牛車で往く

日記や漫画・音楽などについて書いていきます 電車に乗ってるときなどの暇つぶしにでも読んでください

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学んだことを活かしたいけれどその機会が思いつかない

この前、個人的な興味からプルースト現象について調べた。

 

www.gissha.com

 

自分はマスクを外したときに感じられる匂いによって胸がグッとくる体験から、これはどういう仕組みでこんなことになるのだろうと気になり調べたことでプルースト現象にたどり着いたのだが、どうやら世間では別のルートによってプルースト現象が注目されていたようで、というのもそれは瑛人の「香水」によってであった。プルースト現象に関する論文などを探していると、山本晃輔という方の名を非常に多く目にしたもんだから、この方を調べれば色々出てくるんじゃないかと名前を検索したところ、下のような記事がヒットした。

 

www.asahi.com

 

朝日新聞デジタルの有料会員ではないから記事全文を見てはいないが、見出しから「香水」って確かに匂いで何かしらを思い出す歌っちゃ歌やなと思う。ただ、そう思いはしたがこの曲をちゃんと全部聴いたことはなくて、断片的に知っているサビの部分のイメージからだけで言っているのだけれど。

 

自分の家にはプリンターがないから、論文は全てパソコンで読んだのだが、やっぱり印刷して紙で読むのが一番読みやすい気がする。パソコンのPDFだと線を引いたりメモを書いたりできないし、『あれ?これなんやったっけ?』と少し前に戻りたくなったときにページ全体表示にすると、倍率的に文字が小さくなって読みにくく戻りたい箇所の位置がサッと把握できない。とは言ったものの、論文をそんなに頻繁に読むわけではないし、プリンターを買ったところでほとんど使いそうにもない。あったらなあといった不足を感じるけれど、いざ手に入れてみるとそのありがたみを感じないような気もしていて、それはプリンターだけじゃなく他の色んなものに対してもそうなる気がしては買わないといった態度をとっている。

 

自分以外にも山本晃輔先生の論文を読んだ人はいるんだろうか、もしいたらその人はどんなことを感じたんだろうかなんてことが気になってTwitterで調べてみたところ、それとは別に山本晃輔先生の授業が楽しみと言っている大学生のツイートを見つけた。

 

 

 

結構昔のツイートではあるが、自分が大学生のころには受けるのが楽しみな授業なんてほとんどなかったから、楽しみと思える授業があったこの人たちが素直に羨ましい。でもあのころの自分はとりあえず楽に単位を取ることばかりを考えていて、そんなに知らないことを知りたいという知的好奇心もなかったから、自分が大学生のころに山本晃輔先生の授業があったとしても、楽しみにはしていなかったかもしれない。それと同じようなことを、東大の教養学部のサブテキストとして様々な教官によって書かれた「知の技法」という本を読んでいるときにも思った。

 

知の技法

知の技法

  • 発売日: 2019/03/08
  • メディア: Kindle版
 

 

いつかこのブログに書いたことがあったかもしれないが、このまま勉強をしなければこれ以上賢くなることなく歳を重ねることになるのかと思うときがたまにある。そう思うたびに、何か勉強をしなければと本を読んだりするのだが、そうすると今度は『こうして得た(つもりになっている)知識はいつ使うのか? 勉強をしてもそれを使う場面がなければ何の意味があるのか?』みたいなことが頭に浮かんでしまう。大学を卒業してしまうとそういった知識を使う実践の場面はもう自分で設定するしかなくて、やっぱり手に入れたもの(知識)で遊びたいと思うから、何か面白いことできひんかなあと悶々としながらも全く浮かばない日々を過ごしている。

 

最近、スチュアート・ダイベックの「シカゴ育ち」を読んだ。

 

 

なんというか、土地の固有名詞が出てくるような海外小説は、その土地の風景描写が想像できそうでできない(中途半端に日本的な風景が混じったものが頭をよぎって完全に違うなとなってしまう)から、いまいち小説の世界に入り込めないところがある。っていう気になっていたのだが、じゃあ日本の小説を読んでいるときにはそんなにちゃんとその風景を想像しているのかと言われると、そういうわけでもない。じゃあこの海外小説を読んでいるときによく覚える違和感みたいなものは何によるものなのか。すんなり読めている人はどんな感じですんなり読めているのかと、分かりそうにもないことが気になる。それでもこの小説に収録されている掌編を集めた章である「夜鷹」のうちのひとつ「不眠症」は面白くて、夢遊病者がコーヒーに口をつけて夢から醒めてからの描写は身に迫る感じがあって、いいなあとうっとりしてしまった。

 

音楽はBES & ISSUGIの「BOOM BAP」をよく聴いている。

 


BES & ISSUGI - BOOM BAP (BLACK FILE exclusive MV “NEIGHBORHOOD”)

 

自分はヒップホップのカルチャーをよく知らないから、この曲に出てくる単語にも意味のよく分かっていないものが多々あるのだが、それでも言葉の意味が強く耳に入ってくる。ここでも

 

音と言葉と遊ぶ All Night Long

 

って歌詞が出てくるけれど、やっぱり遊びたいってことなんだと言いたくなる。それは旅行みたいなものとかもいいけれど、自分で学んだことや練習したことを発揮して試行錯誤するような遊びをしたい(いや、もちろん旅行もしたいんだけれど)。成長の中に未来があるというか。さらにはそれはもう自分で見つけて自分で楽しむしかねえと。響くけどマジ激ムズ。

2021年1月に読んだ本とか聴いた曲とか

1月は結構本を読んだ。

 

きことわ (新潮文庫)

きことわ (新潮文庫)

 

 

朝吹真理子の「きことわ」はとても丁寧な作品で良かった。この小説では現実と夢と過去の記憶が入り乱れながら話が進んでいくため、読んでいると自分の記憶は現実のものなのか夢のものなのか、正しいのかねじ曲げてしまっているのか、なんてことを考えてしまいそうになるのだが、ぶっちゃけそんなことはあんまりどうでもよくて、それ以上に読んでいると自分の感覚、特に触覚が刺激される感じがあって、その体験がものすごく面白かった。特に冒頭の永遠子が見ている夢の中で、貴子の目に入りそうになったまつ毛を取ってあげるシーンの描写が良すぎる。ゾクゾクする。読んでいると肌触りみたいなものがしてきて、それがとても柔らかい。「きこちゃん」、「とわちゃん」っていう二人の名前の語感もなんだか心地良くて、呼び合うときの呼気が感じられる。そんな風に感覚を優しく刺激されるような文章でもって、現実と夢と記憶の曖昧さについて書かれているから、まさに自分が眠っている間に夢を見ているときに感じる、実際には何も触れていないし聞こえてもいないのに、実感としてはあるといったあの不思議な感覚に近いものを読んでいると味わうことができる。

 

火星年代記 (ハヤカワ文庫SF)

火星年代記 (ハヤカワ文庫SF)

 

 

レイ・ブラッドベリの「火星年代記」は個別に感想を書いたのだけれど、これまた面白かった。

 

www.gissha.com

 

「確かに美しい町だね」隊長はうなずいた。

「それだけではありません。ええ、かれらの町は美しいですとも。かれらは、芸術と生活をまぜあわせるすべを心得ていました。アメリカでは、芸術と生活とは、いつも別物でしょう。芸術は、二階のいかれた息子の部屋にあるものなんです。芸術は、せいぜい、日曜日に、宗教といっしょに服用するものなんです。しかし、火星人は、芸術を、宗教を、すべてを持っていました」 p136

 

作中に出てくるこの言葉は、レイ・ブラッドベリにとっての芸術のあり方の理想なのかは分からないが、これに近いことは色んな人が言っているよなあと思う。

 

57577.hatenadiary.com

 

二階から階段を上りはじめた私が、階段の先でふたたび二階にたどり着くこと。そのとき私は「かつていた二階」と「たどり着いた二階」のふたつを同じ平面で生きはじめることになる。作品がこれら「ふたつの二階」を取り結ぶ階段でないなら、どれほど魅力的な行き先が示されたにせよ、私は結局どこへも抜け出せず、行き止まりで階段を引き返してくるしかない。

 

(我妻俊樹 56577 Bad Request 「たどり着いた二階」)

 

小説の自由 (中公文庫)

小説の自由 (中公文庫)

  • 作者:保坂和志
  • 発売日: 2012/12/19
  • メディア: Kindle版
 

 

小説の想像力とは、犯罪者の内面で起こったことを逐一トレースすることではなく、現実から逃避したり息抜きしたりするための空想や妄想でもなく、日常と地続きの思考からは絶対に理解できない断絶や飛躍を持った想像力のことで、それがなければ文学なしに生きる人生が相対化されることはない。

 

(保坂和志 「小説の自由」 p298)

 

この二つも「火星年代記」の引用した部分と、全く同じではないにしてもそう遠くはないことを言っているような気がする。どんなに面白い作品であっても、その作品が現実に繋がっておらず独立した世界を立ち上げているのであれば、それは現実逃避以外のなにものでもなく、その世界から帰ってきたわたしたちはただただ今まで通りの現実に直面して、その作品世界との対比から読む前よりも息苦しさを感じてしまうことになる。あるべき芸術の力とは、日常の思考からは離れながらも(二階から階段を上がりながらも)、その道中で身につけた新たな価値観やものの見方が現実世界に繋がっている(新たな二階へとたどり着く)必要がある。その作品に触れたおかげで、帰ってきた現実は、同じ現実でありながらも今までとは違う現実になっているといったような。とはいえ難しいよな。

 

はじめての沖縄 (よりみちパン! セ)

はじめての沖縄 (よりみちパン! セ)

  • 作者:岸政彦
  • 発売日: 2018/05/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

岸政彦の「はじめての沖縄」は、沖縄のガイドブックなどではなくて、沖縄の歴史を辿りながら、その構造に迫っていくといった本。沖縄のタクシーの運転手に関して書かれている部分を読んで、自分の中学時代、修学旅行で沖縄のタクシーに乗ったときに運転手のおじちゃんからスニッカーズをもらったことを思い出した。おそらくそのおじちゃんはダッシュボードの中にスニッカーズを常備しており、ただでさえ暑い沖縄の、その車の中はもっと暑いだろうから、手渡されたスニッカーズの表面はチョコがドロドロに溶けていて、中はネチョネチョでものすごいことになってた。おじちゃんは溶けていることなんて全く気にしていない様子であったが、わたしは食べている間に溶けてカップの底に液状に溜まったアイスにすらちょっと嫌な気分になるタイプであり、『あんまチョコを車の中に入れとかへんやろ…』と心の中で思わずにはいられず、そのスニッカーズも結局開けたけれど食べなかった気がする。まあそんな思い出話は置いておいて、

 

(中略)私たちは「単純に正しくなれない」のだ、という事実には、沖縄を考えて、それについて語るうえで、なんども立ち戻ったほうがよい。 p242

 

といった考えは肝に銘じておくべきであるし、これは沖縄のことだけでなく、あらゆる物事について考える際に重要なことのように思える。自分の立場とそれに対峙する立場のそのどちらもが、単純にどちらかが正しいとは言い切れない。そんなことは頭で分かっておきながら、いざそうするのはこれまた難しいけれども。

 

ネットの記事ではtofubeatsとミツメの川辺素の激長対談が面白かった。

 

fnmnl.tv

 

読んでいて音楽的なことは全く分からないのだけれど、川辺素の歌詞に対する考え方が特に面白かった。

 

川辺 - (中略)コラージュ的な、何の変哲も無いものが同じ空間に合わさると、急に意味分からなくなるようなことが好きだったりするので。出来るだけプレーンな言葉を使いつつも。

 

tofubeats - プレーンな言葉を使うことは意識してるんですね。

 

川辺 - そうですね。あんまり言葉一つで意味を持ちすぎてることが嫌で。だから歌詞の中に「渋谷」とか入れたくないんですよ。

 

tofubeats - あー、それは確かに分からないでもないですね。

 

川辺 - いつ読んでも大丈夫っていうのは極論を言うと無理なんですけど。どうしてもこの時代に生きてる感覚になるので。でも出来るだけ、100年後とか200年後に聴いてもなんとなく分かるぐらいの感覚が良いなって。

 

tofubeats - タイムレスな感じって、超意識してやってるんですね。それはめっちゃ面白いです。

 

わたしはどちらかと言うと、小沢健二とかandymoriみたいな、歌詞にゴリゴリの固有名詞が出てくる人たちが結構好きで、固有名詞が入っているとその時代感、まさに今を歌っている感じというか、自分の暮らしや人生に近いところを歌っている感じがして感情移入しやすい。そんな曲の例として、フッと頭に浮かんだスピッツの「Na・de・Na・deボーイ」でも「明大前で乗り換えて街に出たよ」という歌詞の部分で一気に曲の世界に入り込める感がある(明大前で乗り換えたことはないけれど)。でもそうすると、tofubeatsや川辺が言うように、言葉の意味が限定されてタイムレスな感じが出ないのも分かる。オザケンの「LIFE」とかは、色褪せない名盤だと思うが、時代を感じはするし(この二つは厳密には意味的に両立するのか...)。ただ、川辺の言うプレーンな歌詞にすると心情の吐露が難しいっていうのも、聴いている側としてはめちゃくちゃ分かる。言葉がシンプルな分、具体的なイメージがつかみにくいし、ブルースみたいなものも感じにくい気がする。でもミツメみたいな、世界と一定の距離を保っているような歌詞の曲は曲で、自分の気分がその歌詞の距離感とちょうど合うときがあって、そのときに聴くとなんとも言えないぐらい胸にジーンと来る。

 


ミツメ - 天気予報 @ mitsume plays "A Long Day"

 

ミツメの「天気予報」とか、めちゃくちゃハマる日があって、その日に聴くとカッコ良すぎて何回もリピートしてしまう。淡々と進んでいくこの感じ。ベースが特に良い。

 

音楽では最近、YUKIの「WAGON」をやたらと聴いてしまいます。

 

 

特にライブ版が良くて、joyのツアーDVDに収録されている「WAGON」を見まくっている。

 

ユキライブ YUKI TOUR “joy” 2005年5月20日 日本武道館 [DVD]

ユキライブ YUKI TOUR “joy” 2005年5月20日 日本武道館 [DVD]

  • アーティスト:YUKI
  • 発売日: 2006/01/25
  • メディア: DVD
 

 

ライブ版の「WAGON」は、歌にも演奏にもパワーがこもっていて、聴くと問答無用にエネルギーをぶち込まれる感じがして最高である。YUKIすごい。ちなみにこのライブDVD、途中で『まだ歌わんの?』ってぐらい長めのMCが入っていて、そこで2005年ってインリン・オブ・ジョイトイがまだまだМ字開脚してたころかと知ることができます。ついでにFM802で土曜日に放送されていたチャートトップ20に「joy」が一生ランクインしていたことも思い出す。そんな感じで1月が終わりそう。

どこに行ってもついて来る歴史(レイ・ブラッドベリ「火星年代記」)

最近は外に出るのも憚られるから、外出したとしても家と会社の間、もしくは家とスーパーの間を往復するぐらいしかない。そうすると、もう飽きるほどに通ったこれらの道中に、なにか面白いものはないかと探すようになった。そんな風にして日々を過ごしていると、冬になると河川敷には鴨がたくさん集まるようになることや、流れが一段低くなる川の段差の直前の部分では、水面がゼリーみたいにツルツルプルプルしていること、町のなんともないところのなんの意味があるのか分からない工事が始まっていることなんかに気づいたりする。かといって、そんなことに気づいたところで特になにか面白いわけではなくて、『ああ、そうなんや』ぐらいの感情しか湧いてこない。自分はこのブログでたまに、近所の河川敷で起きたことや見かけた風景について書いたりしているが、特にこの河川敷が好きというわけでもなく、歩いていて特段楽しいといったこともない。ただ、歩いていると、そう言えばこんなことがあったなあと、なんとなく覚えている瞬間がその河川敷にはある、ただそれぐらいの感じなのである。とは言いながらも、それまで何も思っていなかった地元に対して就職を機に離れてから急に愛着みたいなものを感じるようになったことを考えると、今住んでいる場所に関してもいつか離れるとなったときに、近所の河川敷を含めた町全体をいいところだったなあなんて思うようになるのかもしれない。そのときになってそんな風に思うのは、うまく言葉にはできないが、なんだか少しズルい気がするのだけれど、それはそれでそういうものなのかもしれないとも思う。

 
なんてことを考えながらレイ・ブラッドベリの「火星年代記」を読んでいると、仮にそんなときが実際に訪れるのかは分からないが、もしも地球を離れるとなったときに、果たして自分は地球に対しても、地元を離れたときと同じような寂しさを感じるようになるのだろうかなんて疑問が湧いてくる。

 

火星年代記 (ハヤカワ文庫SF)

火星年代記 (ハヤカワ文庫SF)

 

 

もしも地球が恋しくなって、そのときに思い浮かべるであろう母星の風景は、自然と日本の風景になるのだろうし、そうして思い浮かべる母国の風景は、自分が実際に住んだり行ったりしたところの風景になるのだろう。わたし自身の人間のスケールの問題なのかもしれないが、どこまで行ってもわたしは、自分の身近な範囲までしか自分の世界として捉えられないような気がしている。

 

「火星年代記」は火星を舞台にしてはいるけれど、あくまで焦点は人間に当てられていて、地球人が地球と同じように火星を発展させようとする過程における、地球人と火星人、もしくは火星での地球人同士の関係が描かれている。ブラッドベリ自身も、この作品をサイエンスフィクションとして捉えるのは間違っていると思うとの旨を冒頭の章「火星のどこかにグリーン・タウン」で記述しており、この章名からも窺えるように、ブラッドベリは火星における市井の人々の営みを描こうとしている。それは言わば、火星の世界ではなく、火星を舞台にしたレイ・ブラッドベリの世界。

 

収録されている短編の中で、「月は今でも明るいが」ももちろん素晴らしいのだが、わたしは特に、火星に来た神父たちが火星人たちの原罪を見つけ出し、そして救済しようとする「火の玉」が好きだ。神父たちの奮闘する様が滑稽でもあり(火星に教会を造り鐘を設置しようとするところなんて特に)、たとえ自分たちにとっては意味を成さなくとも、自分たち以外の人々にとっては意味のある世界もまた我々は信じなければならないといった神父の演説は教訓にもなり、はたまた日本人であるわたしには最後のオチがまだ地球の重力を振り切れてない皮肉のようにも思えて、なんとも色んな魅力の詰まった話のように思える。

 

この小説で描かれている多くの地球人は、たとえ火星に行ったとしても地球人でしかない。地球人の地球人らしさの大部分は今現在置かれている環境ではなく、これまで積み重ねられてきた地球それ自体の歴史によって支えられている。そしてそれは、アメリカ人らしさはアメリカの歴史に、日本人らしさは日本の歴史に、そして個人の自分らしさは個人の歴史にと、フォーカスが小さくなっていったとしても同じようなことが言えるように思える。最後の章、「百万年ピクニック(これまた、タイトルがいい)」では、地球を逃れてきた一家の主が火星で再生しようとするにあたって、地球に関する様々な書類を燃やして、これまでの地球での生き方を清算する。その場面を読むと、歴史(過去)が人間を規定する、縛り付ける力がいかに強いかを思い知らされる。と、ここを読んでから再び「夜の邂逅」に戻ると、火星人と地球人の言い合いを、一周目に読んだときとはまた違った不思議な味わいを伴って読むことができる。*1

 

 火星人は目をとじ、またひらいた。「とすると、結論は一つです。これは何か、時間と関係のあることなのです。そう。あなたは過去の幻影なのだ!」

「いや、あなたが過去の人ですよ」と、もう余裕をもって地球人は言った。

「ずいぶん自信があるのですね。だれが過去の人間であり、だれが未来の人間であると、どうやって証明できます。今年は何年ですか」

「二〇三三年です!」

「それがわたしには・・・・・なんの意味があります?」

 トマスは考え、肩をすくめた。「ないでしょうな」

「今年は四四六二八五三SECだと、あなたに言ってもなんの意味もないのと、おなじことです。無ですよ、無以上ですよ! 」 p177

 

「火星年代記」はそれぞれの短編が互いに反響しあっていて、読み返すたびに面白い。

*1:この場面、火星人サイドから「今年は何年ですか」と聞いてきて、それに答えたら「なんの意味があります?」って、そりゃあそうやねんけど、なんか腹立つなぁってなります。この後も、最初はそっちから先に「あなたは過去の幻影なのだ!」とビックリマークを付けてまで言ってきたのに、最終的に「わたしたちが生きてさえいれば、だれが過去であろうと未来であろうと、そんなことがなんでしょう。」なんて言ってくるもんやから、もう戸惑ってしまいます。ほんで、それを言われた地球人のトマスはトマスで手を差し出して「また逢えるでしょうか」って、どこでそんな友情芽生えてんって感じですけど、なんとなく芽生えてる感もあるのが不思議な場面でございます。この場面、好きです。

続・蜜柑の輝きは何によるもの?(平岡敏夫「ある文学史家の戦中と戦後」)

以前に読んだ荒川洋治の「読むので思う」の中で引用されていた、平岡敏夫の「ある文学史家の戦中と戦後」を読んだ。

 

 

「読むので思う」では、平岡敏夫の「ある文学史家の戦中と戦後」の中における、アメリカの学生は芥川龍之介の「蜜柑」を読んで、作中における蜜柑の輝きは神の御加護であると解釈するといった部分が引用されており、わたしはその部分を読んで『そんななんでも神様に結び付ける?』なんて風に思ったのであった。

 

www.gissha.com

  

これはアメリカの学生がキリスト教を信仰しており、そこからわりと無理やりに神様を連想したんじゃないかなんて邪推をしたのだが、実際に引用されている文献を読まずにそんな意見を書くのはいかがなもんかというところで、「ある文学史家の戦中と戦後」を図書館で探し、実際に該当する部分を読んでみた。そうすると、まあなんとも自分の考えの浅はかさを思い知った次第でございます。そんな事の顛末を下に記そうと思います。

 

アメリカの学生が「蜜柑」をどのように読んだのかは、「日本文学とアメリカ」という章に書かれている。アメリカの学生は作中の登場人物である小娘が弟たちに向かって蜜柑を投げる場面を読んで、

 

蜜柑は神の助力で自然の中に生長する。田舎娘がこの果実を投げたとき、それは神の加護によるものだったのだ。 p.203

 

といった解釈をしており、このような解釈は英訳の問題も絡んできていると筆者は言う。該当の場面は原文では

 

窓から半身を乗り出していた例の娘が、あの霜焼けの手をつとのばして、勢よく左右に振ったと思うと、忽ち心を躍らすばかり暖な日の色に染まっている蜜柑が凡そ五つ六つ、汽車を見送った子供たちの上へばらばらと空から降って来た。

 

と書かれており、この「空から」の部分が英訳では「from the heavenly skies」とされており、この"heavenly"によって神の姿が連想されると考えられる。そして、「空から」の部分に日本人の訳者が"heavenly"を当てはめたことを受けて、もう一度原文を読み直してみると、そもそもなぜ芥川本人がわざわざ「空から」と書いたのかといった疑問が生じてくる。小娘が投げた蜜柑は、当たり前のように小娘が乗っていた汽車から降ってきたはずである。にも関わらず「空から」と描写されているのは、そこで何かを表現したくてあえて書かれたのではないか。その考えに基づき、芥川の作品に「奉教人の死」や「西方の人」などといった切支丹(きりしたん)物と呼ばれるものが多いこと、芥川が自殺した際にすぐ近くに聖書が置かれていたことを踏まえると、この場面の描写に神の存在を感じとる読み方は全く的外れなんてものではなく、なんなら本当に作者の意図を理解したものではないかと思えてくる。

 

この「空から」の部分に違和感を覚え英訳時に"heavenly"を付け加えた翻訳者の凄さに、わたしはただただ感服いたしました。なんて丁寧な読み、そしてプロの仕事。一言一句を丁寧に読んでいない自分自身の読書に対する姿勢を反省するとともに、果たして意識したところで自分はそんな風に読むことができるのだろうかとも思う。そして、芥川の「蜜柑」に隠れているキリスト教的思想に光を当てたアメリカの学生たちの読みもすごい。実際、当時の日本人の中でアメリカの学生のような指摘をした人はいなかったようで、これはアメリカの学生によってはじめて見出された読みであるそうだ。よく言われることではあるが、人間はそれぞれ違う人生を通してそれぞれに異なる価値観を形成しているから、同じ作品を読んでも人間の数だけ違う解釈があるといったことを改めて認識した。だからみんなネットにもっと感想を書いてほしいなんて勝手なことも同時に思う。そして、芥川龍之介といった人物の背景や、その他作品から新しい読みの妥当性を検証する手続きも尊い。ショウペンハウエルは「読書について」において、作品に接しながらも、作品のきっかけとなった出来事や、作者自身に対して興味をもつことは滑稽なことであると言っており、確かに作品は作者と切り離して独立して読まれるべきかもしれない。しかし、作者について知らなければたどり着けない読みも実際にはあり、その作品を深く理解しようとするために抱くこのような興味は決して滑稽なものではないように思われる。

 

 

色んな本を読むことで価値観が広くなるって、それは本当にそうだとは思うのだけれど、どの本を読むかといった選択は自分自身によるから、結局自分の読みたいものばかりを読んでしまうと同じようなものばかりに触れることになるし、自分の考えも凝り固まっていく。ってことを考えて、「読書によって心が広くなるより、狭くなる人の方が多い」といった北村太郎の言葉を引用した荒川洋治の「読むので思う」に再び戻る・・・。自分の読んだ作品を他人がどう思っているかをネットで検索するときに、共感できる感想ばかりを探してしまうけれど、そんな時流に逆らって、積極的に自分とは違う読み方をした人の感想も読んでいこうと思う。

 

蜜柑の輝きは何によるもの?(荒川洋治「読むので思う」)

荒川洋治のエッセイ「読むので思う」を読んでいると、アメリカの学生は芥川龍之介の「蜜柑」における汽車の窓から蜜柑が投げられるシーンを読んで、その場面には神様が関わっていると解釈するとの記述があった(正確には、荒川洋治が平岡敏夫の「ある文学史家の戦中と戦後 ―戦後文学・隅田川・上州―」を読んで引用した部分の記述)。

 

www.aozora.gr.jp

 

読むので思う

読むので思う

  • 作者:荒川 洋治
  • 発売日: 2008/11/01
  • メディア: 単行本
 

 

「蜜柑は神の助力で自然の中に生長する。田舎娘が、この果実を投げたとき、それは神の加護によるものだったのだ。」

 

「神は蜜柑を輝かしいものにし、三人の男の子のために記憶すべき刹那を造ろうとしたのだ。」


自分が「蜜柑」のその場面を読んだときには、胸のすくような気持ちになることはあれど、それが神様によってもたらされたものとは考えなかった。アメリカの学生が蜜柑の輝きは神様によってもたらされたと考えるのは、キリスト教を信仰しているからであろうか。わたしはキリスト教には全く明るくないし、高校生のころに学校の校門近くで配られていたどこかの予備校の宣伝と思って勘違いして受け取った聖書もろくに読まないまま大人になってしまった。だからかは分からないが、神様のおかげだと思うことなんて生きていてそうそうない。何か良いことがあっても、神様のおかげ!と言うよりは運が良かった!と思うものだ。思えば「普段の行いが良いから良いことが起きた」といった物言いも、真面目な自分を見ていてくれた神様のおかげというよりは、神様がご褒美をくれるほど真面目にしていた自分のおかげといった意味合いが強いのかもしれない。


と、ここまで書いて思ったのだが、そもそもわたしとアメリカの学生たちでは、感情移入している立場が違う。アメリカの学生たちは小娘とその弟たちの立場に立って、彼ら彼女たちの純粋さに対して神様の御加護が与えられたんだといったことに感動している。特に先に引用した後者の感想なんて、弟たちのために神様が蜜柑を輝かせたといった解釈だ。しかし、わたしはあくまでその様子を見ている主人公の立場に立って読んでおり、ここで鮮やかな蜜柑の色が目に焼き付いて離れなくなったのは、小娘でもなくその弟たちでもない、車両の中で人生の退屈を覚えていた第三者である主人公の立場だからこそであり、小娘の弟たちの目にも同じように蜜柑の色が焼き付いて離れなくなったのかは分からないと思う。蜜柑が輝いたのは誰かのためなどではなく、あくまでまず観察者として人生に退屈を覚えていた"自分"があって、そこから小娘とその弟たちの純粋さを瞬時に感じ取ったから輝いて見えた。

 

そもそもこの、何かしらの瞬間において神の存在を感じるって一体どんな感じなのだろうか。アメリカのスポーツ選手などは、自身のスーパープレイの後に胸で十字を切って天に手を掲げたりしているが、これは『わたしの素晴らしいプレイは神様、あなたのおかげです。ありがとうございます』といった意味合いなのだろうよ。そのときって、どれくらい具体的に神様のイメージを思い浮かべているんだろうか。そう思うと、逆にわたしが何かあって『どうか上手くいってくれ・・・!』と思っているときは、誰に対して祈っている?

 

井上宏生の「神さまと神社」では、日本では神様は自然崇拝により誕生し、日々の生活の中に溶け込んでいると書かれている。

 

 

日本では八百万の神と言うように、神様はあらゆるものに宿っており(まあ別に宿っていると意識することもないが)、そのあまりの自然さゆえに、日々のいただきますの際にも新年の初詣の際にも神様を思い浮かべることはそれほどない。さらに、日本の神道では「敬神崇祖」といった神々を敬いながら祖先に感謝するとの考えが重んじられており、その考えが日本人に自然と身についているとするならば、日本人にとって神様は人間とは全く異なった存在というわけではなく、なにか自分のルーツのような、つながりをもった存在のように感じられるのかもしれない。アメリカ人には日本人のこの感覚が分かるのだろうか。とか思っていたら、このブログを見つけた。

 

takairap.exblog.jp

 

なるほどね。日本人が思い浮かべる神様は、アメリカ人にとってはSpirit、精霊なんだね。ただ、そうなると今度はこっちがアメリカ人にとっての唯一神"God"の姿を全く想像できないんだけれども。やっぱりわたしは蜜柑を投げた後の

 

小娘は何時かもう私の前の席に返って、相不変皸だらけの頬を萌黄色の毛糸の襟巻に埋めながら、大きな風呂敷包みを抱えた手に、しっかりと三等切符を握っている。

 

といった、小娘の何事もなかったような平然とした姿にも感動するわけで。そこには神様の御加護とかではなく、自分の姉が奉公先に赴こうとしているのであれば、それを見送りに行くのが弟たちにとっては当たり前のことだし、そんな弟たちをねぎらって列車から蜜柑を放り投げるのも当たり前のこと、そんな風にして生きている、言うなれば彼ら彼女たちの魂の純潔さにわたしは感動している。そんな魂の純潔さをも神様の御加護によるものだとアメリカ人は考えるのかもしれないが。わたしはなにも神様の存在を否定したいわけではない。神様の御加護と考えるからこそ感じられる感覚もあるのだろうことは容易に想像ができる。ただ、それでもやっぱりその感覚はわたしには分かりにくいところがある。アメリカ人のように、人間になにかをもたらしてくれる神様ような存在を思い浮かべることができないからこそ、わたしは彼ら以上に人間自身にこだわっているのかもしれない。彼らの目には、わたしのこんな気持ちは傲慢な考えに映るのだろうか。

 

そしてもうひとつ、「蜜柑」の主人公が心打たれた理由に、普段はなんとも思わないし、なにを考えているのかも分からない自分以外の人間が確かに生きていると感じられる瞬間、そんな瞬間に出くわしたからというのもあると思う。人間は自分以外の人間について想像を巡らせることはできるけれど、その人の本当の中身を知ることはできない。だから極端なことを言えば、わたしはこの世にはめちゃくちゃ優しい人もいれば、その逆でめちゃくちゃ悪い人もいるのだろうことを頭では想像できるんだけれど、普段、本当にそんな実感をもって生きているわけでないから、本当はめちゃくちゃ優しい人なんていない気がしているし、めちゃくちゃ悪い人だっていないんじゃないかと思っている。いや、彼らの存在を"別にいちいち信じていない"といったほうがより正確だろうか。この主人公は憂鬱な気持ちで電車に乗っており、窓をしきりに開けようとする小娘のことをはじめは鬱陶しがっており、なんなら少し見下していた。そんな、自分のことで頭がいっぱいなときに(人間は基本的に普段は自分のこと以外は考えられないものだとは思うが)小娘とその弟たちのやりとりを見て、『ああ、素晴らしい人っているんだ』みたいな、普段は希薄な自分以外の人間の存在を強く感じられたから感動したんじゃないだろうか。まあ長々と書いたけれど、要するに他人の優しさに触れるとか、そういったことと同じでございますよ。もっと俗っぽく言えば、自分ばっかり働いている気がするけど、当たり前のようにそんなことはなかったみたいなことですよ。そんなん分かってんねんけど、なんか思ってまうよねって。でもそうじゃないって分かったときにハッとさせられるよねって。

 

なんにせよ、人によって読み方って色々あるよねという当たり前のことを思った。こんなことを考えた後に芥川龍之介の「運」を読むと、『やっぱ芥川龍之介って皮肉屋よね~』とより一層強く思ってしまった。

 

www.aozora.gr.jp

 

 

後日談

自分の読みの浅はかさを反省いたしました・・・

www.gissha.com

 

開架式書架の前で深刻ぶる在りし日

金曜日。雨ということで電車にて通勤。ウォークマンでThe Bandのセルフタイトルアルバム「The Band」を聴いていると、めちゃくちゃ気持ちがしっとりしてきて家に帰りたくなった。

 

The Band

The Band

  • アーティスト:The Band
  • 発売日: 2001/08/27
  • メディア: CD
 

 

このアルバムは家でゆっくり聴くのが良くて、通勤中の電車で聴くと完全に労働意欲が削がれてやる気ゼロになってしまう。ただでさえ家を出た瞬間に『家に帰りてー』って思ってんのに。特に「Whispering Pines」を聴くともうダメです。

 

 

松の木って英語でPineって言うんですね。日本では松の木は神が宿る神木とされ、門松なんかにも使われているから、なんとなく和の植物っぽい印象をもっていたけれど、アメリカでも街路樹として普通に生えてんだね。さらにこの曲に加えてHomecomingsの「Videotapes」を聴いて、もうフニャフニャになる。

 


TOKYO ACOUSTIC SESSION : Homecomings - Videotapes

 

そんな感じで会社に到着したもんだから、完全にLowな状態で仕事に入ってそのまま低空飛行で業務終了。それにもかかわらず「一週間頑張ったぞ!」と謎の充足感を得ながら帰り道を歩く。いや、正確には「一週間耐えきったぞ!」やな。

 

最近はマガジンで連載しているサッカー漫画「ブルーロック」が面白い。

 

pocket.shonenmagazine.com

 

スマホアプリのマガポケで金も払わずに無料でチマチマと読んでいるんだけれど、集めようかしらと思うほど。マガジンのスポーツ漫画って、必殺技とかがじゃんじゃん出てくるジャンプのものと違って、割と真面目というか、どっちかと言えば現実寄りなものが多いイメージを個人的にもっていたのだけれど、ブルーロックはそんなマガジンのスポーツ漫画とジャンプのスポーツ漫画のちょうど中間といった感じで、非常にいい塩梅でございます。特に76話が面白すぎて、この話だけこれまた広告動画を視聴することで無料でゲットできるポイントをチマチマ集めて購入しました。凪誠士郎はもはや第二の主人公と言いたいほどカッコいい。「蹴撃・・・的な空砲!」からのーーーがカッコ良すぎてもうね・・・。何回も読み直してしまいます。

 

ほんでもってスピリッツで連載されている「チ。ー地球の運動についてー」も面白そう。

 

bigcomicbros.net

 

面白いとは言い切らず面白そうと言ったのは、まだ2話までしか読んでないからなんですけれど。今じゃあ地動説なんて意識することなくすんなりと受け入れられているけれど、昔は天動説が主流で、さらには地動説を唱えようもんなら迫害される恐れもあったなんて。とはいえいまだに似非科学なるものは世の中にはびこっているわけでして、さらには似非科学のみでなく、わたしたちは感情に従って生きているもんだから、トイレットペーパーがなくなると言われりゃ不安になって、ウソかホントかも確かめずに薬局に大行列を作るわけでございます。そんな時代だからこそ、この漫画が連載される意味みたいなものを考えてしまうんだけれど。それにしても、この「チ。ー地球の運動についてー」を読んだ後にPeeping Lifeを見ると、ギャップでより一層和む。

 


地動説という仮説 Peeping Life-World History #29

 

ブルーロックは無料でせこせこ読んでいるにも関わらず、永田紅の絶版になっている歌集「日輪」は思い切って購入。

 

日輪―永田紅歌集

日輪―永田紅歌集

 

 

開架式書架をへだててひらひらと行き来する君 深刻ぶるな

 

これはきっと、大学で思いを寄せる人が図書館で文献などを探している姿を見て詠まれた相聞歌。「君」が付いただけで「深刻ぶるな」といった台詞が一気に恋の眼差しを含んだもののように感じられてくる。恋とかどうとかは一旦置いておいて、わたしも卒論を書いているときには参考文献を探しによく図書館に行ったもんだけれど、実際には特に用もないのに息抜きに何となく訪れていたことのほうが多かった気がする。探している文献なんてないのに、なにかを探しているような顔をして本棚を眺める。深刻ぶるな。本当は知りたいことも、言いたいことも、特にないのかもしれないねって、そう思ってしまうときもある。

「ファンタジー」と「海に帰す」

布団の上で平民金子の「ごろごろ、神戸。」を読んでいると、ごろごろ神戸2の章に収録されている「ファンタジー」が素晴らしくてやられてしまった。

 

ごろごろ、神戸。

ごろごろ、神戸。

  • 作者:平民金子
  • 発売日: 2019/12/10
  • メディア: 単行本
 

 

特に冒頭の、子どもが地面のあたたかさを確かめる描写が良すぎて『良すぎるやろ…』とそのまんまのことを思いながら何度も読み返した。自分が子どものころ、お好み焼き屋で熱々に熱された鉄板を目の前にして、親に「触ったら火傷するで」と言われながらも本当に熱そうには思えなくて、実際に触ったところ大変熱くてワンワン泣いたことを思い出した。サボテンとかもトゲあるのに触ったりしたな。あのころは確かに、実際に触れることで世界の形を確かめていた。そしてふと「ごろごろ、神戸。」は書籍版よりも神戸市ホームページに掲載されているウェブ版のほうが写真がたくさん載っていることから、ウェブ版で読んでもこれまた良いのではないかと思いそっちも覗いてみると、実際に子どもが地面に手を当てている写真などが載ってあって、思った通りさらに良かった。

 

www.city.kobe.lg.jp

 

ぬいぐるみにも地面のあたたかさを教えてあげるような、そんな自分の感じたことをすぐ隣の人と分かち合う尊さみたいなものが今のおれには足りてないぜ、全く。もうこの「ファンタジー」が良すぎて、わたし以外にも良いと思っている人はいないもんかと気になり、Twitterで「ごろごろ神戸 ファンタジー」と感想を調べてみたところ、なんとタイムリーなことに、わたしが読んだ数分前に著者の平民金子さん自らがこんなことを呟いていた。

 


めっちゃ良くないですかって、めっちゃ良いですよホンマに。今回は写真あり版のほうにグッと来ましたけれども、その時々によってどっちが良いかは変わる気がする。いや、どっちもいいんよホンマに。

 

 

さらには神戸市広報課もこの「ファンタジー」について呟いていて、それを見てさらにやっぱりいいよねとなった。おっしゃる通り冒頭文が素晴らしいのよ。何度の音読にでも耐える名文ではないでしょうかって、何度の音読にでも耐える名文ですよホンマに。なんで自分がいいと思ったものを、他の人も同じようにいいと思っていることが分かると嬉しくなるんでしょうね。

 

そしてさらには、書籍版で読んだおかげかもしれないが、「ファンタジー」からその次の話である「海に帰す」への流れもこれまた良いんですよ。

 

www.city.kobe.lg.jp

 

知らない間に日々、子どもが成長していることを感じるこの二編。そして

 

私も同じ海を見ながら、小さな子供を通して新しく人生を生きなおしているような毎日だ、そんな風に思う。

 

と言いながらも、それは気のせいだとして

 

大人になって、海に対してセンチメンタルな心象を勝手に託す事をやめたように、子供の背中にも何も託してはいけない。ただ私はつかの間、よりそって生きることを学ばせてもらっているだけだろう。

 

と思い直す姿勢に、なんでかは言葉でうまく表現できないけれどえらく共感した。自分には自分の、子どもには子どもの人生があって、子どもは別に自分が感動するためのモノではないというか、なんとなく分かる、言いたいことが。だからこそ「つかの間」という言葉を使っていて、それが余計に切ないんだけれど。

 

この二編を読んだ後、本を閉じて仰向けになり、「ごろごろ、神戸。」のタイトルのごろごろはベビーカーを押す音を表しているのであろうが、わたしにとっては寝っ転がって横になる意味のごろごろだなと、めちゃくちゃ面白くないことを考えながら、部屋のLED照明をリモコンで消して瞼を閉じた。瞼を閉じた後も、ああ、いい話を読んだ、といった読後感がじんわりと体を満たしていた。

秋の夜の川で鳴いているのは多分鈴虫

最近はすっかり気温が落ち着いてきまして、半袖を着ていると日中はちょうどいいぐらいの涼しさで汗をかくことがなくなってきた。太陽も18時ぐらいには姿を隠し始める。今年の夏は梅雨がずっと長く続いて、それが明けて一気に暑くなったかと思うと急に涼しくなって、なんだかジェットコースターみたいに一瞬で終わってしまったような感覚。でもこれは夏だけのことではなくて、今年は全体的になんとも時間が経つのが早い。9月がもう終わろうとしているなんて信じられませんって感じ。これもコロナウイルスのせい。ホンマにそうやと思う。人間は楽しい思い出を作って、それを思い出してはひっかかることで時間の流れに少しだけ抵抗できるのかもしれないと、逆にコロナウイルスのおかげで気づけた。逆にね。

 

柴崎友香の「きょうのできごと」を読み返す。

 

きょうのできごと (河出文庫)

きょうのできごと (河出文庫)

  • 作者:柴崎友香
  • 発売日: 2004/03/05
  • メディア: 文庫
 

 

登場人物のひとりである、かわちくんが動物園のホッキョクグマに向かって、小学生のころに絵の具を投げつけて食べさせてしまったことを心の中で延々と謝罪するシーンを読んで、自分の小学生のころを思い出した。いまとなれば別に心配するほどでもない些細なことに対していちいち不安になっていたのは、自分の生きている世界がまだまだ狭かったから。わたしは小学校の情報の授業で自分の名前をネットで検索した時に、自分と同姓同名の指名手配犯がヒットしてめちゃくちゃ不安になった。名前が一緒なだけで自分のことなわけがないのに、『おれ、ヤバいんやろか・・・』と頭がズシンと重くなった。幼いころを思い出しては「あのころは大した悩みなんてなかったなあ」なんて言う人がいるけれど、いまは大した悩みに思えないことが当時はめちゃくちゃ大した悩みだったもんだから、あのころはあのころで大した悩みなんてめちゃくちゃあったんですよと言いたくなる。

 

 

柴田ヨクサルの「東島丹三郎は仮面ライダーになりたい」のこの話みたいに、漫画やアニメのキャラが死ぬだけでも、心がざわついては不安な気持ちになっていた当時。死ぬのとか、そんなんインパクトが強すぎる。死ぬと思って読んでないから。そう思うと、大人になってずいぶん図太くなったもんよと思わないこともない。いまはいまで別の悩みがあるけれど。そして、続編の「きょうのできごと、十年後」も買って読んだ。

 

きょうのできごと、十年後 (河出文庫)

きょうのできごと、十年後 (河出文庫)

  • 作者:柴崎友香
  • 発売日: 2018/08/04
  • メディア: 文庫
 

 

二作品とも夜の時間の描写が多くて、涼しくなってきたこともあって、読んでいるとやたらと夜の散歩に行きたくなった。っていうことで、近所の河川敷を散歩しに行った。

 

いまの季節に夜の川を歩いていると鈴虫の鳴いている声が聞こえてくる。平安時代には鈴虫を籠に入れてその鳴き声を楽しんでいたようだが、それも納得できるほど澄んだ音色。って書いたけれど、実際に鈴虫が鳴いている瞬間をこの目で見たことがないから、この河川敷の夜に隠れて鳴いているのは多分鈴虫って話。しばらく歩いて音楽でも聴こうかなんて考えたけれど、ときおりなんにも考えずに歩きたいときがあって、それが今だなと思って、音楽を流してしまうと意識がそっちに引っ張られてしまうから、そのまま何もせずに普通に歩くことにした。お風呂で頭を洗っていたり、ただただ歩いていたりするときの、その行動に没頭していて頭で何も考えずに済んでいる時間って、結構大切なんじゃないかと大学生ぐらいから感じ始めた。なんで大切かは言葉にできないけれど。

 

河川敷を離れて大きな道に出て家の方向へとUターンする。ミルクティーが飲みたくなってきて、途中のコンビニに寄ることにする。お茶と水を除く飲み物って、ストローで飲んだほうがなんだか美味しい気がする。だから、持ち運ぶにはペットボトルが便利だけれど、ストローで飲めるものを買うことにしようと店内の一番奥の棚へと向かった。ストローで飲むタイプのミルクティーには、紙パックのものと、フタがプラスチックになっている円筒状のもの(チルドカップと言うらしい)があるが、紙パックのほうは高校生のためのものであり、自分は高校生ではないから後者の方を買った。チルドカップは量も少ないし値段も別に安くはなくておそらく一番コスパが悪いのだけれど、先ほども書いたようにストローで飲めるし、なんだか美味しく感じられるからつい買ってしまう。そう言えば、自分はまだプラスチック削減のために最近出てきた紙で出来たストローを使って飲んだことがないなと思う。紙ストローで飲むとなんだか美味しくないなんて声を聞くが、それとは反対にニコルソン・ベイカーの「中二階」には、昔、紙ストローからプラスチックストローに変わった際の文句が、半端じゃない量の注釈として書かれている。

 

中二階 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)
 

 

ストローがコーラの缶から浮き上がるのを初めて目のあたりにしたときには、我が目を疑った。

 

と書かれているように、プラスチックストローが出てきたばかりのときは、ストローが飲み物から浮いてきて大変飲みにくかったようだ。それがいまじゃあ、ベイカーのころとは真逆のことを言っているんだから、人間ってしばらくしたらなんにでも慣れるんだろうよと思ってしまう。

 

コンビニを出てミルクティーを飲みながら、大きな道に沿って歩く。途中、大きな橋の上から夜の川を覗いてみると、真っ黒で流れがあるのかどうかも分からなかった。橋の上は風の通りが良くて、ここだけ一段と涼しい。夜の散歩の楽しさって、大学生になって友達の家とかに泊まるようになってから分かり始めたのだけれど、自分が中学生のころに同級生だった不良達は、この心地良さをあのころすでに知っていたんだと思うと急に羨ましく思えてきた。そう思えば、いま住んでいる町ではあんまり不良を見かけない。そして、とにかくいまは温泉に行きたい。そんなことを考えながら家に着いて、コンビニでミルクティーと一緒に買ったワンタンスープをレンジでチンして食べると、なんだかえらい落ち着いてしまった。なんだかんだで家が一番。

中学生でもあるまいし『この曲サビないやん』とかはもう思わない

家にいる時間が多くなると自然とネットサーフィンにかける時間も増えてしまい、その結果、ずっと欲しかった本などをポチポチと購入してしまいました。

 

いつものはなし

いつものはなし

 

 

「不思議というには地味な話」が新版として復活したため、こちらも絶版のところを復刊してくれないもんかと待っていましたが、ついに堪えきれずに買ってしまいました。近藤聡乃の描く線の柔らかさが好きすぎて、肘とか親指の付け根の膨らんでるところとかの描き方を眺めているとたまらない気持ちになってきます。この本に収録されている話には、昔のことを不意に思い出したけれど、その思い出したことは果たして本当に記憶通りだったっけ?といったものが多い。

 

思い出してはみたものの、本当のことかわかりません

楽しかったはずなのに、なんだかとてもあいまいです

いつもいつも私はこんなことばかりしている気がします

 

昔懐かしい夢を見たけれど、その日の午後にはそれがどんな内容だったのかを忘れてしまい、思い出そうとしても全く出てこない。そして、そんな忘れてしまった夢を思い出そうとしたことそれ自体も次の日には忘れてしまっている。でも、そんな風にして忘れてしまうのはなにも夢ばかりではなくて、現実の出来事だって同じなのかもしれない。この本にはそのようななんとも言えない独特の浮遊感がある。わたしゃあ最近、高校時代のことを思い出していると、そこに大学生になってからの友達がいたような気がしてくることがちょいちょい増えてきた。その度に、学校の友達全員が今までの仲の良い友達であるオールスター版の高校生活を過ごしてみたいと思ってしまう。手塚治虫ばりのスターシステム。絶対に楽しいはず...はず...はず...

 

新装版 茄子 上 (アフタヌーンKC)

新装版 茄子 上 (アフタヌーンKC)

  • 作者:黒田 硫黄
  • 発売日: 2009/01/23
  • メディア: コミック
 

 

新装版 茄子 下 (アフタヌーンKC)

新装版 茄子 下 (アフタヌーンKC)

  • 作者:黒田 硫黄
  • 発売日: 2009/02/23
  • メディア: コミック
 

 

黒田硫黄の「茄子」は宇多川八寸さんのnoteを見て知った。

 

note.com

 

こちらの漫画も絶版しており、コロナ禍以前にあちこち古本屋を巡って探したのだが、そもそも黒田硫黄の漫画が古本屋には全然置かれていなかった。あったとしてもアップルシードぐらいだった。ほんで京都国際マンガミュージアムの所蔵を調べてみたところ、どうやらここにはあるぞとなった矢先、コロナ禍で営業休止(今はやってます)。っていうことでネットで買ってしまいました。この漫画は何かストーリーがあるといったものではなく、生きている時間そのものを描いていて、読んでいると湿気みたいなものがすごく感じられる。そして、結構読むのに疲れました。でもこの疲れたっていうのは、一般的にマイナスの意味に捉えられるかもしれないけれど、決してそうではなくて、普通のストーリーのある漫画じゃあ省かれるような部分もいちいち描いてくれているからこそ抱いた印象なのだと思う。まあそれが逆に漫画にはストーリーがあるものだ、それが当たり前だと思っている人にとっては「それで何が言いたいん?」みたいに思えてきて、読んでいてストレスを感じる要因になりうるのだろうとも思います。音楽とかでも抑揚の少ない曲を聴いて『サビないやん』とか思う人にはこの漫画は向いてないと思います。でもわたしにとっては、この漫画の、夜の台所の前に立って歯磨きをしながら独り言を言う瞬間だとか、寝る前にホテルのベッドのサイドテーブルに眼鏡を置いて目を細める瞬間だとか、そういったいちいち描いてくれている瞬間が妙によくて、自分の生きている現実世界のある瞬間にまで繋がってくるような感覚を覚えるのです。『おれの人生にもそんな瞬間たまにあるわ』って、そう思えただけでなんであんなにも感動してしまうんでしょうね。っていうか茄子って美味しいよね。茄子自体にそんなに味はないけれど、煮びたしとかみたいにめちゃくちゃ調味料とかダシを吸うじゃないですか。そこがいいですよね。茄子の味噌炒め、簡単で美味しいので結構な頻度で作ってしまいます。

  

小説の自由 (中公文庫)

小説の自由 (中公文庫)

  • 作者:保坂和志
  • 発売日: 2012/12/19
  • メディア: Kindle版
 

 

「小説の自由」は、保坂和志が小説について考えたことを書いたシリーズのひとつ。続編の「小説の誕生」を先に読んで面白かったので買いました。面白いんだけれど、この本も読むのに体力を使うので、ちょっとずつ読んでいます。そうすると、反動としてサクッと読める本も欲しくなってきて、それには何かしら対談している本がいいなと思い、詩人の谷川俊太郎と歌人の岡野大嗣、木下龍也による連詩とその感想戦が収録された「今日は誰にも愛されたかった」を買った。

 

今日は誰にも愛されたかった(1200円+税、ナナロク社)

今日は誰にも愛されたかった(1200円+税、ナナロク社)

 

 

感想戦において谷川俊太郎が、対談の進行役を務めるナナロク社編集部の方からの、自身の作った詩に対するやや深読みをした質問に対して、否定するときはスパッと否定していたのが面白かった。ある作品に対して過剰に意味やメッセージを見出そうとするのはどうかと思うときもあるけれど、確かに自分の読み方はあっているんだろうかといったことは気になるもんなあ。そして谷川俊太郎の生み出した「詩骨(しぼね)」という言葉にグッとくる。なにかしらの出来事をなんでもストーリーに組み込んでドラマチックなオチを作り同情させるといった世間の流れに逆らって、どれだけ自分の見方、姿勢を保ち続けられるか。そんな分かりやすいように脚色されたドラマによって隠された、かき消された本当に大事な細部に気づくことができるのか。テーマは脱ストーリー、ドラマ化かもしれない。

 

ほんで夏ということで、ある日急にクレイジーケンバンドの「ガールフレンド」を思い出し、それ以来めちゃくちゃ聴いている。

 


クレイジーケンバンド / ガールフレンド

 

クレイジーケンバンドはね、歌詞のフレーズが魅力的なんです。ガールフレンドの「ってなわけでね」とか「中学生でもあっるっまいにっ!」とか。「中学生でもあっるっまいにっ!」のほうは、この曲を知ってる人相手には積極的に使っていきたいほど。

 

「中学生でもあっるっまいにっ!」、自分が中学生くらいのころに聴いていたアナログフィッシュとシャカラビッツのMVがYouTubeに上げられているのを発見して、テンションが上がった。

 


Analogfish - 夕暮れ

 


[SHAKALABBITS] "Ladybug" Full Ver. [Music Video]

 

シャカラビッツの「Ladybug」なんて、ガラケーの着うたにしておりましたから、大変懐かしい気持ちでございます。そういえばこの前、カウントダウンTVにロードオブメジャーのボーカルの人が出演していたらしいですね。こっちもめちゃくちゃ懐かしい。そんなにファンでもなかったけれど、中学ぐらいのときにベスト盤だけは聴いていました。

 

GOLDEN ROAD~BEST~

GOLDEN ROAD~BEST~

 

 

個人的に「スコール」が好きでした。

 

 

こういう風にして、懐かしい曲を一曲聴くと、連鎖反応的に当時よく聴いていた他の曲も聴きたくなってくる。シャカラビッツつながりで175Rの「空に唄えば」を思い出す。MDに入れてめちゃくちゃ聴いてたな。

 

 

曲の中で何度も訪れるサビの中でも、最後のサビだけハモるセンスよ。あそこにグッと来ていたもんよ。以前にも書いたことがあるけれど、小中学生のころのわたしは、曲のサビでは絶対にハモってほしい、ハモってくれななんか物足りんといった価値観をもっていた。

 

www.gissha.com

 

抑揚が少なくて分かりやすく盛り上がるところのない曲を聴いては『サビないやん』と思ってました。くるりの「赤い電車」とかを聴いて『サビないやん』って思っていました。それが今じゃあもう中学生でもないんで、ハモリモセズ、サビデトクニモリアガリモセズ、そういう曲の良さもわたしは分かるようになりました。曲のサビ以外の部分でも好きなところを見つけられるようになりました。少しは成長したというか、世界の捉え方の枠が広くなった気がします。

なかったかもしれない思い出とあったはずの出来事(滝口悠生「半ドンでパン」)

最近ではスーパーに買い物に行くと、新玉ねぎが売られている。新玉ねぎのなにが普通の玉ねぎと違うのかも分かっていないのに、名前に”新”が付いているだけで普通の玉ねぎよりも美味しそうに思えてくる自らの浅はかさ。シン・タマネギ(シン・ゴジラのシンの意味も知らなければ、見てすらないです。すみません)とは何ぞやと調べてみますと、普通の玉ねぎは収穫して乾燥させるところを、新玉ねぎは収穫して乾燥させずに即出荷させたものであるらしい。そのおかげで普通の玉ねぎと比較して水分を多く含んでおり、苦みが少なく生で食べるのにいいんだとか。そんなこととはつゆ知らず、ガシガシに炒め物として食すために新玉ねぎを買いまくっている。生で食べずに炒めて食べてもめちゃくちゃ美味しい。そんな新玉ねぎ炒めライフを送っていたある日、買ってきた新玉ねぎを川から流れてきた桃のごとくパカッと真っ二つに切ったところ、中から赤ん坊ではなく、なにやら茶色い層が姿を現した。7層ぐらいあるうちの3層目の一層が茶色くなっている。まるでもうすでに十分に炒めてあめ色になったかのような見た目。なんやこれと思いつつスマホで調べてみると、どうやらその一層は腐っているらしいことが分かった。突然現れた腐った一層に戸惑いながらも、取り除けばそれ以外の部分は食べられるということで、豚キムチにして食べたら美味しかったので安心した。でも次の日の勤務中にふと、美味しくても身体に悪いことはあるだろうし、美味しかったから安心したというのもなんだかおかしいなという考えが頭に浮かんだのだが、結局お腹が痛くなることはなく無事に日中を過ごすことができた。新玉ねぎは十分に乾燥させていない分、普通の玉ねぎよりも腐りやすいそうで、今後は良い玉ねぎの見分け方を学んで駆使していこうといった所存です。ちなみに良い玉ねぎの見分け方は下に書いた通り。

 

  • 平べったいものよりも丸いもの
  • 皮が乾燥している
  • 固い

 

先日は久しぶりに本屋に行って、「特別ではない一日」という本を買った。

 

 

様々な作家が書いた短文を集めた本なのだが、その中でも滝口悠生の「半ドンでパン」がめちゃくちゃ良かった。自分は午前中に授業があって午後からは休みとなる土曜日のことを半ドンとは呼んでいなかったが、まあそんなことはどうでもよくて、これを読むと小学生時代のこと、特にそのころの休日の空気感が思い出される。土曜日の朝、学校に行くために目を覚ますと、平日にはすでに会社に行っていて家にいないはずの父親が、大きな口を開けていびきをかきながら布団の上で寝ている。それを横目に起き上がり学校へ行く支度をする、そんな土曜日の始まり。土曜日を思い出す手がかりとしてパンを題材に設定したのが、この短文の素晴らしいところ。確かにパン屋にお昼ご飯を買いに行くのって、なぜか休日のワンシーンとして強烈に記憶に残っている。そして、この短文は、小学生時代の懐かしさを喚起する描写だけではなく、小学生時代のことを思い出しながら今現在の筆者が考えたことに関する描写もいい。

 

なんだか思い出せば出すほど、私は清白なずな先生を嫌いじゃなかったみたいな気持ちになってきて、それは過去の自分への裏切りみたいなことになるのだろうか。

 

筆者である滝口悠生が、中学生時代の好きじゃなかったはずの社会の先生について思い出していると、次第に当時とは違って嫌いではなかったような気持ちになってきたときの一文。わたしも大学生になったくらいから、こんな風に何かを懐かしんで振り返った際に、その当時に抱いていた感情とは違った感情を抱くことが次第に増えてきたことを覚えている。記憶を思い出すといった行為は、その当時の自分の価値観ではなく、今の自分の価値観で記憶を整理し直すということなのかもしれない。だから、整理し直したことで記憶の中の出来事がいい思い出に変わったり、許せるようになったりする。けれども、大人になって色んな経験をして過去の出来事を許せるようになる、それ自体は本当に無条件でいいことなんだろうか。幼いころの潔癖だった自分のことを考えると、許すことがまるで諦めたことのように思えてくるのと同時に、それが過去の自分に対する裏切りのようにも思えてくる。他人の許せなかった行為を理解できるようになるということは、今の自分がそれと同じ行為を取った場合に、自分で自分自身を許してしまうということだろう。過去の自分が許せなかった行為を今の自分がとってしまっている自己矛盾。そういう風にして生じた過去との軋轢を時折感じながら、大人になってきた気がする。

 

土曜日のたびに、私は私の土曜日を思い出すドン。 たとえばこうして書いたみたいな。あるいは今日は思い出さなかった土曜日もあって、それは今度の土曜日に思い出すかもしれないし、思い出さないかもしれない。それは土曜日にならないとわからないけれど、いろいろな土曜日がこれまであったし、今日も含めた土曜日がこれからも増えていく。

 

 

上に呟いたように、わたしには、思い出せない記憶に心が惹かれて、そこに何か今の自分にとって愛しい瞬間などが隠れていたりするんじゃないかと考えてしまうときがある。当時の自分にとっては何気ないことでも、今の自分にとっては宝物のように感じられる瞬間。例えば、中高のころの卒業式なんて、何気ない日常じゃなくてインパクトのある出来事のはずなのに全く思い出せない。でも、今の自分がタイムスリップしてもう一度体験したならば、絶対に忘れない瞬間の連続だったんじゃないかと思う。もっと言えば、卒業式の前日なる日も人生にはあったわけで、でも本当にそんな『明日で高校生活も終わりか・・・。』と思った日があったなんて思えないくらい、その日の記憶がない。そんな思い出せない記憶は、思い出そうとしても出てこないが、何かのキッカケで不意に思い出されることがある。今回の半ドンでパンを読んだときだってそうで、そう言えば自分が小学生のころは、同じマンションに友達が引っ越してきてほしいと思っていたことや、先生が宿題の添削に使うペン先の細いカートリッジ式のピンクの蛍光ペンに憧れていたことを思い出した。

 

 

他にも、小学生のころにポルノのベストアルバムが出て、自分は「ラビュー・ラビュー」という曲をよく聴いていたなってことを思い出して、改めて聴き直してみると当時の空気感を思い出したことも相まってやっぱりいいなとなったりもした。

 

 

これらのことは、「半ドンでパン」を読まなければ死ぬまで思い出さなかったことかもしれなくて、こんな思い出せない記憶が自分の中にまだまだあると思うと、もう是非ともジャンジャン出てきてくれと思う。それと同時に、こういう風にして、思い出というものは一瞬思い出しては再び忘れていくんだろうなとも思う。そもそも思い出した記憶が本当に正しいのかどうか、それすらもわたしには分からないのだけれど。それでも、こんなことを考えている今の自分だけは絶対に存在していて、そんな人生に絶対にあったはずなのに思い出せない瞬間が積み重なって今の自分ができていると思うと、なんだか奇妙な気持ちになってくる。

 

パン屋からの帰り道に、さっき座っていたべンチの近くで、すずめが地面のなにかをついばんでいた。私はふだんよりもすずめがやけに大きく、近くに見える気がして、止まってすずめをしばらく見ていた。すずめが大きいのではなく、私が小さいからそう見えたのだ、と立ち上がったときに顔や体に受けた風の強さでやっと気づいた。私は今日は、帰ってパンを食べて、それ以外に特になんの予定も用事もない。ドン。

 

小学生時代の記憶を辿ることに没頭して、自分の気持ちまでもが小学生のころに戻ってしまっていたことに気づくこの描写がめちゃくちゃにいい。

 

そういや子どものころは玉ねぎなんて嫌いだったはずなのに、いつの間に好きになっていたんだろう。子どものころは晩ご飯に玉ねぎの入っている料理が出てきたら、母親が憎く思えたほどであったのに。今は今で玉ねぎを食べて美味しいと感じているけれど、玉ねぎのことをヌルヌルしていて気持ち悪いし、辛いのか苦いのかも分からない味をしていて嫌いだった当時のわたしの気持ちも分かる。人間は変わっていくものかもしれないが、過去の自分の気持ちも出来るだけ忘れずにいることが、過去の自分のためになり、ひいてはいつか過去になってしまう今の自分のためにもなるような気がする。