牛車で往く

日記や漫画・音楽などについて書いていきます 電車に乗ってるときなどの暇つぶしにでも読んでください

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いっそのこと木偶の坊になれるかどうかよ

3連休ってあっという間に終わるね。毎週毎週休日がやってくるけれど、読みたい本や勉強したいことがなんやかんやで出来ずに終わる。昼間ってなんであんなにやる気が出ないんだろう。ダラダラしているだけで過ぎていくお昼の時間がもったいない。夜になると急に「よしっ、やるか!」っていう気分になるけれど、あっという間に寝る時間が来てしまう。あとは本を読んでいると昼も夜も関係なく眠たくなるし。この3連休だって毎日8時間ぐらい寝ているのに、お昼の2時ぐらいになるとめちゃくちゃ眠たくなった。睡眠の質が悪いのだろうか・・・。

 

the band apartの新曲「DEKU NO BOY」がひたすらに良い。

 


the band apart / DEKU NO BOY 【MV】

 

木偶の坊からのDEKU NO BOY。バンアパが日本語詞を歌うようになって久しいが、日本語詞を歌うようになったからこそ、ついたように思えるこのタイトル。

 

昼から公園でビールでも飲もうぜ

大体社会に出てもいない

 

って歌詞があるけれど、バンアパの4人でもこんなことをふと気にしてしまう瞬間はあるんだろうかなんてつまらないことを考えてしまった。そして、この曲やブコウスキー、西村賢太の小説、穂村弘のエッセイなどの社会に上手く馴染めないことを表現した作品に対して、簡単に共感を覚えるのは果たしていいのだろうかと思うときがある。自分と同じような生きづらさを感じている人がいることを知れるだけで心が軽くなる面もあれば、自分のダメなところを無条件で肯定するために作品に共感している面も少なからずある。一生そんな作品に慰められてばかりでは人生は何も変わらない。そんなこと、分かってはいるんだけれども。なにが良くてなにが悪いといった単純な話ではないと思うが、なんだかモヤモヤすることが増えてきた今日この頃である。それにしても、ベンチに座ってドラムを叩く小暮氏の佇まいがカッコ良すぎて心が震える。

 

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この曲が良すぎて、最近はバンアパの曲を聴き返している。「my world」、「bacon and eggs」、「taipei」とかが好きです。「8月」もいい。でも「Capone」もいいし「Moonlight Stepper」もいい。なんていう風にずるずると曲を掘り返しては聴いていっている。

 

そして、「DEKU NO BOY」と同じEPに収録されている「SCHOOL」もカッコいい。

 


the band apart / SCHOOL【MV】

 

こっちの曲も歌詞をちゃんと読んでみると社会からのはみ出し者について歌ったような内容。高橋源一郎が教育とは

 

 「一日六時間、みんなで同じ机に向かい、先生が黒板に書いていることを書き写す」というような無意味なことを、我慢できるような人間を作るため

 

と言っていたことを思い出す。

 

www.gissha.com

 

そしてなんとなく呂布カルマの「俺の勝手」も思い出す。

 


[PV] 呂布カルマ - 俺の勝手

 

当然のように未来は 自分で切り開いてく以外ない

 

っていう当たり前のことが難しい。じゃあ難しいっていうけれど、とりあえず何か行動してみましたか?と聞かれると、答えるのが余計に難しい。

 

そして「SCHOOL」の曲調とPVの怪しさからVELTPUNCHを想起する。VELTPUNCHなんてもっと分かりやすくダメ人間について歌っている。しかも怒りをぶちまけながら。それがまたカッコいいんだけれど。ちょっと寒くなってきたこの時期は「Cheap Disco"13 steps"」が良いですね。

 


Cheap Disco"13 steps" / VELTPUNCH

 

アウトローが絶品。

 

それにしても我がウォークマン。なぜにthe band apartのアーティスト名のイニシャルが「V」なのだ。「B」やろ普通。この前、バンアパだけを網羅的に聞こうと思ってアーティスト名の「B」を必死に探したけれど全然出てこなかった。しょうがなくアルバム名の項目からひとつずつ聴きたい曲が収録されているアルバムを選んで再生したけれど。時間があるときに探してみたら「V」におるやん、バンアパが。え、ヴァンアパじゃないよね?しかもパソコン側で曲を管理しているアプリケーションのMusic Centerにおいて、イニシャルを変える方法が分からない。腹立つ。そういうのはちゃんと分類したい派やのに。Music Center、マジで木偶の坊ですわ。

テレビをつけたまま眠ったときのあの妙な幸福感(the Loupes「針の音」)

最近テレビをつけたまま眠ることが多くなってきた。別に見たいテレビがあるわけではないのだが、テレビの音を遠くに聴きながら目をつぶるとなんだか寝つきが良くなる気がするのだ。音量をちょうどいいぐらいに下げ(わたしの家のテレビでは7くらいがちょうどいい)、オフタイマーを30分に設定し、まぶたを閉じておやすみなさい。なんなのだろう、あの妙な安心感と優しさは。

 

それ以外にもテレビを見ながらうっかり寝てしまうのもいい。上に書いたものでは、音量を小さくしオフタイマーをしっかりと設定して「寝るぞ」といったつもりでテレビをつけている。そうではなくて、例えば金曜日の夜、一週間の疲れがたまった状態でお風呂に入り、晩ごはんも食べ終え、やることを全部終わらせてゴールデンタイムのバラエティを寝ころびながら観ていると、だんだんウトウトしてきて気づけば寝てしまっていたといったようなものだ。ちょっとした夢を見て、夢から覚めたときには深夜の2時か3時くらいになっており、つけたままのテレビからは見たことのない芸人が出ているバラエティや知らないアニメが流れている。「ああ、寝てもうてた。よう分からん夢みたなあ」と思いながら、明日は土曜日だし仕事もない、そのことに気づいて少し幸せな気分になる。SMAPの「SHAKE」の歌詞みたいだ。

 


シャムキャッツ - AFTER HOURS @『TAKE CARE』RELEASE TOUR FINAL

 

シャムキャッツのこのライブにおける「AFTER HOURS」の入り方は最高。そして、改めて布団を敷きなおしてちゃんと寝るか、それともそれはめんどくさいしこのまま目を閉じてもう一度寝てしまおうかと逡巡する。楽な道を選び、そのまま目を閉じて寝てしまうたびに、ちゃんと布団を敷いて寝ていたほうが疲れはとれていたなあ、と朝になって思う。それでもこれからも何度もその場で2度寝する道を選び続けるのだろう。

 

the Loupesの「針の音」を聴くと、テレビをつけながら眠るときの、あのフワフワした感覚を思い出すことができる。

 


the Loupes 「針の音」Music Video

 

 

 

子どもの頃の夢は香港俳優でした

つけっぱなしのテレビの前で少し眠る

 

モロに歌詞に出てくるテレビをつけたまま眠る場面の描写。この曲はそれ以外にも様々な場面を描写している。

 

灯りの少ない路地で彼はひとりごと

22時の徘徊 タダで読む漫画

「大人になったらいつか山に籠る」ってさ

今になってわかる気がしてきた

 

夜の散歩に、その途中にある古本屋に寄ってする漫画の立ち読み。さらには大人に近づいてきたときに、山に籠るように静かに暮らしたいという考え方に共感できるようになった瞬間。これらのことを曲にするなんて、うまく言葉にはできないが絶妙なところを選んできたなあと、わたしは感動してしまった。これらすべて、人生においては些細な出来事であると思う。しかし振り返ってみると、夜に歌を口ずさみながら歩くようになる前と後の自分、夜に古本屋で漫画を立ち読みするのが楽しくなる前と後の自分、山に籠りたいという人の気持ちが分かるようになる前と後の自分では、何が変わったとはうまく言葉で説明できないが、確実に何かが変わったような気がするのだ。ドラマはないけれど、決定的な瞬間。この曲を聴くと、そんな瞬間の積み重ねが今の自分を形成しているように思えてくる。

 

こんなことを書いていると、子どものころ、布団に入りながら電気を消してテレビを見るだけで楽しかったことをふと思い出した。基本的にそんなことをするのは許されていなかったが、たまに親の機嫌がいいときに「今日はテレビを見ながら寝てもいいで」と言われることがあった。そうなるともうワクワクが止まらなくて、布団を口のあたりまでかぶりながら見れるだけで、どんな番組でも面白く思えた。それでもやっぱり子どもだから、ものの30分ぐらいで眠たくなってしまい、それほどテレビを見ることもなく寝てしまっていた。とはいえ、大人になった今でも電気を消して布団に入って横になりながら見るテレビは、普通に座って見るよりも少し嬉しさというか楽しさが感じられる気がする。そうするとなんだか無性にそんな風にして夜を過ごしたくなってきた。今日はまだ木曜日。明日のことは考えずに寝落ちしてグッスリ、なんてことはまだできない。それでも明日は金曜日。明日の夜は、何か映画のDVDをレンタルして、それを見てダラダラしながら寝落ちするのもいいかもしれない。

 

キレる和田まんじゅうと自意識の無間地獄(VELTPUNCH「MOUSE OF THE PAIN」)

キングオブコントは終わったけれど、まだまだ関連番組は放送されていて楽しめる。キングオブコントの出場者がトークするといった番組、Abema TVのThe NIGHTを見た。

 

abema.tv

 

ジャルジャル、わらふぢなるお、ゾフィー、ネルソンズといったファイナリストたち、そしてなぜか準決勝で敗退したザ・マミィを加えた5組が、MCのスピードワゴンとともにキングオブコントの感想などを話していく。ネタ作りの話題になったとき、スピードワゴンの小沢さんはジャルジャルのネタの作り方がすごいと大絶賛。ジャルジャルのネタは、台本を書きながら作るのではなく、遊んでいたらできるという感じらしい。そんなジャルジャルのことを小沢さんはビートルズに例えて「二人はジョンとポールなの?」と興奮していた。そして、たまたまジャルジャルの後藤がそのときに着ていた、ビートルズのアルバム「Abbey Road」のジャケットが描かれたTシャツが可愛かった。後藤って60、70年代の洋楽が好きなんかな?昔なにかの番組で、カーペンターズの「Top of the World」を抑揚なしで歌っていたのが面白かった。ああ、名曲。ネタ作りの話に戻るけど、ネタなんて自分で考えたことがないから、ジャルジャルの作り方がどれだけすごいものなのかは分からない。だけれども、とにかくスピードワゴンの小沢さんがすごいと言っていたからすごいのだろう。小沢さんはファンかというぐらい、終始、ジャルジャルのことを褒め倒していた。小沢さんのお笑い大好きな感じ、見ていてホッコリするし、本当に好きなんだなということが伝わってくる。ネルソンズもジャルジャル同様に台本を書かずに、ひとつの設定を決めて、あとは立ち稽古で作っていくと言っていた。それなのに、ネット上で台本がクソつまんねえというコメントが書かれていることに対して、和田まんじゅうがキレていたのが面白かった。

 

本(台本)でやってねえから。

じゃあ本だけ見とけと思うんすよ。

マジで腹立つんスよ。

なんも分かってねえような奴らが。

 

和田まんじゅう、魂の叫び。ネルソンズのネタは台本(ネタの構成)が特徴なのではなく、和田まんじゅうが追い込まれたときに出てくる感情をのせた一言こそがキモであるのだ。和田まんじゅうが、どれだけコントに本気になっているのかが伝わってくる。こういう風にお笑いに熱くなっている芸人を見ると、なぜ、面白くもありながら、なんだか嬉しくなってくるのだろう。彼らのこだわりが垣間見えたときに、なぜ嬉しくなってくるのだろう。その他にも、福徳が「(M-1よりも)キングオブコントのほうがちょっと軽めですね。」と言ったことや、ゾフィーのサイトウの番組中に偶然生まれたギャグ「やめなよ」(本人が押してる「チェだぜ!」は一回も出てこなかった)、ザ・マミィが来年決勝に行くであろうコンビの予想としてフランスピアノを挙げていたことなど、見所満載で面白かった。なにより、小沢さんのMCが優しくて最高でした。もちろん、ハンバーグ師匠も面白かったです。

 

そして最近、第四次Peeping Lifeブームが自分の中で起こっている。去年の今頃もハマっていたような。

 

www.gissha.com

 

夏が終わり秋が近づくと、Peeping Lifeが見たくなるのだろうか・・・。今回は聖剣エクスカリバーの回をひたすら見ている。

 


聖剣!?エクスカリバー 前編 Peeping Life-World History #12

 


聖剣!?エクスカリバー 後編 Peeping Life-World History #13

 

アーサー王とランスロットのやりとりが面白い。王のはずなのに剣が抜けないアーサー王。「長年突き刺しすぎやろ」と文句を言い出す。特に後編のやりとりが好きです。徐々にタメ口になっていくランスロット。仲良くグダグダ、ウダウダ話しているがいいですね。

 

 

音楽ではVELTPUNCHをよく聴いています。カッコいい。

 


VELTPUNCH - MOUSE OF THE PAIN

 

感動はけっこう 自身の肯定 

 

という歌詞が刺さる。この作品の素晴らしさが分かるのは自分だけだっていう肯定とか、クズみたいなキャラに感動するのは、実はクズみたいな自分を肯定したいからとか、この作品に涙を流せる純粋な自分は美しい感性をもっているという肯定とか。そんなことばっかり気にしてひねくれてるなあなんて言われたとしても、そこをあえてこの曲のように叫んでほしいときもある。っていう風に共感することは、やっぱりみんなとは違うところに気づいているという自身の肯定になる?ああ、がんじがらめ。この曲を聴くと、芥川龍之介の「枯野抄」を思い出す。

 

枯野抄

枯野抄

 

 

www.aozora.gr.jp

 

松尾芭蕉の死の淵を目の前にした弟子たちの心情を描いたこの作品。読んでいると、自意識というものを意識させられて、身動きが取れなくなってくる。物事を客観視している自分のことが、やたらと嘘っぽく、演技臭く思えてくる。例えば、いじめられている子を目にした時に、見て見ぬふりをしてしまった。そんなことを思い出し、あのとき、自分が勇気を出して助けてやれていたなら、なんてことを思ったりする。そう思ったことを誰かに話したり、ブログに書いたり、他人に発信したりするときに、果たして自分は純粋にいじめられていた子のことだけを考えて発信しているだろうか?それを発信している自分が他人にどう思われるだろうかといった視点や、それを発信することでなにか罪悪感から解放されようとしている自分を意識してしまわないだろうか。といったことを考え出すと、もう出口が見えなくなる。自分の行動を客観視する自分に気づいたとき、また、その自分を客観視しているという行為がわざとらしく思えるような、新たな客観視する自分が出てくる。客観視の客観視の客観視の客観視の・・・・。ああ、抜け出せない自意識の無間地獄。こんな作品を書いた芥川龍之介、そりゃ考えすぎて自殺してまうわと思わないこともない。

 

なんか話の緩急がえげつないことになってしまったけれど、とりあえずお笑いは最高と言っておきたい。NHK新人お笑い大賞が楽しみです。

 

natalie.mu

"今日の天使"っているよねっていう漫画(和山やま「夢中さ、きみに。」)

最近、カネコアヤノのこの動画を見まくっている。

 


DAX × lute:カネコアヤノ「天使とスーパーカー」

 

「天使とスーパーカー」、めちゃくちゃ好きだ。そして何より、この動画の開始から0:35あたりまでのカネコアヤノの表情が最高だ。なんか笑ける。別に馬鹿にしてるわけじゃなくて、見ていると楽しい気持ちになってくる。この口を一文字に結びながらも半にやけ顔でギターを弾いている姿がいい。

 

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「目線は同じだから」のところのジェスチャーもいい。

 

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「ベイベー あっしたの~」の「あっ」のときのクンッってなるとこもいい。

 

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「ドラマチックな人生かっこいい」のとこで笑顔になるのもいい。

 

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ただただいい。もう一度言うけど、なんか笑える。楽しい気持ちになる。なんて楽しそうに演奏するんだろう。そして、カネコアヤノだけが楽しそうなわけではなく、他のメンバーも含めて、4人全員が楽しそうなのだ。さらには、見ているとただ楽しそうというだけではなく、なんかカッコいいなという感情まで湧いてくる。4人全員のたたずまいがカッコいい。なんだこの無敵感は。とにかく最高だ。

 

そして、和山やまの「夢中さ、きみに。」も最高の漫画。

 

夢中さ、きみに。 (ビームコミックス)

夢中さ、きみに。 (ビームコミックス)

 

 

この漫画は、Twitterでオススメされているのを見て知った。試し読みをしたところ、一発でハマってしまった(下のリンクで試し読みできます)。何この漫画、最高やんってなった。

 

comic-walker.com

 

すぐに欲しくなり調べてみたところ、なんと私が知ったころには初版はもうすでにほとんど残っておらず、全然手に入れることができなくなっていた。Twitterで検索してみると、欲しいけど、どこの本屋にも置いていないと嘆いている人たちの多いことよ。そして、9月に入ってようやく手に入れることができた。

 

この漫画は基本的に高校生の群像劇を描いているのだが、前半の4話には共通して林くんという男の子が出てくるエピソード、後半の4話は二階堂くんと目高くんという2人がメインとなるエピソードで構成されている。そして、この漫画の素晴らしいところは、クラスメイト同士、先輩と後輩、はたまた別の学校の生徒同士といった様々な関係性における(林くんはその時々により様々な役割を演じる)、"友情の芽生え"の瞬間の素晴らしさを味わえるところだと思うのだ。そして、先に挙げたカネコアヤノの「天使とスーパーカー」の歌詞にもなっている"今日の天使"という言葉を借りると、誰かにとっての"今日の天使"はこの人だという瞬間が描かれている。

 

mikiki.tokyo.jp

 

上に引用したインタビューにおいて語られている、カネコアヤノの友達が「今日の天使っているよね」と言ったというエピソードにも、「夢中さ、きみに。」を読むとひどく共感できるようになる。もうこのね、「おれこいつのこと、ちょっと好きかも」っていう感じがね、たまらなく良いわけですよ。心があったかくなるわけですよ。林くんは色んな人の"今日の天使"となっているし、二階堂くんと目高くんは、お互いがお互いの"今日の天使"として成立し合っている。ああ、いい漫画。

 

そして、こういった"友情の芽生え"といった瞬間の描写だけでなく、些細な日常会話のセリフも面白い。というか、このセリフの面白さが、キャラの魅力を立ち上がらせている面もある。江間くんのおれは小便中に話しかけられるのは嫌いってとことか、林くんの松尾さんに対する「松尾さんはおいも3兄弟の何番目ですか?」という質問、さらにはそれに対する松尾さんの「私ひとりでおいも3兄弟です」という回答。ああ、いい。魅力が凄い。高校のころに戻りたい。この漫画を読んでから高校時代に戻れたのなら、今度はもうちょっと面白い学生生活を送れるような気がする。いや、無理か。面白い会話の漫画を読んだだけで、自分も同じくらい面白い会話ができるようになるはずがない。でもなぜかそう思ってしまう。スラムダンクを読んだ後に、なんかバスケができるような気になっているのと同じ現象が起きてしまっている。

 

会話だけではなく、漫画の中のさりげないシーンもいい。林くんと松屋さんがベンチに座って会話する際の「目を見て会話しない2人」という見出しに、林くんが作った干し芋をさりげなく手で拒否する小松くんも面白い。さらには第1話「かわいい人」において、パンダの着ぐるみを着た林くんが笑った際に、その着ぐるみのせいで林くんの表情を見れなかった江間くんが『(林は)どんな顔して笑うんだろう』と思ったのを受けて、その後の各エピソードでそれぞれ一回ずつ見られる林くんの様々な表情の笑顔よ。演出がニクイよね。ここのニクイは"にくい"じゃなくて片仮名の"ニクイ"にしたいよね。カネコアヤノといい、林くんといい、表情がいい人を見ているとこっちまで気持ちが明るくなる。

 

まあなんにせよ、和山やまさんの「夢中さ、きみに。」は素晴らしいマンガでした。もはや何回も読み直しています。

 

秋の寂しさはどこから来るもの?

ただの日記を書きます。気づけば8月も最終日。ただ今実家に帰省しておりまして、こんなタイミングで夏休みをもらっても、友人たちは働いているからすることがない。でも家にいても仕方が無いので、自分が中学生、高校生だったころによく通っていた道をその当時よく聴いていた音楽を聴きながら歩くという、まあまあキツめの散歩を敢行することにした。この「キツめ」という言葉の意味は、読んでくれた方それぞれの解釈をしていただければ幸いです。8月も最終週に入ってからはだいぶ涼しくなってきて、散歩をしていてもそれほど汗をかかなくなった。もう夏も終わりなのかと思ったりもするが、テレビの天気予報を見ていると来週から暑さがまた戻ってくるらしい。夏が終わると思うと寂しい気もするが、一度涼しくなったのならそのまま季節が進んで欲しいとも思う。まあいずれにせよ、いつでもいいなあと憧れる季節は今現在の季節ではなく少し先の季節なのだ。

 
自分が中学生だったころにリリースされた曲、よく聴いていた曲をシャッフルで聴きながら地元を歩いた。今日は小雨が降っていて、雨上がりを歩いていると雨のにおいが鼻をついた。そうすると、中学生の頃の、雨が上がった日の部活のことを思い出した。雨上がりにグラウンドを整備しているときは、いつもこのにおいを無意識に嗅いでいた気がする。グラウンドを整備し終わった後には、ほとんど部活をする時間が残っていなくて楽しくなかった。それに、せっかくグラウンド整備をした次の日に雨が降るなんてこともざらにあった。自分達は阪神園芸並みの整備スキルなんて持っていなかったし、グラウンド自体もそんなに良い土ではなかった。それに加えてやる気も無かった。ないないないの三拍子が揃っていたから、雨の日の次の日は、まあ本当に楽しくなかった。それなのに思い出として振り返る当時は、そんな自分達のことさえも愛しく思えてしまうので、思い出補正とは本当に恐ろしい。星野道夫が著書「ノーザンライツ」において、

 

ノスタルジアからは何も新しいものは生まれてはこない。自然も、人の暮らしも、決して同じ場所にとどまることはなく、すべてのものが未来へ向かって動いている。

 
と書いていたが、果たして自分は未来へ向かって歩いていけているのだろうか。いや、こんなキツめの散歩を敢行している時点で現在、未来と向き合えていないのは明らかである。

 

ノーザンライツ (新潮文庫)

ノーザンライツ (新潮文庫)

 

 
それにしても、音楽を聴いたり、においを嗅いだりして昔のことを思い出すたびに、五感と記憶の関係がいつも気になる。それっぽいことを調べては「ふ~ん」となんとなく分かった気になり忘れてしまうということを繰り返してきた。これも良い機会と思い、ちゃんと調べてみよう。ということで調べてみたところ、どうやら記憶と一番強く結びついている感覚は嗅覚のようだ。

 

www.sankei.com

 

五感のうち嗅覚のみが、脳において記憶を司る大脳辺縁系に直結しているためとのこと。それでも調べているとそれっぽい学術論文等を引用したサイトは見つからなかったため、詳細を知るためには専門書等を読んだ方が良さそうだ。果たしてそこまでするのか私は・・・。

 

散歩を始めたのはお昼も回った比較的遅い時間ではあったが、途中に喫茶店で休んだりしていると実家の近くまで戻って来たときには18時ぐらいとなっており、結構遅い時間になってしまった。夕方になるとより一層涼しくなってきた。これまたひとつ思うのだが、夏から秋へと季節が変わるとき、なぜ少しだけ寂しくなるのだろうか。涼しくなることが何か関係しているのだろうか。ということでこれも調べてみた。

 

news.livedoor.com

 

気温の低下が生命維持の観点において人間に不安を抱かせやすくなること、日照時間の低下が精神の安定に作用するセロトニンの分泌を低下させることが関係しているらしい。一日中家に引きこもって全く陽に当たっていない日にも、セロトニンの分泌が低下しているはずなのに、別に寂しくも切なくもならないのは、人間として何か大事なものが欠けてしまっているからなのだろうか。それでも秋が近づいてきて寂しさを感じている間はまだ大丈夫だと思いたい。そしてこの時期、やたらとアジカンの「転がる岩、君に朝が降る」を思い出して聴きたくなる。

 

転がる岩、君に朝が降る

転がる岩、君に朝が降る

 

 

 

昔のことを思い出して感傷に浸っていると、

 

初めから持ってないのに胸が痛んだ

 

の部分を思い出す。なにかを失ったような喪失感に胸を刺された気になっているけれど、そもそも失うようななにかを持っていたっけ?この感傷はどこからくるものなんだろう?それが分からないから、ずっと同じようなことを繰り返しているんだろうけど。


そんなことを考えながら歩いていると、空もだいぶ暗くなってきた。2019年の8月31日は18時50分頃が夕方と夜の境目のようだ。西の空にはまだ少しオレンジ色が残っているが、反対の東の空はもう明るくはない。自分の前に歩いている人の姿が見えるが、こっちに向かって歩いているのか、同じ方向に向かって歩いているのかが分からない。実家に到着し、玄関の鍵を開けようとすると、鍵穴に一人暮らしの家の鍵を刺そうとしてしまった。今日は自分の昔を振り返ってばかりであったが、この瞬間、今の生活はこことは違う場所で営まれているということをはっきりと意識させられた。夏休みも終わりです。

 

そういえばモノポリーってしたことがない

朝の通勤途中、公園に小学生たちが集まっている様子をよく目にする。なんといっても彼らは絶賛夏休み中だからね。朝からみんなで集まって遊ぶのって楽しかったよな。お昼に一回解散して、ご飯食べてからもう一回集まるとかあったな。あのころはお昼ご飯を外で食べるお金なんてなかったから、いちいち一回家に帰っていた。今思うとよくもまあそんなにめんどくさいことをしていたなと思う。今なら一回家に帰ってしまったら、「ああ~」って声を出しながら寝ころんでしまい、もう外に出る気は失せてしまうだろう。朝でも十分暑いもん。そんな公園に集まる小学生たちの様子を見ていたら、GRAPEVINEの「真昼の子供たち」を思い出した。

 


真昼の子供たち

 

 

でかい当たりを掴んでしまった

世界を変えてしまうかもしれない

毎日があっという間に終わった

油断すると大人になっちまう

 

油断してた~。大人になっちまった~。それにしてもいい曲。まあ私が目にしているのは真昼じゃなくて朝の小学生たちやけど。彼らもでかい当たりを掴んだ気になって、世界を変えてしまうかもしれないとワクワクするような夏を送っているんだろうか。い~や、送ってないね。そんなん考えずに遊んでいるね。でも楽しそうでなにより。

 

半袖半ズボンで遊んだあの少年時代の日々。大人になり、数年前にメンズファッションで半ズボン(ハーフパンツがシャレオツな言い方でしょうか)が流行したときに、自分も服屋で試着してみたけれど、試着室の鏡に映った自分の姿が気持ち悪くて結局買わなかった。なんで気持ち悪かったんだろう?履いている人を見て気持ち悪いなんて思うことはないけれど、自分が履いている姿を見るとそれはそれは気持ち悪かった。弱そうだった。めちゃくちゃ防御力が低そうだった。自分のことが嫌いだから?いやいや、自分のことが可愛すぎるから、理想と現実のギャップを受け入れられないだけなんだろう。なんて大げさなことを考えたけれど、とりあえず似合ってなかっただけだと思う。ホンマに純粋に筋肉量が足りずに弱そうに見えただけだと思う。私もムキムキになりたいけれど、そのための努力をする気はない。つまり一生、ハーフパンツを履くことはないだろう。フェアウェル、ハーフパンツ。

 

私にも与えられた小学生たちと比べたら雀の涙ほどの夏休み。というか盆休み。何日か友達と飲みに行ったけれど、あとはほとんど家でゴロゴロしていた。夏休みなのにゴロゴロしてばっか。

 


Alfred Beach Sandal "モノポリー"

 

 

そう思うとモノポリーってしたことがない。人生ゲームと似たようなものなんだろうか。調べてみた。

 

yanodaichi.com

 

不動産の取引や土地の売買をしながら資産を増やしていくすごろくゲームのようだ。人生ゲームと比較して、実際にプレイヤー同士で交渉して取引を上手く行わなければ勝てないらしい。あんまり自分の周りを見てみてもモノポリーをしている人はいないし、「モノポリーしようぜ」といった展開になったこともない。桃鉄ばっか。おんなじジャンルにくくっていいのか分からないが。ただ、日本においてやはりモノポリーはそれほど人気があるわけではなく、それには以下のような理由が考えられるそうだ。なんでもモノポリーは、資産を形成するためにお金の使い方を考えながら進めなければならないゲームであり、世界と比較して日本ではそのような考え方を必要とする「投資」を日常的に行っている人が少ないため、それほど流行していないということらしい。なるへそ。実際、日本におけるモノポリー人口はそれほど多くはないようで、日本モノポリー協会のHPは、単独のHPとして運営されているのではなく、糸井重里が主宰を務める「ほぼ日刊イトイ新聞」のHPを間借りして運営されている。

 

www.1101.com

 

最近は友人がボードゲームにはまっており、実際に一緒にやってみると面白いものが結構多い。この機会にモノポリーを提案してみてやってみようかな。なんせ外に出ると暑いし、家の中はクーラーが効いてるし。子どもは子ども、大人は大人の遊び方がそれぞれにあるよね。これが大人の遊び方なのかは何とも言えないが。

 

そうそう、そして、Alfred Beach Sandalといえば「Typhoon Sketch」。

 

 

ちょうど台風10号が近づいてきている。台風が迫ってきているときに感じる、謎の高揚感を歌ったこの曲。確かに小学生のころは、台風による非日常が自分を妙なテンションにさせていた。それは警報によって学校が休みになるかもしれないってことも影響していた。台風といえばそれ町を思い出す。最終巻の「嵐と共に去りぬ」もいいけど、5巻の「大嵐の夜に」のほうがより身近な内容となっていて好きだ。

 

それでも町は廻っている(5) (ヤングキングコミックス)

それでも町は廻っている(5) (ヤングキングコミックス)

 

 

それでも最近の現実世界の台風は、割とシャレにならない規模の爪痕を残して去っていく。去年はおそらく隣の部屋の人のサンダルが私の部屋のベランダまで飛んできていた。明日、明後日、台風が何事もなく過ぎ去ってくれることを祈るばかり・・・。

 

旅行代理店の前を通るときの気持ちと、うしろのほうの海

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旅行代理店の前を通るたびに、店の前に出された様々な旅行先のパンフレットが気になってしまう。そして、旅行に行けたとして年に最大2~3回ぐらいかなあと考えると、この先いろんなところに行くためには全然時間が足りないじゃないかということに気がつく。この夏、どこかに旅行に行きたいなあ。そして、去年の夏の旅行のことを思い出す。8月に行った旅行、暑すぎて楽しさよりもしんどさの方が勝っていたんじゃないか。もちろん思い出の中では楽しいものになっているんだけれど。そんな夏の旅行について考えていると、1ヶ月以上の長期休暇なんてこの先の人生においてもう全く訪れないんだろうなと、おそらくこれまで何人もの人が考えたことを、ご多分に漏れず自分も考えてしまった。そんなことを考えたからといって、夏休みをたっぷり取れるような人生に変えて行こうとどうこうするつもりはないんだけれど、急に精神的にしんどいなあなんて思ってしまった。かといって、膨大な時間を与えられていた大学時代の夏休みを有意義に過ごせていたかと問われてみれば、イエスとは答えられない。そして、仮に今の自分がタイムスリップして大学時代の夏休みを過ごせるようになったとして、何をしたらいいかは全く思いつかない。う~ん、悲しいね。でも、これに似たようなことは毎週末味わっていて、休日が始まったばかりの土曜日はダラダラしてしまい、休日が終わろうとする日曜日の夜に『ああ、この休日の間にあれやっとけば良かった・・・』なんて思ってしまうことが多い。そしてこの経験が次の週の土日に活かされることなんてほとんどない。タイムスリップしても、私は今の自分とさほど変わらない人生を歩んでしまう気がする。それどころか今よりも・・・。


土曜日に、スズリという誰でも簡単にオリジナルデザインのTシャツを作成して販売できるサイトを眺めていた。

 

suzuri.jp

 

いろんな人たちが、オシャレなデザイン、はたまたユニークなデザインのTシャツを作っては販売している。そんな中、不特定多数の誰かに販売するためではなく、特定の誰かへ個人的にプレゼントするためにデザインされたTシャツを時折見つける。多くの人に買ってもらおうとかそんな考えは一切感じられない、ただプレゼントする人ひとりのために考えられたデザイン。おそらく仲のいい友人の若い頃の写真や、その人たちにしか理解できないメッセージなどが載せられたTシャツ。明らかにその他のTシャツとは趣が異なっており、はっきり言ってめちゃくちゃ浮いている。そんなTシャツたちがやたらと目につくのと同時に、なぜか憧れのような感情を抱いてしまう。


そんな風にスズリを眺めながら、Lantern Paradeの「花」を聴く。

 

 

ビートルズのハーモニーもスライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンのファンキーもカーティス・メイフィールドのメロウネスも夢中にならない人のほうがはるかに多いという歌詞。確かに周りにはビートルズは知っていても、スライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンとカーティス・メイフィールドは知らない人の方が多い。そして自分自身、ビートルズのハーモニーやスライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンのファンキー、カーティス・メイフィールドのメロウネスに夢中になっているかと言われれば、そんなことはない。世の中には自分よりももっと色んなアーティストを知っている人たちは当たり前のようにたくさんいて、そしてさらに、その人たちよりももっと詳しい人たちがいて・・・。色んな作品を知っていなくても、自分にとって意味のある作品だけを知っていたらそれでいいんじゃないかと思うこともある。それでも外から見れば、もっと世の中には良いものがあふれているのにと思われてしまうんだろうか。私たちはどこまで行ってもすべての作品を聴いたり、見たり、触れたりすることはできない。そんな事実に途方もなさを感じると同時に、私にとって人生を変えうるほどの決定的な作品であったかもしれないのに、日の目を浴びずに埋もれてしまった作品もこの世にはあったのだろうかといったことまで考えてしまう。売れなかったから埋もれてしまった作品。世間の人には受け入れられなかったけれど、私個人には刺さっていたかもしれない作品。とはいえ、そもそも何かに人生を変えられるほど私は感受性が豊かなのだろうか。私には他人にオススメされた作品を素直に受け入れることができないところがある。自分にとっては良い作品とは思えないから、それはもうしょうがないことだと思ってしまうんだけれど、逆に自分の好きな作品の良さが友人に伝わらないときは、本当に理解できない気持ちになる。『なんでこんなに良いのに、面白いのに、素晴らしいのに分からへんねやろう?』って。私は、心のどこかで自分自身の感性は絶対であると信じているんだろう。それは傲慢かもしれないが、自分の感性が信じられなくなったら生きていけないじゃないかって思うときもある。そして、友人たちも私が彼らからオススメされたものの良さが分からないときに、同じような感情を抱いているんだろうか。思ってんだろうね、多分。


日曜日には、永田紅の「ぼんやりしているうちに」を読んだ。

 

ぼんやりしているうちに―永田紅歌集 (21世紀歌人シリーズ)

ぼんやりしているうちに―永田紅歌集 (21世紀歌人シリーズ)

 

 

夏に長らく海に行っていない。嘘。沖縄には結構行っていて、そのたびに海には入っている。でもそれはマリンスポーツの類いであり、海水浴は長らくしていない。それでも永田紅の短歌の

 

袋から出すときタオルのあたたかく湿りて海はうしろのほうよ


で呼び起こされる感覚が確かにある。私はあの湿ってあったかい水着とかタオルが気持ち悪くて嫌いだったな。でもこの歌を読んで、あのあたたかさは、先ほどまで入っていた海を引き連れていたんだということに気づかされた。海はうしろのほうよという部分からは、海水浴を終えて海から遠ざかっていく物理的距離とともに、もう入らなくなり思い出すだけになってしまった海との心理的距離を私は感じてしまう。夏のノスタルジー。春にも秋にも冬にもそれぞれのノスタルジーを感じている気がするけれど。andymoriの「すごい速さ」の歌詞

 

そのセンチメンタルはいつかお前の身を滅ぼすのかもしれないよ

感傷中毒の患者 禁断症状 映画館へ走る


の部分を聴いて、自分は感傷に浸りたくて無理矢理いろんなことを思い出そうとしてるんじゃないかって思うときがある。

 


andymori "すごい速さ"

 

それでもやめられないから、自分はもう感傷中毒の患者なんでしょう。いつからなんだろう。

 

学生の最後の年となりぬれど牛のようには懐古するまい

永田紅

 
学生じゃなくなって、はや数年です。

 

夏風邪が呼び起こした大学生のころの暇な昼間の記憶

先週、風邪をひいてしまった。夏風邪なんて人生で初めてかもしれないというくらい、この時期に風邪をひいた記憶がない。なんでも咳が止まらないタイプのものであった。ということで、一日会社を休んで病院へ。わたしは基本的に仕事なんて好きじゃないから、風邪をひいているとはいえ会社を休めて少し嬉しかった。朝、布団の上で目を覚ますと身体がいつもよりも重い。そしてのどがやけにイガイガする。これまで生きてきた経験から「これはもう風邪でしょう・・・」とすぐに分かった。正直、無理をすれば働けるぐらいのしんどさではあったが、「周りの人に風邪をうつしてしまっても悪いし・・・」というのは建前であって、会社を休む口実ができたので休もうと即座に決心した。いざ会社に連絡し、今日は休むということを告げると、それだけでもう幾分か身体が楽になった。どんだけ働きたくないねんと自分で思わないこともないが、平常時でも働くのはしんどいのに、しんどいときに働くなんてもっとしんどいから、もう働きたくないのだ。もはや子どもが駄々をこねているようなものではあるが、これは本当にそうだからもう仕方がない。とはいえ、確実に風邪をひいてはいるので、お昼前ぐらいに電車に乗って最寄りの病院へと向かった。

 

家を出て駅に向かっていると、夏なのにそんなに暑くないなと感じた。とはいえ汗は絶えず噴き出てくる。ホームにて電車を待っている間、やはり少し身体が重く感じられた。しんどさっていうのは動いているときよりも、止まっているときのほうが感じやすいような気がする。歩いているときはそんなにしんどくなかったのに。中学の部活のときもそうであった。球拾いをして動いているときはしんどくなかったのに、集合がかかって後ろに手を組んで先生の話を立って聞いていると急にしんどさが顕在化してきた。急に暑さとか疲れとかがジワァーっと頭の中を満たしてくるような感覚。ただ、思ったよりも電車はすぐに来てくれたため助かった。クーラーの効いた車内に座ると「フゥー」と大げさに息をつきたくなった。各駅停車の電車が動き出し、車内の様子を見渡すとお年寄りと子ども連れの母親が多いことに気づく。それでもやはり平日の真昼間ということで会社で働いている人が多いのであろう、車両の中はガラガラであった。人がガラガラで進行方向と直交する向きに座るタイプの座席であったから、向かい側の窓の景色を座りながら堂々と眺めることができた。窓の外の景色を見ていると、空に浮かんでいる雲はほとんど動かないのに、軒先の景色は次々と横へと流れていった。ああ、ここの駅は学生っぽい人がよく乗ってくるから大学でもあるんだろうな。お昼に高校生がいるけど今ってテスト期間で早く学校が終わったんだろうか。もしかしてサボり?など、色んなことを考えてしまった。そしてふと、なんかこの感じ、大学生の暇なころの昼からしか授業が入ってなかった一日に似ていて懐かしいなと思った。なんだかそれに気づくと急に嬉しい気持ちが湧いてきて、あのころは確かに暇で退屈でこんな毎日いつまで続くねんって思っていたけれど、社会人になった今、そんなころの空気がふと顔をのぞかせるとこんな感情になってしまうなんて、思い出補正は恐ろしいなと感じる。思い出は美化されて全てがフィクションっぽくてそれっぽいワンシーンになってしまう。まあでもそれで心が軽くなったのも事実、そんな感傷が呼び水となり、大学生の夏によく聴いていたThe Beach Boysの「California Feelin'」をウォークマンで再生した。

 

 

懐かしい。なんといってもコーラスが最高。YouTubeに別バージョンのPVが上がっているのだが、私はこのアルバムバージョンが好きなのである。あのころ考えていた、このまま何者にもならずにフラフラしたまま生きれたらいいのにという感情まで呼び起こされる。そしてなぜか、思い切って仕事をやめてもどうにかなるんじゃないかという浅はかな考えまで頭に浮かんできた。どうにもならんよ、ノープランのノービジョンじゃあ。それにやめる勇気もないだろう、自分よ。それにしても車内はクーラーが効いていて心地よく、このままずっと乗っていられるなあなんて思った。

 

病院のある駅に着き、受付に行って問診票を受け取った。その際に自分の受付番号を教えられ、およそ1時間後ぐらいに呼ぶことになると告げられた。まあまあ待つなと思ったが、こんなときのために小説を持って来ていたから、どうにか暇は潰せそうだ。長嶋有の「夕子ちゃんの近道」を読む。

 

夕子ちゃんの近道 (講談社文庫)

夕子ちゃんの近道 (講談社文庫)

 

 

この小説の主人公は、「フラココ屋」という名の骨董屋の2階に住んでいて、その骨董屋の手伝いをしながら生活している、いわゆるほぼほぼプー太郎のような感じの人物である。先ほどの電車内において浮かんだ「仕事やめてもどうにかなるんじゃないか」という考えは、少なからずこの小説から受けた影響が起因している。自分にとって都合の良い部分だけに影響を受けてしまうのはいかがなものかと自分でも思うが、なんだかそんなことを繰り返しながら生きてきた気もする。それはさておき、私はこの「夕子ちゃんの近道」の収録されている一篇「瑞枝さんの原付」において、瑞枝さんが主人公を心配してストーブを運んでくるシーンがとてつもなく好きなのだ。重そうにストーブを運んでくる瑞枝さんの姿を、フラココ屋の2階から見つけた主人公が「手伝いにいかなくては」と思いながらも動かなかったこと。主人公のためにストーブを持って来てくれた瑞枝さんの姿を見て、今ここで庇護されているのは、ストーブを与えられようとしている自分のほうではなくて、瑞枝さんのほうだと錯覚してしまったこと。人のやさしさに感動するも、そんなやさしい人の姿がなぜか、とてもか弱いものに見えてしまうといった気持ちがものすごく分かる。なんなんだろう、この感情は。本当の本当にやさしい人っていうのはそんなにいるわけじゃなくて、でもやさしい人について考えたときに何人かの顔は頭に浮かんで来る。そんな頭に浮かんだやさしい人たちのやさしさを純粋な"やさしさ"としてそのまま素直に受け止めてくれる人って、一体どれだけいるのだろうか。そのやさしさにつけこむと言ってはなんだか違うかもしれないが、あまりにも無防備なそのやさしさが利用されることもあるんじゃないかと心配になってしまうときもある。それでもそんな彼らの無垢なやさしさ、やさしい姿はやはり尊いものであり、愛おしくて抱きしめたくなる。

 

小説を読んでいるうちに自分の順番がきて、先生に診察してもらった。自分の家に体温計がないため体温を測定できていないが、おそらく熱はないだろうと先生に伝えた。すると、念のため測っておきましょうということになり、いざ測ってみるとゴリゴリに熱があった。道理で外に出てもそんなに暑さを感じなかったわけだ。あとで夕方の天気予報を見て知ったが、この日は普通に気温が30度を超えており真夏日であったようだ。そして、熱があると自覚すると急にしんどくなってきた。知らないほうが幸せってこともある。処方箋をもらい、薬局で薬をもらってとりあえず帰宅した。

 

家に着くやいなや、すぐに布団に倒れこんだ。手持ち無沙汰になりスマホをいじるが気分が悪くなってくる。風邪をひいたときや二日酔いのときにスマホをいじると気持ちが悪くなる。熱があると知って急にしんどくなり、スマホを手放して目を閉じ眠りについた。目が覚めたころには夕方になっており、眠る前よりも身体が熱く、本格的に熱が出ているようであった。晩ごはんに冷凍うどんを作り食べた。風邪をひいたときって、なんだか感覚が冴えているような気がする。元気な時よりもうどんの味がはっきりと分かる。いつも冷凍うどんを美味しいなあと思いながら食べていたが、今日は味の細かいところまで分かってなんだか不味い。それでも、少しでも栄養をということで残さずに食べたが、果たしてうどんにどれだけの栄養があるのだろうか。うどんを食べ終わって、また寝ようかと思ったが、今度は咳が止まらない。咳が止まらないから眠れない。最悪だ。とりあえず部屋の電気を消して横になる。すると、普段は意識しない周りの音が急に気になってきて余計に眠れなくなった。冷蔵庫ってこんなにモーター音がしてたっけ。家の前を原付が通っただけでうるさいなあって思う。しまいにゃあ、なにか分からない「ボコッ」という音。眠れなさが焦りを生んで、より眠れなくなる。それでもこまめに時計を見ると、意外と時間が進んでいない。夜って結構長いんやなあということに今さら気づいた。そして気が付けば眠りに落ちており、朝、目が覚めたときには身体はずいぶん楽になっていた。

 

風邪をひいてしんどいといえばしんどかったが、なんだかゆっくりできたような気もする。ひいて良かったとまでは思わないが、ひいても悪くはなかったような気がする。そんな気がするということで終わりです。風邪をひくたびにバンプの「supernova」を思い出し、名曲だと思うことも書いておきます。

 

夜の松屋からの古本屋で漫画立ち読みのコース

この前、友人と買い物に行った帰り、晩ごはんを食べに行きつけの松屋に行った。行きつけの松屋って表現、なんだか変な感じやけども。私、松屋が大変好きでございまして、その日はブラウンソースハンバーグ定食を食べようと心に誓い、店へと足を運びました。夜の9時を回ったころに松屋に着いたのだが、店内にはなかなかお客さんが入っていた。珍しいなと思いながらも席に着き、店内の様子を眺めてみると、ある音楽フェスのTシャツを着ている人が多いことに気が付いた。なるほど、フェス帰りの人たちが松屋に晩ごはんを食べに来ているんだな。そして、そこでは同じフェスのシャツを着たそれぞれ別のグループ間で謎の一体感が生まれており、互いに会釈などをしていた。『あなた方もフェス帰りで松屋ですか』、『今日のあのバンドの演奏、最高でしたよね』なんていう心の会話が聞こえてきそうであった。自分はそもそもフェスに行ってはしゃげるような性分でもないし、仮にフェスに行ったとしても見ず知らずの人たちと急に仲良くなれる気なんて全くしない。なんなら心の中に聖なるバリアミラーフォースを張ってしまうタチだ。だから、そんな同じフェスに行ったという一体感によってすぐに仲良くなれる人たちのことをすごいなあと思う。

 

なんてことを考えていたのだけれど、まあ混んでるからブラウンソースハンバーグ定食がなかなか来ない。いつもの松屋なら速攻で来るのに。そして、ようやく定食が来て、いざ食べようと思ったときに、あることに気が付いた。サラダが付いていない・・・。『あれっ、ブラウンソースハンバーグ定食ってサラダ付いてなかったっけ? 定食って全部サラダ付いてたよな。あ~、でも自信ないしなあ。それになんか今忙しそうやしなあ』なんてことを考えて、結局サラダが付いていないことは伝えずにそのまま食べてしまった。そして、お店を後にして外に出てからHPでメニューを調べてみると、やっぱり定食にはサラダが付いているのが普通であった。

 

自分はこういったイレギュラーなことが起こったときに、スッと行動ができずに固まってしまうところがある。頭の中では色んなことを考えているのだが、いかんせん体のほうが動かない。とにかく自分が正しいという自信がもてないのだ。店員にサラダが付いていないことを伝えた場合に、もしサラダが付いていないほうが正解であり自分の認識が誤っていたらと思うとビビッてしまうのだ。そうなるぐらいなら、よく分からんけどこのまま食べようと思ってしまうのだ。そして、この私がよく行く松屋の店員さんが結構な頻度でミスをする。おそらく中国人の店員さんであるのだが、なかなかに日本語がたどたどしい。そして、本人もその自覚があるようで、非常に声が小さくビクビクしながら接客をしている。今回のサラダのつけ忘れも恐らく彼によるものであろう。その日のキッチンの様子をチラッと見ていると、盛り付けをしていたのは中国人の彼であったからだ。さらに、以前にも彼に定食のご飯大盛の食券を渡したにも関わらず、普通盛りのご飯を出されたことがあった。そのときも私は『あれ、なんかご飯大盛の割に少なくない? ていうか大盛のときって器のデザインが違うかった気がすんねんけど、これ隣の並盛のおっちゃんとおんなじデザインやな。間違ってんのかな? え、どうしよ・・・』と悩んでしまった。スッと言えばいいのに、自分。「これって大盛ですか?」って聞くだけやんって、今振り返れば思う。私はそのとき、結構な時間悩んだ末に、大盛かどうかを中国人の彼ではない店員さんに聞いて、やっぱり大盛ではなかったようで取り換えてもらったのだった。

 

ただですね、やっぱり異国に来て言葉もおぼつかないのにそこで生活をして、なんなら働いてお金を稼ぐなんてことは、すごいことだなと思うわけですよ。自分なら絶対にしないなと。中国人の彼がどんな理由で日本に来ているのかは知らないけれど、その勇気が凄いなと思うわけですよ。かといって私も注文ミスをスッと指摘できる性格じゃないので、彼と私の組み合わせは最悪だなと。私にとって。でも松屋が好きだから行ってしまう。自分が変わろう。

 

そんな松屋での出来事がきっかけとして、大学生のころ、親が家を空けて自分で晩ごはんを用意しなければいけないときに、よく松屋に行っていたことを思い出した。夜の9時ぐらいに歩いて松屋に向かい、晩ごはんを食べた後に松屋の近くの古本屋で漫画を立ち読みするのがたまらなく楽しかった。なんなんだろう、あの夜の古本屋での漫画立ち読みの楽しさは。ひたすらスラムダンクから幽遊白書、ハチワンダイバーにバガボンドなどを読んだ。買えよってぐらい読んでいた。でもあのころはお金がなかったからしょうがない。そして当時、そんな古本屋からの帰りによく聴いていたのがHomecomingsのこのアルバムだ。

 

Somehow, Somewhere

Somehow, Somewhere

 

 

このアルバム、本当に全曲いいんだよなあ。当時はこのアルバムに収録されている楽曲のPVなどもYouTubeでめちゃくちゃ見ていた。

 


Homecomings "LEMON SOUNDS"(Official Music Video)

 

このアルバムを聴きながら帰る夜道は、なんだか涼しくて楽しかった。私は特にアルバムの最後に収録されている「Ghost World」がお気に入りであった。

 

 

友だちを誘って晩ごはんを食べるという手もあったであろう。でも当時の私にとっては松屋に行って、古本屋で漫画を読んで、Homecomingsの「Somehow, Somewhere」を聴きながら帰るといった、そんな時間がたまらなく楽しかったのだ。至福の時間であったのだ。なんやったんやろう、あのときのあの感じは。そんなことを思い出して、ブラウンソースハンバーグ定食にサラダを付け忘れられた帰りに、このアルバムを聴きながら帰ったのだけれど、相も変わらず最高であった。多分このアルバムはずっと聴き続けるんだろうな。そして、その度に松屋に行ってから古本屋で漫画を読んでいた夜のことを思い出すのだろう。

 

歌の出だしがスッと入ってくる楽曲たち

金曜日にたまに誘われて飲みに行くことがある。で、飲みすぎるじゃないですか。そして終電間際の電車に乗って、家に帰ってきてしんどいからそのまま寝る。あんまりお酒が強くないので、2時間おきぐらいに目が覚めてはまた眠るということを3、4回繰り返す。気づけばカーテンの隙間から太陽の光が差し込んでいて、朝が来ていることに気が付く。それと同時に昨日のお酒が残っていて、そのせいで頭が痛いことにも気が付く。頭が痛いから起き上がる気が全くせず、寝っ転がりながらスマホを触る。スマホの画面を眺めていると頭痛がひどくなってくる気がして、すぐに触るのをやめる。二日酔いになったときのこの一連の流れがしんどい。

 

二日酔いがめちゃくちゃ嫌いだ。なんだか昨日を引きずったまま今日になっている気がして、気持ちが切り替わらずフワフワしている。そして土曜日が台無しになり、2日間の休日が大変短く思える。もったいない。実にもったいない。

 

それでも二日酔いになったときに唯一好きなことがある。それは二日酔いのときに食べるカレーだ。なんかめちゃくちゃ美味しく感じる。お酒をめちゃくちゃ飲んだ次の日って、なんだかいつも以上にお腹が空く。けれども頭が痛くてあんまり食欲が湧かない。そんな時はカレーに限る。カレーが身体に沁みる。

 

そして先ほど言ったように、動く気は起きないけれど、寝転がってスマホを触ると頭痛がひどくなる。目の疲れが頭痛につながるのは風邪を引いたときに似ている。じゃあもう視覚に頼らずに、かつしんどいから受動的に楽しめるものと言えば、それはもう音楽になる。ということで先週の土曜日に二日酔いになった私は、音楽に頼ることにした。そして、音楽の中でも特に、曲の冒頭の歌詞がスッと入ってくる曲を聴いた。

 


Sweet Soul

 

 

冒頭の「真夜中がいまぁ」のスッと入ってくる感じ。「真夜中がいまぁ」のスッとさ加減が凄い。声が透き通ってる。まるで静かな水面に水滴を一滴落とした際に生じる波紋のように、「真夜中がいまぁ」の部分が心の中にスーッと広がっていく。エコーでもかかってるんじゃないかというほど。二日酔いにも優しい。この部分だけで何十回もリピートできるほど。タール(コールタール)という言葉は、この「スウィートソウル」に「汗染みは淡いブルース」、「君の胸に抱かれたい」などのキリンジの曲の歌詞から学びました。

 

そしてシャカラビッツの「モノローグ」。

 


[SHAKALABBITS] "モノローグ" Full Ver. [Music Video]

 

 

冒頭の歌詞の「相変わらず無力で」の「あぁい」の部分ね。この「あぁい」がもう最高。めちゃくちゃ好き。カッコいい。まずイントロから醸し出されている雰囲気がいい。そしてイントロでゆっくり期待感が高められたところに来る「あぁい」。シビれます。ボーカルUKIの声が色っぽくて良い。キリンジの「スウィートソウル」同様、この曲も「あぁい」の部分だけで何回もリピートできる。あぁいい。

 

最後にサニーデイ・サービスの「太陽と雨のメロディ」。

 

 

ここまで来たらもう二日酔いは関係ない。ただただ、出だしの部分が好きな曲です。この曲は「東京の街には」といきなり歌から入る。この「東京」の部分が好きだ。なんか「東京」の前に、ちっちゃい"ン"が入っているような感じがいい。「ンッ東京」みたいな感じ。実際にちゃんと聴くと全然入ってる感はないけど、なぜか自分にはそう感じられる。まあなんにせよ、この「ンッ東京」の部分を一聴するだけで、グッとサニーデイのこの曲の雰囲気に引きずり込まれる。そして、この曲はアルバム「MUGEN」の一曲目であり、この曲に引きずり込まれたままアルバム全体をまるっと通して聴いてしまう。「太陽と雨のメロディ」は最高のトップバッターじゃないでしょうか。サニーデイの「MUGEN」は個人的名盤。

 

MUGEN

MUGEN

 

 

個人的に歌の出だしが好きな曲について書きましたが、みなさんのオススメを教えていただければ幸いです。