえー!」とはならなかった。大阪エヴェッサが強かったのか、富樫の調子が悪かったのか、富樫のみならず千葉ジェッツ全体の調子が悪かったのか、このうちのどれなのかは分からないが、大阪エヴェッサが終始試合を有利に進めていた。終わってみれば84-69で大阪エヴェッサの勝利。この日が終わった時点で、大阪エヴェッサのWestern Conferenceにおける順位は1位(2019/12/22時点でも1位)。強いやんエヴァッサ。

 

そして明日12/23からは高校バスケの全国大会、ウィンターカップが開幕する。

 

wintercup2019.japanbasketball.jp

 

こっちも面白いから楽しみ。

 

 

ウィンターカップを見ていると、自分にも部活をしていたときがあったんだなあと思う。そんなに上手くはなかったけれど、少しずつできることは増えていっていた気がする。たまに日々を過ごしていて、『おれはこのまま勉強もせずになんとなく生きていたら、これ以上賢くならずに死んでしまうのだろうか・・・。』と考えるときがある。久しく感じていない自分が成長したという感覚。社会に出て仕事ができるようになったというのは、成長ではなくて適応のように思える。何か自分の成長を実感できることを始めたいが、そもそも自分のしたいことが分からない。モヤモヤしながら生きていく。自分が成長しているという小さな希望を見つけられる日が、果たしてこの先、わたしに来るのだろうか。

 

東京にフラっと行けるほどのフットワークの軽さがほしい(スズキナオ「深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと」)

最近読んだスズキナオ氏の「深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと」が面白かった。

 

深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと

深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと

 

 

深夜高速バスに乗って様々なところを訪れ、そこで出会ったひとやお店のことなどが書かれたエッセイ。わたしは最後の章である第6章の「私が知らなかったこの町は、こうしていつもここにあった。私がいなかっただけだったのだーーー散策」が気に入った。有名人でもないパンピーの友人の史跡を巡ってみたり、気まぐれに降りたことのない駅に降りてみたり、あえて終電を逃したつもりで自宅の最寄り駅まで歩いてみたりといった、ともすれば「ただの暇つぶしやん」と思われるようなことをしており、それがなんとも楽しそうなのだ。なによりスズキナオ氏が何かしようと呼びかけるとすぐに集まってくれる友人たちがいい。そのフットワークの軽さ。ていうか、この本を読んでいるとフットワークの軽さって人生を楽しむためには大事だなあと感じる。わたしは何かしようと思いついたときに、それを行動に移すのを少しためらってしまい、最終的に段々とやる気がしぼんでいって『まあ、ええか。』となってしまうことがよくある。いわゆるめんどくさくなるってやつです。土日にフラっと東京に行けるような人間になりたいなあと思うこともあるのだが、結局そんな人間にはなれていない。好きな芸人やアーティストなどのイベント情報を見ていると、東京で開催されるものが多い。ここで『じゃあ東京行くか。』とすぐに行くことができれば色んな楽しいことに出会うことができると思うのだが、『でもなあ。東京かあ。』と考えてしまい結局行かないことが多い。いや、多いんじゃなくて絶対に行かない。ゆnovationの「ある程度ある」の歌詞にある

 

心躍ることあるけど、家から出るほどじゃない

 

に『そうやねんなあ~。わかるわあ~。』となってしまっている自分がいる。悔しいです。

 

 

いきなり東京に行くほどのフットワークの軽さを身につけるのは難しいので、とりあえず暇な友人に声をかけて、終電を逃したつもりで自宅の最寄り駅まで歩くというのはやってみたい。深夜のテンションでめちゃくちゃ楽しいと思う。わたしは友人と過ごす中身のない時間が好きだ。ファミレスで晩ご飯を食べながらダラダラし、終電の時間になったら店を出発して開始したい。そんな金曜日を過ごしてみたい。そして、これを足掛かりにして、東京に行けるほどのフットワークの軽さを身につけたい。未来の自分に期待したい。

 

そして、この本には各ページの下段に訪れた場所や食べたものの写真が載せられている。これを見て不意に、大学生のころ、徳島か愛媛かの旅行に行ったときに食べたスズキの味噌焼きが美味しかったことを思い出した。ただ美味しかったという事実だけが強烈に頭の中に残っており、それがどんな見た目の料理だったかは全く思い出せない。大学生のころのわたしは、旅先で出される料理の写真を収める友人の行動が全く理解できなかった。『コイツ食べ物の写真なんかとって、その写真見直すことあんのかい。おれは写真なんぞに収めずにこの目に焼き付けて脳裏に刻むわ。』と、なぜか息巻いていた。でも今なら思う。写真、取っておけば良かった。今になって『あれ美味しかったなあ。また食べたいなあ。』と写真を見直したくなっている。記憶なんて人間生きていれば次第に薄くなっていく。一生脳裏に刻み続けることなんて不可能だ。ていうか、だからこそ写真が発明されたわけですし。ああ、なんて愚かだったんだ、昔のわたしは。変に意固地にならずに写真を撮っておけばよかった。素直に生きることは大事。それが一番大事。

 

この本では、実際に深夜バスに乗っている場面の描写は最初のエピソードひとつだけであるが、タイトルからスズキナオ氏は100回以上は深夜バスに乗っているであろうことが窺える。普通にすごい。自分は深夜バスに3回ぐらいしか乗ったことがないが、全然寝られなくて大変しんどかった。わたしは電車では座りながらグッスリ眠ることができるのだが、バスなどの車ではなかなか眠ることができない。眠りやすさには揺れが関係していると聞いたことがあるが、車の揺れ方がわたしには合っていないのだろうか。今はもう働いているから、大学生のころよりお金を持っており、深夜バスに乗る機会は減ってしまった。わざわざ深夜バスに乗るくらいなら、新幹線に乗ってしまおうとするような人間になってしまった。いや、別に悪いことではないんだけれども。ただ、大学生のころの守銭奴のような生活から考えると、よくもまあ偉くなったもんよと思う。それにしても人間は、科学の発展のおかげで、行動することで消費される様々な時間を短縮できるようになったはずなのに、いまだに時間に追われているような感覚を抱きながら生きているのはなぜなんだろう。より移動時間の短い新幹線に乗れるようになった今よりも、深夜バスに乗っていた大学生のころのほうが時間に余裕があった。お金と時間はトレードオフ。金持ちの大学生になれたら最強なんじゃないか?

 

そして話はめちゃくちゃ変わるけど、スピッツの楽曲がサブスクリプションで解禁されましたね。

 

 

 

バスの揺れ方で人生の意味が解かった日曜日  

 

スピッツは好きだけれど、スピッツの歌詞は分かるようで分からない。ただとりあえず、この曲はひとりで乗る深夜の高速バスについて歌っているのではないことは分かる。この曲は恋について歌っているはず。ただ、

 

 愛はコンビニでも買えるけれどもう少し探そうよ

 

といった部分や

 

 余計な事はしすぎるほどいいよ

 

といった部分は、妙にこの本の内容としっくり合うところがある。自分たちで面白そうなことを考えてやってみたり、なにかよく分からないこともやってみたら意外と楽しかったり、そんなことがこの本にはたくさん書かれている。Let's get it on.

 

過去を振り返るのはいつだって今の自分(ペク・スリン「惨憺たる光」)

なんというか、9月、10月の時間はあっという間に過ぎて行っている。今年の夏は最高気温はそんなに高くならなかったが、暑い期間が長かった。9月なんてずっと夏の気温のままで、なかなか涼しくならなかった。だから9月になっても夏が終わった感じがしなくて、全然9月っぽくなくて、しかもその感じのまま10月に突入したから、9月の印象がめちゃくちゃ薄い。まるで8月がずっと中途半端に続いているみたいだった。そして10月に入った一週目も普通に暑いままであった。ただ一週目が終わるとそこから急に涼しくなり、涼しくなり始めてから3日後にはジャケットを羽織らなければ朝と夜は肌寒いほどになった緩急。家の中でも半袖半ズボンから一気に長袖長ズボンに。いつもなら長袖半ズボンの中途半端なキメラスタイルの時期があるはずなのに。寝るときも掛布団をかぶらなければ寒い。そしていまだに日本へと到来し続ける台風。今年はそんな9月っぽくない9月であったから、台風クラブの「飛・び・た・い」をセプテンバーのうちに聴くのを忘れてしまった。

 

 

この曲、間奏のギターが最高にかっこいい。オクトーバーになった今さら聴く。

 

そして、そんなにはっきりしない9月だったからなのか、ゆ~すほすてるも「九月」という曲を10月になってから発表した。

 

 

今年の9月は気づけば終わっていたし、今年の10月は気づけば始まっていた。そして、ラグビーワールドカップと野球の日本シリーズが気づけば始まっていて、日本シリーズはあっという間に終わってしまった。とはいえ、9月、10月って毎年こんな感じのはっきりした印象がない月だった気もする。ただ振り返ってみると、中学、高校のころは体育大会があったから9月を意識することはあったように思う。そういえば大学生のころも、住んでいた実家の近くに小学校があったから、網戸越しに聞こえてくる運動会の練習の音で、『ああ、もうそんな時期か。』と9月であることを意識していた気がする。学校は季節ごとに行事があるから、学生たちが季節の移り変わりを知らせる役割を果たしてくれていたんだと、今さらになって気づく。今住んでいるところは学校の近くではないから、ただただ気温の変化でしか季節の移り変わりを捉えていないのかもしれない。

 

わたしが抱く分かりやすい秋のイメージは紅葉だけれど、実際の紅葉が見ごろの時期はもはや結構寒くて、あんまり涼しいといった感じではない。どちらかというと冬の入り口といった感じだ。改めて紅葉を観に行ったときの写真を見返してみても、しっかりめの上着を着て、マフラーまで巻いている。秋って本当に分かりづらくてはっきりしない季節だ。だから「食欲の秋」とか「読書の秋」、「スポーツの秋」など、バシッとひとつに決まらずに色んな呼称があるのだろうか。

 

とりあえずは読書の秋ということで、最近は韓国の作家であるペク・スリンの書いた「惨憺たる光」を読んでいる。

 

惨憺たる光 (Woman's Best 9 韓国女性文学シリーズ6)

惨憺たる光 (Woman's Best 9 韓国女性文学シリーズ6)

  • 作者: ペク・スリン,カン・バンファ
  • 出版社/メーカー: 書肆侃侃房
  • 発売日: 2019/06/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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韓国で生きる若者の、先の見えない人生を不確かな足取りで歩んでいく様が描かれている。この小説では登場人物たちが、その時々でやたらと過去を振り返る。

 

確信の無いとき、人は往々にして偶然の中にある啓示の痕跡を探そうとするのだ。 p61

 

見通しのきかない現代を生きていると、ときに自分が今、何のために生きているのかが分からなくなってしまうことがある。そんなとき、ひとは過去を振り返ろうとする。それは過去の出来事をヒントにして、今の自分に起こっている感情や事象を理解しようとするために。

 

往々にしてわたしは、自分が過去を振り返るときは、自分にとって都合のいい解釈を加えてしまっているように思える。生きている意味を見出せない退屈な日々が積もり積もって過去になっていく。過去を解釈しようとするときはいつだってそこに現在の自分の意思が介入する。今の自分の人生、日々に空虚さを感じているからこそ、その反動として自分の人生は無駄ではないと思いたくて過去に意味をもたせようとしてしまうのだろう。他人からしてみればたいしてドラマチックでもない出来事であっても、自分の中では波乱万丈な出来事であった、あのころの自分にとっては輝かしい時間であったという風に都合の良い解釈を加えて。ただ、そんな風に過去を振り返っては自分が生きやすいように過去を捉え直すことは、果たして罪なのだろうか?ある意味では過去の改変、改ざんのように思えるこの行為も、自分の人生を肯定してなんとか必死に生きようとするがゆえの行為に思える。そして、わたしはたとえ今現在の生きている意味、理由が分からなくなっても、なんとか過去に意味を見出して生き続けることはできるのだろうか?もし、過去にすら意味を見出すことができなくなったとき、わたしはどうなってしまうのだろうか?この本を読んでいると、そんな不安が頭をよぎってしまった。

 

もちろんこの本では、わたしが上に書いたような今の生活における空虚さをもとに過去を振り返るといった行為ばかりが書かれているわけではない。ただ、どのエピソードを読んでも、過去はいつだって今の時間の中に、今の自分との関係の中にあるということを強く意識させられた。

  

秋にやたらと呼称を付けようとするのも、自分の過去に無理矢理意味を見出そうとするがごとく、不確かな季節をなんとかして捉えようとするためなのかもしれない。肌寒さを感じるこの季節は、なにか宙ぶらりんになったような気持ちになってしまう。そして、気づけば10月も終わろうとしている。あっという間だなあ。

 

旅行代理店の前を通るときの気持ちと、うしろのほうの海

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旅行代理店の前を通るたびに、店の前に出された様々な旅行先のパンフレットが気になってしまう。そして、旅行に行けたとして年に最大2~3回ぐらいかなあと考えると、この先いろんなところに行くためには全然時間が足りないじゃないかということに気がつく。この夏、どこかに旅行に行きたいなあ。そして、去年の夏の旅行のことを思い出す。8月に行った旅行、暑すぎて楽しさよりもしんどさの方が勝っていたんじゃないか。もちろん思い出の中では楽しいものになっているんだけれど。そんな夏の旅行について考えていると、1ヶ月以上の長期休暇なんてこの先の人生においてもう全く訪れないんだろうなと、おそらくこれまで何人もの人が考えたことを、ご多分に漏れず自分も考えてしまった。そんなことを考えたからといって、夏休みをたっぷり取れるような人生に変えて行こうとどうこうするつもりはないんだけれど、急に精神的にしんどいなあなんて思ってしまった。かといって、膨大な時間を与えられていた大学時代の夏休みを有意義に過ごせていたかと問われてみれば、イエスとは答えられない。そして、仮に今の自分がタイムスリップして大学時代の夏休みを過ごせるようになったとして、何をしたらいいかは全く思いつかない。う~ん、悲しいね。でも、これに似たようなことは毎週末味わっていて、休日が始まったばかりの土曜日はダラダラしてしまい、休日が終わろうとする日曜日の夜に『ああ、この休日の間にあれやっとけば良かった・・・』なんて思ってしまうことが多い。そしてこの経験が次の週の土日に活かされることなんてほとんどない。タイムスリップしても、私は今の自分とさほど変わらない人生を歩んでしまう気がする。それどころか今よりも・・・。


土曜日に、スズリという誰でも簡単にオリジナルデザインのTシャツを作成して販売できるサイトを眺めていた。

 

suzuri.jp

 

いろんな人たちが、オシャレなデザイン、はたまたユニークなデザインのTシャツを作っては販売している。そんな中、不特定多数の誰かに販売するためではなく、特定の誰かへ個人的にプレゼントするためにデザインされたTシャツを時折見つける。多くの人に買ってもらおうとかそんな考えは一切感じられない、ただプレゼントする人ひとりのために考えられたデザイン。おそらく仲のいい友人の若い頃の写真や、その人たちにしか理解できないメッセージなどが載せられたTシャツ。明らかにその他のTシャツとは趣が異なっており、はっきり言ってめちゃくちゃ浮いている。そんなTシャツたちがやたらと目につくのと同時に、なぜか憧れのような感情を抱いてしまう。


そんな風にスズリを眺めながら、Lantern Paradeの「花」を聴く。

 

 

ビートルズのハーモニーもスライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンのファンキーもカーティス・メイフィールドのメロウネスも夢中にならない人のほうがはるかに多いという歌詞。確かに周りにはビートルズは知っていても、スライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンとカーティス・メイフィールドは知らない人の方が多い。そして自分自身、ビートルズのハーモニーやスライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンのファンキー、カーティス・メイフィールドのメロウネスに夢中になっているかと言われれば、そんなことはない。世の中には自分よりももっと色んなアーティストを知っている人たちは当たり前のようにたくさんいて、そしてさらに、その人たちよりももっと詳しい人たちがいて・・・。色んな作品を知っていなくても、自分にとって意味のある作品だけを知っていたらそれでいいんじゃないかと思うこともある。それでも外から見れば、もっと世の中には良いものがあふれているのにと思われてしまうんだろうか。私たちはどこまで行ってもすべての作品を聴いたり、見たり、触れたりすることはできない。そんな事実に途方もなさを感じると同時に、私にとって人生を変えうるほどの決定的な作品であったかもしれないのに、日の目を浴びずに埋もれてしまった作品もこの世にはあったのだろうかといったことまで考えてしまう。売れなかったから埋もれてしまった作品。世間の人には受け入れられなかったけれど、私個人には刺さっていたかもしれない作品。とはいえ、そもそも何かに人生を変えられるほど私は感受性が豊かなのだろうか。私には他人にオススメされた作品を素直に受け入れることができないところがある。自分にとっては良い作品とは思えないから、それはもうしょうがないことだと思ってしまうんだけれど、逆に自分の好きな作品の良さが友人に伝わらないときは、本当に理解できない気持ちになる。『なんでこんなに良いのに、面白いのに、素晴らしいのに分からへんねやろう?』って。私は、心のどこかで自分自身の感性は絶対であると信じているんだろう。それは傲慢かもしれないが、自分の感性が信じられなくなったら生きていけないじゃないかって思うときもある。そして、友人たちも私が彼らからオススメされたものの良さが分からないときに、同じような感情を抱いているんだろうか。思ってんだろうね、多分。


日曜日には、永田紅の「ぼんやりしているうちに」を読んだ。

 

ぼんやりしているうちに―永田紅歌集 (21世紀歌人シリーズ)

ぼんやりしているうちに―永田紅歌集 (21世紀歌人シリーズ)

 

 

夏に長らく海に行っていない。嘘。沖縄には結構行っていて、そのたびに海には入っている。でもそれはマリンスポーツの類いであり、海水浴は長らくしていない。それでも永田紅の短歌の

 

袋から出すときタオルのあたたかく湿りて海はうしろのほうよ


で呼び起こされる感覚が確かにある。私はあの湿ってあったかい水着とかタオルが気持ち悪くて嫌いだったな。でもこの歌を読んで、あのあたたかさは、先ほどまで入っていた海を引き連れていたんだということに気づかされた。海はうしろのほうよという部分からは、海水浴を終えて海から遠ざかっていく物理的距離とともに、もう入らなくなり思い出すだけになってしまった海との心理的距離を私は感じてしまう。夏のノスタルジー。春にも秋にも冬にもそれぞれのノスタルジーを感じている気がするけれど。andymoriの「すごい速さ」の歌詞

 

そのセンチメンタルはいつかお前の身を滅ぼすのかもしれないよ

感傷中毒の患者 禁断症状 映画館へ走る


の部分を聴いて、自分は感傷に浸りたくて無理矢理いろんなことを思い出そうとしてるんじゃないかって思うときがある。

 


andymori "すごい速さ"

 

それでもやめられないから、自分はもう感傷中毒の患者なんでしょう。いつからなんだろう。

 

学生の最後の年となりぬれど牛のようには懐古するまい

永田紅

 
学生じゃなくなって、はや数年です。

 

夏風邪が呼び起こした大学生のころの暇な昼間の記憶

先週、風邪をひいてしまった。夏風邪なんて人生で初めてかもしれないというくらい、この時期に風邪をひいた記憶がない。なんでも咳が止まらないタイプのものであった。ということで、一日会社を休んで病院へ。わたしは基本的に仕事なんて好きじゃないから、風邪をひいているとはいえ会社を休めて少し嬉しかった。朝、布団の上で目を覚ますと身体がいつもよりも重い。そしてのどがやけにイガイガする。これまで生きてきた経験から「これはもう風邪でしょう・・・」とすぐに分かった。正直、無理をすれば働けるぐらいのしんどさではあったが、「周りの人に風邪をうつしてしまっても悪いし・・・」というのは建前であって、会社を休む口実ができたので休もうと即座に決心した。いざ会社に連絡し、今日は休むということを告げると、それだけでもう幾分か身体が楽になった。どんだけ働きたくないねんと自分で思わないこともないが、平常時でも働くのはしんどいのに、しんどいときに働くなんてもっとしんどいから、もう働きたくないのだ。もはや子どもが駄々をこねているようなものではあるが、これは本当にそうだからもう仕方がない。とはいえ、確実に風邪をひいてはいるので、お昼前ぐらいに電車に乗って最寄りの病院へと向かった。

 

家を出て駅に向かっていると、夏なのにそんなに暑くないなと感じた。とはいえ汗は絶えず噴き出てくる。ホームにて電車を待っている間、やはり少し身体が重く感じられた。しんどさっていうのは動いているときよりも、止まっているときのほうが感じやすいような気がする。歩いているときはそんなにしんどくなかったのに。中学の部活のときもそうであった。球拾いをして動いているときはしんどくなかったのに、集合がかかって後ろに手を組んで先生の話を立って聞いていると急にしんどさが顕在化してきた。急に暑さとか疲れとかがジワァーっと頭の中を満たしてくるような感覚。ただ、思ったよりも電車はすぐに来てくれたため助かった。クーラーの効いた車内に座ると「フゥー」と大げさに息をつきたくなった。各駅停車の電車が動き出し、車内の様子を見渡すとお年寄りと子ども連れの母親が多いことに気づく。それでもやはり平日の真昼間ということで会社で働いている人が多いのであろう、車両の中はガラガラであった。人がガラガラで進行方向と直交する向きに座るタイプの座席であったから、向かい側の窓の景色を座りながら堂々と眺めることができた。窓の外の景色を見ていると、空に浮かんでいる雲はほとんど動かないのに、軒先の景色は次々と横へと流れていった。ああ、ここの駅は学生っぽい人がよく乗ってくるから大学でもあるんだろうな。お昼に高校生がいるけど今ってテスト期間で早く学校が終わったんだろうか。もしかしてサボり?など、色んなことを考えてしまった。そしてふと、なんかこの感じ、大学生の暇なころの昼からしか授業が入ってなかった一日に似ていて懐かしいなと思った。なんだかそれに気づくと急に嬉しい気持ちが湧いてきて、あのころは確かに暇で退屈でこんな毎日いつまで続くねんって思っていたけれど、社会人になった今、そんなころの空気がふと顔をのぞかせるとこんな感情になってしまうなんて、思い出補正は恐ろしいなと感じる。思い出は美化されて全てがフィクションっぽくてそれっぽいワンシーンになってしまう。まあでもそれで心が軽くなったのも事実、そんな感傷が呼び水となり、大学生の夏によく聴いていたThe Beach Boysの「California Feelin'」をウォークマンで再生した。

 

 

懐かしい。なんといってもコーラスが最高。YouTubeに別バージョンのPVが上がっているのだが、私はこのアルバムバージョンが好きなのである。あのころ考えていた、このまま何者にもならずにフラフラしたまま生きれたらいいのにという感情まで呼び起こされる。そしてなぜか、思い切って仕事をやめてもどうにかなるんじゃないかという浅はかな考えまで頭に浮かんできた。どうにもならんよ、ノープランのノービジョンじゃあ。それにやめる勇気もないだろう、自分よ。それにしても車内はクーラーが効いていて心地よく、このままずっと乗っていられるなあなんて思った。

 

病院のある駅に着き、受付に行って問診票を受け取った。その際に自分の受付番号を教えられ、およそ1時間後ぐらいに呼ぶことになると告げられた。まあまあ待つなと思ったが、こんなときのために小説を持って来ていたから、どうにか暇は潰せそうだ。長嶋有の「夕子ちゃんの近道」を読む。

 

夕子ちゃんの近道 (講談社文庫)

夕子ちゃんの近道 (講談社文庫)

 

 

この小説の主人公は、「フラココ屋」という名の骨董屋の2階に住んでいて、その骨董屋の手伝いをしながら生活している、いわゆるほぼほぼプー太郎のような感じの人物である。先ほどの電車内において浮かんだ「仕事やめてもどうにかなるんじゃないか」という考えは、少なからずこの小説から受けた影響が起因している。自分にとって都合の良い部分だけに影響を受けてしまうのはいかがなものかと自分でも思うが、なんだかそんなことを繰り返しながら生きてきた気もする。それはさておき、私はこの「夕子ちゃんの近道」の収録されている一篇「瑞枝さんの原付」において、瑞枝さんが主人公を心配してストーブを運んでくるシーンがとてつもなく好きなのだ。重そうにストーブを運んでくる瑞枝さんの姿を、フラココ屋の2階から見つけた主人公が「手伝いにいかなくては」と思いながらも動かなかったこと。主人公のためにストーブを持って来てくれた瑞枝さんの姿を見て、今ここで庇護されているのは、ストーブを与えられようとしている自分のほうではなくて、瑞枝さんのほうだと錯覚してしまったこと。人のやさしさに感動するも、そんなやさしい人の姿がなぜか、とてもか弱いものに見えてしまうといった気持ちがものすごく分かる。なんなんだろう、この感情は。本当の本当にやさしい人っていうのはそんなにいるわけじゃなくて、でもやさしい人について考えたときに何人かの顔は頭に浮かんで来る。そんな頭に浮かんだやさしい人たちのやさしさを純粋な"やさしさ"としてそのまま素直に受け止めてくれる人って、一体どれだけいるのだろうか。そのやさしさにつけこむと言ってはなんだか違うかもしれないが、あまりにも無防備なそのやさしさが利用されることもあるんじゃないかと心配になってしまうときもある。それでもそんな彼らの無垢なやさしさ、やさしい姿はやはり尊いものであり、愛おしくて抱きしめたくなる。

 

小説を読んでいるうちに自分の順番がきて、先生に診察してもらった。自分の家に体温計がないため体温を測定できていないが、おそらく熱はないだろうと先生に伝えた。すると、念のため測っておきましょうということになり、いざ測ってみるとゴリゴリに熱があった。道理で外に出てもそんなに暑さを感じなかったわけだ。あとで夕方の天気予報を見て知ったが、この日は普通に気温が30度を超えており真夏日であったようだ。そして、熱があると自覚すると急にしんどくなってきた。知らないほうが幸せってこともある。処方箋をもらい、薬局で薬をもらってとりあえず帰宅した。

 

家に着くやいなや、すぐに布団に倒れこんだ。手持ち無沙汰になりスマホをいじるが気分が悪くなってくる。風邪をひいたときや二日酔いのときにスマホをいじると気持ちが悪くなる。熱があると知って急にしんどくなり、スマホを手放して目を閉じ眠りについた。目が覚めたころには夕方になっており、眠る前よりも身体が熱く、本格的に熱が出ているようであった。晩ごはんに冷凍うどんを作り食べた。風邪をひいたときって、なんだか感覚が冴えているような気がする。元気な時よりもうどんの味がはっきりと分かる。いつも冷凍うどんを美味しいなあと思いながら食べていたが、今日は味の細かいところまで分かってなんだか不味い。それでも、少しでも栄養をということで残さずに食べたが、果たしてうどんにどれだけの栄養があるのだろうか。うどんを食べ終わって、また寝ようかと思ったが、今度は咳が止まらない。咳が止まらないから眠れない。最悪だ。とりあえず部屋の電気を消して横になる。すると、普段は意識しない周りの音が急に気になってきて余計に眠れなくなった。冷蔵庫ってこんなにモーター音がしてたっけ。家の前を原付が通っただけでうるさいなあって思う。しまいにゃあ、なにか分からない「ボコッ」という音。眠れなさが焦りを生んで、より眠れなくなる。それでもこまめに時計を見ると、意外と時間が進んでいない。夜って結構長いんやなあということに今さら気づいた。そして気が付けば眠りに落ちており、朝、目が覚めたときには身体はずいぶん楽になっていた。

 

風邪をひいてしんどいといえばしんどかったが、なんだかゆっくりできたような気もする。ひいて良かったとまでは思わないが、ひいても悪くはなかったような気がする。そんな気がするということで終わりです。風邪をひくたびにバンプの「supernova」を思い出し、名曲だと思うことも書いておきます。

 

感動するというよりは気づくという感じ(オカヤイヅミ「ものするひと」)

オカヤイヅミの「ものするひと」という漫画を買った。

 

ものするひと 1 (ビームコミックス)

ものするひと 1 (ビームコミックス)

 

 

30歳の小説家の日常を描いたこの作品。本屋で見つけてなんとなく気になって一巻だけを買った。帯の紹介文に自分の好きな小説家である柴崎友香が感想を書いていたことにも影響されて。主人公が街の景色や人々の行動を見て様々な物思いに耽るのだが、その思考を漫画を読みながら一緒にたどるのが何とも心地よくて楽しい。なんか読んでたら落ち着くんよなあ。気づけばこの作品が好きになっていて、続きを買おうと思い調べたところ、なんと全3巻で既に完結していた。『え~、あと2巻だけなんや。』と思いつつも、次の日にはすぐに買いそろえて全部読んでしまいました。最後まで面白かった。わたしなんかはすぐに影響を受けまして、この漫画を読んだ次の日には、通勤途中の河川敷の景色を自転車を漕ぎながら、やたらと観察してしまった。河川敷に沿って電柱が並んでいることに気づいて、まあ正確には河川敷沿いを降りた道路に沿ってなんだけれども、そんな電柱の並びにも、はじまりの一本と終わりの一本があることを知った。そういえば、電柱の電線が途切れてるとこなんて初めて見たな。途切れてるかどうかなんて今まで意識したことがなかった。かといって全ての電柱が何かしらでつながっていて、「全ての道はローマに通ず」といった具合になっていると思っていたわけではないけれど。と思うと、電線が川を渡ってつながっている電柱同士もあって、なんだかそれは大げさに思えてしまった。『ここをわざわざ繋がなあかんかったん?大変やったやろ?』なんて余計な心配までしてしまった。そして、この電線の存在に気づいてから、この下を通るときは少し窮屈な感じがするようになってしまい、何にでも気を配って観察するのも考え物だなと思った。とはいえ、こんな気分は漫画を読んだ後の数日間しか続かないのであろう。数日後には普通になにも考えずに通勤するようになっている現実。それでも数日間でもこのような期間があったということを忘れないために日記を書こう。

 

帯に紹介文を書いていたこと、そしてこの漫画のように日常を淡々と描写している様子が似ているということで柴崎友香の小説を読みたくなり、「次の町まで、きみはどんな歌をうたうの?」を読み返した。

 

次の町まで、きみはどんな歌をうたうの? (河出文庫)

次の町まで、きみはどんな歌をうたうの? (河出文庫)

 

 

東京を目指して走る車の中の男3人、女1人の会話を中心として書かれたこの小説。この関西弁をそのまま放り込んでる感じが良い。柴崎友香の作品は何が良いって聞かれると答えるのが難しい。多分自分の友達にオススメすると、「これといったストーリーがないしオチもないから、なんか物足りんかったわ。」と言われる気がする。ストーリーにオチって・・・、ねえ?まあ言いたいことが分からんでもないけど。でも何も起きないのが良いところやねんけどなあ。なんにでもストーリーとオチがあるわけじゃないし。ていうか自分の人生にストーリーもオチもあるんだろうか。「第一部 完」っていう感じすら一回もなかったぐらいにヌルヌルっと自分の人生は続いている。『ああ、ここがおれの人生の転換期やな。』なんて思える瞬間がこの先待っているんだろうか。多分ないでしょうよ。あったとしても、その瞬間を大分通り過ぎてから思うようになるんやろな、なんとなく。こんなことを考えていたら、歌人の山田航が書いたブログの記事を思い出した。

 

bokutachi.hatenadiary.jp

 

むしろ自分の周りでは泣きたいから映画を見たり、漫画を読んだりする、山田航の言う"詐欺"に自らハマりに行っている人は結構いる。それが自覚的に"詐欺"に合っているのか、無意識のうちに"詐欺"られることに夢中になっているのかどうかは分からないが。まあ私は詐欺とまでは思わないけれど、ある作品のストーリーに人工的な香りを感じて少し冷めてしまう瞬間はあるので、山田航の意見にある程度賛同できる。そして柴崎友香の小説は、そういった感動させる、人の心を動かすポイントを狙って演出しているといった感じは、比較的薄い気がする。ていうか薄いでしょうよ。あくまで人の様子を自然に誇張せずにそのまま描いている。感動する場面を作者が「ここですよ」と提示しているというよりは、読者が勝手に気づいた部分が人それぞれの感動する部分であるといったような。思えば生きていて日常生活で感動するのは、誰かに心を動かされるというよりも、こっちが勝手に感じて感動するといったことが多い気がする。受動的ではなくて、能動的というか。そりゃあドキュメンタリー番組とかを見せられたら感動してしまうけれど、そういったことではなくて。ストーリーによって導かれて気持ちをお膳立てされた感動ではなくて、その日の気分がたまたまその日のある場面と一致して、もしかしたら1日前に同じような場面に出くわしていたら何も感じなかった可能性もあるかもしれなくて、そういったものが日常における感動と思わずにはいられない。まあ、映画とかもその日の気分によって感動するしないはあるけれど、もっと瞬間瞬間の話というか。なんとなく真面目なコンビニのレジの店員に感動してしまうみたいな。結局、言いたいことが整理できなくて訳が分からなくなってしまった。

ハトとスズメはハトのほうが少し賢い気がする

最近川の土手を自転車で走っていたら、生い茂っている草と舗道の境目、草際とでも言おうか、そこにミミズの死骸がめちゃくちゃ落ちているのを目にする。

 

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怖い。何が起きているんだ、ミミズたちに。と思っていたら、その草と舗道の境目にスズメが数羽いるではないか。なるほど、おそらくミミズの死体はスズメが食べ残した残骸であろう。にしてもミミズが結構丸ごと残っている。スズメは小食なんだろうか。確かに身体は小さいけれど。どうせそんなに食べないのなら、ことあるごとにミミズを掘り返さなくてもいいのにと思ってしまう。スズメたちの世界に、エサのミミズの鮮度などの問題があるのだろうか、などという少しグロテスクな想像をしてしまう。

 

このスズメたち、私が自転車で脇を通り過ぎようとすると、別にぶつかりそうにもないのに飛んで逃げようとする。飛んで逃げようとするのはいいのだが、飛ぶ方向が問題なのである。私がいる方向に飛んでくるのである。だからもう、そこにおってくれたらいいのに飛んだほうがぶつかりそうになるという、よく分からないことになっている。「何かが近づいている」⇒「危ない」⇒「逃げる」までのシステムは組み込まれているが、逃げる方向まではちゃんと考えられないのだろうか。そしてなんだか、歌人の穂村弘が、車が来ているにもかかわらずいきなり道路に飛び出す、その死を恐れない猫の行動に憧れるといっていたことを思い出した。その点、ハトはまだ少し賢い、というか厚かましい。ハトはよく舗道の真ん中で堂々とエサを食べている。私がぶつかりそうだなあと思いながら自転車で脇を通ろうとしても、ハトたちはギリギリまで飛んでいかない。けれども、こちらがどこから近づいてきているかはしっかり認識しており、私から遠ざかる方向に少しずつ歩いていく。ハトとスズメだったらハトのほうが賢いんだろうな。

 

生き物の賢さ自体(賢さと書いたら曖昧な表現にはなるが)は、脳の大きさに左右されると思われがちだが、その脳が備わっている容れ物、つまりは身体の構造が重要であるとは池谷裕二さんの本で読んだ。

 

進化しすぎた脳―中高生と語る「大脳生理学」の最前線 (ブルーバックス)

進化しすぎた脳―中高生と語る「大脳生理学」の最前線 (ブルーバックス)

 

 

脳は身体の構造によって使う領域が変化し、イルカの脳は大きいけれど身体の構造自体は人間ほど複雑ではないから 、脳のポテンシャルをすべて活かしきれてないんだったっけ。もしイルカに手足や指が生えていたら、もっと賢くなっていたかもしれないといったことが書かれていた気がする。また読み直そう。

 

最近はすっかり暑くなって、先週の土日は半袖でも十分なぐらいであった。ゴールデンウィークが終わってしまって、仕事が始まるのが嫌だなあと思いながらも、いざ始まると割とすんなりいけてしまう。いつでも嫌なのは久しぶりに仕事が始まるその最初の日だけだ。とはいえ、モチベーションは確実に低いままであり、五月病とまでは言わないがやる気は出ませぬ。正直、ゴールデンウィークが始まる前からその感じはあったけれども。終わってしまったゴールデンウィークは、もはやフィクションだったように思える今日この頃。

 

 

キリンジの「五月病」、めちゃくちゃ好きだ。タイトルとは裏腹に爽やかな曲調。歌詞の意味は全く分からない。なにが五月病なんだ・・・。そしてこっちのファミコンアレンジも可愛くて好きです。

 


キリンジをファミコンアレンジ 「五月病」

 

音程が外れている気がするのはわざとなんでしょうか。

 

「五月病」が収録されているキリンジのファーストアルバム、「ペイパー・ドライヴァーズ・ミュージック」もめちゃくちゃいい。個人的に捨て曲なしの名盤。

 

ペイパー・ドライヴァーズ・ミュージック

ペイパー・ドライヴァーズ・ミュージック

  • アーティスト: キリンジ,堀込泰行,堀込高樹
  • 出版社/メーカー: ダブリューイーエー・ジャパン
  • 発売日: 1998/10/25
  • メディア: CD
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今思えば「捨て曲」っていう表現、えげつないな。キリンジを聴きながらのらりくらりと五月病をやり過ごそう。

 

雨の横浜中華街はまさに北京ダックの世界観(神奈川旅行 1日目)

ゴールデンウィークの中盤に神奈川県へと2泊3日の旅行に行ってきました。

 

まず旅行前日。天気予報を調べてみると、前半の2日間は雨の予報。もうこの時点で少しテンションが下がってしまう。10連休のよりによって旅行に行く2日間がピンポイントで雨。何してくれてんねんお天道様。とはいっても天に唾を吐いたところで自分に返ってくるだけであるので、気持ちを切り替えて明日からの旅行に備える。旅行に出発する直前になると急に家にいたくなる気持ち、なんなんだろう。ちょっと前まであんなに楽しみであったのに、すごく家にいたい。

 

そして旅行1日目。目が覚めると雨は降っていなかった。どうやら関西の天気は曇りのようだ。早速スマホで神奈川県の天気予報を調べると午後から雨とのこと。どうあがいても雨は降ってしまうようだ。とりあえず新幹線に乗って新横浜へ。途中の駅から友達が乗車し、一緒にしゃべりながら目的地へと向かう。「新幹線よりも飛行機のほうが旅感がでるよな。」とか「荷物そんなにないのになんとなくキャリーバッグで来てもうたわ。おかげで中身スッカスカやのにかさばるわ。」とか、そんな話をしながら2時間ほどで新横浜へと到着した。

 

電車を乗り換えて赤レンガ倉庫へと向かう。ゴールデンウィークの期間中、赤レンガ倉庫にて開催されているドイツの春祭り「フリューリングスフェスト」に行く。

 

www.yokohama-akarenga.jp

 

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色んな出店が出ていて、そこでビールやらソーセージやらを買って食事を外で楽しむといったもの。天気は曇りだがまだ雨は降っていない。外に設営されているテーブルに座って、みんなで乾杯する。特別ビールが好きというわけではなく、昼間からビールを飲んでダラダラするということへの憧れが我々をフリューリングスフェストへと誘ったのだ。そして、個人的には最近読んでいたチャールズブコウスキーの小説「勝手に生きろ!」の影響も多大にある。

 

勝手に生きろ! (河出文庫)

勝手に生きろ! (河出文庫)

  • 作者: チャールズブコウスキー,Charles Bukowski,都甲幸治
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2007/07/01
  • メディア: 文庫
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ああクズ人間になってしまいたいなんて、本当のクズ人間がどんなものかも知らずに思ってしまう。

 

それでも1時間ぐらい会話を楽しんでいると雨が降ってきてしまい、すぐさま赤レンガ倉庫内へと避難した。ゴールデンウィークということもあって、人がごった返していて自分もそんな大群の構成要員の一部であるにもかかわらず、棚に上げて「なんでこんなに人多いねん。家でじっとしとけよ。」だなんて思ってしまう。この日の天気は降ったり止んだりといった不安定なものであった。雨が止んだスキを狙って赤レンガ倉庫周辺を歩いて観光した。

 

赤レンガ倉庫の観光が終わると、横浜中華街へと場所を移動。

 

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細野晴臣がライブをした同發新館の外観をパシャリ。

 

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そういえばカネコアヤノもここでライブをしていたな。細野さんがライブをしたということで、ある種アーティストにとっては憧れの場所となっているのだろうか。アーティストでもなんでもないパンピーのわたしは写真を撮っただけでかなり興奮してしまったけれども。そして、今さらどうせなら晩御飯の予約を同發新館にしておけば良かったと後悔する。そうすれば中の様子も見れたのに。

 

予約している晩御飯までまだ時間があったので中華街をブラブラと歩いていると武器屋なるお店を見つけた。なんか急にRPGの世界っぽいなとワクワクしてきて、青龍刀や三節棍など中国っぽい武器が売っているんだろうかと気になり入ってみると、中国っぽい武器以外にも普通に銃とかも売られていた。幅広くやってますわ。らんまが履いているようなカンフーシューズなるものが1000円で売られており『おおっ』と少し心を揺さぶられてしまったが、勢いで買ってしまうほど若くもないので踏み止まることができた。小学生のころに宮島で木刀を買った子がいたことを思い出し、その子がその頃にここに修学旅行で来ていたとしたら、どの武器を選んでいたんだろうなんて考えてしまった。どの武器を選ぶにせよ、何かしらの武器を買うのは確実でしょうよ。

 

特に装備を整えることもなく武器屋を出ると、パラパラと雨が降っていた。雨の横浜中華街。これはまさしく細野さんの「北京ダック」の

 

横浜 光る街

雨が降る

まるで古い映画さ

"Singin' in the Rain"

雨男 唄う

 

といった歌詞のとおりではないかとひとり興奮する。

 

 

さらにはPANDA 1/2の「中華街ウキウキ通り」も思い出して、友達と一緒にいるけれど急激に音楽が聴きたくなってきた。

 


PANDA 1/2  / 「中華街ウキウキ通り」

 

ただ、『北京ダックの歌詞と一緒や!』と興奮したとはいえやっぱり雨はめんどくさい。ただでさえゴールデンウィークで人が多いのに、みんなが傘を差すと余計に窮屈になってしまう。晴れが一番だなあ。

 

18時になり、予約していた中華料理屋へ晩御飯を食べに行く。3000円で時間無制限食べ放題。北京ダックに小籠包、回鍋肉に青椒肉絲とモリモリ食べる。青島ビールも飲んでしまった。友達と円卓を囲みながら食べる中華は、とても美味しく幸せな気分になった。色んな料理をみんなで分けあえるところが中華のいいところであるなあとつくづく思う。

 

ご飯も食べ終わり外に出ると、空の色は真っ暗で夜になっていた。ベタではあるが、夜の中華街は雰囲気がいい。

 

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お腹もいっぱいになり、上機嫌で中華街を歩く。中華街を離れたあとは宿泊するホテルへと向かった。チェックインを済ませて部屋でゆっくりする。友達がお風呂に入っている隙に細野さんの「トロピカル・ダンディー」を聴く。

 

トロピカルダンディー(紙ジャケット仕様)

トロピカルダンディー(紙ジャケット仕様)

 

 

「HONEY MOON」を聴いているとなんとも言えない幸福感で満たされてしまった。

 

 

みんながお風呂に入ったあとはコンビニで買ってきたお酒を飲みながら談笑を楽しむ。『ああ、こういう時間が自分にとってはやっぱり必要だなあ』としみじみと思いました。まだ1日目が終わったばかりだけれども、あっという間であった。楽しい時間は一瞬で過ぎてしまうから、なんとかしてそんな時間にしがみつこうとして、なかなか寝ずに喋り続ける。こんな時間が一生続けばいいだなんて本当に思いますけれども、そうもいかないのが世知辛いところ。残り2日間も楽しみではあるが来てしまうと終わってしまうという複雑な思いを抱きながら眠りにつきました。