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ブックオフで古本を探す喜びと後ろめたさ、消費者としてのジレンマ

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お金がない大学生のころはブックオフに大変お世話になった。古本を買うことでお金を節約しながら、楽しい読書生活を送ることができた。そして、社会人となった今、新品で本を買うのに必要なお金はもう十分に持っているのに、なんやかんやでブックオフに行ってしまう。大学生のころに培った貧乏性がまだまだ根強くわたしを支配している。

 

ブックオフの何がいいって、安いだけではないところなのだよ。例えば、欲しい本があったとする。ジュンク堂などの大型書店ではホームページで在庫を検索することができるため、欲しい本が置いてある店舗へピンポイントで買いに行くことができる。一方、ブックオフには在庫検索がない。この点が不便なことと思いきや、わたしにとっては在庫検索できないからこそブックオフで買いたくなるのだ。欲しい本があると分かっていて、そのお店に行ってすぐに手に入れるのは、なんだか興が冷める。しかし、ブックオフでは欲しい本が売られているか売られていないかが分からない。だから、買いに行っても無駄足になる可能性がある。けれども、欲しい本があったときの、あの出会えた感。『あるやん!』という喜び。これは新品の本を買いに行ったのでは、味わえないものなのだ。古本を買いに行って出会えたとき、新品で買う以上の喜びがわたしの胸を満たす。だから、ブックオフでは必死に探してしまう。お店に入った時点で、『まだ見ぬわたしが求めし本よ、そなたはこの店舗にいるのであろうか』というワクワク感がある。エンテイ、ライコウ、スイクンを追いかけてるときに近い感情。ポケモン銀バージョンでは一回も遭遇せんかったけど。そして、たまにブックオフをはしごしてしまう。この店にはなかったけど、あっちの店にはあるかもなあと思って、一日に何店舗か回ってしまう。交通費で新品買えるんちゃうかってときもある。本末転倒。あとは、ブックオフを熟成、寝かせるときもある。最近あの店行ったから、今日行ってもまだラインナップ変わってないやろな、あっちは全然行ってないから新しい本が見つかるかもしれん、などと思いながら。

 

ただ、ブックオフの店員さんには色々思うことがある。サンドウィッチマンのネタにあるように「いらっしゃいませ」の誘爆は確かにうるさい。なんやあの連鎖反応。そして、わたしが棚を見て本を探しているにも関わらず、割と強引に間に入ってきて本の整理を始める。いや、今探してるやん。身体入れてくんなよ。フィジカル長友か。そして、結構無理やりに本を棚に詰め込む。いやね、安い値段で古本を買ってる身分で偉そうなこと言えんけど、もうちょっと丁寧に扱ってよ。本の背表紙の角とか折れんように気を付けてよ。そこ折れてたら気になるんよ。

 

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この部分

 

さらにCDの棚も中々に整理できていない。アーティスト名とアルバム名はごちゃごちゃになっているし、英語表記の邦楽アーティストが洋楽の棚に分類されていることも多々ある。Jポップのところに落語が置いてあるときもあるしね。まあでもこの点に関しては、だからこそ逆に欲しいCDが該当する棚になかったとしても、他の場所にあるんじゃないかとワクワクしながら探すことができるということもあるが。探し甲斐がありますわ。なんなら棚の分類、整理がしたくなってくる。わたしがブックオフの店員になれば、棚の分類の即戦力になれる自信が割とある。

 

ブックオフの不満点をいくつか並べたけれども、ただやっぱり、ブックオフはお店に入りやすいっていうのがある。町にある古本屋に入るときは、少し緊張する。町の古本屋の店主は本好きであろうから、なんか試されてる気がして少し気が引けるのだ。そして、お店も狭いから本を探している様子が見られている気がするし。その点ブックオフは、店員がそれほど本を大事に扱っている感じはないし(大事にしている店員さんももちろんいらっしゃると思います。失礼な発言でしたらすみません)、チェーン店だから気軽に本を見れるのだ。なんなら自分は、ご飯を食べるときの店選びもチェーン店派な気質である。チェーン店はどこの店舗に行っても、サービスの質がだいたいこれぐらいであろうと予測できるから安心するのだ。だから、なんやかんや言ったけれどもいつもお世話になっております、ブックオフさん。今後ともお付き合いをよろしくお願いします。

 

あと、ブックオフとハードオフって全くの別物なんだね。デザインが似てるから、大元の運営会社は一緒だと思い込んでいた。まあまあの衝撃。

 

とはいえ、本の電子書籍化やフリマアプリの台頭によってブックオフの経営は難しくなっているようだ。

 

biz-journal.jp

 

www.kawahanashobo.com

 

まあ、そもそも古本に関しては賛否両論の声がある。作家からしてみれば、自分の書いた本が古本として転売を繰り返され、自分の手元にはお金が入ってこないといった問題がある。しかし一方で、古本屋という土壌があるおかげで、お金のない人でも本を読む喜びを享受することができる。そして、こういう問題が取り上げる際には、お金を払って読むほどの価値のある本が果たしてどれだけ存在しているのかといった、辛辣な意見が挙げられることもある。でも、やっぱり消費者サイドからすれば、そりゃ安く手に入るほうに行ってしまうことは仕方がないことでもある。そして今の時代、人気作家の本は発売されて少し経てば、ブックオフで新品を買うよりも安く手に入ってしまうのである。こうなってしまえばもう、新品の本を買うということが、"あえて"新品を買うことで作家に貢献するといったふうに、なにか倒錯した行為のように感じてしまうこともある。

 

 

多少、お金を稼げるようになった今、作家さんに恩返しの意味も込めて新品の本を買いたいと思う。しかし、貧乏性が抜けきっていないというのも事実・・・。古本を買うことで、回り回って消費者である自分の首を絞めているような気がしないでもないが・・・。

神様、わたしのことをちゃんと見てくれていますか?(穂村弘「整形前夜」)

整形前夜 (講談社文庫)

整形前夜 (講談社文庫)

 

 

歌人の穂村弘によるエッセイ。周囲の人を眺めてみると、自分はなんだかイケてないような気がする。そんなイケてないような気がする自身の日常から生まれてくるアレコレ、冴えない自分と世界との関係について書かれている。

 

 

自意識が強くてがんじがらめ

 

穂村さんは自分自身のことを自意識が過剰であると言っている。そのせいで、周りの目が気になって色んな事に踏み出せなかったり、自分だけが物事を上手く勧められていないのではないかなどと考えすぎている。そんな穂村さんのエピソード、読めば誰しもがいくつかのエピソードに共感できるのではないか。美容室に行って見せた写真と全然違う髪型になっているのにそのことを美容師さんに言い出せないこと、中学生のころ自意識が強すぎて写真を撮られるのが嫌だったこと、オシャレな洋服屋に入るのにためらってしまうこと。他者の目線が気になって動けない、要するに自分が傷つきたくない、自分のことが可愛くて仕方がないという感情。この感じは、わたしも分かる。

 

そして、そんな自分をそれでもいっかと思いながら、いや正確にはそれでもいいかとは思わないけど、変わろうとも思わないくらいの感じで生きていく感じ。好きな人にそのままでいいよと言われれば、そうだよねと納得し、変わったほうがいいよと言われれば、そうかなあと思って変わろうとはしないぐらいの感じ。そのままの方が優勢な感じ。まあこれは穂村さんじゃなくて、わたしの場合だけれども。

 

そして穂村さんは、そんな世間の目に縛られているイケていない自分と比較して、社会から逸脱した人物に憧れている。そして、日常の中にある非日常への扉を求めている。今の自分の人生とは違う、もっと素晴らしいもう一つの人生があるんじゃないかと。大学の新しいクラスメートが大きな法螺貝を首からぶら下げていることにワクワクしたり、社会の価値観である「生きのびる」とは反する「生きる」ということが見え隠れするレイモンド・チャンドラーの小説に感動したり。自分の人生が劇的に変わるんじゃないか、そんな予感を感じさせてくれる出来事を必死に探しながら生きている穂村さんの姿は、愛おしくもあり、まるで自分の姿を見ているようでもある。

  

 

大人と子ども、「共感」と「驚異」

 

そんな息苦しい世間の目、ひいては社会という枠組みを、まだうまく認識できていなかった子どものころのエピソードも多い。

 

クロールが出来ないのに水泳大会の自由形の選手に選ばれたときの絶望感。図書館の本をなくしてしまって学校を燃やしてしまおうとしたこと。子どもの世界では、現実内体験の少なさから、些細なことがすぐに絶体絶命につながってしまうと穂村さんは言う。確かに小学生にとっての世界とは、ほとんど家族と小学校に関わる人物が全てになるだろう。そんな狭い世界の中で、勉強も食事も交友関係も娯楽も全て完結してしまう。だからこそ、校区外に出ることは本当に悪いことだと思っていたし、たまに連れて行ってもらう遊園地などはとても楽しかった。大人になった今では些細なことのように思える出来事が、子どものころにはとても大きな出来事であった。

 

こういった子どものころの絶望的な体験を覚えながら生きている人は、果たしてどれぐらいいるのだろうか。こういう体験を覚えているのは、大人になって子どもと接するときにとても大事なことのように思えるのだけれど。大人にとっては些細なことでも、子どもにとっては一大事。そこをないがしろにしてしまうと、子どもからこの人は何も分かってくれないと信用されなくなってしまう。

 

そして、歌人の山田航が「世界中が夕焼け」において"穂村さんのエッセイは全て、穂村さんの短歌の注釈である"と言っていたように、このようなエッセイに書かれている子どものころの世界の狭い感覚を次の短歌で表現している。

 

校庭の地ならし用のローラーに座れば世界中が夕焼け

 

www.gissha.com

 

 

そして、そんな大人と若者の感受性の違いを、「共感」と「驚異」という言葉で穂村さんは説明している。

 

 若い表現者が「驚異」を求める心の底には、今自分がいる世界への強い違和感や反発心があるのだろう。この世界の全てと引き替えにしても未知の価値を得たい、という欲求はそこから立ち上がってくる。

(中略)

 年をとった人間はそうはいかない。加齢とともに過去は重くなり、未来の時間は少なくなる。だから今までに得たものの意味や価値を信じたい、という気持ちが強くなる。それが世界や他者や歴史への「共感」に結びつくのではないか。 p109 

 

大人になり失うものが増えるにつれて、我々は保守的になる。年寄りが伝統を大事にするのは、伝統を失うということが、これまで伝統に沿って生きてきた自分の人生を否定することにつながるからだ。保守的になるのは仕方のないことかもしれない。だが、いつでも世界を更新するのは、未知の「驚異」を求める姿勢にあるということを忘れてはならない。そして、詩や短歌は未知のものを求める「驚異」の側面が大きいために、読んでもよく分からない、理解できないということが多いと穂村さんは言う。

 

大人になるって色んな事を知って世界が広がっていくようで、実はその逆、知っていることが増えていくことで未知のものが少なくなり、それゆえに退屈になってゆくんじゃなかろうか。子どものころの好奇心はどこに行った。あれはなんだった。世界の限界が見えてしまっているような気がして仕方がない。いや、見えたような気になっているだけなのか。

 

 

世界に対する手ごたえの無さ

 

穂村さんは常に世界に対する手ごたえの無さを感じている。例えば、中学生時代のエピソードである「トマジュー」。

 

 卓球好きじゃないのに見栄だけで卓球部に入ったこと。

 白い短パンが許されないこと。

 勝ちを譲れと云われたこと。

 譲るまでもなくぼろ負けだったこと。

 ジュースで個性を出そうとしたこと。

 そいつがトマジューだったこと。

 思わず云い訳をしてしまったこと。

 その内容が意味不明だったこと。

 でも「ふーん」で済まされてしまったこと。

 全てが駄目。

 でも、そのせいで命が奪われるようなことは何ひとつない。

 この手ごたえのなさはなんだろう。 

 

 p83

 

中学生にしてこの虚無感は早熟であるとは思うが、だれもが抱いたことがあるであろう、このなんとなくで生きている感じ。何かに熱中したいけれど、どうしたらいいのか分からない。何をしても空振りしているような。これは石黒正数の名作、「ネムルバカ」でも表現されていることだ。

 

ネムルバカ (リュウコミックス)

ネムルバカ (リュウコミックス)

 

 

これから先の人生、ずっとこんな空振りの日々が続くのだろうか。果たしてそんな日々に生きる意味とは、自分が自分である意味とはあるのだろうか。日常生活を過ごしている間は忘れているが、ふとした時に顔を出すこの感情。わたしはこの「トマジュー」が好きすぎて、いつでも読めるように全文をスマホのメモに書き写してしまった。

 

そして、1986年に連作の「シンジケート」が第32回角川短歌賞次席となった後のエピソードである「はじめての本」。

 

 おかしい、と思う。「みてるひとはちゃんとみてる」んじゃなかったのか。一体、どうしたんだ。おーい、「みてるひと」、僕はここだよ。 p47

 

自分の作品が角川短歌賞次席となったにも関わらず、執筆依頼の手紙も来ず、なにも変わらない日々。このときの様子はこのページにも書かれている。

 

www.yomiuri.co.jp

 

神様、ちゃんとわたしの存在、認識していますよね?努力は報われるって、みてる人はみてるって聞いたはずなんだけど。何をしても報われない日々。このまま世界に対して、自分はなんの爪痕も残さずに死んでいくのだろうか。こういった感情はものすごく共感できる。穂村さんに関しては、連作の「シンジケート」が角川短歌賞次席となったうえでのこの感情であるが、何も成し遂げていなくとも本当の自分はもっとすごいはずなんだ、どこかになにかの才能があるはずなんだと、日々悶々としながら生きている人もいるのではないだろうか。いや、正確には別にすごくなくてもいいから、圧倒的に誰かに自分を分かってほしいという気持ちかもしれない。自分のことをだれかに認めてほしい、自分を必要としてほしい、だれかの人生にとって欠かせない存在でいたいという気持ち。

 

 

 

穂村さんのエッセイを読むと、ダメな自分を見ているようでそんな自分をどうにかしなくてはと思うと同時に、そんな穂村さんの様子が愛おしくてこのままでもいいかと思ってしまったりする。もちろんシリアスなエッセイばかりではなく、いやそれは気にしすぎだろうというような笑えるものもたくさんある。そして、穂村さんのエッセイを入り口として、平凡な日常の裂け目を見つけるために、短歌を楽しむのも良いのではないだろうか。

 

 

この本を読んだら、アナログフィッシュの「Hello」を思い出した。

 

 

 

保坂和志とか柴崎友香とか長嶋有を芋づる式に読んでいく

月曜から金曜までの会社に通わなければならない曜日には、今度の土日は絶対に有効活用しよう、一週間のうちの限られた休日なんだからと思う。けれども、いざ土曜日が来ると、まず昼前まで寝てしまう。寝ちゃうよね。そして、あっちゅう間に休日が終わる。セイセイセイ。ちょっと待ってくれよと。5日働いて2日しか休みないって、割に合ってないって。最初に言いだしたんどなた?もっと休もうよ。

 

あと、テレビや雑誌などのアンケート。20代男性や40代女性などの意見として発表されるアンケート結果。果たして自分は死ぬまでに一回でもそういうアンケートを受けることがあるのだろうか。自分の生きている世界なのに、自分の意見が全く反映されていない世界とは。頼んますよホンマ。アンケートしてくださいよ、わたしに。いざされたら、怪しく思って断ると思うけど。そして、ラジオとかにメッセージを送って読んでもらえたときの、あの、世の中に承認された感。素直に嬉しいよね。おいおい、マーキーが自分のメッセージを読んでいるよ。ありがとうマーキー。でもメッセージを読むだけで、リクエストした曲を流してくれはしないんだねマーキー。いや、読んでくれただけでもめちゃくちゃうれしいけど。そして、わたしの中でなんとなくマーキーは眼鏡をかけているだろうと思っていたけれど、実際は全然違っていた。思っていたマーキー像と違う。もうちょいタージンみたいな感じをイメージしていた。勝手に。

 

話は変わって、好きなアーティスト同士のコラボっていいよね、当たり前だけど。

 


Private Eyes - Mayer Hawthorne, Daryl Hall, Booker T, Live From Daryl's House

 

Mayer HawthorneがDaryl Hallと「Private Eyes」を歌っているなんて知らなかったぜ。うーん、いい曲や。Hallは年をとってもめちゃくちゃ歌がうまいね。渋いぜ。Mayer Hawthorneの赤いサングラスも、程よくチープかつポップな感じがしていて似合っている。でもそれ以上に、おそらくサッカーファンであるドラムの人の顔が癖になって仕方がない。気になる顔をしている。

 

Mayer Hawthorneはこの曲もいい。

 


Mayer Hawthorne - No Strings

 

Hall & Oatesならこの曲が好きです。

 


Daryl Hall & John Oates - Rich Girl (Audio)

 

小説でも、好きな作家の作品のあとがきに解説を書いている作家を読んでいくことで、芋づる式に自分の好きな作家を見つけることができる。保坂和志に柴崎友香、長嶋有、堀江敏幸など。保坂和志の「季節の記憶」は、なんか読んでるときに脳が活性化しているような感じがして、すごく面白かった。

 

季節の記憶 (中公文庫)

季節の記憶 (中公文庫)

 

 

今の若者は本を読まないと言われているけれど、そりゃそうやろとも思う。この本というものが小説のことなのか哲学書のことなのか教養に関する本のことなのかは分からないけれど、基本的に小説は社会とは異なった価値観を提示する。社会は効率的で役に立つもの、簡単にいえばお金になるものに価値の重きが置かれる。学校教育でも個性を伸ばそうとは言われているけれど、結局はみんなが同じように勉強をして同じように進学していく。そのほうが教える側は効率的であるし、入社してからも言うことを聞いて真面目に働くサラリーマンになるからだ。でも小説は違うからね。そんな価値観の社会に慣らされていたら小説に価値を見出せない子だっているでしょうよ。だからこそ小説を読むことで救われることもあれば、小説の世界と自分が生きている社会の違いが浮き彫りになって、読む前よりも息苦しさを感じるようになることもある。大人は本を読む子を褒めるけれど、子どもが本の内容のように生きるのは嫌がる。小説を読んでいたら会社なんか辞めたくなるからね。読まんくても辞めたいのに。

 

本を読むって気分に左右されるよね。めっちゃ読める時期と全然読む気が起きない時期。本を読んだって、人生大して変わらんなあみたいな時期がたまに来る。それは別に本が悪いわけじゃなくて、行動しない自分のせいなんだけれども。

 


SUNNY CAR WASH - ティーンエイジブルース

 

 この曲の

 

世界を変えられない僕を 世界も変えられはしないだろう 

 

って歌詞には喰らいました。すごい分かる、この感覚。結局いつまで経っても受け身の人生を送っている自分が悪いんだけれども、なんか世界を憎んでしまう。 世界のせいにしてしまう。分かってはいるんだけれども。とりあえず、明日は無為な一日を過ごさないように、朝の間に起きられるように頑張ろう。

抜け出せない、平和で退屈な地方都市での人生(山内マリコ「ここは退屈迎えに来て」)

www.hmv.co.jp

 

HMVの無人島 ~俺の10枚~において、台風クラブのボーカルである石塚さんがオススメしていたこの本を読んだ。

 

ここは退屈迎えに来て (幻冬舎文庫)

ここは退屈迎えに来て (幻冬舎文庫)

 

 

地方都市で暮らす人々の日常を描写した連作小説。登場人物たちはみな、地方都市での生活に退屈している。この本で描かれている日常のどん詰まり感に、私は共感せずにはいられなかった。

 

まず、この本を読んでいると、えげつないほどのリアリティが自分を襲う。それは、作中に数多く出てくる固有名詞の影響が大きい。

 

取材を終えた車は夕方のバイパスを走る。大河のようにどこまでもつづく幹線道路、行列をなした車は時折りブレーキランプを一斉に赤く光らせ、道の両サイドにはライトアップされたチェーン店の、巨大看板が延々と連なる。ブックオフ、ハードオフ、モードオフ、TSUTAYAとワンセットになった書店、東京靴流通センター、洋服の青山、紳士服はるやま、ユニクロ、しまむら、西松屋、スタジオアリス、ゲオ、ダイソー、ニトリ、コメリ、コジマ、ココス、ガスト、ビッグボーイ、ドン・キホーテ、マクドナルド、スターバックス、マックスバリュ、パチンコ屋、スーパー銭湯、アピタ、そしてイオン。 p9

 

地方都市のロードサイドにおける見慣れた風景。既視感、既視感。固有名詞をふんだんに使うことで、フィクションであるこの小説の世界が、まるで我々が生きている世界と地続きのように感じられる。そして、東京から地元に帰ってきた登場人物である須賀は、地方都市のこのような景色を次のように表現する。

 

こういう景色を"ファスト風土"と呼ぶのだと、須賀さんが教えてくれた。須賀さんは地方のダレた空気や、ヤンキーとファンシーが幅を利かす郊外文化を忌み嫌っていて、「俺の魂はいまも高円寺を彷徨っている」という。 p10

 

ヤンキーとファンシーが幅を利かす郊外文化というユニークな表現。どこまでいっても同じような景色が並ぶ郊外は、ヤンキーがはびこるほど暮らしやすい反面、新しい刺激に触れることはほとんどなく、ただひたすらに空想に浸ることでしか退屈を紛らわすことが出来ない。平和と退屈に支配された地方都市。実際、スターバックスが出店しただけで行列ができることからも、いかに地方での生活に刺激が足りないかを感じることができる。

 

そして、そんな地方都市で生きてきた私の心を揺さぶる数々の表現。

 

たとえば、閉園のアナウンスが流れる夕暮れ時の遊園地。海で遊んだ帰りの車の中。子供のころのレジャーには、いつも身を切られるような後味があった。あまりにも楽しいと、そのあとでものすごく辛い気持ちを味わうハメになる。あの日感じた痺れるような楽しさは後々まで私を、そして多分サツキちゃんをも、じりじりと苦しめたに違いない。 p20

 

ものすごく共感できる。読んでるときに胸がズクズクと痛くなるのは、確かに自分の中にもある感覚を表現してくれているからだ。退屈な日常を生きている今、私は過去を振り返ってばかりだ。子どものころに感じていた純粋な楽しさ。何をしてもすぐに飽きてしまう今、確かにあったはずのあの楽しさと名残惜しさを思い出しては、胸が苦しくなる。あの楽しさは、私の知らない間にどこに行ってしまったんだろう。そして、どうすればもう一度、出会えるのだろう。それを追い求めれば求めるほど、今の退屈がより浮き彫りになり、苦しくなる。

 

 

「家帰ったらスカパーでプレミアリーグ見るだけで寝る時間だし」 p33

 

作中、高校生の頃に魅力的だった同級生の男の子が、大人になってから吐いたこのセリフ。こうもえぐり出してくるか、我々の退屈な人生を、この一行で。退屈な日常にちょっとした楽しみを加えようと契約したスカパー。今日の仕事と明日の仕事の間の、つかの間の休息。スカパーでしか見られない番組を楽しんでいるときに、ふと現れる、こんな毎日をあと何回繰り返すんだろうという冷や水をかけられたような瞬間。自分はこのまま生きて、このまま死んでいくのだろうか。

 

 

これら以外にも、もっともっとたくさんの共感できる部分があった。

 

この町に暮らす多くの人と同じく、このDJも恐ろしく退屈で笑いの沸点が低く、そのうえ選曲もダサいので、聞けば聞くほどイライラしてしまうのだった。 p73

 

自分の人生が楽しくないときに、周りの人間がしょうもない人たちに思えるこんな気持ちや、

 

しっくりこない人に囲まれていると、一人ぼっちでいるとき以上に孤独が沁みて、そんなときブレンダの姿を見ると、「いいなぁ」と思うのだった。 p150

 

本当に一人でいる人に憧れるこの気持ち。要は自分が可愛くて仕方がないのだ。肥大化した自意識。読み進めていくにつれ、平凡な自分の平々凡々な思考を全て見透かされているかのように、胸に刺さる文章が溢れてくる。自分の人生は、一体何人目?既に幾人にも踏み固められた道を、自分だけが特別のように感じながら退屈を背負って歩んでいる。

 

そして、そんな退屈な人生をどうにかして変えようとする登場人物たち。ある者は結婚相談所に通い、ある者は東京の大学に入学し、ある者は処女を喪失しようとする。だけれども、退屈な人生から抜け出そうとすればするほど、皮肉にもどんどん凡庸になっていくジレンマ。義理の姉との諍いや、ただ気疲れするだけの都会、全然大したことのなかった初体験のセックス。

 

結局は同じ一本の道しかないことを。なりたくないと言っていたものに、やがてはなりたがるんだってことを。 p80

 

特別な何かにずっとなりたかったり、新しい刺激を求めたりしたはずなのに、気づけばよくあるオチ。退屈から抜け出すための凡庸なアイデア。結局抜け出せない現実。浮かない人生を過ごす、しみったれた登場人物が数々出てくるけれど、彼らは全員が別々の存在ではなくて、ひとりの人間の中に存在する様々な一面を切り取った存在のように思える。これはダメだ。私はほとんどの人物の生き様に共感してしまった。例えば、大人になったら、結婚して一軒家を建てるのが普通に望ましい幸せな人生という価値観。これは多くの人が持っている価値観だと思う。そして、そのような人生を送ることが幸せとは思えない価値観を持った人が、なんとなく感じる居心地の悪さ。こちらが、勝手に感じているだけかもしれないが、確かにあるマジョリティからの無言の圧力。そうした居心地の悪さから解放されるには、そのような価値観をもった社会から離れるか、そちらの価値観に自分が合わせるかだ。そして、多くの人は、居心地の悪さに耐えられなくなりら、自ら価値観を社会の方に合わせていき、気づけば凡庸になってしまっているのだろう。このようにして、退屈で生きづらさを感じているひとは、無言の"普通"という価値観に晒されて、どんどん退屈な人生から逃れられなくなる。そしてこの小説における"普通"という価値観をもった社会とは、地方都市のことなのだろう。

 

読んでいると、自分の人生を淡々とクールに描かれている気がしてくる。文体は軽やかであるが、必要最低限の言葉で精確な描写がなされており、表現がすっと胸に入ってくる。自分の人生はこうも簡単に起伏なく、淡々と表現されるものなのか。振り返ってみれば平凡な人生。郊外に住んでいれば、退屈だけど、平和で、少しだけ心がざわつくことが起きる人生。そこに幸せを見出すも、退屈を感じるも、それはその日の気分次第。

  

 

多分この本に全く共感できない、意味が分からないという人もかなりの数がいるはずで。別に地方都市での暮らしには何の不満もないし、何をそんなに大げさに嘆いているのか。地方都市での暮らしが嫌なら都会に行けばいいじゃないか。そういうふうに思う人たちがいなきゃ、私たちはこの本の登場人物たちみたいに、人生に悩んでいないわけで。実際、いろんな価値観を持った人たちの中で、私たちは生きている。

 

それにしても、これだけ徹底的に地方都市における日常の悩み、自意識、退屈を書けるって、作者はものすごく自分と向き合ったのだろう。中々自分でも、気づいてはいるけれど見て見ぬふりをしていたい一面のようなものが、数多く描写されている。私は作者のそのような姿勢に感動したし、自分の人生や考え方を見直すきっかけを与えてくれたことに感謝したい。

 

ホント、刺さる人には刺さる恐ろしい小説でした。

短歌に気づかされる確かにこの世に存在する時間(穂村弘 山田航「世界中が夕焼け」)

先週の土曜日、世界一受けたい授業に歌人の俵万智が出演していた。今、短歌ブームが来ているらしい。短歌いいよね。

 

でも、短歌って読んでも意味が分からないものが多い。そこで短歌を丁寧に解説してくれているこの本がいい。

 

世界中が夕焼け―穂村弘の短歌の秘密

世界中が夕焼け―穂村弘の短歌の秘密

 

 

この本は、歌人の穂村弘の短歌50首に対して、穂村弘本人と歌人の山田航がそれぞれ解説を書くというものである。お二方の解説を読むことでなるほどとなるし、穂村さんと山田さんの解釈が異なる時も、そのどちらの解説にも納得することができ、短歌の懐の広さを感じることができる。

 

 

校庭の地ならし用のローラーに座れば世界中が夕焼け p17

 

この歌の解説で穂村さんは、世界中が同時に夕焼けになることはありえないことであり、これは世界がまだ小さい人の感覚であると言っている。そして、世界の広さを知ってしまってからでは、表現することが出来ない思い込みや抒情があると言っている。この感覚は分かるなあ。小学生の頃って、宿題忘れたらこの世の終わりを感じていたし、校区外に出るなんて絶対にしてはいけないことだったし、波浪警報はハロー警報だと思っていたし、遊戯王の「血の代償」のカードの効果も分からなかった。何にも知らなかったし、世界も狭かった。小学生の頃の遠いところに住んでた友達の家なんか、大人になった今じゃ近所に思えるしね。小学生の一歩の大きさと大人の一歩の大きさの違いもあるし、小学生の一日の長さと大人の一日の長さの違いもあるから。でも、無知で、狭い世界に住んでいるからこそ感じられる喜怒哀楽があの頃は確かにあった。カルピスゼリーを凍らせて食べるだけで幸せだった。気づけば世界が広がっていたのは、いいことなのか、悪いことなのか。下の記事でも同じようなことを書いた。

 

www.gissha.com

 

 

回転灯の赤いひかりを撒き散らし夢みるように転ぶ白バイ  p26

 

この歌に対しては、白バイが転ぶという致命的な出来事がスローモーションに見えることを「夢みるように」と表現し、その命が危険にさらされている瞬間に陶酔を覚えると解説されている。このドラマ的感覚。不謹慎かもしれないけれど、死ぬということが綺麗に思えることは確かにある。ユーミンの「ひこうき雲」を聴いた時の感動のような。ある種の潔癖さ。これは、私たちが生きている日常の世界で抱く退屈さの反動から来るものだろう。およそ死ぬとは思えない、繰り返される日常。明日も明後日も今日とそんなに変わらない一日になるだろう。だから、有名なミュージシャンなどが若くして亡くなったときは、単純な悲しみだけではなく、自分とは違う世界を生きていたんだなという、ある種の憧れのようなものを抱いてしまう。本当は死にたくはないんだけど。

 

 

海光よ 何かの継ぎ目に来るたびに規則正しく跳ねる僕らは p217

 

この歌に関する解説がまた素晴らしい。

 

ここにあるのはただ時折跳ねるだけで何も起こらない時間。そういう時間ってあんまり表現されないというか。(中略)徒労って神様にはないゾーンなんですよ。(中略)ある種のエンターテインメント小説や映画が好きじゃないのは、そういうゾーンを全部捨象してしまうからで。エンターテインメントって作り手が神様だから、神様にとって意味のあるところだけを記述するから、そういうゾーンは全部排除されちゃうんだよね。だけどそうじゃないものがやっぱり面白い。 p220

 

この気持ちはものすごく分かる。「回転灯の~」のときには、ドラマや刹那的な瞬間に憧れると言ったけれど、結局自分の人生は平凡な日常の繰り返しであり退屈だ。でも、そんな日常の中にも、確かに心が動く瞬間っていうのは存在していて、それを表現してくれるから私は短歌が好きだ。これは、世界一受けたい授業において俵万智が言っていたことにもつながる。俵万智は、短歌のコツは「日常の小さな心の揺れを大切にすること」と言っていた。社会的には価値がないとされるものに価値を見出す。そうすることが出来なければ、自分の時間、人生を生きることはできないのではないかと思う。しかし一方で、この「何も起こらない時間」を大げさに愛しすぎてしまうと、今度はそれが作り物のようになってしまい、痛々しくなってしまう。表現とは難しい。

 

 

 

少し前のNHK短歌のゲストが芸人の麒麟の川島だったのだが、着眼点が面白くてすごかった。歌人の東直子をうならせていた。確かに、芸人とかって短歌のセンスのいい人が多い気がする。日常の小さなことに気が付いて、それを笑いにできるんだから。そういう小さな日常の機微を発見できるということは、短歌も上手に作れるということではないだろうか。プリマ旦那の、お風呂でシャワー使ってるときにオカンが洗い物を始めて、シャワーからお湯が出んようになるネタとか好きやったな。あとはツッコミとか。ツッコミって結構連想ゲーム的というか、誰も気づいてない似ているものを提示するのが面白い。例えツッコミね。「いやそれ〇〇か」の〇〇にセンスが現れる。短歌でも、誰も気づいていないけれど言われるとしっくりくる物事の共通項を提示されたときに、なんかすごい感動するというか、風通しが良くなるというか、アハ体験みたいになるというか・・・、うまい例えが出てこんけども。やっぱフットボールアワーの後藤とかすごいよね、例えツッコミ。短歌もお笑いも、日常の小さなことを楽しめるようにしてくれるから好きなのかもしれない。

 

そして穂村さんは短歌だけでなく、エッセイもすこぶる面白い。この本で山田さんは、穂村さんのエッセイは全て、穂村さんの短歌の注釈であるといっている。つまり、穂村さんのエッセイを読むことで、穂村さんの短歌をより楽しむことが出来るようになり、またその逆で、短歌を読むことで、エッセイもより楽しめるようになるということだ。ということでみなさん、穂村さんのエッセイも読もう。なよなよしているけれど、とても愛らしくて、共感することで自分のダメなところを肯定してしまいそうになる、体に毒なエッセイだ。これが面白いからタチが悪いんよ。

 

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穂村さんは様々な本において、短歌にはただの共感ではなく驚異が必要だと言っている。みんなが意識していない、気づいていないけれど、確かにこの世に存在する時間。短歌で表現されて「ああ、確かに!」と思える、日常の些細な出来事。ミュージシャンの6EYESの「パーティの帰り道は真顔で」に感動したのも、これと同じこと。

 

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短歌と出会ったおかげで、そういった日常の細部に人生が詰まっているということを教えてもらえた。

おれもはらいそに行きたい(細野晴臣「アンビエント・ドライヴァー」)

細野晴臣さんのエッセイを買いました。

 

アンビエント・ドライヴァー (ちくま文庫)

アンビエント・ドライヴァー (ちくま文庫)

 

 

この本には、1995年から1996年までと、2002年から2006年までに書いたエッセイが収録されている。

 

細野さんはとにかく声が渋いよね。Eテレの2355での細野さんのナレーションとか、聞いてたらマジで落ち着く。寝ちゃう。けど寝ちゃったら明日が来ちゃうから粘る。明日になれば仕事が来ちゃうから粘る。次の日寝不足でしんどくなる。そんぐらいリラックスできる。この本によると、細野さんは中学生の時点で声変りが終わっていたようだ。中学生でこの声は渋すぎるぜ。でも、えてして人間は録音した自分の声を聞くと、気持ち悪く感じるものなんだろうか。なんかがっかりするよね。あと、自分が歌っているところを録音すると、勢いよく歌っているつもりなのに、録音されたものでは全然抑揚がなくてのっぺりしているよね。録音したことないですか?

 


ジャルジャルのネタのタネ『すし屋やめて歌手目指す奴 パート1』【JARUJARUTOWER】

 

このネタ見たとき俺だけじゃないって思ったんですけどもね。カラオケとか行ったときに、みんなにどんな風に聴こえてるんやろう。気になる。カラオケは恥ずかしすぎて、お酒が入ってないと行けません。

 

この本も読んでいたら細野さんの渋声で再生される。寝ちゃいそうになる。別に退屈という意味ではなく。

 

それにしても細野さんは、なかなか生活に疲れていたんだなということが分かる。大自然に触れることに喜びを感じていたり、ネイティブアメリカンの考え方を参考にしたりしている。そして、スピリチュアルな話も多い。円盤、いわゆるUFOを見た話だとか、金縛りにあって白い靄が身体に入り込んだ話とか。ぶっちゃけ自分はそういう話を信じないほうだ。しかし、この本の中で細野さんは次のようなことを言っている。

 

ところで、人間が何かを感じる領域というのは、非常に限定されている。芸術にはその領域を広げる力がある。しかし、それだけの力を持つ者はそう多くない。同じ刺激が続くと麻痺してくるのは、人間なら誰しも同じこと。そして、違うところをくすぐってほしいと思うものなのだ。僕自身、音楽によって何度も感覚を広げられてきた。たとえばある時期、僕は音楽を聴く能力、そしてそれと表裏一体の表現する能力の限界を強く感じていた。そんなときに初めてマーティン·デニーのエキゾティック·サウンドに出会い、くらくらするほど未知の領域を刺激されたのだった。快感は、感覚が広げられたその瞬間にやってくる。未知の感覚があることを教えてくれるという点では、モンドも同じだと思う。 p44

 

色んな芸術に触れて感性を磨いた人間には、普通の人間には感じられないことも感じられるようになるのかもしれない。人間はそれぞれ見えている世界が同じとも限らないしね。それぞれの人間の世界って、受けてきた教育や触れてきた芸術によって、全く違うものになってくるのだろう。音楽家の中では当たり前のことも、一般人にとっては未知のことであろう。でも、このそれぞれの当たり前がコミュニケーションにおいては難しいよね。

 

そんな細野さんの疲れたエピソードもちょいちょいあるから、この本を読んだ後だと「はらいそ」の歌詞も皮肉めいて聴こえてしまう。

 

ここは 住めば都の大都市 明日も抜けられない島国

 

ここの歌詞は、移り住んだ先での楽園が素晴らしすぎて抜けられないと言っているのか、日本を皮肉しているのか。考えすぎかな。水木しげるも大自然のほうがいいとか言ってたし、楽園に行きたいって言ってたな。

 

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正直はっぴいえんどの良さは、まだイマイチ分かっていない。「風をあつめて」と「暗闇坂むささび変化」ぐらいしか好きじゃない。けれども細野さんのソロ作品は好きだ。いわゆるトロピカル三部作のなかではトロピカルダンディーが一番好きです。

 

トロピカルダンディー(紙ジャケット仕様)

トロピカルダンディー(紙ジャケット仕様)

 

 

なんちゅう怪しいジャケット。最後の2曲のインストによって、このアルバムが映画のサントラみたいな雰囲気になっていて良い。全部通してスルッと聴ける。これまた落ち着く。

 

やっぱり人間、普通に生きていくだけでも大変やなと思いますよ。普通じゃないよホントに。なんか自分自身は色々悩んでいるのに、周りの人は自分ほど深く物事を考えていないんじゃないかって思ってしまうときあるよね。でも、細野さんが自分以上に色んな事に悩んだり考えたりしてて、冷静になったら当たり前なんだけども、意外と大変なんだなと思った。まあ、だからといって自分の悩みが軽くなるとかはないけどね。うちはうち、よそはよそ。といいつつ共感する日もある。人間のバイオリズムはよく分かんねえぜ。

 

いったい小説とは何なのだろうか(高橋源一郎「一億三千万人のための小説教室」)

小説の書き方。そんなもんがあるわけない。小説の書き方を学んで書かれた小説なんて、それは本当に小説なんだろうか。

 

一億三千万人のための小説教室 (岩波新書 新赤版 (786))

一億三千万人のための小説教室 (岩波新書 新赤版 (786))

 

 

これは名著だと思う。いったい小説とは何なのか。

 

小説とは

 

小説家は、小説の書き方を、ひとりで見つけるしかない   

 

どれだけ技術や書き方を教えてもらっても、それだけじゃどうにもならないところに、いつかはぶつかってしまう。そのときは、自分で考えて自分で道を決めるしかない。それはまるで人生と同じように。自分の人生は決して他の誰かと同じ人生ではなく、たったひとつしかない人生なのだから。

 

そうはいってもやっぱり、たった一度の人生だからこそ失敗したくないと思ってしまい、人生をうまく進めている人、大多数の人たちと同じ安全な道のりを選んでしまう。小説を書くことは、自分の人生を生きることに似ているといったように、小説の世界でもこれと同じようなことが起きてしまっている。

 

(中略)ベストセラーになるような作品は、実は「新作」であるのに、「旧作」に、いや「伝統芸」によく似ているのです。

読者は保守的です。読者は「楽しませてくれ」という権利を持つ王さまです。その、読者の楽しみのほとんどは、「再演」の楽しみ、今まで楽しいと思えたものと同じものを読む喜び、確実に楽しめる喜びです。そして、作者はその王さまのいうことを聞く家来ーーーそれが、今の小説の悲しい実態です。

 

安全な人生を求める読者が安全に読める小説を欲し、安全な人生を求める作者がそれに答える小説を書く。そして、それがベストセラーになる。これはいったい、本当に小説なのだろうか。小説とはいったい、自分のために書くものなのか、他人のために書くものなのか。

 

高橋源一郎は、小説というものは次のようなものであると言っている。

 

小説というものは、たとえば、広大な平原にぽつんと浮かぶ小さな集落から抜け出す少年のようなものではないでしょうか。(中略)今そこにある小説は、わたしたち人間の限界を描いています。しかし、これから書かれる新しい小説は、その限界の向こうにいる人間を描くでしょう。小説を書く、ということは、その向こうに行きたい、という人間の願いの中にその根拠を持っている、わたしはそう思っています。 

 

小説は今まで見たことのない景色、今まで表現することのできなかったものを求めて書かれるべきであると。堕天作戦のレコベルを思い出す。

  

堕天作戦 (4) (裏少年サンデーコミックス)

堕天作戦 (4) (裏少年サンデーコミックス)

 

 

 

そして高橋源一郎は、猫田道子の「うわさのベーコン」の一部分を抜粋し、

 

すべての小説は(広く、「文学」は)、「笑っている」「皆んな」の方が間違っているのではないか、という、孤独な疑いの中から生まれてくるものである

 

と述べている。そして、そんな作者の孤独な疑いの中から生まれた一本道が、ある奇跡によって人々の広大な土地に達した時に、それは「傑作」や「芸術」と呼ばれると。自分のために書いた小説が、人類にとって新たな視点を与える。

 

高橋源一郎は、小説や文学の正反対の場所に、教育は位置していると言っている。教育の目的は、

 

「一日六時間、みんなで同じ机に向かい、先生が黒板に書いていることを書き写す」というような無意味なことを、我慢できるような人間を作るため 

 

と述べている。

 

私は結局大学まで進学したが、大学生になってやっとこのことに気づいた。それと同時に受動的に学ぶことを我慢することが大変つらかった。もし、中学の時点で不良になった人たちが、大学生のときの自分と同じようなことを感じてグレていたのならば、彼らはとても大人になるのが早かったんだろうと今なら思う。中学生の時点で、何のためにやっているのか分からない教育を受ける学生生活に見切りをつけたのだから。自分は大学生になるまで気が付かなかった。そして、中学生のころの自分は、そんな不良の行動を一切理解することができなかった。自分の頭で、自分の人生について考えるという思考がなかったのだ。

 

小説は、小説を書いている時間の中にある

「生きる」ということはどういうことかと聞かれたとき、あなたはうまく説明をすることができるだろうか。「人間」とはどういう生き物かと聞かれたとき、あなたはうまく説明をすることができるだろうか。わたしたちは「生きる」といったことや「人間」がどんな生き物かといったことはよく分からないけれど、「人間」として「生きて」いる。言葉でうまく説明できなくても、この毎分毎秒が「人間」として「生きる」ということなのだ。これと同じように、小説とは何かということは、小説を書いている時間の中でしか感じ取れない。

 

小説を書くためには待つことが大事

 

世界を、まったくちがうように見る、あるいは、世界が、まったくちがうように見えるまで 、待つ p64

 

それは、簡単にいうなら、他の人とはちがった目で見る、ということです。そして、それは、徹底して見る、ということでもあるのです。なぜなら、ふつうの人たちは、ふだん、なにかを、ただぼんやりと見るだけで、ほんとうはなにか、とか、そこにはなにがつまっているのか、とか考えたりはしないからです。  p65

 

小説を書くためには、自分の目で徹底的に物事を見るということが重要になる。知っているつもりのことに対して、本当に自分はそのことについて知っているのかと疑ってみる。そして、自分の目で徹底的に物事を見てみる、そのふとした瞬間に、世界がこれまでと全く違うように見えるときがある。その瞬間が訪れるまでひたすら待つのだ。それは、世間の常識をひたすら疑って考えているときに訪れるかもしれないし、見慣れた景色を普段よりも意識して眺め、山際の輪郭がはっきりと見えたり、雲の高さにも階層があることに気づいたりした瞬間に訪れるかもしれない。

 

確かに、小説に限らず、名案はふとした瞬間に思いつくものが多い気がする。例えばお風呂の湯船に浸かっているとき、帰りの電車でぼんやりしているとき、街をブラブラ散歩しているとき。そして、このときに思いついた名案は大切に扱わないと、気づいた時には忘れてしまっている。

 

小説を書くにはマネをする

 

小説を書くためには、世界が変わって見える瞬間を待たなければいけないと話した。そして、その瞬間を逃さないように小説をつかまえる必要がある。その訓練として高橋源一郎は、

 

小説と、遊んでやる p73

 

ことが大事だという。ただ読むのではなく、遊ぶ。これはいったいどういうことだろう。私は、これは書いた作者になりきって小説を読むということだと思う。

 

小説を読むとき、小説を理解しようとするとき、ひとは自分の中の常識に当てはめて理解しようとする。しかし、そうではなく、この作者は何が言いたくて書いているのかを、作者の目線に立って、徹底的に考えることが遊ぶということなのではないか。

 

そのようにして遊んだ小説の中で自分が好きになった小説を、マネして書いてみることが小説を書くはじめの一歩となる。ここでは村上春樹がレイモンド・チャンドラーのマネをしたことが引き合いに出されており、村上春樹がレイモンド・チャンドラーをマネしたように、レイモンド・チャンドラーもまた別の小説家のマネをし、そのようにして小説家は別の誰かの小説をマネすることで、自分の小説を書き始めると述べられている。そして、小説家がなぜ他の小説家のマネをするのかという問いに対して、

 

その答えは、なぜ、ことばを覚えるのか、という問いへの答と同じです。人はひとりではいられず、そのため、人は他のだれかを好きにならずにはいられない。そして、だれかを好きになる時、生きものは、そのものと同じものになろうとし、そのために、おこないをまね、ことばをまねようとするからです。 p112 

 

と書かれている。

 

ロング・グッドバイ (ハヤカワ・ミステリ文庫 チ 1-11)

ロング・グッドバイ (ハヤカワ・ミステリ文庫 チ 1-11)

 

  

羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)

羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)

 

 

小説と遊ぶ。すると、言葉では表現できないが、なにか心に引っかかる瞬間、小説をつかまえた瞬間が訪れる。そして、その小説のマネをして書いてみる。マネをして書いてみることで、自分では気づいていなかった価値観や世界の見え方が分かってくる。自分の言葉では表現できない感情をもたらした文章を、自分自身の手で書いてみるという作業をもって、その文章が書かれたときの作者の感情を追体験できる。言葉ではその感情を表現することはできないが、その文章を書いている間はその感情に触れることができる。それは、その文章を読んでいるとき以上に。そして、何度もマネをしているうちに、作者の抱いていた感情が、まるで自分から生まれた感情のように理解できるようになっていくのではないだろうか。

 

小説はただ面白いだけのものではない。小説はそれ以上にたくさんのことを教えてくれる。しかし、それを小説から受け取るためには、ただ読むだけではなく、自分で小説を書いてみるという経験を通さなければならない。それは決して容易なことではないのかもしれない。しかし、小説は、あらゆる小説家のそのような行為によって、現代まで脈々と受け継がれている。そして、自分もその流れの一端に少しでも触れられるとするならば、小説を書くということは、これほど壮大でワクワクするものはないであろうとも思える。

先人の残したものを借りて、自分の頭で自分の人生について考える(竹田青嗣「哲学ってなんだ―自分と社会を知る」)

哲学について学びたいとは思うけれど、どこから入ればいいのかが分からない。そんなときに見つけたのがこの本。

 

哲学ってなんだ―自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)

哲学ってなんだ―自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)

 

 

岩波ジュニア文庫は、学生向けに教養のつく本を多く刊行している。ジュニアと名がついているが、大人が読んでも十分勉強になる。

 

世間と自分の中での価値観のずれ

だれでも人間は、思春期から青年期にかけて自己を支える価値観が激しく変化し、自我というものが不安定になる。それは、我々人間はこの時期に

 

自分という存在の絶対的な交換不可能性に気づく p5

 

ためであると著者はいう。ポール・ヴァレリーは「テスト氏」という作品で、この時期の若者にあたる登場人物を次のように描写している。

 

わたしは正確さを追い求めるという急性の病にかかっていた。

 

この時期の若者は、全て理屈で説明できる正しいものにこだわってしまう。しかし実際には、物事は全てが理屈通りに進んでいくわけではなく、このような現実と折り合いがつかなくなってしまう。自分がこの時期の真っ只中にいると、正確さを追い求めるという姿勢を病とすら思わないだろう。もしかしたら、今もまだ。実際、生きていたら理屈に合わないことばかりだ。どう考えたって誤っていると思われることでも、見過ごされたまま、みんな当然のこととして生きている。ましてや、それが誤っていると疑うことすらなく。

 

著者の竹田青嗣もまた、20代から30代になる頃まで、自分の潜在的な欲望と理想像との矛盾に、自己喪失の状態になっていた。そこで著者を最初に救ったのは、文学であったという。文学は、書き手の個性や内面を表現し、その表現を通して同じような境遇に苦しんでいる人たちに寄り添うことで、人間の苦境を救うことができると。しかし著者は、文学を読んで考えたことも、そんな考えは多くの人がもっている色んな考えのうちの一つにすぎないものとして、現実世界に戻されてしまうのである。

 

この感覚はすごくよく分かるなあ。何か現実につらいことがあり文学に触れて、読んでいる瞬間は心が救われる。しかし、朝が来て現実の世界が始まると、文学に触れたことで得られた感動は無効化され、世界は何も昨日と変わっていないじゃないかと思う。文学を読むだけじゃ、自分の世界は変えられず、一時の息継ぎにしかならないんじゃないかと感じる。

 

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哲学のもつ意味

そんな中、著者が次に出会ったものが哲学なのである。著者はフッサールの「現象学の理念」に出会い、現象学の「超越論的還元」という考えの核心が、それぞれの人間が掴んだ真実を徹底的に相対化することと気づく。

 

わたしはこの経験の中で、人間の「世界像」というものは必ず各人それぞれのものであり、したがってそれが「正しいか、正しくないか」が問題なのではなく、その世界像がほかならぬその人の生きるということにとって持っている「意味」こそが重要なのだ、ということを少しずつ感じ取っていった。 p19

 

と著者は言っている。そう、世界は人々の数だけ存在し、私の世界の正しいが、他の人たちの世界の正しいとは限らないのだ。

 

著者は、哲学とは世界の真理を説明するものではないという。哲学とは、

 

  1. 世界の「真理」をつかむための思考法ではなく、誰もが納得できる「普遍的」な世界理解のあり方を"作り出す“ための方法である。

  2. しかし哲学は、あくまで"自分で考える“ための方法である。

  3. 哲学はまた、最終的には、自分自身を了解し、自分と他者との関係を了解するための方法である。このかぎりで、自分の生が困難に陥ったときに役に立つ思考方法である。 p20

 

という。

以上をふまえると、哲学は、自分を知る、自分を支えるためだけのものなく、自分と他者との関係を支えるためのものということになる。自分の世界と他人の世界の共通了解部分を探るために哲学は存在する。

 

そして、哲学の歴史というのは、ある原理が提唱されたときに、その原理だけでは説明しきれない「矛盾」を、新たな概念によって説明できるようにバトンをつないでいくものであるのだ。私は、この点を完全に勘違いしていた。哲学とは、自分の内側に向かうものであり、だからこそ自分に合う哲学者と自分に合わない哲学者がいると思っていた。しかし、哲学とは、みんなで世界のことを分かり合うために、全員でつくりあげていくものだったのだ。なんて尊い作業。

 

哲学は科学の源流であるといわれる所以もこの点にある。この世界で起きている現象を説明するために、ある原理や説が提唱される。しかし、実際に見られる現象は、どうもこの説では、説明できないんじゃないかという矛盾が見つかる。すると、その矛盾も説明できるような新しい原理や説が提唱され、科学は発展してきた。ちょうど天動説が世に広まっていた中、地動説を提唱したコペルニクスのように。

 

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つまり、自分で"哲学する"ということは、自分の頭で今までの既成概念が正しいかを根本から検証し直し、考えるということなのである。

 

自分はこれまで、なんとなく世間の流れにのって生きてきた。しかし最近、その世間で常識とされていることに違和感をもつことが多くなってきた。いや、正確には昔から違和感自体はもっていた。その抱いていた違和感を、自分の人生を生きていくうえでどうにかしなければならないのではないかと思い始めたのだ。堂々巡りの夜を過ごすのに嫌気がさしてきたのだ。偉大なる先人たちの知恵を借りながら、自分の人生をどのように過ごしていくかを真剣に考えていこうと思う。

社会で「生きのびる」ということ、個人が「生きる」ということ(穂村弘「はじめての短歌」)

時に楽しくない人生を生き永らえて何になるって思うけれど、やっぱり死ぬのは怖い。少しでも楽しい人生を送りたい。こういう気持ちを何度も繰り返し抱えながら生きている人は多いと思う。短歌には、生きるってことを本当に考えさせられる。

 

はじめての短歌 (河出文庫 ほ 6-3)

はじめての短歌 (河出文庫 ほ 6-3)

 

 

なんやかんやで穂村さんには、ものすごい影響を受けている。

 

「生きのびる」と「生きる」

私たちはふたつの世界を生きている。

 

例えば、嫌いな上司から説教を受けているとき、たとえ相手が間違ったことを言っていたとしても、それを受け入れて謝罪をするのが普通とるであろう行動だ。これは、社会的にサラリーマンとして"生きのびる"ための行動だ。

 

しかし一方で、今、目の前で意味の分からないことを言っている上司をぶん殴ってしまいたいという感情が湧くこともある。これは、私個人が"生きる"ための行動だ。私自身の尊厳を守るための行動である。

 

私たちはこのように、サラリーマンのような社会的な立場としての自分と、個人としての自分のふたつの世界を生きている。そして多くの人は、このふたつの世界のバランスをうまくとりながら生きている。 しかし、このバランスをうまくとれない人もいる。会社などの社会的な組織は、バランスをうまくとれないこのような人たちにとっては、生きづらい世界なのである。

 

短歌の価値観

例えば、朝の通勤電車。次の駅で降りて会社に行かなければならない。しかし、このまま次の駅で降りずに乗り過ごして、今日一日を好きなように過ごしてみたい。誰もが一度はこんなことを思ったことがあるだろう。

 

大抵の人は、そうは思いながらも次の駅で降りて会社に向かうだろう。これは社会的に"生きのびる"という価値観に基づいた行動だ。

 

反対に、そのまま乗り過ごして自分の好きなところへ行った場合、その行為に社会的な価値などは一切ない。しかし、自分自身はこの上ない喜びや解放感を味わうことができるだろう。それは"生きる"という価値観に基づいた行動だ。そして、短歌はこの"生きる"ということを表現するものなのである。

 

短歌においては、日常生活における価値観が反転する。

 

鯛焼の縁のばりなど面白きもののある世を父は去りたり

高野公彦

 

霜降りのレアステーキなど面白きもののある世を父は去りたり

改悪例

 

鯛焼の縁についているばりと霜降りのレアステーキを社会的な価値観に基づいて比較すると、後者の方が価値は高い。それは後者の方が高価であり、おいしいという人が多いからである。

 

しかし、短歌として読んだ場合に、ぬくもりを感じたり感動したりするのは前者の方ではないだろうか。"霜降りのレアステーキ"よりも"鯛焼の縁のばり"にした方が、父が生きていた事実がより色濃く浮かび上がっては来ないだろうか?

 

それは、鯛焼の縁のばりが社会的に無価値であるからこそ逆に、個人の世界観、ディテールをより映し出すことができるためである。霜降りのレアステーキが好きな人は、この世にごまんといるであろう。一方、鯛焼の縁のばりは社会的に価値が低く、これが好きですという人はあまり多くはないだろう。しかしこの社会的な価値の低さが、逆に個人を浮かび上がらせ、この世を去った父が絶対に交換不可能なたった一人しかいない人間であったことを痛感させるのである。

 

このように、短歌の世界では社会的に価値のないものに価値が生じる。短歌の中では、私たちの日常生活とは価値観が反転するのだ。短歌で表現されることにこそ、人間が「生きる」ということが詰まっているというがごとく。

 

短歌をよむことで気づかされる生きるということ

多くの人は生きのびるために、より具体的には明日のご飯や住む場所を得るために会社で働いていると思う。けれども、会社で働くことが楽しいと思っている人は一体どれだけいるのだろうか?確かに、生きのびるためには働かなければならないように思える。本当は楽しいことだけをして生きていたいけれど、それじゃあお金は稼げないし生きていけない。

 

マジョリティの力はすごい。みんなと同じように就職していれば、とりあえず死ぬことはないんじゃないか、生きのびれるんじゃないか。そう思ってしまう。個人を殺す代わりに、死の恐怖からは逃れられるような気がする。

 

だけど人生って本当にこれでいいのだろうか?そんなふうに短歌は「生きのびる」生活の中で薄れてしまっている、「生きる」という個人にスポットライトが当てられた感覚を呼び起こしてくれるのだ。

 

ただ、ここで一瞬の感動を得るだけでは意味がない。我々は消費することに慣れすぎているのかもしれない。芸術というのは一時の安息を与えてくれはするが、夢から覚めればただ現実が続いているだけなのだ。なんなら、芸術に触れることによって、より退屈な現実を意識させられることになるかもしれない。

 

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短歌を含む芸術を単に消費するのではなく、そこから得られたエネルギーを使って、より良い人生を歩めるように自分で動かなければならないと感じる。本当はもっと頭を使って行動すれば、楽しいことをしながら生きていける道もあるんじゃないか?意味のある人生を送ることができるんじゃないか?それを追求しなければ人生は変わらない。

 

社会的な価値観ではなく、短歌によって呼び起こされた個人の価値観に根ざした自分の人生を追求していきたい。

大人になった今、もう一度子どもの気持ちを考えてみる(河合隼雄「子どもの宇宙」)

子どもって、いつまでが子どもなんだろう。大人って、いつからが大人なんだろう。明確に大人になったなあと思った瞬間はない。けれども、人間は緩やかに変化していて、気づかないうちに、子どもの頃の自分とは考え方が変わってきているのだろう。仮に、今の自分が子どもの頃の自分に出会ったとしたら、子どもの頃の自分の気持ちや考えをしっかりと受け止めることはできるのだろうか。そんな子どもの頃の気持ちをもう一度思い出し、大人になった今、子どもたちとしっかりとコミュニケーションを取れるようになるためにこの本を読んだ。

 

子どもの宇宙 (岩波新書)

子どもの宇宙 (岩波新書)

 

 

子どもも一人のしっかりとした人間

 

大人になるということは、子どもたちのもつ素晴らしい宇宙の存在を少しづつ忘れていくこと p1 

 

私たちは大人になっていくにつれて色んなことを忘れていく。子どもの頃は、大人に子ども扱いされることがいやであったのに、大人になった今、気づけば無条件に子どもを子ども扱いしてはいないだろうか。

 

子どもに対して「大きなりはった」といって頭をなで、大人たちは子どもと「対話」したと思ったり、「可愛がってやった」と思ったりしている。そうして子どもたちに「(大人は)みんなおなじことをいう」と思われる。 p4 

 

子どもたちは、大人が思っている以上に大人の行動をよく観察している。私たち大人が思っているほど、子どもは何も考えずに生きているわけではないのだ。子どもには子どもの考えがあり、子どもの世界をもっている。子どもも大人同様、一人の人間、人格として見なければならないのだ。自分の方が年齢を重ねているからと言って、子どもを幼稚な存在として見下すのは、あまりにも愚かな行為ではないか。たとえ、それが無意識に行われていたとしても。

 

大人と子どもの世界の違い

 

大人は月給や地位などの目先の現実に心を奪われている。自分の中の宇宙に気づくことは、案外不安や恐怖がつきまとう。そんな不安を避けるために大人は子供の宇宙の存在を無視したり破壊したりするのかもしれない。 p8 

 

ここで語られてる「宇宙」とは、社会的な価値などは度外視した自分にとって素晴らしい世界を意味している。大人になると働いてお金を稼いで、明日の食べ物に困らないように、年をとっても生活していけるようにということばかり気にしてしまう。その一方で、自分の好きなことだけをしていたいという気持ちもある。大人はそういった2つの気持ちのせめぎ合いの中で生きている。しかし、子どもは明日を生き抜くことなど気にはせず、自分の「宇宙」だけを追いかけている。そんな子どもの姿は、現実世界にさらされた大人にとっては、ひどく不安定で先の見えない生き方をしているように映る。だから、実の息子が自分の夢を追いかけようとしても、もっと現実を見なさいと止める親もいる。親は息子のことを思って発言しているのかもしれないが、実は親自身が子どものそんな生き方が不安だから押し付けているだけかもしれない。でもこれは、かなり難しい問題だ。

 

詩人や芸術家には、このような子どもの頃の宇宙を忘れずにもったまま大人になった人が多いのかもしれない。そして同じ日常に向ける眼差しとしても、子どものころに日常の些細なことが気になって色んな事に感受性をはたらかせていたことと、大人になってから平凡な日常生活を愛おしく感じることは全く中身が違うのではないだろうか。前者は純粋な好奇心から来るものであるが、後者は仕事などから来る日々の疲れの反動のように思える。私たちは子供のころの感性を一度失ってから、無理矢理取り戻したかのようにふるまっているに過ぎないのではないか。子どものころに戻りたいと思う気持ちは、子どもへの憧れと同時に、その純粋な生き方への恐れも抱いている。

 

子どもにとってのアイデンティティ

 

父親や職業などといった他人の存在によって支えられているアイデンティティとは異なり、自分しか知らない秘密は他人に依存していないので、アイデンティティとしては真に素晴らしい。 p49 

 

大人はあくまで社会的に生きている。だから、大人にとってのアイデンティティは、社長であるとか、一流企業の社員であるとか、全て他人との関係によって生じるものである。一方、子どもにとってのアイデンティティは、自分しか知らない秘密をもっているということなのである。秘密をもつことによって、今までの自分とは違った自分になれる。その秘密の存在が自分のアイデンティティを支えてくれるのだ。そして、この秘密を自分だけのものにしたいという気持ちと他人にも教えてみたいという矛盾を抱えながら、子どもたちは社会とかかわっていくこととなる。

 

この秘密はときに、アイデンティティを支えるだけでなく、自分自身を苦しめる原因にもなりうる。この本において、幼少期に痴漢に襲われた女性がその事実を誰にも言わずに隠し続け、30歳になろうとしたときに母親に打ち明けたというエピソードがある。母親は娘の話を聞いて、そんな昔のことを今更と一蹴してしまい、娘はそれがショックで自殺をしてしまうのだ。秘密とは自分の世界を支えるもの(いい意味でも悪い意味でも)であるからこそ、その秘密を他人にぞんざいに扱われたとき、それは自分の世界を否定されたと同等のことを意味する。秘密というものの殺傷能力の高さ。それほど、子どもにとってのあるいは幼少期の秘密というものは、とても大事で繊細なものなのである。

 

近代教育の盲点

 

こちらの世界を「技術の世界」、あちらの世界を「超越の世界」としてとらえると、近代教育の盲点のひとつは、子どもに技術を身につけさせること、技術を教えることに熱中し、超越の世界の存在を忘れていることにある。技術の世界に住む人間は"よく"(目的)をどれほど達成したかによって測られる。子どもは、学校の成績によって測られる。上位の子ども、下位の子ども、と相対的に分けられる。子どもを相対的にとらえることが教育の基本となる。"ひとりひとりの子ども大切に"と絶対的にとなえることを強調しても、超越の世界を無視しているために、その声は空虚である。 p114 

 

子どもにはそれぞれの宇宙があり、「超越の世界」がある。だからこそ、子どもは成績という「技術の世界」の物差しだけで測ることはできないのである。いくら子どもひとりひとりを他人と比べずに絶対評価しようとしても、学校の成績というものは「技術の世界」の価値観であり、相対評価によってしか評価することはできない。子どもたちひとりひとりを絶対評価するためには、「超越の世界」からのアプローチが必要となる。しかし、「超越の世界」というものは社会的な価値観が全く当てはまらないものだ。教育現場というものが、社会に適応できる人間を育成する場であるとするならば、どのようにしてこれは達成されるのであろう。う~ん、本当に難しい。

 

子どもにとって日常は死の連続

 

日常は変化の連続だ。私たち大人はこれまでの積み重ねてきた経験によって、その変化に多少は慣れている。しかし、人生経験の浅い子どもたちにとっては、変化とはこれまでの自分の死に近いほどの振り幅をもったものかもしれない。人生が始まったばかりの子どもたちにとっては、変化に対応するということは、それほどにエネルギーを必要とすることなのだ。思えば自分が幼少期のころは、些細なことで不安になっていた。今になってみると、そんなに不安になるほどのことではないのかもしれない。しかし、そこで子どもたちに対して、そんな大したことではないと適当に笑ってやり過ごすのではなく、真剣に親身になって考えてあげることが必要なのではないか。子どもたちは、自分の話を真剣に聞いてくれる大人を必要としている。そして、そんな大人の存在が子どもたちにとって、どれほど心強い味方であるかということは、想像に難くないと思う。自分が幼いころに、そんな大人が身の回りにいてくれたら、かなり救われていただろう。大人になった今、次は自分が子どもたちにとって、そういう存在にならなければいけないと思う。それが、大人が子どもにできるはじめの一歩ではないだろうか。