牛車で往く

日記や漫画・音楽などについて書いていきます 電車に乗ってるときなどの暇つぶしにでも読んでください

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ペーパー・スーパー・ムーン

映画「小説家を見つけたら」を見た。

 

 

黒人の高校生が名作をひとつだけ残して消えた小説家に文章を教えてもらうといった映画だった。映画を見始めた最初のほうは出てきた登場人物の顔を覚えるのが難しかった。洋画では知らない俳優ばかりが出てくるから余計にそうなる。途中、主人公の高校生がアルバムに挟まれた小説家の過去の写真――若い頃に友人と写って笑っているものや小説家の兄と一緒に写ったもの――を見て、自分の知っている人物の自分の知らない時間を感じ取る。それはその人が今まで以上に生きてきたって思える瞬間、その人の人生を感じて感動が込み上げてくる、愛おしさが湧いてくる瞬間で、そんな気分になった主人公が寝ている小説家にブランケットをかけたところがよかった。あとは小説を書くにはとにかく何か文章を書き始める、何でもいいから書き始める、別に他人の作品の書き写しでもでもいいし、そうして興に乗ってところで自分の小説を書き始めるという描写があって、普通に文章を書くときに参考になると思った。映画を見るときには、この映画で監督が気に入っているシーンはどこだろうと思いながら見るのだけれど、この作品ではそれは最後のほうに小説家が自転車を漕いで夜の街を走るシーンのように思え、でもなんとなくあからさますぎる気もして違うかもしれない。

 

映画「ペーパー・ムーン」を見た。

 

ペーパー・ムーン (字幕版)

ペーパー・ムーン (字幕版)

  • ライアン・オニール
Amazon

 

母親を亡くした子どもと、その母親の葬式にたまたま通りかかった詐欺師の物語(と思ってたら、見終わったあとに調べたところ、詐欺師は母親と本当に知り合いのようだった。詐欺師やから適当なことを言ってると思ってしまった)。身寄りのない子どもを親戚の家まで届けてくれと頼まれた詐欺師が、人を騙してお金を稼ぎながら目的の土地まで子どもを連れて行く白黒の映画。印象に残ったシーンは子どもがタバコを吸うところで、でもそれは所作じゃなくて"子どもがタバコを吸う"というその事実。だからあんまり映画的に印象に残ったということではない。吸っていたタバコの火を、舐めて湿らせた指先でつまんで消していたのを見て、熱くないんか、と思う(本当に火が点いていたのかどうかは分からないけれど)。自分は子どもが出てきてその子が何か困難な状況に陥る映画に弱いのだけれど、この映画は演出が大げさじゃないから(それは時代のせいか、それとも監督の作風か)、子どもが何かないがしろにされるシーンがあっても、同情を誘うような表情を子役にさせることはなく、険しい顔をアップで映し続けるだけで、それほど切なくはならなかった。父親を渇望する子どもが、何度も詐欺師にあなたが自分の父親なんじゃないかと聞く。そのたびに否定する詐欺師。よく分からない祭りの会場で三日月のセットに座って写真を撮る屋台があって、そこで子どもは一人で写真を撮る。それから、またあとで父親(と思い込んでいる詐欺師)と一緒に取りに来ると写真屋の店主に言ったのだろう、再び訪れたときに、さっき一人で撮った写真は出来上がっているぞ、父親はどうなった、と聞いてくる店主に対して、詐欺師が付いて来てくれず不貞腐れた態度で返事をする子ども、一人で三日月に座って不満そうな顔で映っている現像された子どもの写真。映画の中ではついに詐欺師と二人で写真を撮ることは叶わなかったけれど、映画のジャケットと言うのか、ポスターと言うのか、そこでは二人で三日月に座って笑っていたなと思い確認してみたら、全く笑ってなかった、ただただカメラを見つめているだけだった。子どもに至ってはタバコを指に挟んでいて、勝手に脳内で幸せ補正をかけていた。あと、子役の名前がテイタム・オニールでスピッツの曲名やんとなり、調べてみたらテイタム・オニールの出ていた映画「がんばれ!ベアーズ」に影響を受けて作った曲だから、そういう曲名になったらしかった。へえ~。「がんばれ!ベアーズ」もどこかで見ようと思う。

 

itukamitaniji.hatenablog.com

 

ちなみにPaper Moonの意味。

 

pmcafe.weebly.com

 

「Paper Super Moon」は、三日月のスーパームーンなんてないからありえないか。でも、そもそもペーパー・ムーンが張りぼてで偽物の月なんだから、ありえなくても作ってもいいか。ただのでかい三日月やけど。

 

映画「息子」を見た。

 

息子

息子

  • 三國連太郎
Amazon

 

前半から中盤ぐらいまでずっと昔の家族観を見せられて退屈だったけれど、終盤の東京で暮らす次男の元を訪ね、次男から結婚するという報告を聞いたおとっつぁんが、嬉しくなって興奮して中々眠れず、ついには起き上がって歌を歌ってしまうところが良かった。ベタではあるけれど、不器用で手のかかる次男がなんだかんだで一番可愛いみたいな価値観。次男が結婚して、孫が産まれて、そうしたら岩手の実家で孫の面倒を見ないといけねえ、「おまえはいつまでおれん世話になる気だ」って、おとっつぁんが勝手に想像を膨らませて言ったところが面白かった。というか可愛かった。最後の東京からおとっつぁんが実家のある岩手に帰ってきたシーン、東京に行って家を空けている間に庭には腰ぐらいの高さまで雪が積もっており、新雪を踏んではかき分けて進んでいく長回しのシーン。どうやら自分はこういう何かの様子をじっと見つめているみたいな撮り方のシーンが好みのようで、このシーンを見ながら何かおとっつぁんに悲しいことが起きるんじゃないかとハラハラしたけれど特に何も起きず、自分は予定調和的な展開をつまらないとして嫌おうとしながらも、それに抗えず予感していることを意識した。とはいえベタな展開の多い映画だった。なぜか印象に残っているのは、新幹線が走り去った後の線路に雪が巻き上がるシーン。今回見た映画はどれも人と人との関係性を描いたものだった。

 


F L A T 6【ROOM01】LIVE ACT:ASOBOiSM / Laura day romance / masa 🔈Streaming Live from TOKYO

 

この動画のLaura day romanceのライブがめちゃくちゃ良い。「rendez-vous」で、ギャリギャリジャキジャキにギターを弾きまくっているのがめちゃくちゃかっこよくて、こんなにギターを弾いているなんてCD音源では気づかなかった。それはギターだけじゃなくてドラムもそうで、CDじゃあ落ち着いた感じなのにライブでは迫力があってカッコ良かった。ほんでもってそれはギターとドラムだけじゃなくてボーカルもそうで、「lovers」の『もう色も変わって久しくなるね』ってところのぶっきらぼうな歌い方とか、マイクに斜になって向き合って歌う佇まいとかがカッコいい(askaやん!ってなった)。そして聴くたびに感じる「lovers」の胸のときめき100%っていう感じ。何でこんなに切なくてかつ嬉しいみたいな感情で胸がいっぱいになるのか。良い。男女ボーカルということで安易な連想になるけれど、スーパーカーの「Lucky」に匹敵する破壊力。

 


SUPERCAR / Lucky (Official Music Video)

 

「Lucky」もギターソロのパートの、アレンジの入ったイントロのメロディに回帰するところで、ああ、良い、と胸がいっぱいになる。Laura day romanceの話に戻るけど、「Sad Number」もこんなにいいAメロを一回しか使わんの勿体ねえって思いながらも、一回しか使われていないおかげで物足りなくてまたすぐに最初から聴きたくなるから、もしこれが計算のうちだったらまんまとやられているのかもしれない。最近は「Seasons.ep」を頻繁に聴いていて、特に「潮風の人」のギターの音、フレーズがカッコいい。

 

 

そんな感じでLaura day romanceのモードになっていて、なんとなくホームページをのぞいたらアーティスト写真が三人になっていて、結構前に男性ギターボーカルのメンバーが脱退していた。「lovers」どないすんねん、あんなに良い曲やのに、という衝撃。そういえば猫戦のメンバーも脱退が続いていて、良いバンドやのに、と思って調べたらキーボードが新しく入っていた。「蜜・月・紀・行」は東京に行ったときにずっと聴いていたから、聴くたびに東京を思い出す。学生のころはCDアルバム一枚三千円は高いなあと思っていたけれど、社会に出て働くようになってから(と書きながら、別に働いてなくても社会には出てるやろと思った)経費という概念が身近なものになり、一枚三千円で何枚売れたとしても、メンバー何人で、作ったり宣伝したりでお金がかかるから……と考えみれば全然高くないなと思い直した。が、しかし、消費者側のこちらも無限の財力を持っているわけではないから、やっぱり高いなと思ってしまうときはあって、パトロンになれるほどのお金持ちになりたい、と自分が芸術家に自分の好みを押し付けるかもしれないとは微塵も考えずに思っている。

赤い栓をひねった蛇口からの熱湯に谢谢

とろとろの焼豚を作りたいと思い色々調べていたら、みりんがお肉を硬くするとの情報を得た。反対にお酒はお肉を柔らかくするらしく、ふむふむとヒットしたページを読んでいくと、ページの下のほうにみりんがお肉を硬くする理由として、みりんのアルコールがお肉のタンパク質を変質させるからと書かれているのを見つけ、お酒もアルコールですやん、なにを言うてまんねん状態になった。同じようなことが書かれているサイトは他にもいくつかあり、なんでこんなに冷静になったら引っかかるような理由が広まっているのかと、もうちょっとそれらしい説明をしてくれているサイトを探した。

 

www.kamosu.org

 

上のサイトを読んで、ほーん、お酒とみりんとではpHの違いによってお肉を柔らかくする効果に違いが出るのかとなり、その理屈をもうちょっと調べた。

 

chomiryo.takarashuzo.co.jp

 

ほーん、pH5付近だとお肉から水分が逃げてしまいお肉が硬くなる、みりんのpHはちょうどそこらへんだからそういうことになるのかと一旦納得しかけたが、とはいえお肉を煮るときにみりんだけに浸しているわけではなく、水に薄められたり他に加えられた調味料との関係から煮るときの液はpH5付近じゃない可能性があると思いとどまり、一つ目のサイトで「みりんがお肉を硬くさせているわけではなくて、あくまで日本酒に比べると柔らかくならない程度の効果」と書かれていたことと、二つ目のサイトの等電点の話から、あくまでみりんを入れた場合と比較して、入れていないときのほうが煮汁のpHが5から離れた値になり、その結果、相対的にお肉が柔らかく感じるという解釈に落ち着いた。

 

などなど、実際はどうなのか分からない理屈を色々調べてみたが、実践的には豚バラブロックがかぶるぐらいの水を鍋に入れ、弱火で一時間半じっくり煮込むと、豚バラブロックはとろとろになることが分かった。これまで自分は、とろとろになるためには調味料の配合にポイントがあるのではないかと思っていたが、シンプルに長時間火にかければいいだけだった。ただ、この方法では調味料を入れていないから煮込んでいる間に味が染みていかない。とはいえ、分厚い豚バラブロックの中にまで味なんて染みるんかいな、と思っている自分もいる。とろとろになった豚バラブロックを小さく切って、フライパンで焼きながら醤油、みりん、砂糖、酒で味をつけたら普通に美味しい焼豚丼ができたから、もうこれでいいって感じ。とはいえ、一回みりんを入れて一時間半煮込んだら、本当に硬くなってしまうのかも気になる。

 

豚バラブロックを煮込んだあとの鍋には大量の脂が浮いていて、そのまま流しに流すのはもってのほか、とはいえこの脂をちまちま掬うのはめんどくさい。何かいい方法はないかとこれまた調べてみれば、ラップを液面にかけて引き上げれば脂が引っ付いて、簡単に取り除けるとの情報が出てきた。これもラップと脂の親水性、疎水性の関係、いわゆる「ぬれ」ってやつかと言われてみれば納得できる。でもこれを実際にやってみると、ある程度冷めて白くなった脂には有効だったが、冷蔵庫でガチガチに冷やした脂では固体になり過ぎて表面張力が効かずラップにくっつきにくかった。そう単純ではない。ほんでどうでもいいけど「ぬれ」って言葉を使うと、なんでも雰囲気でそれっぽく説明できた感じになるけど、それで片付けられてもって思うときがある。

 

最近は熱湯消毒にハマっている。梅雨のせいで外に干せず部屋干しするしかないふきんは、洗ったつもりでも水に濡らすとたちまち嫌なにおいをぷーんと放ってくる。そんな中、熱湯をかければたちまち部屋干しが続いても全然においがしなくなった。自分が住んでいるマンションのお風呂場の蛇口は、赤色の栓だけをひねると火傷するぐらいの熱湯が出てくる。だから、体を洗うときにはいい感じの温度のお湯を出すために青色の栓とバランスよく調整しなければならなくて、そのことに煩わしさを覚えていたのだが(って、本当はとうの昔にそんなことには慣れてしまった)、この赤色の栓だけで熱湯が出るシステムを利用すればいちいちお湯を沸かさんくても熱湯消毒できるやん!ってことに気がつき、実際やってみると嫌なにおいの原因となる菌を殺せるぐらいの熱さはあるようで、赤色をひねったら灼熱のお湯が出てくることに、これほどまで感謝したことはないといった感情に。それからというもの、何か暇さえあれば熱湯消毒がしたいと思うようになり、会社で働いていても早く家に帰ってまだかけていない何かしらの布に熱湯をかけたい、ポリエステルなんかは生地が痛むから熱湯消毒をしてはいけないらしいけれど、それを承知で熱湯をぶっかけたい、といううずうずが止まらなくなった。抑えるのが大変。

 

この前スーパーで買い物をしていたら、店内でかかっている曲が気になって、Shazamを使って調べた。

 


上海逢引(Shanghai rendezvous) - アマイワナ【MV】

 

なんだか有線でいい曲を知るのはかなり久々な気がする。Ginger Rootがミックスとマスタリングしてると知り、なるほどぉ、と分かったつもりになった。それからいくつかアマイワナの曲を聴いたところ、現状では「Now Back」が一番好き。

 


Now Back-アマイワナ

 

課題は押し付けたい
じゃないと救われない

って、自分もそういう思考をするタイプの人間です。どうせ割を食うなら一矢報いたい。自分は気に入った曲ができるとその曲を聴きながらひたすら散歩するので、梅雨の雨の止み間を狙ってはこの曲ばかりをリピートしながら歩いた。他にも奥田民生の「野ばら」もよく聴いている。

 


奥田民生 『野ばら』

 

梅雨の冴えない天気から

雲行きが気になって見ていたら 君んとこは昨日から下り坂

って歌詞を思い出したから。あとは相対性理論の「さわやか会社員」も。

 

 

出だしの歌詞がめちゃくちゃいい。ふわっとした歌詞なのに、なぜこんなにも刺さるのか。メロディの妙。脳内で歌っていたら三回に一回ぐらいの確率で「さんっ さわやか三組~」ってなる。

 

漫画は波切敦の「レッドブルー」にハマっている。

 

 

単純に登場人物のキャラがいい。主人公の、ひねくれていて人とかみ合わないけれど根はいいやつっていう感じが出ている会話が面白い。サンデーの漫画を久しぶりに読んでいる気がする。

他人のリアリティ

これまで自分は映画を全然見てきていなくて、なんとなくそろそろ有名どころぐらいは押さえていこうという気分になったのだが、その前に景気づけに一発自分の好きな映画である「リンダ リンダ リンダ」を見ることにした。

 

 

映画を見ない自分がなにをきっかけにこの作品に出会ったのかは覚えていないのだが、今回見直してやっぱり好きな映画だと再確認した。学校の屋上で駄弁るシーンでの、ベースの子のソンちゃんに対する「ほんとにわかったあ?」っていう言い方とか、ソンちゃんが夜に部室での練習を抜け出して文化祭の出店の通りを歩くシーンで聞こえてくる鈴虫の鳴き声とか、ソンちゃんが一人きりの体育館でライブの妄想に夢中になっているときにふと冷静になり、その瞬間に妄想の中の盛り上がりとは対照的に目の前の体育館には誰もおらずがらんとしている、そのことを意識してしまうところ、それから部室に戻ったらみんながいてそのことが嬉しくなるソンちゃんと、ソンちゃんが過ごしたそんな一人の時間をなにも知らない他のメンバーの普通な感じ(「ソンやるよ?」って言うまでソンちゃんをじいっと見つめる香椎由宇の顔がなんか良い)とか、好きなシーンがいっぱいあって、見ていて胸がいっぱいになった。この胸いっぱいの感覚はノスタルジアから来るものではなくて、むしろとっくに高校生じゃなくなった今の自分の人生にも、近い雰囲気をもった瞬間が訪れることもあるんじゃないかと思えるような、そんな一瞬のリアリティから来るものだった。だから自分は「リンダ リンダ リンダ」のことを青春映画っちゃあ青春映画なのかもしれないけれど、熱中!夢中!成長!みたいなよくある嘘っぽいキラキラのベタな青春映画って感じではないから、そう呼ぶのにはなんとなく抵抗がある。香椎由宇以外のバンドメンバーは文化祭でのバンド演奏にそれほど夢中になっているわけではないし、香椎由宇も香椎由宇でバンドに夢中というよりは友だちと喧嘩してムキになってやってるみたいな動機でバンドの練習をしている。自分は自分自身の高校時代の部活を振り返るときに、何かに打ち込んで一生懸命頑張ってたなあと思うと同時に、必ず部活動に飽きて練習がダルいと思っていたことも思い出す。だからこれは好みの問題なのかもしれないが、「リンダ リンダ リンダ」にはそういう高校時代の自然さが感じられて、それが自分には合っている。でもこれは自分が高校時代にある種のピークのような「優勝」とかを経験していなくて、部活動を振り返ってみても、大会の日に友達が散髪に失敗して前髪がぱっつんになって現れたこととか、練習試合で相手の学校も一緒になってスマホのワンセグでWBCをみんなで見たこととか、そういうちっちゃいことばかりを思い出すような人間だからな気もする。

 

この映画を見てから久しぶりにブルーハーツの「リンダ・リンダ」や「終わらない歌」を聴いたら、やっぱりいいなとなり、自分は「リンダ・リンダ」の3番の「もしもぼくが〜」が終わったあとに、サビに行かずにもう一回「愛じゃなくても〜」とここだけAメロ(?)を二回繰り返すところ、特に「愛じゃなくても〜」と入る瞬間が好きだったことを思い出した。

 


【公式】ザ・ブルーハーツ「リンダ リンダ」【1stシングル(1987/5/1)】THE BLUE HEARTS / Linda Linda

 

それからハイロウズも聴きたくなって「青春」が頭に浮かんできた。

 


【公式】ザ・ハイロウズ「青春」【14thシングル(2000/5/24)】THE HIGH-LOWS / Seisyun

 

自分はこの曲がめちゃくちゃ好きで、渡り廊下で先輩を殴るところとか、リンゴをもぎってかじるところとかは作りものっぽい青春のシーンだけれど、

冬におぼえた歌を忘れた
ストーブの中残った石油

ってところの(学校いう環境を踏まえての)時間の経過の表現の仕方とか、

鼻血出ちゃったし あちこち痛い
口の中も切れた

リバウンドを取りに行くあの娘が
高く飛んでる時に

の、学校の中で同じ時間をそれぞれの居場所で過ごす学生たちの奥行きの出し方とか、その部分が絶妙でたまらない。ということを感じながらハイロウズの「青春」を聴いていると、冒頭の「冬におぼえた歌を忘れた」の部分で、忘れたってことに気づいたのは、冬にあの曲に夢中になっていたってことを思い出したからで、つまりは一度覚えたからこそ忘れたことに気づけたという、普通に考えたら当たり前のことをなぜか意識した。「忘れた」っていう言葉はそれだけでは意味をなさない、「忘れた」という言葉が出てきた瞬間に自動的に時間に奥行きが生まれる、忘れていたことを覚えた、見た、聞いた、なんにせよそれに触れた瞬間が今より昔に存在していたことを示す。これと似たようなことがなんかの小説に書かれていたなあと思い、これも忘れた、つまりは一度触れたからこそ忘れたってことで、中身は忘れてしまっても触れた体感だけは残っているから、なんとなくでその存在を思い出す事ができた。その体感を頼りに「思い出す」でiPhoneのメモに検索をかけると、漱石の「思い出す事など」っぽいことが分かって、それっぽいな、そんなことが書かれていた気がするな、という感覚が蘇ってきて読み直してみたら、次の一節が自分が思い出そうとしていた、つまりは忘れてしまっていたものだったことが分かった。

「思い出す事など」は忘れるから思い出すのである。

今自分が考えていたのは、忘れたことに気づいたのは過去にそれを覚えたからといったもので、「思い出す事など」のほうは、思い出したのは忘れたからといったもので、少しねじれがあった。『「思い出す事など」は忘れるから思い出すのである。』なんて、めちゃくちゃ普通のことを言っているのだけれど、これを読んだときには忘れることをネガティブなものではなく、忘れるおかげで思い出すことができるといったポジティブなものとして捉えることができて、それはここ最近ずっと、忘れていたことが不意に思い出された瞬間に体にフッと湧いてくるリアリティのようなものについて考えていたからだった。それが体に湧いてきたときには、しばらくの間生き生きとしたような感覚になり高揚感が続く。それに近いもっと圧倒的な感覚がロックによってもたらされた体験を歌ったのが多分ハイロウズの「十四才」で、さらには十四歳のときにある曲を聴いた瞬間に受けた衝撃、それがずっと忘れられず、でもその瞬間の衝撃を思い出そうとしても、単純に衝撃を受けたという事実が思い出されるだけで衝撃そのものは甦ってこない、だから衝撃それ自体を曲という形でもう一度呼び起こそうとしたのが「十四才」なんじゃないかと今さらになって思う。これは衝撃を受けたことを歌った曲じゃなくて、その瞬間を呼び起こそうとして作った曲なんじゃないかと。

 


【公式】ザ・ハイロウズ「十四才」【16thシングル(2001/8/8)】THE HIGH-LOWS /Jyuyonsai

 

最近はあるあるみたいなものよりも、誰かの個人的な体験がほかの誰かの別の体験を呼び起こすといったような、そんなことのほうに興味があって、そんな中はてなブログに自分で「お題」が作れる機能があることを知った。試しに「においをかいでふと思い出した記憶」といったお題を作ってみると結構色んな人が書いてくれて、あるあるっぽいものではなくて個人的なにおいにまつわる思い出がちょくちょくあって面白い。中には自分が上で言っている、思い出した瞬間にふいに湧いてくる感覚のことまで書いてくれたものもあった。

 

ayaisake.hatenablog.com

 

いつか一発会社でも辞めてプルーストの「失われた時を求めて」を読破したい。

 

もやがかかった影のある形ないもの

すっかり少し冷たい風が足もとを通る頃になりましたけれども、夏からずっとaikoの「花火」を聴き続けている。特にAメロが良い。

 


aiko- 『花火』music video

 

眠りにつくかつかないかシーツの中の瞬間はいつも

あなたのこと考えてて

夢は夢で目が覚めればひどく悲しいものです

花火は今日も上がらない

 

Aメロのメロディに対する言葉の乗せ方がすごく良くて、「眠りにつくかつかないかシーツの中の瞬間はいつも」まで一気に言ってしまってから(とはいえ一音に一語で無理矢理に詰め込んでいるわけではなく)、「あなたのこと考えてて」でちょっと緩める緩急のおかげで、「眠りにつくかつかないかシーツの中の瞬間はいつも」の部分を聴いたときに、長い文章がリズムに乗って運ばれてくる心地よさを感じることができる。そのあとの

胸ん中で何度も誓ってきた言葉がうわっと飛んでく

1ミリだって忘れないと

のところでは、「眠りにつくか〜」の部分と同じように言葉が進んでいくのが気持ちいいのに加えて、「うわっと」って歌い方がうわ〜って思うくらい良い。ここの「うわっと」って言葉には本当に「うわっと」って感じがあってたまらない。でも自分は最後の

もやがかかった影のある形ないものに全て

あずけることはできない

ってところが一番好きで、「もやがかかった影のある形ないもの」ってやつが具体的に何を指しているのかは分からないけれど、もし胸ん中で何度も誓ってきた1ミリだって忘れないという言葉であれば、やっぱりこの恋を諦め切れないって意味に聴こえるし、もっと抽象的な恋の気持ちを表しているのであれば、好きと伝える一歩が踏み出せないって意味に聴こえる。自分はどちらかと言えば後者のほうだと思っていて(というか後者のほうで解釈したほうが自分にとって都合よく想像を膨らませられる)、そもそもこの「もやがかかった影のある形ないもの」って言葉の、もやがかかっていて曖昧だけれど、影が差すように存在は感じられ、けれどもやっぱり形はないからもどかしいっていう揺り戻しの、「もやがかかった/影のある/形ないもの」っていうコンボ感というか、畳み掛ける感じに胸がキュっとなる。心の中の捉え所のないものを、この言葉を三つ選んで繋げて、さらにはこのメロディに乗せて表現するって、aikoめちゃくちゃすごいなとなる。そして、そういった曖昧なものに「あずける」ことができないという、あずけるっていう言葉を選んだ身体性というのか、この全身で恋をしている感じ、全身全霊で向かっているからこそ不安になっている感じが良い。良いとしか言えない。この良さを誰か上手く説明してくれてはいないだろうかと「aiko 花火」で調べてみると、〝他の人はこちらも検索〟欄に「aiko 花火 すごい」というワードが挙がっているのを見つけた。今まさにこうして検索している自分と同じような気持ちの高まりを迎え、もうそうとしか言いようがないからその興奮のまま「aiko 花火 すごい」と検索した人がいる、しかもそんな人が〝他の人はこちらも検索〟欄に挙がるようになるほどたくさんいることが面白く、同時にそんな人たちに対して、同志よ、と嬉しさも抱いた。自分はaikoの「花火」にこんなふうに夢中になっているから、ウォークマンのA-Bリピート機能を駆使して、1番のAメロの部分ばかりをしつこいくらいに繰り返して聴いている。良い。

 

とにかく自分がaikoの花火を聴いて思ったのは、音楽にはメロディがあるおかげで、そこにうまく歌詞を乗せられれば、言葉にグルーブが生まれるというのか、とにかく言葉がグングン進んでいく、運ばれていく感じを出すことができる、それが羨ましいということだった。とはいえ、考えてみれば小説の中にもaikoの「花火」を聴いているときと同じような感覚を抱くものはあって、例えば夏目漱石の「草枕」の一文

逡巡として曇り勝ちなる春の空を、もどかしとばかりに吹き払う山嵐の、思い切りよく通り抜けた前山の一角は、未練もなく晴れ尽して、老嫗の指さす方に巑岏と、あら削りの柱のごとく聳えるのが天狗岩だそうだ。

なども、読んでいて言葉が乗ってくる感じがある。一文自体は長いけれど、それぞれの文節の長さは揃っていておさまりがいいから、冗長にはならずリズムが生まれている。さらには文章の中身も次第に視界が広がっていくような書き方になっており、読み進めながら「逡巡として曇り勝ちなる春の空を」でグン、「もどかしとばかりに吹き払う山嵐の」でグン、「思い切りよく通り抜けた前山の一角は」グンと、自転車のペダルを交互に漕いで進んでいくような感覚を覚える。自分はこういった長い文章を読むことによる心地よさを、漱石の「草枕」や「思い出す事など」などの作品から感じることがよくあって、これらの作品には俳句や漢文が出てくるからそれが何か関係しているのかと思い、「夏目漱石 リズム 漢文」などと調べてみた。そうすると、知りたかったこととは違うが、夏目漱石が鴨長明の方丈記を英訳していたという情報が出てきて、さらに調べてみると、どうやら漱石の草枕は方丈記に影響を受けているらしいとの情報もあった。それを受けて方丈記を読んでみると、確かに「ありにくき世」という章に書かれている内容が草枕の「智に働けば角が立つ〜」の部分にそっくりで、そんな事実を今さらになって知った。そして方丈記にも読んでいて語感のいいと感じるところがあって、

空には灰を吹き立てたれば、火の光に映じて、あまねく紅なる中に、風に堪えず、吹き切られたる焔飛ぶがごとくして、一二町を越えつつ移りゆく。

の部分を読んで、なんとなく漱石っぽいなあと順序が逆のことを思った。そこから枕草子や徒然草などの、中学か高校で習ったはずの過去の有名な随筆作品を改めて読み直してみると、当時は感じなかった言葉のリズムの良さを感じたりした。書かれている内容に関しては、枕草子の「心ゆくもの」の段の一段目が好きで、「夜、寝起きて飲む水」の部分が良い。

 

esdiscovery.jp

 

平安時代に生きていなければ分からないことがつらつらと述べられている中、突然出てくる現代にも通ずる感覚。夜中に目が覚めて覚えたのどの渇きを癒すために、冷蔵庫から取り出した水を飲み、ふうっと一息ついたときの確かな心ゆく感覚。清少納言のころとははるかに時を隔てているからこそ、自分と同時代を生きる人が何かを言ってそれに共感したときよりも、より強い共感を感じる(時を経るロマンに勝手に感動しているだけかもしれないが)。とはいえ、枕草子はずいぶん昔の作品なのに今でも通用する感性はすごいって、それは別に今の時代が昔と比べて進化しているわけではなく変化しているだけで、かもめんたるの漫才でも言われていたけれど、昔の人は五七五で縛りをつけて俳句を楽しんだりしていて、今を生きる自分よりもよっぽど風流なことを嗜んでいたわけである(かもめんたるの漫才の「ああっダメダメ!これ怖くなっちゃうからダメ!」ってとこが面白い)。

 


かもめんたる 漫才 「墓地」(M-1グランプリ準々決勝 敗者復活企画【GYAO!ワイルドカード 11/22(月)15:00〜11/27(土)14:59】応援宜しくお願いします!)

 

自分がaikoの「花火」について何かを語ろうとするとき、結局良いとしか言えなくなるのだけれど、枕草子も読んでいたら "をかし" "をかし" の連続で、それを受けて確かに "をかし" としか言いようがないなあと思うから、勝手にやっぱり最終的には "良い" とか "をかし" とか、そういうふうに言うしかないよねって気分になる。良いもんは良い、をかしきもんはをかし。いやでも、そういう言い表しにくいものを「もやがかかった影のある形ないもの」って表現したaikoはやっぱりすごい。

学んだことを活かしたいけれどその機会が思いつかない

この前、個人的な興味からプルースト現象について調べた。

 

www.gissha.com

 

自分はマスクを外したときに感じられる匂いによって胸がグッとくる体験から、これはどういう仕組みでこんなことになるのだろうと気になり調べたことでプルースト現象にたどり着いたのだが、どうやら世間では別のルートによってプルースト現象が注目されていたようで、というのもそれは瑛人の「香水」によってであった。プルースト現象に関する論文などを探していると、山本晃輔という方の名を非常に多く目にしたもんだから、この方を調べれば色々出てくるんじゃないかと名前を検索したところ、下のような記事がヒットした。

 

www.asahi.com

 

朝日新聞デジタルの有料会員ではないから記事全文を見てはいないが、見出しから「香水」って確かに匂いで何かしらを思い出す歌っちゃ歌やなと思う。ただ、そう思いはしたがこの曲をちゃんと全部聴いたことはなくて、断片的に知っているサビの部分のイメージからだけで言っているのだけれど。

 

自分の家にはプリンターがないから、論文は全てパソコンで読んだのだが、やっぱり印刷して紙で読むのが一番読みやすい気がする。パソコンのPDFだと線を引いたりメモを書いたりできないし、『あれ?これなんやったっけ?』と少し前に戻りたくなったときにページ全体表示にすると、倍率的に文字が小さくなって読みにくく戻りたい箇所の位置がサッと把握できない。とは言ったものの、論文をそんなに頻繁に読むわけではないし、プリンターを買ったところでほとんど使いそうにもない。あったらなあといった不足を感じるけれど、いざ手に入れてみるとそのありがたみを感じないような気もしていて、それはプリンターだけじゃなく他の色んなものに対してもそうなる気がしては買わないといった態度をとっている。

 

自分以外にも山本晃輔先生の論文を読んだ人はいるんだろうか、もしいたらその人はどんなことを感じたんだろうかなんてことが気になってTwitterで調べてみたところ、それとは別に山本晃輔先生の授業が楽しみと言っている大学生のツイートを見つけた。

 

 

 

結構昔のツイートではあるが、自分が大学生のころには受けるのが楽しみな授業なんてほとんどなかったから、楽しみと思える授業があったこの人たちが素直に羨ましい。でもあのころの自分はとりあえず楽に単位を取ることばかりを考えていて、そんなに知らないことを知りたいという知的好奇心もなかったから、自分が大学生のころに山本晃輔先生の授業があったとしても、楽しみにはしていなかったかもしれない。それと同じようなことを、東大の教養学部のサブテキストとして様々な教官によって書かれた「知の技法」という本を読んでいるときにも思った。

 

知の技法

知の技法

  • 発売日: 2019/03/08
  • メディア: Kindle版
 

 

いつかこのブログに書いたことがあったかもしれないが、このまま勉強をしなければこれ以上賢くなることなく歳を重ねることになるのかと思うときがたまにある。そう思うたびに、何か勉強をしなければと本を読んだりするのだが、そうすると今度は『こうして得た(つもりになっている)知識はいつ使うのか? 勉強をしてもそれを使う場面がなければ何の意味があるのか?』みたいなことが頭に浮かんでしまう。大学を卒業してしまうとそういった知識を使う実践の場面はもう自分で設定するしかなくて、やっぱり手に入れたもの(知識)で遊びたいと思うから、何か面白いことできひんかなあと悶々としながらも全く浮かばない日々を過ごしている。

 

最近、スチュアート・ダイベックの「シカゴ育ち」を読んだ。

 

 

なんというか、土地の固有名詞が出てくるような海外小説は、その土地の風景描写が想像できそうでできない(中途半端に日本的な風景が混じったものが頭をよぎって完全に違うなとなってしまう)から、いまいち小説の世界に入り込めないところがある。っていう気になっていたのだが、じゃあ日本の小説を読んでいるときにはそんなにちゃんとその風景を想像しているのかと言われると、そういうわけでもない。じゃあこの海外小説を読んでいるときによく覚える違和感みたいなものは何によるものなのか。すんなり読めている人はどんな感じですんなり読めているのかと、分かりそうにもないことが気になる。それでもこの小説に収録されている掌編を集めた章である「夜鷹」のうちのひとつ「不眠症」は面白くて、夢遊病者がコーヒーに口をつけて夢から醒めてからの描写は身に迫る感じがあって、いいなあとうっとりしてしまった。

 

音楽はBES & ISSUGIの「BOOM BAP」をよく聴いている。

 


BES & ISSUGI - BOOM BAP (BLACK FILE exclusive MV “NEIGHBORHOOD”)

 

自分はヒップホップのカルチャーをよく知らないから、この曲に出てくる単語にも意味のよく分かっていないものが多々あるのだが、それでも言葉の意味が強く耳に入ってくる。ここでも

 

音と言葉と遊ぶ All Night Long

 

って歌詞が出てくるけれど、やっぱり遊びたいってことなんだと言いたくなる。それは旅行みたいなものとかもいいけれど、自分で学んだことや練習したことを発揮して試行錯誤するような遊びをしたい(いや、もちろん旅行もしたいんだけれど)。成長の中に未来があるというか。さらにはそれはもう自分で見つけて自分で楽しむしかねえと。響くけどマジ激ムズ。

曲の歌詞と現実の風景が繋がった瞬間のこと

最近フジファブリックの「茜色の夕日」を聴いた。

 


フジファブリック (Fujifabric) - 茜色の夕日(Akaneiro No Yuuhi)


自分は特にフジファブリックのファンというわけではなく、彼らの有名な曲をいくつか知ってはいるがアルバムをわざわざ聴いたりはしない、そんな程度である。そんな自分でもこの曲は好きで、時折思い出してはYouTubeでMVを見るといったことをこれまで繰り返してきた。そして先日、久しぶりにこの曲を聴いたときに、これまでも聴くたびにいい曲だなあと思っていたのだが、その日はこれまで以上になんだかしっくりきた感じがあった。特に一番最初の

 

茜色の夕日眺めてたら

少し思い出すものがありました

晴れた心の日曜日の朝

誰もいない道 歩いたこと


の部分がめちゃくちゃ良くて、イントロからこの部分までを何回もリピートしてしまうほどであった。「眺めてたらー」と伸ばすときに声が少し枯れるところや、「歩いたこと」の後にボーカルが顔を少し後ろに引っこめるところが良くて、そしてなにより、これまで特にひっかかることのなかったその部分の歌詞が言葉としてはっきりと耳に入ってきた。今まで気づいていなかったところの良さに気づいてからというもの、MVを何度も見返すだけでは飽き足らず、お風呂で頭を洗っているときにも脳内でその部分を再生してはいいなあと思ったりしていた。

 

そんな風に頭を洗いながら脳内で再生しているときにふと思い出すことがあって、それは何日か前に暇過ぎて山登りに行った日のことであった。それほど高くはない山を登りきったあと、登りと同じ道を辿って降りていたときに、それまで木々の影が落ちていた道の前方に光の差している部分が現れて、その光景が妙にクリアに目に映って印象に残り、爽快というか風通しの良い気分になったのだった。

 

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心が晴れていたから印象に残ったのか、その道が印象的で感動したから心が晴れたのかその順序は分からないが、なにせその光景を見た瞬間にはグッと来るものがあった。山に登りに行ったのは「茜色の夕日」の歌詞の通りではなくて土曜日の昼であり、共通しているのは誰もいない道という点だけだったのだが、共通点はそれだけであるにせよ、頭を洗いながら曲を脳内で再生しているときに日が差した山道の瞬間を思い出したのは本当に意識的ではなくて何気なくであったから、なにかこの二つの良いところが繋がるべくして繋がったように自分には思えた。


これまで感じていなかったものの良さが分かるようになったのは、そうなる前の自分から何かが変わったためだと考えてみると、「茜色の夕日」の冒頭の良さに気づいたのは、こんな風に誰もいない山道を登った経験を得たからこそのような気がしてくる。それに加えて、多分これまでにも自分の人生において、一人で何気なく歩いているときに心が晴れたような気分になった経験は何度かあったのだろうが、そんな場面を思い出そうとしても今は思い出せないことを考えてみると、山登りのその瞬間がある程度の鮮度をもって思い出されたのは「茜色の夕日」を聴いたからこそのような気がしている。どこからどこまでが自然な繋がりで、どこからが自分で意識的に繋げようとしているところなのかは難しいが、なにせ「茜色の夕日」のその部分が心に引っかかったのは山登りのその瞬間があったからであり、山登りのその瞬間が思い出されるほどの出来事になったのは「茜色の夕日」を折よく聴いたからであると今は思っている。さらには、最近はクラブミュージック的なものが流行しているのもあって、孤独な夜の時間のやるせなさや寂しさを歌ったものはいくつもあるが、こんなふうにポジティブな朝の一人の時間を歌ったものはあまりないような気がしていて、それが余計に流行りのカウンター的な働きとなって印象に残ったのかもしれない。

 

特別感動的な出来事があったとかではなくて、なんでもないんだけれど妙に印象に残っているみたいな瞬間が人それぞれにあるんだろうといったことを、ここ最近やたらと考えてしまう。そういった瞬間というのは何か芸術作品などの中で、あえて共感を狙って再現できるものではなくて、そういった共感させるとは別のところのもっと個人的なことを描写しようとして現れるものであり、それはあるあるじゃないところのあるあるというか、あるあるを書こうなんて微塵も思っていないところから通じるあるあるというか、受け手がそこから勝手に何かを感じるようにして思いもよらず他人に伝わるもののように思える。で、共感させるとは別のところとは書いたけれど、自分の場合も含めてそれを自分の中でとどめずに何かしらの形で外に公開するということは、そこには少なからず何か伝えたいものがあるからであり、そんな広くみんなに伝わるものとして書いていないにも関わらずそれが伝わったり、もしくは受け取ったりするからこそ、感動はより大きくなるのかもしれない。今回の自分の山登りのある瞬間と、フジファブリックの「茜色の夕日」のある歌詞の部分は、そういった狭い個人的なものどうしが共鳴したもののように、自分には勝手に思えたのだった。

 

自分はそんなものを求めて夜な夜な他人のブログを徘徊したりする。だからもっとみんな日記を書いてほしいし、誰か海外の人のブログを訳してほしいとかも思う。もっと言えば、一日一緒に行動した二人それぞれに、その日の日記を出来るだけ詳細に書いてもらって、二人の間で書かれることがどう違うかとかも比べてみたい。なにせ他人がそれぞれの生活において様々なものに対して何気なく向けている視線が気になる。そんな本、どっかにないですかね。

走りたいかもしれないけれど走る理由がない

チャットモンチーの「8cmのピンヒール」を聴く。

 

 

告白

告白

 

 

いい曲やなあと思う。ピンヒールを履いたら走りにくいのかそうでもないのかはよく分からないし、8cmのピンヒールが高いのか低いのかちょうどいいくらいなのかもよく分からんけど、駆けたくなるほどの恋なんですって。聴いてたら無性に全力で走りたくなってきた。同じチャットモンチーの「風吹けば恋」はそんなに好きじゃない。最後の「私の両足⤴︎」って上がって終わるのがなんか好きじゃない。途中まであんなにも勢いマシマシな感じやったのに最後にそんな変な感じの裏声で終わるんかいって思ってしまうからそんなに好きじゃない。でも「8cmのピンヒール」は最後まで高いテンションのまま歌い切ってくれるから好き。最後「ああああああ」って歌い切ってくれるから。全然違う。好きじゃないとかそんなことあんまり書かんでもいいかと思うとこもあるけど、書いてしまったから書いてしまったままにする。そういや自分はもう随分と全力で走っていない。全力どころか走っていない。走っているときってどんな感じだったっけ。最後に走ったのはいつだろうか。遅刻したら走る? 走るもなにも自転車通勤。めっちゃ漕ぐってだけ。幸いにも最近変なやつに追いかけられたとかもないし。自分は鬼ごっことかで、明らかに自分より速い友達に追いかけられると割とすぐに諦めるタイプであったから、自分よりも脚の速い変態に追いかけられたら、どうやって逃げ切ろうか、どうにか逃げ切れるだろうか。たとえ最終的には捕まってしまうとしても、最後の最後まで出来るだけ長い間逃げられるように捕まらないように全力で走り続けることはできるだろうか。脚の速い変態はタチが悪い。そもそも自分がどんなフォームで走ってたのかも忘れてしまったくらい走っていない。かといってこれまでの人生、ビデオなどで自分の走っているときのフォームを撮影して客観視したこともないけれど。そもそも走るという行為に対してフォームなんて言葉をそんなに使ったこともない。走り方。今の自分が走り出したときに出来るだけ変な走り方じゃないことを祈りたい。でも走り方を気にしている時点で全力で走れていない。全力で走りたいだけだから、走り方なんかはぶっちゃけどうでもいい。全力で走る、それ自体が目的である。とはいえ、全力で走るとなるとどこを走ればいいのだろうか。そもそも全力で走っている大人を町でそんなに見かけない。子どもが公園でとか、学生がグラウンドでとか、それぐらいの年齢の子が走るシチュエーションは自分の過去と照らし合わせて想像できるが、大人が全力で走るところは全く想像できない。オリンピックや全日本や吉本陸上ぐらい。イモトがワニに追いかけられてっていうのもあるか。そりゃあ、ワニに追いかけられたら全力で走るわな。でもこっちは全力で走る理由がないから、全力で走っても何してんの?ってなる。やっぱり何かに追われて逃げるとかじゃないと、全力で走る理由がないから走れない。大人が全力で走るにはどこで走ればいいんだ? 全力で走りたくなった大人はどこを走っているんだ?


そもそもそんなに全力で走りたいのか? 走りたいというわけではなくて、疲れたいというか。健康的に疲れたい。頭じゃなくて体で疲れたい。寝る前に今日も疲れたあってなって、布団に入ってすぐにスーッと寝てしまうぐらいの感じを久しく味わっていないから、それが欲しくて疲れたい。走りたいわけじゃないのかもしれないけれど、走りたいのかもしれなくもある。

 

 

この曲を聴いたり

 


カネコアヤノ 「とがる」

 

この動画の最後の方を見たりするとやっぱり走りたい気がするけど、多分このまま走らない。

2021年1月に読んだ本とか聴いた曲とか

1月は結構本を読んだ。

 

きことわ (新潮文庫)

きことわ (新潮文庫)

 

 

朝吹真理子の「きことわ」はとても丁寧な作品で良かった。この小説では現実と夢と過去の記憶が入り乱れながら話が進んでいくため、読んでいると自分の記憶は現実のものなのか夢のものなのか、正しいのかねじ曲げてしまっているのか、なんてことを考えてしまいそうになるのだが、ぶっちゃけそんなことはあんまりどうでもよくて、それ以上に読んでいると自分の感覚、特に触覚が刺激される感じがあって、その体験がものすごく面白かった。特に冒頭の永遠子が見ている夢の中で、貴子の目に入りそうになったまつ毛を取ってあげるシーンの描写が良すぎる。ゾクゾクする。読んでいると肌触りみたいなものがしてきて、それがとても柔らかい。「きこちゃん」、「とわちゃん」っていう二人の名前の語感もなんだか心地良くて、呼び合うときの呼気が感じられる。そんな風に感覚を優しく刺激されるような文章でもって、現実と夢と記憶の曖昧さについて書かれているから、まさに自分が眠っている間に夢を見ているときに感じる、実際には何も触れていないし聞こえてもいないのに、実感としてはあるといったあの不思議な感覚に近いものを読んでいると味わうことができる。

 

火星年代記 (ハヤカワ文庫SF)

火星年代記 (ハヤカワ文庫SF)

 

 

レイ・ブラッドベリの「火星年代記」は個別に感想を書いたのだけれど、これまた面白かった。

 

www.gissha.com

 

「確かに美しい町だね」隊長はうなずいた。

「それだけではありません。ええ、かれらの町は美しいですとも。かれらは、芸術と生活をまぜあわせるすべを心得ていました。アメリカでは、芸術と生活とは、いつも別物でしょう。芸術は、二階のいかれた息子の部屋にあるものなんです。芸術は、せいぜい、日曜日に、宗教といっしょに服用するものなんです。しかし、火星人は、芸術を、宗教を、すべてを持っていました」 p136

 

作中に出てくるこの言葉は、レイ・ブラッドベリにとっての芸術のあり方の理想なのかは分からないが、これに近いことは色んな人が言っているよなあと思う。

 

57577.hatenadiary.com

 

二階から階段を上りはじめた私が、階段の先でふたたび二階にたどり着くこと。そのとき私は「かつていた二階」と「たどり着いた二階」のふたつを同じ平面で生きはじめることになる。作品がこれら「ふたつの二階」を取り結ぶ階段でないなら、どれほど魅力的な行き先が示されたにせよ、私は結局どこへも抜け出せず、行き止まりで階段を引き返してくるしかない。

 

(我妻俊樹 56577 Bad Request 「たどり着いた二階」)

 

小説の自由 (中公文庫)

小説の自由 (中公文庫)

  • 作者:保坂和志
  • 発売日: 2012/12/19
  • メディア: Kindle版
 

 

小説の想像力とは、犯罪者の内面で起こったことを逐一トレースすることではなく、現実から逃避したり息抜きしたりするための空想や妄想でもなく、日常と地続きの思考からは絶対に理解できない断絶や飛躍を持った想像力のことで、それがなければ文学なしに生きる人生が相対化されることはない。

 

(保坂和志 「小説の自由」 p298)

 

この二つも「火星年代記」の引用した部分と、全く同じではないにしてもそう遠くはないことを言っているような気がする。どんなに面白い作品であっても、その作品が現実に繋がっておらず独立した世界を立ち上げているのであれば、それは現実逃避以外のなにものでもなく、その世界から帰ってきたわたしたちはただただ今まで通りの現実に直面して、その作品世界との対比から読む前よりも息苦しさを感じてしまうことになる。あるべき芸術の力とは、日常の思考からは離れながらも(二階から階段を上がりながらも)、その道中で身につけた新たな価値観やものの見方が現実世界に繋がっている(新たな二階へとたどり着く)必要がある。その作品に触れたおかげで、帰ってきた現実は、同じ現実でありながらも今までとは違う現実になっているといったような。とはいえ難しいよな。

 

はじめての沖縄 (よりみちパン! セ)

はじめての沖縄 (よりみちパン! セ)

  • 作者:岸政彦
  • 発売日: 2018/05/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

岸政彦の「はじめての沖縄」は、沖縄のガイドブックなどではなくて、沖縄の歴史を辿りながら、その構造に迫っていくといった本。沖縄のタクシーの運転手に関して書かれている部分を読んで、自分の中学時代、修学旅行で沖縄のタクシーに乗ったときに運転手のおじちゃんからスニッカーズをもらったことを思い出した。おそらくそのおじちゃんはダッシュボードの中にスニッカーズを常備しており、ただでさえ暑い沖縄の、その車の中はもっと暑いだろうから、手渡されたスニッカーズの表面はチョコがドロドロに溶けていて、中はネチョネチョでものすごいことになってた。おじちゃんは溶けていることなんて全く気にしていない様子であったが、わたしは食べている間に溶けてカップの底に液状に溜まったアイスにすらちょっと嫌な気分になるタイプであり、『あんまチョコを車の中に入れとかへんやろ…』と心の中で思わずにはいられず、そのスニッカーズも結局開けたけれど食べなかった気がする。まあそんな思い出話は置いておいて、

 

(中略)私たちは「単純に正しくなれない」のだ、という事実には、沖縄を考えて、それについて語るうえで、なんども立ち戻ったほうがよい。 p242

 

といった考えは肝に銘じておくべきであるし、これは沖縄のことだけでなく、あらゆる物事について考える際に重要なことのように思える。自分の立場とそれに対峙する立場のそのどちらもが、単純にどちらかが正しいとは言い切れない。そんなことは頭で分かっておきながら、いざそうするのはこれまた難しいけれども。

 

ネットの記事ではtofubeatsとミツメの川辺素の激長対談が面白かった。

 

fnmnl.tv

 

読んでいて音楽的なことは全く分からないのだけれど、川辺素の歌詞に対する考え方が特に面白かった。

 

川辺 - (中略)コラージュ的な、何の変哲も無いものが同じ空間に合わさると、急に意味分からなくなるようなことが好きだったりするので。出来るだけプレーンな言葉を使いつつも。

 

tofubeats - プレーンな言葉を使うことは意識してるんですね。

 

川辺 - そうですね。あんまり言葉一つで意味を持ちすぎてることが嫌で。だから歌詞の中に「渋谷」とか入れたくないんですよ。

 

tofubeats - あー、それは確かに分からないでもないですね。

 

川辺 - いつ読んでも大丈夫っていうのは極論を言うと無理なんですけど。どうしてもこの時代に生きてる感覚になるので。でも出来るだけ、100年後とか200年後に聴いてもなんとなく分かるぐらいの感覚が良いなって。

 

tofubeats - タイムレスな感じって、超意識してやってるんですね。それはめっちゃ面白いです。

 

わたしはどちらかと言うと、小沢健二とかandymoriみたいな、歌詞にゴリゴリの固有名詞が出てくる人たちが結構好きで、固有名詞が入っているとその時代感、まさに今を歌っている感じというか、自分の暮らしや人生に近いところを歌っている感じがして感情移入しやすい。そんな曲の例として、フッと頭に浮かんだスピッツの「Na・de・Na・deボーイ」でも「明大前で乗り換えて街に出たよ」という歌詞の部分で一気に曲の世界に入り込める感がある(明大前で乗り換えたことはないけれど)。でもそうすると、tofubeatsや川辺が言うように、言葉の意味が限定されてタイムレスな感じが出ないのも分かる。オザケンの「LIFE」とかは、色褪せない名盤だと思うが、時代を感じはするし(この二つは厳密には意味的に両立するのか...)。ただ、川辺の言うプレーンな歌詞にすると心情の吐露が難しいっていうのも、聴いている側としてはめちゃくちゃ分かる。言葉がシンプルな分、具体的なイメージがつかみにくいし、ブルースみたいなものも感じにくい気がする。でもミツメみたいな、世界と一定の距離を保っているような歌詞の曲は曲で、自分の気分がその歌詞の距離感とちょうど合うときがあって、そのときに聴くとなんとも言えないぐらい胸にジーンと来る。

 


ミツメ - 天気予報 @ mitsume plays "A Long Day"

 

ミツメの「天気予報」とか、めちゃくちゃハマる日があって、その日に聴くとカッコ良すぎて何回もリピートしてしまう。淡々と進んでいくこの感じ。ベースが特に良い。

 

音楽では最近、YUKIの「WAGON」をやたらと聴いてしまいます。

 

 

特にライブ版が良くて、joyのツアーDVDに収録されている「WAGON」を見まくっている。

 

ユキライブ YUKI TOUR “joy” 2005年5月20日 日本武道館 [DVD]

ユキライブ YUKI TOUR “joy” 2005年5月20日 日本武道館 [DVD]

  • アーティスト:YUKI
  • 発売日: 2006/01/25
  • メディア: DVD
 

 

ライブ版の「WAGON」は、歌にも演奏にもパワーがこもっていて、聴くと問答無用にエネルギーをぶち込まれる感じがして最高である。YUKIすごい。ちなみにこのライブDVD、途中で『まだ歌わんの?』ってぐらい長めのMCが入っていて、そこで2005年ってインリン・オブ・ジョイトイがまだまだМ字開脚してたころかと知ることができます。ついでにFM802で土曜日に放送されていたチャートトップ20に「joy」が一生ランクインしていたことも思い出す。そんな感じで1月が終わりそう。

中学生でもあるまいし『この曲サビないやん』とかはもう思わない

家にいる時間が多くなると自然とネットサーフィンにかける時間も増えてしまい、その結果、ずっと欲しかった本などをポチポチと購入してしまいました。

 

いつものはなし

いつものはなし

 

 

「不思議というには地味な話」が新版として復活したため、こちらも絶版のところを復刊してくれないもんかと待っていましたが、ついに堪えきれずに買ってしまいました。近藤聡乃の描く線の柔らかさが好きすぎて、肘とか親指の付け根の膨らんでるところとかの描き方を眺めているとたまらない気持ちになってきます。この本に収録されている話には、昔のことを不意に思い出したけれど、その思い出したことは果たして本当に記憶通りだったっけ?といったものが多い。

 

思い出してはみたものの、本当のことかわかりません

楽しかったはずなのに、なんだかとてもあいまいです

いつもいつも私はこんなことばかりしている気がします

 

昔懐かしい夢を見たけれど、その日の午後にはそれがどんな内容だったのかを忘れてしまい、思い出そうとしても全く出てこない。そして、そんな忘れてしまった夢を思い出そうとしたことそれ自体も次の日には忘れてしまっている。でも、そんな風にして忘れてしまうのはなにも夢ばかりではなくて、現実の出来事だって同じなのかもしれない。この本にはそのようななんとも言えない独特の浮遊感がある。わたしゃあ最近、高校時代のことを思い出していると、そこに大学生になってからの友達がいたような気がしてくることがちょいちょい増えてきた。その度に、学校の友達全員が今までの仲の良い友達であるオールスター版の高校生活を過ごしてみたいと思ってしまう。手塚治虫ばりのスターシステム。絶対に楽しいはず...はず...はず...

 

新装版 茄子 上 (アフタヌーンKC)

新装版 茄子 上 (アフタヌーンKC)

  • 作者:黒田 硫黄
  • 発売日: 2009/01/23
  • メディア: コミック
 

 

新装版 茄子 下 (アフタヌーンKC)

新装版 茄子 下 (アフタヌーンKC)

  • 作者:黒田 硫黄
  • 発売日: 2009/02/23
  • メディア: コミック
 

 

黒田硫黄の「茄子」は宇多川八寸さんのnoteを見て知った。

 

note.com

 

こちらの漫画も絶版しており、コロナ禍以前にあちこち古本屋を巡って探したのだが、そもそも黒田硫黄の漫画が古本屋には全然置かれていなかった。あったとしてもアップルシードぐらいだった。ほんで京都国際マンガミュージアムの所蔵を調べてみたところ、どうやらここにはあるぞとなった矢先、コロナ禍で営業休止(今はやってます)。っていうことでネットで買ってしまいました。この漫画は何かストーリーがあるといったものではなく、生きている時間そのものを描いていて、読んでいると湿気みたいなものがすごく感じられる。そして、結構読むのに疲れました。でもこの疲れたっていうのは、一般的にマイナスの意味に捉えられるかもしれないけれど、決してそうではなくて、普通のストーリーのある漫画じゃあ省かれるような部分もいちいち描いてくれているからこそ抱いた印象なのだと思う。まあそれが逆に漫画にはストーリーがあるものだ、それが当たり前だと思っている人にとっては「それで何が言いたいん?」みたいに思えてきて、読んでいてストレスを感じる要因になりうるのだろうとも思います。音楽とかでも抑揚の少ない曲を聴いて『サビないやん』とか思う人にはこの漫画は向いてないと思います。でもわたしにとっては、この漫画の、夜の台所の前に立って歯磨きをしながら独り言を言う瞬間だとか、寝る前にホテルのベッドのサイドテーブルに眼鏡を置いて目を細める瞬間だとか、そういったいちいち描いてくれている瞬間が妙によくて、自分の生きている現実世界のある瞬間にまで繋がってくるような感覚を覚えるのです。『おれの人生にもそんな瞬間たまにあるわ』って、そう思えただけでなんであんなにも感動してしまうんでしょうね。っていうか茄子って美味しいよね。茄子自体にそんなに味はないけれど、煮びたしとかみたいにめちゃくちゃ調味料とかダシを吸うじゃないですか。そこがいいですよね。茄子の味噌炒め、簡単で美味しいので結構な頻度で作ってしまいます。

  

小説の自由 (中公文庫)

小説の自由 (中公文庫)

  • 作者:保坂和志
  • 発売日: 2012/12/19
  • メディア: Kindle版
 

 

「小説の自由」は、保坂和志が小説について考えたことを書いたシリーズのひとつ。続編の「小説の誕生」を先に読んで面白かったので買いました。面白いんだけれど、この本も読むのに体力を使うので、ちょっとずつ読んでいます。そうすると、反動としてサクッと読める本も欲しくなってきて、それには何かしら対談している本がいいなと思い、詩人の谷川俊太郎と歌人の岡野大嗣、木下龍也による連詩とその感想戦が収録された「今日は誰にも愛されたかった」を買った。

 

今日は誰にも愛されたかった(1200円+税、ナナロク社)

今日は誰にも愛されたかった(1200円+税、ナナロク社)

 

 

感想戦において谷川俊太郎が、対談の進行役を務めるナナロク社編集部の方からの、自身の作った詩に対するやや深読みをした質問に対して、否定するときはスパッと否定していたのが面白かった。ある作品に対して過剰に意味やメッセージを見出そうとするのはどうかと思うときもあるけれど、確かに自分の読み方はあっているんだろうかといったことは気になるもんなあ。そして谷川俊太郎の生み出した「詩骨(しぼね)」という言葉にグッとくる。なにかしらの出来事をなんでもストーリーに組み込んでドラマチックなオチを作り同情させるといった世間の流れに逆らって、どれだけ自分の見方、姿勢を保ち続けられるか。そんな分かりやすいように脚色されたドラマによって隠された、かき消された本当に大事な細部に気づくことができるのか。テーマは脱ストーリー、ドラマ化かもしれない。

 

ほんで夏ということで、ある日急にクレイジーケンバンドの「ガールフレンド」を思い出し、それ以来めちゃくちゃ聴いている。

 


クレイジーケンバンド / ガールフレンド

 

クレイジーケンバンドはね、歌詞のフレーズが魅力的なんです。ガールフレンドの「ってなわけでね」とか「中学生でもあっるっまいにっ!」とか。「中学生でもあっるっまいにっ!」のほうは、この曲を知ってる人相手には積極的に使っていきたいほど。

 

「中学生でもあっるっまいにっ!」、自分が中学生くらいのころに聴いていたアナログフィッシュとシャカラビッツのMVがYouTubeに上げられているのを発見して、テンションが上がった。

 


Analogfish - 夕暮れ

 


[SHAKALABBITS] "Ladybug" Full Ver. [Music Video]

 

シャカラビッツの「Ladybug」なんて、ガラケーの着うたにしておりましたから、大変懐かしい気持ちでございます。そういえばこの前、カウントダウンTVにロードオブメジャーのボーカルの人が出演していたらしいですね。こっちもめちゃくちゃ懐かしい。そんなにファンでもなかったけれど、中学ぐらいのときにベスト盤だけは聴いていました。

 

GOLDEN ROAD~BEST~

GOLDEN ROAD~BEST~

 

 

個人的に「スコール」が好きでした。

 

 

こういう風にして、懐かしい曲を一曲聴くと、連鎖反応的に当時よく聴いていた他の曲も聴きたくなってくる。シャカラビッツつながりで175Rの「空に唄えば」を思い出す。MDに入れてめちゃくちゃ聴いてたな。

 

 

曲の中で何度も訪れるサビの中でも、最後のサビだけハモるセンスよ。あそこにグッと来ていたもんよ。以前にも書いたことがあるけれど、小中学生のころのわたしは、曲のサビでは絶対にハモってほしい、ハモってくれななんか物足りんといった価値観をもっていた。

 

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抑揚が少なくて分かりやすく盛り上がるところのない曲を聴いては『サビないやん』と思ってました。くるりの「赤い電車」とかを聴いて『サビないやん』って思っていました。それが今じゃあもう中学生でもないんで、ハモリモセズ、サビデトクニモリアガリモセズ、そういう曲の良さもわたしは分かるようになりました。曲のサビ以外の部分でも好きなところを見つけられるようになりました。少しは成長したというか、世界の捉え方の枠が広くなった気がします。

なんでもない日にスーパー銭湯に行ってざるうどんをすする

ロンリーの「ぱらのいど」という曲が良すぎて、最近はずっとこれを聴いている。

 


ロンリー - ぱらのいど @ METEO NIGHT 2014 FINAL

 

投げやりじゃないけど投げやりっぽい歌い方。「あたまを振ってさあ~」からのドラムのドゥンドゥンに合わせて、最前列の客も手と首をブンブンと振る。さらにはそこからの「ぱらのいど~」の合唱の流れが最高。この曲は歌詞にも出てくる通り、Black Sabbathの「Paranoid」にインスパイアされているのであろう。Paranoidとは偏執症患者という意味であり、辞書を調べてみると偏執症とは「偏執的になり妄想がみられるが、その論理は一貫しており、行動・思考などの秩序が保たれているもの」と書かれている。一般的には自身でネガティブな妄想をして、それを現実のことだと信じ込んでしまうといった症状のようだ。とはいえロンリーの「ぱらのいど」は、曲名のひらがな表記からもうかがえるように、どちらかと言えば能天気な曲調。ここで「妄想」と「空想」の言葉の意味を手近の国語辞典で調べてみると、それぞれ以下のような意味であった。

 

妄想・・・①あり得ないことをあれこれ想像すること。また、その想像。

②根拠のない判断に基づき、事実や論理によっても訂正されることのない主観的な信念をつくりあげること。また、その信念。

 

空想・・・現実をはなれて、頭の中であれこれと想像すること。また、その想像物。

 

ロンリーのこの曲、聴けば分かると思うがどちらかと言えば内容は空想のほうである。実際、歌詞として

 

現実と空想の間に住んでる 

 

と出てくる。「現実と空想の間に住んでる」と聞くと、どうしても熊倉献の漫画「春と盆暗」を思い浮かべてしまう。

 

春と盆暗 (アフタヌーンコミックス)

春と盆暗 (アフタヌーンコミックス)

  • 作者:熊倉献
  • 発売日: 2017/01/23
  • メディア: Kindle版
 

 

この漫画に関しては下の記事にも書いたのだけれど、人間だれしもが現実の世界とは別に自分だけの空想の世界をもっていて、その二つの世界の間に住んでいることを感じさせてくれる作品。

 

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自分以外の人間も空想の世界をもっている、ただそんな事実が分かっただけなのに、なんだか自分だけじゃないんだと安心できるようになるのはなんでなんだろう。とはいえ、やはり閉じた世界での空想ではなく、そこに現実世界につながるというか、現実世界にまで貫通する何かがないと空想のエネルギーも吹き溜まってしまうように思える。

 

そしてなにより、この曲の冒頭の

 

なんでもない日に 久し振りに
友達と不意に スーパー銭湯行くのだ

 

っていう瞬間が最高だってことをわたしも知っている。「行くのだ」って語尾がもうね、いいよね。分かるもん、「行くのだ」って感じ。今日はもう行っちゃうのだって感じ。大学生のころ、飲み会の次の日にお酒が抜けきらない中、友達と昼間に「もう行っちゃうのだ」と行ったスーパー銭湯、あれは最高の時間だった。そのスーパー銭湯には、竹で編んだまくらが置かれてあって、お湯が浅くずっと流れていて寝転べる露天のスペースがあった。そこで寝転がっていると、お湯の暖かさと外気の涼しさがちょうどいいバランスで味わえて、このまま一生そこにいれるような気がしたものだった。一生いれるような気になっていたのはきっと自分だけではなくて、現に三つ並んでいた寝転がれるスペースには、わたし以外にもおっちゃんが二人いたのだが、わたしを含めた三人ともなかなかこのスペースから離れず、ずっと同じメンバーで占拠したままであった。おれたちはいま、同じ幸せを共有し合っている。そう思えるほどの見知らぬおっちゃん二人との一体感。多分おっちゃんも同じことを感じていたと思う。きっとそう。そうだよね?見知らぬおっちゃん。そして、そんな風に裸で寝転がってずっと空を眺めていると、なんだか空をちゃんと見たことってなかったなと思い始め、よくよく観察してみると雲が手前と奥の二段になっていて奥行きがあることを知ったのである。あんなに気持ちがいいと、公衆の面前で裸になるとそれは自分の快が他人の不快を誘発することになるから犯罪ですけれども、外で裸になることで得られる開放感を否定することはできないなって気分になってくるわけである。そんなことを考えながら、ときおり体を起こして友人はどこにいるのかと姿を探してみると、彼らも各々好きな露天風呂に入って浴槽のヘリに頭を預けて空を眺めていたり、もしくは目をつぶって深く染み入ったりしているではないか。ああ、ここはなんて平和で素晴らしい時間の流れる空間なんだ。そう思わずにはいられなかった。

スーパー銭湯を離れ、そのままの足で近くのうどん屋さんの暖簾をくぐる。迎えてくれた店員さんに、わざわざ座敷に座りたいことを伝えて案内してもらう。靴を脱ぎ、畳に敷かれた座布団の上に腰を下ろした瞬間に、横になりたい衝動に駆られる。自分がまだ子どもであったら、店内にもかかわらず完全に横になっていただろうよ。そう思うと、大人ってやつは全く肩身が狭いもんだ。注文を聞きに来た店員さんに、ざるうどんとミニカツ丼のセットを頼む。大学時代のある日のうどん屋で注文したものを未だに覚えているのは、このスーパー銭湯からうどん屋の流れはその後の大学生活でも何度か繰り返されることとなり、わたしはそのたびにこのセットばかりを注文していたからだ。わたしは未知のものよりも、すでに美味しいと分かっているものを選ぶ、そういった性質の人間なのです。そしてどこのうどん屋に行っても、そこにミニ丼セットがあるとそれを頼みたくなる人間なのです。店員さんが持って来てくれたお冷やを一気に飲み干すと、生き返るどころか、さっきまでいた天国のようなスーパー銭湯から、さらに天上に近づいたような気分になる。うどん屋のお冷やってなんであんなに美味しいのだろう。ラーメン屋のも美味しいな。ていうかお冷やって美味しいな。味なんてないはずやのに。

 

ってことで、そんなこんなでロンリーにハマってしまい、二枚目のアルバム「YAMIYO」を購入した。

 

 

アルバムタイトルが「YAMIYO(闇夜)」というだけあって、夜のある瞬間、ある場面を切り取った楽曲が多い。中でも「スケボー」がいい。こんなシンプルな楽曲でいいって、めっちゃカッコいい。

 

自由の尻尾につかまって

誰もいない夜の公園

安定剤よりあってる僕には

オレンジ色のライトにうつる影

 

夜に少しだけ感じることのできる何にも縛られていない自由な時間。完全に自由にはなれないけれど(完全な自由とは?)、この時間が好きだな、ずっと続けばいいのにな、と思える自由みたいなものを感じる時間が人生にはときおり訪れる。「sumahama」はやっぱりビーチボーイズにインスパイアされたのだろうか。同じタイトルの楽曲がビーチボーイズにもあるし、スティールパンによる南国感もビーチボーイズっぽい(ビーチボーイズのほうの「sumahama」はスティールパンの音は入っていないけれど)。ロンリーの楽曲にはコーラスが入っていることが多いのも、彼らの影響を少なからず受けてのことなのか。ビーチボーイズの「sumahama」と言えば、探偵ナイトスクープを思い出します。

 

rockokey.exblog.jp

 

「ぱらのいど」が収録されているファーストアルバム「ファーストオブ終わり」も聴きたいのだが、いまやどこにも売ってなさそうだし、配信もしていない。マジ、なんかどっかに落ちてないかな。ホンマに。